燕の桃花蓮 勝敗の先を
「まだ飽き足らぬわ……っ」
荊軻の骸を切り刻む音が響いている。音は突き刺すごとに激しくなる。
天武の怒りの凄まじさに誰もが口を挟めない中で、一人の老父が天武の前に進み出た。時には天武に諫言を発す。侍医の慣老だ。名はない。素敵な老人の意である。
「慣老か。具合は悪くない。引っ込んでいろ」
「天武様……それ以上は、人の為すことではありませぬ。皆が怯えておられます。それに、勝ったのですぞ。それで良いではないですか」
「いや、負けたのだ」
勝利はいつでも「完全」でないといけない。
もしも荊軻が命を惜しみ、手を地につけたなら、結果は違っていただろう。
だが、荊軻は秦側の勝利など認めず単に運がいいだけだとまで言い切った。その上、友の首を下げ、死ぬ気で向かってきた。最期まで敵に屈することはなく。
荊軻の姿は武将としての憧れであった。
(憧れ?)
自分の言葉を顧みて、また、剣を強く振り下ろした。呼吸が荒くなればなるほど、聞こえるのは、荊軻のあの低音だ。落ち着いた王の器の声音だった。
他人に圧倒された事実と、器の大きさを思い知らされ、一瞬でも見惚れた自分自身が何よりも許せなくなった。
悔しさで屍にまで涙を落とす有様に、幼少から従っていた慣老は、もはや諦めの口調だ。
「開発を重ねた貴重な銅剣が痛みます。武器職人たちが、また徹夜かと泣きますぞ」
柔らかな諫言に、ようやく天武は口元を緩め、銅剣を見た。銅剣は負けた荊軻の血で錆びたように染まっていた。
「荊軻の骸と、そこに置き晒したままの腐った桃を
大切な地図を拾い直し、天武は眼を通しながら、爪先をまた骸に向けた。無残な姿に背筋を震わせ、憐れの笑みを零した。眼の前で武人たちが散らばった肉塊を素早く拾い、運んで行った。
充満した死臭を追い払う目的で、直ぐさま桃の花が撒かれた。
天武は素早く銅剣で薙ぎ払った。
「やるなら、退出してからにしてくれないか」
――しばし九嵕山で、居もしない仙人と共に己の言動の浅はかさを悔いるが良い。
九嵕山とは霊峰である。罪人は四肢を折られ、惨殺の後、犲のように深い堀へ捨てられる。更に渭水の北東部には、古代に天女が降りたとされる泉があるらしい。
天女など信じてはいない。寧ろ耳にする度に不愉快になるのは何故であろう?
――貴方は運で勝っただけだ。
脳裏であざ笑う荊軻の声は、今も天武を追い詰めようとする。
(違う! 私は実力で勝利を得た)
誰が違うと言おうと、信じたい。天の助けなどと、口が裂けても言えるわけがない。
天武は銅剣を引き抜いて、指を滑らせた。多少傷はついているが、異常はない。だが、荊軻の血を洗い落とす必要がありそうだった。
――あの時どうして、剣が抜けなかった?
天武は一度だけ剣を振り回し、刀身を月に翳した。
春の月は朧げで、鬱屈として好きではない。しかし死者には適 しているかも知れない。無残に斬り捨てた秦の兵士を優しく包んでくれるだろう。
死者を照らす月は、天武の後悔を際立たせ、夜は静かに更けていった。
翌年。周より続いた陰暦の夏正を廃止、太陽太陰暦である二十四節気が導入された。
秦は天武の采配の元、予てより燕への侵攻を開始、まずは首都の
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