燕の桃花蓮 桃を吐きつけし、桃花蓮の貴妃 翠蝶華②

「仙女なら、とっくに思い人を見つけて、天に還りますわ。秦の王は噂より虚けですのね」


「大した度胸だな」


 襦裙を揺らし、女はしっかりと天武を見つめた。潤んだ瞳に引き込まれそうになる。

 甘い桃の香が脳裏を狂わせる。至近距離で見つめていると何やら妙な言葉を吐き出しそうだ。


 天武は白い頬に手を伸ばしたが、ぴしゃりと撥ね除けられた。


「もう一度、言う。私の後宮に来い。分かっているのか? 逆らえば花牢に放り込む。後宮に入りさえすれば良い」

「ご免だと言ってるんだけど」


気品をかなぐり捨てた苛々した口調。釣られて、天武も苛々と言い返した。


「ならば、しばし頭を冷やさせてやろう。私は今から兵を呼びに、ここを離れる。その間に逃げても良いぞ?」


 桃花蓮の女ははふふんと勝ち誇るように言い返した。


「生憎、ここが気に入っていますの」


(そういう態度なら考えがある)



 天武は馬に飛び乗り、手綱を引き上げながら、程を詰め、飛び上がった。


夜空を飛翔した馬に女は桃を落とした。みるみる頬が赤くなる女に躰が戦慄く。



「気に入った。共に来い!」


天武は腕力に任せて、女の腰を引き寄せ、片腕で抱き上げる。

至近距離になった女は驚愕の表情をして見せた。


「女をこんな場所に置いておくような冷ややかな男ではないぞ」

「何をする! おまえの世話になるくらいなら、牢屋を選ぶ!」


 声音には思うとおりにさせないという自尊心から来る笑いさえ含んでいた。


獲物を狙う鷹の如く鋭く挑んでくる瞳に(先程の桃の吐きつけを考えれば遠慮は要らなそうだな)などとタチの悪い感情を覚える。


 女の勝ち気は時に男の残虐性を呼び覚ます可能性もあるのだと教えてやるのが相応しい。この女を一度、睨め付けてみたい…と更に欲が出た。


「ああ、そうか。それなら、望み通りに花牢に放り込んでやるから、大人しくしろ。一気に駆け下りる。舌を噛むなよ」


 思惑の通り、女は動揺し、潤んだ眼を見開いて見せた。


「……許さない…」


 呟きは低く、何度も天武に届いた。


 燕の貴妃であれば、殺した誰かの妻という状況もあり得る。

 流石に馬に引き上げかけると、女は落馬するのは嫌……と更に呟き、抵抗を止めた。



 風に吹かれた紅裙が、あたかも魚の尾鰭の如く揺れている。馬を走らせているせいで口調がどうしても雑になった。



「そなた、名前は何という! 貴妃なら、貴妃名があるだろう!」

「私は、燕の貴妃ではないもの!」


 抱いている躰が震え出したのに気がついた。


寒いのか、それとも、速度を上げすぎて、怖いのか。


 速度を緩めると、翠蝶の肩の震えは止まった。どうやら後者らしかった。


「そなたの名は」

「翠(すい)蝶(ちょう)華(か)。本名は、申し上げたくありませんわ。どうぞ、翠蝶と」


 名を明かさせたことで、溜飲が下がった。馬を止めて、きちんと鞍に座らせるべく、細い腕を取る。唇を尖らしつつも、女は静かに座った。

ふと、腰に携えている短剣に視線を向けた。


「武器を持っているな……」


「本職は漢の剣舞の宮伎ですわ。燕には、人捜しに参りましたの。遊侠の男ですが、どこで遊び惚けているのやら……賭博で顔に大きな傷をこさえた、女好きの愚か者」


 悪態をつきつつも、表情は不安な色に染まっている。狼藉を働いた顔とは別人だ。


馬の怖さも手伝ってか、少し大人しい様子に、天武は思わず声音を和らげた。


 ――分かった。翠蝶は、恐らく天武が殺したのではないかと疑っていた。


(それであの態度か)と天武は笑い出したくなった。


「安心しろ。斬った男の中には、顔に傷のある男など、一人もおらぬ」


 あどけなくも可憐で少し勝ち気そうな瞳が天武に向いた。解れた髪が夜風に揺れている。不安げに聞き入った表情に、ゆっくりと告げた。


 ほ、と翠蝶の顔が緩む。よくもまあ、くるくると表情が変わる。


 考えてみれば、女一人。いくら剣が強くとも、燕に辿り着くのは容易ではなかったはずだ。先日の秦との対戦で、燕は滅んだに等しい。滅んだ都ほど、魑魅魍魎が跋扈する場所はない。桃の木の傍にいたのも、何か感じ取っての考えだろう。


「危険を冒してまでも逢いたかった情人か」


 翠蝶が顔を上げた。つんとした唇を少し突き出して「情人?」と言い返した。

 伏せた睫は僅かに赤い。鳳仙花の煮汁の化粧を施している。


漢の女にしては色が白い。漢の民族は遊牧民の血のまま、もっと濃い肌色をしている。


 黙って馬の首にしがみついている翠蝶を両腕で挟み込み、落とさぬよう、気を遣いながら、天武は馬の歩みを心持ち遅めにした。


 天空を仰ぎ見ると満天の瑠璃の空が広がっている。まだまだ夜は明けそうにない。

 暗闇を、星だけを頼りに進んでゆくのは、心細い。


天帝を示す北極星は願えば、しっかりと未来へ導いてゆくのだろうか。


 朱鷺の速度が上がらないよう、丁寧に手綱を操りながら、天武は涙目の翠蝶の頭を撫でた。


「後宮で大人しくしていれば、いずれ思い人とやらも探してやっても良いぞ」

「ご冗談を。そうそう、秦の王」


「天武で良い。通り名だが気に入っている」


 翠蝶は首を竦めた。


「いくら何でも、お呼びできませんわ。それに貴妃なんて、まっぴら。どうぞ、牢屋に放り込んで下さいませ。李劉剥のような愚か者とは、きっと一番に再会できましょう」


(牢屋で再会するだと?)


 面白い女だ。言う台詞に飽きが来ない。


 翠蝶の耳飾りが、やけに視界に飛び込んでくる。


 大きな珠のついた赤い耳飾り。ゆっくりと翠蝶の耳で揺れている。振り子の如く行き来する耳飾りを眼で追いかけている天武自身があった。


 ふいに翠蝶華が「一つだけ告げますとね」とヤケに丁寧に話しかけて来た。


 翠蝶華の声は好感が持てる。元々の声音が明るく、聞き取りやすい。しかし、翠蝶華はまた勝ち気を織り交ぜ、言い放った!


「私が天武さまを愛する日は、決して来ませんわ。私、威張っている王という傲慢な人間が、大嫌いですの」


「そうか」


翠蝶華と天武は互いに笑った。これは底意地の悪さの応酬だ。


仕返しに、天武は馬の脇腹を強く蹴り、速度を上げて燕山を駆け抜けた。


 それにしても、太陽の如く笑ったかと思うと、豪雨の如く怒る。今度は日だまりの如く微笑を見せ、枯れた花の如く肩を落とす。


(さあ、次は何を見せてくる?) 


 翠蝶は肩を震わせつつも、馬の鬣を掴み、しっかりと前を見据えている。

 唐突に馬を止めると、天武は震えている翠蝶を抱き寄せた。


「おまえの思い人は、きっと探してやろう。私の傍にいろ。世界をすべて見せてやる」



 上弦の月の夜。桃の花が優雅に、大胆に小ぶりの花を枝葉に揺らす。木々の間を朱鷺が飛び跳ねた。



「見ていろ! 私は、すべてを手にして見せるさ!」



 馬の蹄の音が夜に響く合間に翠蝶は小さく呟く。


「野心のある男は、嫌いではないわ。……どこをほっつき歩いているのかしら」


 愁天武と翠蝶華。出会いは桃の香に彩られた深夜であった。

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