燕の桃花蓮 燕の艶やかなる妃嬪、殷徳と楽師の香桜

天武は燕に数千の騎兵を投入、まずは王の息子の羹と殷徳妃を極秘に捕えさせた。


「殷徳と言ったか」


 もはや完成したと言っていい燕山山脈の離宮。

 名前は、まだ考えていない。


 差し出された殷徳妃は噂に違わぬ肉体美の美女だ。豊満な躰は、色香に興味のない天武の目にすら魅力的に映るほどに艶めかしく、迫力がある。


「まあ、天帝さま」


 たっぷりとした黒髪。肉厚の桃の唇をして、貴妃殷徳が天武を出迎えた。


「済まぬ。食事中か。離宮の利便はどうかと思い、様子を見に来たのだが」


 ふてぶてしいというか何というか。殷徳の前には、木の椀がひとつ。


「桃湯と粥をいただいた。それに、薄荷仙桃まで」

「当然の流儀だ」


 頬を赤く染め、殷徳は嫋やかに答える。


「燕は思ったほど優雅に暮らせぬ。……主人の羹は」

「別の場所に捕えているがいずれは死すこととなろう。燕の権力者は、すべて滅ぼす必要があるのでね」

「仕方がない話か」


 感情を一切読み取らせないような優しさと騙しに包んだ声音に、天武は懐疑心を抱いた。


「そなたと羹は夫婦であろう。悲しまないのか?」

「天帝さまを眼の前にしては、そのような男」


 鳳仙花の汁を煮出し、染料の替わりに塗った爪で、殷徳は天武の頬に手を伸ばした。


「そなたの先程からの、私の呼び名が不思議でならないのだが」

「すべてを手に入れた男の呼び名ですわ。私は、強い男が良い」


  動揺する素振りを隠し、天武は背中を向けたが、殷徳の腕がそっと背中に寄せられ、


 二つの柔和な膨らみが背筋を刺激してきた。


「まだ、すべてを手に入れてはいないがな」


 殷徳は話を止めると、また椀を取り、盛大に啜って見せた後で、こん、と椀を両手で置き、天武を正面切って視認した。


「燕をどうぞ、滅ぼし下さいませ」


 殷徳は妖婉に魔性の瞳で微笑んで見せた。


 燕の民族特有の妖艶な表情そのものだが、どこか品のない印象を受ける。着こなしが原因だろう。合わせ目を敢えて緩めている状況に気付く。


「きちんと服を着ろ」


 殷徳は、コロコロコロと笑い声を上げた。


(何故笑う……)と眉を寄せた天武に、「これからは、お側で愉しませてあげられそうですわね」とまた微笑んだ。


 殷徳の声は女性にしては低く、ゆっくりと喋る口調は脳に、ねっとりと絡みつく。


「この離宮は燕の滅亡と共に、監視用の砦に変わる。咸陽の皇宮を拡張している最中だ。設計は既に済んでいる。そなたは咸陽に囚われの身となるだろう。咸陽承后殿。それがそなたが今後、一生を過ごす場所となる。既に二人の貴妃を手に入れた。更に」


 再び殷徳に近寄ると香料の香りがした。恐らく髪に焚きしめているのだろう。

 天武は殷徳の髪を緩やかに指している白牡丹を優しく引き抜いた。


 緩く上げられた髪が重く肩に滑り落ちる。引き抜いた牡丹は殷徳の緩く開いた胸元に挿して片手で握り潰した。桃よりも大判で、滑らかな花びらが散り、辺りに香気が充満する。


「今後私の前で花を身に着けぬことだな」


 殷徳は、顔を僅かに上げた。退出する直前に、天武は部屋の前で足を止めた。

また、粥を啜る音が響き、それに混じって笛の音がする。


 同じ音色だ。今日は旋律がある。戦い疲れた心に響く、優の音色は澄んだ水を思わせる。


 天武は早足で離宮を出、再び足を止めた。


(やはり空から響いている気がするが)


甘露の雨が降り注ぐような弱く、それでいて、しっかりした音色だ。


 天武は殷徳のいる燕山山脈の離宮を抜け、つい先日に落としたばかりの首都の薊北に足を運んだ。

 馬上から眺めると、朝日に照らされて、倒れた兵士が浮かび上がっているかのよう。ある者は胸から血を流し、ある者は頭部を貫かれて伏しており。ある者は内臓をぶちまけて烏の餌になっている。


 屍の山だ。天武は眼を逸らさず、歩いてゆく。


 笛の音が近くなった。間違いない。笛の音はここから聞こえている。……と、ふいに霧が目の前を覆った。霊峰の影響かと眼を凝らした。


 金色の霧が天武を包む。腕で霧を避けて見ると、笛の音が止んだ。


 そこには男が一人、立っていた。燕の者だろうか……と天武は背中を向けている男に声を掛けた。


「見事な音色だ」


 死体の間に立ち、横笛を構えていた男が振り返った。


「昨晩から吹いていたか」


 男は無言で天武に振り向く。


切れ長に澄んだ瞳。絶え間なく瞬く双眸。服は燕のものではない。美しい金糸に濃紺の上衣。


(何と気高い瞳をしておる)一瞬天子である天武が息を飲むほどに、両の眼は美しい。ふ、と男が笛を口元から離し、雅な声を響かせた。


「お耳汚しにございますね」


「そのようなことはない。私は音の才は持ち合わせていないが、そなたの音色は見事だ。是非とも後宮の貴妃たちに聞かせたい。故郷を喪った女の心を癒やせそうだ……と言っても、まだ二人しかおらぬが。名は?」


香桜こうおう、でございます」


 少し低めの響きを伴った美声から、天武は一瞬、荊軻を思い出した。

声質は全く違うものの、荊軻と香桜は似ている。


天を恐れず、挑むような瞳の強さーー……目の前が赤くなった天武の前で、香桜は笛を構えた。怒りが消えた。不思議な音色だ。


 高級そうな黒塗りの横笛だが、どこの国のものであろう。


 秦には楽器は復旧させておらず、胡弓の開発を始めたばかり。どの国かを突き止めて、その文化を学ぶ必要があるようだった。


「では、香桜。そなたに秦の文化を隆盛させる役目を課す。私が目指すのは、単なる軍事国家ではない。至上の楽園だ。それに、そなたの音は役に立ちそうだ」



 天武の言葉を聞いた香桜の微笑みは天上の笑みだった。

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