燕の桃花蓮 天武への縁談と天の笛の音
燕の首都を攻撃して僅か一週間。太陽太陰暦で言えば、上弦の月の終わり。
「和平の申し入れだと? 名を名乗れ」
目の前で跪いた男に、眉を上げ、銅剣を手にして天武は立ち上がった。
「これが燕の王からの書簡と賄賂です」
名を名乗るつもりは一切ないらしい。
天武は使者を睨んだ。腕が細く、目はそれなりに落ち着いているか。
武人ではないようだったが、巧みに交渉を持ちかけて来るかも知れない。
使者の横には何処で誂えたのか、それは立派な青銅の箱がある。
中身は何かと気になったが、何しろ貢ぎ物の件では、以前に痛い目に遭っている。慎重になるのも道理だ。
すぐに忘れるだろう埋没している顔には特に特徴もない。目があり、鼻がある。
思えば荊軻は、印象の残る彫りの深い顔をしていた。
「勘違いをしているようだが」
天武は背中を向けた。
そもそも、賄賂という言葉自体が気に入らない。燕の王たちがいかに腐っているかの良い証明だ。天武は持ち前の冷淡な上滑りの声で、使者を嘲った。
「賄賂などと言われて受け取るような、莫迦に見えるか。帰って、王とやらに伝えるがいい。秦の王は、賄賂などという言葉は知らぬとな」
「王は一番の貴妃、殷徳を差し出すとの仰せですが」
(今度は貴妃だと?)
なんだか、話が妙な方向に向かっている。
天武は興味がないとばかりに視線を逸らした。
「私は、貴妃など持たぬ。女は無用の生き物だ」
「だが、華やかさと癒しを併せ持ちます」
「何だと?」
銅剣をいよいよ抜刀し、天武は切っ先を燕の男に向けた。
「華やか、花、仙人、癒し。すべて嫌いな言葉だ。冥土の土産に教えてやる」
(そんな色言葉で、この私が揺らぐとでも?)
天武は囲って様子を見ていた丞相たちに、ちらりと視線を向けたが、慣老と目が合って、すぐに逸らした。
また目が合えば「そろそろお年頃の伴侶」の話を聞かされる。慣老は、天武の無情さの原因が伴侶がいないからだと思い込んでいる。えらい迷惑な話である。
(だが、その殷徳とやらを人質にする価値は、あるか?)もし、あるのであれば、これ以上の牽制はないだろう。だが、この交渉を和平と取るつもりはなかった。
――荊軻。
僅か一年前。同じ場所で戦った、最期まで気高かった燕の知将、荊軻の死に顔が浮かぶ。燕への恨みは荊軻への憎しみで、抱えきれない程に膨張しては、夜を苛むのだ。
あれから、上手く眠ることができない。
完全に見下した口調で、天武は笑いを交え、言い切った。
「燕の王の使者は残念ながら、怖じ気づいたか、姿を見せなかった」
天武の言葉を聞いた使者の表情が、一変した。
「後は任せた。斬り捨てよ」
言葉を合図に、帯剣を許した番兵が、戟を振り下ろす。荊軻による暗殺未遂から以降、天武は信用の置ける者のみに帯剣を許可した。
ただし、番兵らの家族を宮殿近くに住まわせた上で、という念の入れようである。
使者の断末魔の叫びが響いたその時だ。暗闇と静寂を切り裂くような笛の音が、一際ぐんと高く咸陽承后殿に響き渡った。
宮殿の中からではない。
微かな音が耳に届き、天武は足を止めた。
「宮伎か?……何と見事な音か……」
――止んだ……?空から聞こえた気がする。
空は雨上がりの夜。ぼんやりと朧氣に昇った月が、不気味な呈を醸し出している。
曇天の一角からは淡い光が漏れており、思わず目を細めた。
(月の輝きではないな。……金色だ)
どこかで見た、金色の。直ぐさま庭に降り、まだ建設途中の宮に踏入り、寂寥感の中で空を見上げた。
目の前を何かが通り過ぎた。
(花びら?)
暗転している中でも、はっきりと分かる。肉厚の桃の花びらだ。
(いったい、どこから……)
――天武。見て。花びらが全部なくなれば、あの人に会えるわ。
散る花びらに母の声が重なる。ほら、一枚、二枚……。
桃の花を使い、母の趙(ちょう)姫(き)は、花占いをやっていた。花びらを毟り取り、口癖のように「あの人に会える」と呟く。母の言うあの人が誰を指していたのかは、未だに定かではない。一つだけ確かなのは、父ではない、ということだけで。
「やめろ……っ! やめろと言っている!」
――ほら、これで、もう悪い仙人は来ない。
「仙人……」
呆然と呟いて、天武は辺りを見回した。
また微かな笛の音が響いていたが、夜に伸びて消えた。
元通りの静寂が訪れた庭で、天武は自身の頭を軽く押さえる。
常に持っている銅剣を抜き、鎌鼬を起こすかのように振りかぶる。
夜が切れるはずもない。それでも呼吸が上がるまで腕を振りかぶって、止めた。
得体の知れない笛の音はまた響いた。
釣られて母の幻想に遊ばれている場合ではないと、天武は暗闇に目を走らせる。
燕では、使者が戻らないと分かれば、一斉攻撃もあり得るだろう。
「誰か。軍師を呼べ! 早々に燕に向かう!」
秦の首都、咸陽。夜に追悼のような笛の音が再び、長く伸びた。
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