第一章 漢の蝶徒花 酒を賭して青天に問う

漢の蝶徒花 天子の気を語りし、天帝と秦王

「東南に天子の気がある」


 燕を滅亡させた後の秦と諸国は、囚われた貴妃たちの働きによって、和平とは行かなくも、均衡状態を保っている。その最中の突然の天武の言葉は非常に興味深い。


咸陽の中央の朱雀大路に位置した愁天武の宮殿は、夏王朝の殷に引けを取っていない。宝玉を散りばめているわけではないが、陽に当たり、さんざめく大水法の水飛沫は宝玉以上の輝きを持って、宮殿に彩りを添えていた。


 皇宮の一部である後宮の我が華仙界に伝わる仙術によって死す貴妃は後を絶たない。


 秦の王、天武の御前ではあるが、華仙界の仙人、香桜は更に思考を深めた。


 花の毒を作れる仙人は限られる。しかし、遥媛公主が毒を作る理由はない。他の仙人が降臨している兆しはない。人間? 否、仙人骨を持つ人間は、そうそうはいない。見定める必要がありそうだ。



――後宮での捜索は淑妃・遥媛公主山君に任せるとして。俺は天武を見張るとするか。



香桜の思考が終わるのを待ち構え、天武が動いた。

春の日差しが降り注ぐ。ちょうど咸陽承后殿建立より一ヶ月が過ぎた。


「真の天子の気であれば、放置はできぬ」


 新緑の匂いを乗せ、柔らかい髪を舞い上がらせた風は、悪戯好きの精霊の如く軽やかに皇宮を駆け抜けてゆく。

 天子の言葉に妙な迫力を感じながら、香桜は言葉を返した。


「天子の気ですか」


 天武の表情が更に険しくなる。天武は台座に置き晒してあった銅剣を掴み、柄に指を走らせているところだった。お気に入りの銅剣を引き抜き、点検に余念がない。


「東南には華陰がある。場合によっては、滅ぼす必要もある。障害は早めにーー」


 言いかけた天武の口が靜かに貝の如く閉じられた。


 天武は人差し指を刃先に滑らせ、首を傾げた。指で試して、切れ味が落ちている剣を、まじまじと見やっている。


「随分、傷んでいるようですね」

「即位時からの愛剣だ。刃が毀れているやも知れぬ」


 天武は得体が知れないと言いつつ、香桜との雑談には、よく興じる。


 香桜は特に感情を振り回されず、淡々に喋る性質だ。いや、得体が知れないからこそ、天武が心を許しているのは、ありありと分かった。


 愁天武の周りは今や疑心暗鬼に満ちており、国を手に入れれば入れただけ、難題は押し寄せる。日々の天武の書簡は今や台座を埋め尽くし、一日の処理量を超えていた。


「燕と違い愚かな軍事政策はせぬ。そろそろ武器の開発も、考えてもいいかも知れぬ。東洋には、鉄という強い武器があると言う。青銅の耐久度はいいのだが」


 天龍を彫り込んだ柄を何度も握り直して、天武は香桜を見下ろした。吊り目の香桜に対し、天武の目は優しげに少し垂れているのだ。だが、収まった凛々しい双眸は時代を渡り切ろうという、強い意志を感じさせる。


 天武の視線が、香桜の耳元で揺れている耳飾に止まった。翡翠を伸ばし、龍の文言を彫り込んだ天帝の証だ。秘術で耳に穴を空け、細い鎖を幾重にも通して固定させている。


(そういえば、翠蝶華も耳飾をしていたな)


 ふいに見かけた貴妃の赤い耳飾は紅玉だった。どこで手に入れたのか聞いてみたい。


「宮妓、翠蝶華は、如何しました?」

「今朝も喧嘩だ。不愉快にさせる言動が多すぎる。笛を奏せ。そなたの音色は疲れた心を癒やす」


 香桜は壁に寄りかかり、黒塗りの笛をゆっくりと口元に宛てて見せた。


「有り難きお言葉。私の知り合いには、見事な石琵琶の名手もおります。私は手慰みにて始めましたが、彼の者の石琵琶は見事なものですよ。天の花が咲き……」


 言いながら口元を押さえ、香桜は肩を竦める。天武にとって花・仙人は憎むべきものだ。先日も名に花とあるという理由だけで、貴妃の一人を遠くに追いやってしまった。


(さて、憎む対象の王がここにいると知ったら、狼狽するんだろうねぇ)


 至極意地の悪い思考。ただ時代を見守るだけの生を幾千年と過ごしていれば、多少なりとも臍も曲がるというものだ。


 天武は不満げに香桜を睨んだ後、靜かに頷き、台座から降りた。


 丞相たちが傅く廊下を進んでゆくので、香桜も後に続いた。秦の咸陽に建てられた宮殿皇宮と後宮は更に隣接された小宮を通じ、続いている。対称的に作成された意図は、何となく見て取れた。男女と子供。つまりは親子だ。


 当初の恋人の具現化が思うとおりに行かなかった天武は、子供宮を作り、それらしく仕上げている。更に渭水の畔に一つ、宮殿の建築を命じたばかり。今度は、川縁に滅ぼした国を模倣した宮殿を作ろうと計画している。


 天武の難所だ。作るまでは心を躍らせ、周りを魅惑の瞳で満足そうに見やり、できたものに不満が出れば、もう二度と目もくれない。


「ついでに言っておくが。香桜」


 唐突に呼ばれて、香桜は足を止めた。


「天子は一人でいい。そなた、咸陽を出て少し様子を見て来るのだ。路銀は用意しよう。私は、人を探さねばならぬ。もめ事を処理している内に日数が経ちすぎた」


「翠蝶華の想い人ですね」


 先程の仕返しに、しっかりと言い返してやる。


 天武は僅かに微笑みながら傍に控えた兵士に自身の剣を手渡した。朝日が刀身に反射し、天武の顔を照らしている。


 天子の気があるという天武にも、その気は感じられた。そもそも時代を変えようとする意志は嫌いではない。ただ、東南の天子の気は天武よりも強い。


 燕の武将のように切り刻まれる可能性は否定できないと言葉は胸に仕舞った。


 愁天武は相当の負けず嫌いで、高い自尊心の持ち主だ。下手につつけば、滅ぼす必要のない国を焼き払うも辞さない。


「磨き上げておけ。使い物にならぬ。そなたたちも、戦いに備え、剣を研磨せよ。いずれは青銅にも、終わりが来よう。そうなれば、鋳直して貨幣にするが、今はまだ青銅で良かろう。愛剣だ。丁重に頼む」


 幾人をも無残に斬り捨ててきた剣を手放し、天武は漆黒の長襦を揺らす。


「宮殿の警備を強化せよ。特に貴妃たちの周辺だ。女でも構わぬ。武道に秀でた者は即刻、後宮警備の任務を命じ、貴妃の死を減らせ」


「何故に死ぬのでしょう」


「分からぬ。ただ、私への恨みや怨嗟の声だという報告は届いている。貴妃・徳妃・淑妃・賢妃……九嬪までは、手が回る。人質と言えど、女なのはよく分かっている。だが全員を廻るのは、不可能だ。私の与り知らぬ権謀の陰にて献上された娘たちだからな」


「後宮を消すかと思っておりましたが」


 天武は僅かに目を見開き、腕を天に向けて伸ばして見せる。


「そこまで悪鬼ではないよ。勝手に後宮に入り込んだ雌を相手にする時間があれば、燕の宮殿の模倣描写を進めたい。このままでは、計画がままならぬわ。北の遊牧民族の問題もある。地方に幅を利かせる諸侯の誅殺も、あまりに民が哀れで挙兵を見合わせている状態だ」


「その前に後宮の貴妃のお相手を。特に……花の娘が寂しがっておられます」


「花芯か。わけの分からぬ術に凝っている貴妃なぞより、まだ躰勝負の殷徳のが楽しめる」


「しかし、あれは仙術でございましょう」


「だから。私の前で仙術の話をするな。全く、翠蝶華にしろ、花芯にしろ……あるわけがないだろうが」


(言ってくれる)と少し興味が湧いて、香桜は天武に問うた。


「では、もしありましたら、どうなされますか」


 何がだ、と天武の目が更に、香桜に問いかけた。香桜は天武を正面から見つめ、笑う。



「桃源郷。そうですね、殷の史書には華仙界と称されております」



 天武の目が不快感で埋め尽くされる。寧ろ不快なのは自分だ。


「殷の公子が追い求めたという天国か。知っている。私にしてみれば莫迦莫迦しい話だ。戯れ言を口にする暇があるなら、李劉剥とやらを見つけ出して、連れて来い」


「おや? それは天武さまでなければ。翠蝶華は納得しませんでしょう」



「それもそうか」と天武は呟き、翠蝶華の話はそこで終了した。

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