漢の蝶徒花 龍にはなれない蛟(みずち)の恨み

 咸陽の空に一匹の黄金の龍が夜明けと共に飛翔する。

 撒き散らす神の光は過去、渭水の陣の折、愁天武に降り注いだ光と同じ、翡翠の眼をした龍は龍仙だけに許された神獣だ。

 逞しく空を穿つ龍の姿は、壁画の題材に見合うらしく、幾つもの素晴らしい壁画となった状況を、香桜は嬉しく思う。人は、ただあるものを美しく感じる心や感性を持っている。 

 華仙人が見過ごすような些細な事象に感動するは、命短い故だ。

 天武も、そのうちの一人。宮殿には見事な龍を象った彫刻が並んでいる。

 春風に香桜の髪が優しく宙を舞う。散りゆく桃の花びらが龍の鼻先を掠めた。

 衣を捌いて颯爽と歩く皇宮内の天武の姿を見下ろし、耳に揺れる翡翠を指先で抓む。

(東南の天子の気は、寧ろ天武、おまえじゃない。龍仙の俺に近い)

 あるまじき事例だが、死期の近い華仙人は種を生む。だが、人間に産み付ける行為は、禁忌なはずだ。

(確かに放置は、できないな)

 昇龍と共に、龍仙人の香桜はやがて空の雲気となり、咸陽から一時、姿を消した。

           2

 秦の東南・華(か)陰(いん)は彼の燕の滅亡にて、都を焼け出された人々の再建の地でもある。秦という大きな国に見張られつつも、南端で独自の文化を生み出していた。

「滅びが生む文化か」

 人の眼に見えぬ龍を操りながら、香桜は秦の咸陽とは違う文化を眺めては感嘆した。

 秦に比べると烏合の衆の邑。決して格調高くはないが、誰もが穏やかな顔つきで歩いている。秦と燕の戦いに晒され逃げて来た人々は、戦う愚かさを知っている。

 乞食の格好をした爺が道路に引っ繰り返っているのを、道ゆく女が笑って通り過ぎる。鼻先に虻が飛び回るのを子供が凝視している。

 泥酔状態の爺は酒樽を抱え、気持ち良さそうに寝息を立て、鼾を響かせていた。

 秦を度々脅かす遊牧民族の急襲を、霊峰が阻む。自然の壁に護られた最後の楽園なのかも知れない。だが、残念ながら、歴史の渦に飲まれ、いずれ始まる秦と趙の最後の戦いで終わる運命だ。

 香桜は街を離れ、霊峰に降りた。

 華峰。南峰の標高およそ六五〇丈(二一六〇丈)。霧で全体を覆い隠している、人界未踏の地だ。

「ご苦労、騰蛇。少し休むがいいよ」

 翡翠の眼をした龍は、一度だけ眼を瞬かせた後、香桜の手の中で翡翠晶に戻った。

 元通りになった翡翠晶を耳に垂らすと、香桜は聳え立つ霊峰の麓の邑を見下ろした。

 ――天の気は、あっちか。さて、掟を破り、人間に龍の珠を授けた莫迦は、何処の誰だ。

 香桜が一歩を踏み出した瞬間、渦巻いていた龍の気は、まるで香桜の捜索から逃げるかの如く消え去った。

「俺から逃げられると思うなよ」

 人間が登れぬ原因の濃厚な霧は、片手で振り払えば、たちどころに消えた。

                 *

 龍の気の真下。霧散した気を辿り、到着した場所は麓の邑、華陰を少し離れた荒屋であった。藁葺きの質素な家だ。一匹の馬が括られている。

 死角になる場所を見つけるのが得意な香桜は、寝室の見える桃の木の枝葉に座り、様子を伺った。

 一晩過ごしたにしては、乱れていない寝具。中央に女が足を崩して座り、足と足の間に男が顔を埋め、どうやら熟睡しているらしかった。

(あのだらしない男が俺と同等の天子の気を?)

 眉を顰めた瞬間、静けさを謳うような琵琶の音が響き、ほどなくして、止んだ。

 男を慈しんでいた女がふっと顔を上げるのが見える。 

 肌が白く、瞳は円らでよく動く。ふっくらとした頬は健康そうに内側から熱を持ち、朱唇は濡れて麗しい。緩やかに束ねた髪に三本の簪、宝飾は腕に一つだけ。長衣だけを肩に羽織り、子をあやすよう男をひたすら愛撫している。慈悲の深そうな仕草だ。

 傍に円型の白い団扇が置いてある。娼婦が使う折扇よりずっと可憐で質素なものだ。

「琵琶が止みましたわ」

 男は、ようやく瞼を開けた。夜空の色をしている。

 不思議とだらしない格好だが凛々しく見える。男は無造作に黒髪をかき上げると、流し目で腰を抱いた女を見つめた。

「后戚(みせき)」

 返事の代わりか、女の優しい手が、腰の前にある男の髪を再び撫でる。愛おしくて仕方がないといった風情だ。男の手もまるで壊れ物のように、指先で女の頬を撫でている。男の背中には大きな火傷が天龍の如く浮かび上がる。眠気を含む愛に溢れた優しげな声音だ。

 また琵琶の音が荒屋を包み込み始めた。音色に誘われるかのように、男と女は同時に腕を絡め、激しく唇を吸い合い、潤んだ瞳のまま、朝日の中に倒れ込む。

「あぁ……っ」

 艶めかしい喘ぎが発せられる度に、男の背中に蛟龍が立ち昇った。

 琵琶の音色が情事を操るか如く優雅に響いて必要以上のちょっかいを出し、興奮に一役を買っている。お陰で、相手の見当はついた。

 ――蛟の仙人、蛟龍貴人。

 性仙術を琵琶に乗せて、散々な悪戯を繰り返す、龍にはなれない蛟(みずち)の恨みの気を持つ悪徳仙人。

 香桜は高い桃の木に足を掛け、ぶらつかせて、二人を眺めた。

 女はいい女だが、問題は、組み敷いている男。

「時代がどう転ぶかは決まっている」

 天武は着々と地の統一に向けて動いていた。傍で手腕は見ているし、趣味らしい宮殿の設計も、それは見事なものだ。

 滅ぼした国に出向き、天武は宮殿を模写し、再び専門家を交えて設計を決める。

 着工には罪人や流刑が使われ、人足は滅ぼした国の民だ。

 とはいえ、一大事業は折しも不運ばかりではない。大がかりな工事のためには、斯道の整備も欠かせないし、路銀の円滑な交易も必須となる。実際に天武は東方貿易に乗り出した。こうして一つ宮殿ができる度に、民の生活が立ち直る。神の成せる業だ。

 どちらかというと、天武にとっての問題は、外よりも、後宮に集まっている。貴妃を道具とする諸侯の勢力ーー。

 深慮し、背を桃の幹に預け、眼を閉じる。

 陰と陽の交わりは今や最高潮だ。琵琶が激しく掻き鳴らされ、唐突に激しくなり、乱雑に響いて止んだ。

 天に渦巻く蛟龍の気は神々しく、華陰に降り注ぐ。女の気は陰、男は陽。陰陽が達して絡み合って、不足を補う天理を男は肌で知っているのか。否、知っているのだろう。

「系譜に、名は在るか」

 懐の巻物の金色の麻紐を解き、眼で追った。

 妃嬪の系譜だ。時代を背負う者の名は大きく書いてある。

 夏朝から始まり、数多の名前が並んでいる。春秋の項で、解くのを止めた。

 一目で大きく書かれている名は、確かに以下に有った。

 ――李劉剥。こいつだな。

 紅玉の耳飾を持つ天武の頭痛の種、翠蝶華が、しきりに口にしていた気がする。

(これは、面白い展開になりそうだ)

 香桜は北叟笑み、くるくると巻物を閉じて跳躍した。

 桃の枝葉が一際大きく揺れ、弾みでいくつもの花びらが散りゆく。無残に散った花を見て、香桜は短い人の生を思い描いた。

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