燕の桃花蓮 秋海棠舞う、楚の美女 庚氏

秦の中心都市、咸陽。まだ名のない宮殿は咸陽承后殿と正式に命名した。


 渭(い)水(すい)を背にした、なだらかな平野部を更に開拓し、督亢(とくこう)の肥料を運び、気が進まないが、木々の苗を運ばせた。東方貿易から仕入れた物珍しい植物を移植し、咸陽を事実上の首都とした。


 既に天武率いる秦は、斉・燕・魏・韓・の四国を手中にし、領土は拡大した。


(残すは楚と趙か……麓に残る漢も気になるか)


 この二国は、兵力十万単位の強大な軍事国だ。じっくりと攻めるつもりだった。楚は、いち早く武器の開発を始めている。下手に滅ぼして、得られるものを逃すのは至極惜しい。天武は同盟を検討した。 


残るは趙――……地獄には地獄を見せつけねばならぬだろう。



 夏王朝から続く守護神は、龍と陰陽神。天武の真後には巨大な龍が描かれている王座がある。天武がそこに座ると、会議の始まりだ。


 今日も同じく、天武は玉座に座り、山となっている書簡を引き抜いた。たちまち書簡は雪崩になって崩れ落ちる。


水位の上昇に伴う橋の建設、趣味の宮殿の設計、貴妃たちの相手もある。更には燕に放置したままの死者と、匈奴(きょうど)への対策……。


  順番などを考えず、引き抜いたものから手をつける。書簡が一つ、床に落ちた。竹製の書簡は落ちると堅い音がする。丸めた書簡はころころと床を転がり、こん、と貴妃の足に当たり、止まった。


 拾い上げた貴妃は、しっとりとした黒髪を長く垂らし、上部の髪だけを一房、金の簪で止めている。背が高く、芍薬を思わせる風貌だった。


「落ちましたわよ」


 この呼び方は、庚(こう)氏(し)だ。


 殷徳は何故か天帝さまと天武を呼ぶ。止めろと言っているが、聞き入れない。燕のような野蛮な国で妃を務めていた女だ。諦めている。


 対して庚氏は、色味を抑えた藍の着物に楚々とした佇まいで、かなり物静かな物腰である。大柄で、すぐに着物の袂を崩す殷徳とは違った芍薬のような魅力があった。


(同じ女でも、こうも違うものか)と天武は書簡を手に、顔を上げた。


「庚氏。ここには貴妃は入ってはならぬ。何か不満か。楚に帰りたいと言う言葉以外ならば、適えてやれるぞ」


 言葉を聞いた庚氏は団扇で口元を隠し、不安な表情を浮かべて見せた。 


「我が国を、どうされるおつもり?」


「そなたが大人しくしていれば、燕のようにはなるまいよ。そなたは聡明であるから、役割を心得ているのだろう。憂いの表情は止めよ」


「彼の地には、思い人を残しております故。天武さまが地を奪う暴力的な天子ではなく、均衡を取っていただける素晴らしき天子であると信じております。」


 信じ切っているような庚氏の黒曜石の瞳に、『天武さまは横暴でございますよ』との慣老の言葉を思い出し、天武は言葉に詰まりつつも返答する。


「そなたの心の慰みには、何を用意すればいい」

「では、書簡を」

「書簡は男が読むものぞ。そなたは女で、字が読めるのか」

「父が儒教師でございました。特に治世の書簡ほど面白いものは、ございません」

「私の所持する書簡は近隣のつまらぬ文句ばかりだぞ。処理後の書簡は納屋に詰め込んである。好きなものを持って行けば良いわ」


 庚氏は礼を述べ、宮に設えた自分の局に帰って行った。


(楚か……やはり燕のように滅ぼすより、手を結ぶべきかも知れぬな)


 そんな思考が過ぎったのは、聡明な庚氏のせいだろう。


 庚氏は楚が和平のために差し出した美女だ。庚氏自身も、納得して秦に自ら赴いた。庚氏の態度は、聡明な淑女そのものだった。


 ――事実上の輿入れである。


 秋海棠が舞う中、ひっそりと現れた庚氏。燕から逃げるかのように秦に居着いた殷徳。二人は夜の睦み事でさえ、楚々として了承した。今だ同衾はしていない。


(囚われの身でありながら、国を滅ぼした天敵に躰を預けるか。やはり女は分からぬ)


「外に出る。門扉の見張りを怠らないように申しつけよ」


 天武は言い残し、咸陽承后殿を出ると、用意されていた馬・朱鷺に跨がった。

庭に殷徳の姿があったようだが、特に声は掛けずにおいた。

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