燕の桃花蓮 桃を吐きつけし、桃花蓮の貴妃 翠蝶華

丘陵を馬で走破していると、無垢な気持ちに戻れる。

 天武はとある場所で馬の手綱を引くと、鐙に足を掛けた姿勢で振り返った。

険しい霊峰に夕日が落ち始めている。雲が透けた間からは、薄く伸びた黄金の光が射し込んでいた。


まるで、天と地が別離したような美しい風景だ。


 馬を愛撫し、ゆっくりと山地を歩いて行く。歩いている最中で、豪の遊牧民の死体に出会った。得体の知れない民族。思えば古来、度々襲撃の憂き目を見ている。


(何か、対策を立てねばならぬな)


 ――天武の耳が、微かな生き物の潜む呼吸を捉えた。



「山賊か? 私は強いぞ」



 そう言えば、ここはもう元、燕の領域か? 随分走ったな。


「怪我をせぬ内に、散れ」


 山地に夕日が完全に埋没していく。日没の瞬間を狙ったのか、碧の階調の中、剣が飛んできた。暗くなる前にけりをつけるかと、天武は銅剣を引き抜いて馬の上で構えた。鐙に乗せている両足に更に力を込めて、軽速歩の体勢を取る。


 相手は、一人、二人、三人……三人か。


(つくづく嫌な記憶を呼び起こしてくれる)


 燕の武将たちの死に顔を思い出した天武は、唇を歪めて見せた。


(相手にする必要はない)と天武は眼を伏せ、手綱を握ると、襲歩から、速度を上げて行った。


 水面は夕日を美しく水面に揺らし、月を迎え始める。


「もう少し進もう、朱鷺」


 馬に優しく語り掛けながら、速度を落とし、歩いて行く。


馬の蹄鉄が、さくりと何かを踏んだ。

 香りからすると、桃の花のようだ。


 だが、見渡したところで、桃の木など見当たらない。

「何だ、妖しか」と手綱を再び握った天武の手に花びらが落ちる。


 見上げた夜空には煌々と北極星が輝いていた。手の中に落ちた花びらは消えて融けてしまったのか、見当たらなかった。


天武はゆっくりと馬を進めた。


(この近くに桃の木がある。それなら叩ききってやろう)


 その一心だった。


(どんなに恋い焦がれても、救いなどないことを、教えてやる)


 進むごとに噎せ返るような桃の香が強くなった。

天武は片腕を口元に当て、防護せねばならなかった。


木は、静かに砦を建設した場所よりも北側に、ひっそりと立っていた。


(何という大木だ。燕の死者の魂でも吸い取ったのか)


 夭々たる桃の木が聳えている。根は地上すべてに張り巡らされ、枝は不気味に空を支配するかのように伸びており、桃色というよりは朱に近い。 


 馬の蹄鉄を鳴らして、近寄って見上げると、黒い空から桃色の花びらが舞い降りてきた。眼を凝らして、ようやく天武は合間に見える月と共に。咲き乱れている花を見つけた。


鐙上げしたまま、馬を止めた。無言で馬の鞍から下り、地面を踏みしめる。

 さくっと花びらを踏みしめて足を上げた。


「悪く思うな……お前に恨みはないが」


 銅剣を抜いた。思い切り振りかぶって幹に深い傷を負わせてやった。


 黒くしっかりと男のように生えた桃の木は、倒れることはなく、夜風に揺れて、天武を嘲って見せた。


「私を笑っているのか……っ」


〝そんなことは、ございません〟


桃の木が軽く答えた。


 桃花蓮。そんな言葉を思い浮かべる。あやかしの夜には桃の花の精が居るという。


 天武が再び物言わぬ枝葉を睨み上げた時、微かな笑い声と共に、桃の花が花心ごと弾けて落下した。続いて、しゃくっと、何かを齧る音。女だ、女がおる。


「……こんな夜に出歩くな、女」


 幹の向こうに見え隠れする小柄な背中に問い掛けた。背中が楽しそうに揺れている。


 天武は嘆息して、不思議そうに見上げる愛馬の朱鷺を撫で、女に向かって語り掛けた。


「先程、山賊らしき気配がした。桃に潜んでいる暇があるなら…」

「独りお芝居が面白くて」


 何やら不愉快な言動に、天武は眉を片方だけ下げた。足下までもを隠すかのように覆った貴妃服の長衣と吊帯長裙は共に紅だ。


 だが、派手な色調が不思議と似合う。そう言えば、殷徳も朱を上手く使ってめかし込んでいるのを思い出した。


 赤は「陰陽五行説」の順番で言えば、水、火、木、金、土。黒、赤、青、白、黄。


 二番目に当たる正当色で、皇族しか身につけられない。とすれば、この女は……。


「そなた、燕の貴妃か」

 無言。また、しゃくっと音が響く。


「何を頬張っている。それに、いつまで背中を向けておる」


 長い髪が夜にそよぐ。

 天武の目の前で、身軽な細い体躯がゆっくりと揺れるかのように振り返った。動きは、まるで舞踊だ。振り返りざまに、長い上着がふわりと流れた。


 振り返ってようやく見えた眼は、吊り上がり気味の鼬の瞳。


「ようやく顔を見せたな。桃花蓮」


女は知らんぷりで手にした桃を齧っている。ふてぶてしいが、愛らしい仕草に、天武は手を伸ばして肩を掴んだ。


柔らかい。耳たぶにつけた耳飾りは肩を通り越し、鎖骨まで房を伸ばしている。赤い紐を編み込んだ上で、金糸を散りばめている高級品だ。


 きょろっと大きな瞳が揺れた。よく動く瞳だと、可笑しくなった。また女の瞳が動いた。まるで、獅子の子のようだ。ついつい、出来心が勝った。


「燕は、もはや存在せぬ。あるのは、燕だった土地だけだ。枯れた民は、何れ死に行くさだめだろう。どうだ、私と一緒に来ないか。いや、むしろ。これは命令だが」


 女が目の前で桃を齧って見せた。飲み下した後で、また口元を、気に入らないと言うように動かした。目線を逸らし、無言。


流石に女相手で剣は抜かないにしても、腹が立ってくる。


「態度を改めよ」


 天武の言葉に、桃味の唾が吐き出された。


(……この女、何をした!)


 天武は侮辱の証の吐き掛けられた唾を手の甲で拭った


 ――もういい、斬るか。剣を向けた刹那、憎々しげな声音が響いた。


「横暴ですべてが思い通りになるとも思わないことですわ!」


 再び女が桃を齧った。今度は、桃ごと吐き出した。天武は無言で袖で頬を拭う。つんと桃の甘い香が、鼻先を掠める。


「……恐れを知らぬ莫迦女め。そなたは誰に何をしでかしたか、分かっているか」


「仙術では、邪悪な場所には桃を埋めたと言います。であれば、邪悪に桃を吐き付けるのも当然というものでありましょう。私は仙女として、当然の行為をしたまでですわ」


「仙女だと?」


 天武はいよいよ剣を抜いた。


「仙女であれば、生かしておけぬ」

「まあ、本気になさったの?」


 切っ先を指で押さえ、女は軽快に笑って肩を揺らして見せた。


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