漢の蝶徒花 見届けてやろう――

水車の後方に寄りかかり、気だるげに琵琶を鳴らす少年がいる。蛟龍貴人だ。天使のような外見とは裏腹に、残虐な仙術を惜しげもなく使う。天界では悪徳仙人に名を連ね、追放の憂き目にあっていた。仙術を使っている証に、貴人の瞳は紅に染まっている。龍眼だ。


「天帝、龍仙一香真君」

「真名は口にするな。おまえ、何をやっている」


 金の髪は赤子の産毛。蛟の紋章を織り込んだ緑の長袍に金襴緞子の帯。黄色の帯紐。双眸は眠そうに伏せられては、また開く。蛟龍仙人の名前に相応しく、瞳は大蛇の強さで輝いていた。


 香桜は琵琶を爪弾く貴人の前に進み出ると、険しい声音で続けた。


「人間に種を飲ませたな。掻き回すのをやめてくれないか」


 頼んだところで、貴人が命令を聞くはずがない。勝ち気そうな口元は、嘲りすら浮かべている。時間の無駄だと香桜は取り合うのを止めた。


「確かに我らは、時代にそぐわぬものを淘汰するのが……貴人?」


 返答はなかった。地に蛟の陰が走り、気がつくと、貴人の姿は消えていた。神出鬼没は仙人の悪癖。かくいう香桜も同じくして。


(どこへ行った)


探す香桜の後で扉の開く音がし、劉剥と女が、ゆっくりと出て来た。


 女――后戚――は、崩れていた髪をしっかりと束ね上げ、首筋にほつれ毛を落としてはいるが、承后殿の貴妃にも負けぬ綺麗さだ。


 まだ名残惜しいかのように、劉剥のはだけたままの胸元に頬を寄せ、ほっそりとした指先で鎖骨をなぞっている。


「心寂しゅうございますわ」


 上げられた潤んだ瞳に劉剥は微笑み、指先で涙を拭ってやっている。

 細い肩を両手で掴み、言い聞かせるように、しっかりとした口調で言う。


「華陰なら、安全だ。いつか……俺が天下を取ったら、迎えに来る。だが、今は駄目だ。まだ秦の天下の咸陽には呼べねぇ」


 咸陽は秦の首都。愁天武の本拠地の咸陽承后殿がある。何という偶然だ。


 ――いっそ、俺が連れて帰って、不遜な愁天武に一泡吹かせてやるも、面白いかもな。


 香桜は底意地悪い謀略を始めた。

 龍の咆吼に似た声だと聞こえたのは、耳の錯覚か。


「いずれ、俺は秦を奪うぞ! 今は、そのための準備期間だ!」


涙を残した表情に微笑みを浮かべ、后戚は荒屋に戻ってゆく。


 劉剥は香桜をちらりと見やり、唐突に空を仰いだ。意志の強そうな瞳をして、行動には迷いがない。見ていると、劉剥は鞍のない裸馬に跨がり、馬の鬣を引きちぎりながら、手綱を力一杯ぐいと引いて見せた。


 鐙のない裸馬に体重をうまく活かし、けして上品とは言えない声を上げて走破する。



「俺は行くぞ! 今日こそ勝つ!」


 ――面白い! この男! 見届けてやろう。


「騰蛇、来い!」


 裸馬の遙か上空を、翡翠の眼をした龍が天を穿つかの如く蛇行し、飛翔する。

 確かに李劉剥には、天の気が備わっていた。時代を引き寄せ、争覇しようとする。

 策略を重ね、貴妃を利用して国政を行う天武とは、また違う天子の気。

 揚々と裸馬を走らせた挙げ句に辿り着いた場所が、華陰の官吏の眼を眩ませた岩場の賭場であった事実は、ともかくとして。

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