燕の桃花蓮  自尊心の命乞い


 燕と秦の間に位置する山脈の延長にある盆地に、天武は燕侵略のための仮宮を置いていた。首都の皇宮には劣るが、更に簡易な宮殿を建てさせている最中だ。


 何れは砦にするつもりの宮殿は本宮よりは劣るが、王座のある棟だけは、力を入れた。間もなく完成する。宮殿の設計図を彫り込むことが天武の一番の楽しみであった。

鎧を脱ぎ捨て、鉄板に次の建設予定の図面を彫っていると、先程の戦いが嘘のような穏やかな時間が過ぎてゆく。


(物音が……もしや来たか)


〝殺し合え。残ったほうが、どちらかの首を献上せよ〟


あの戯れ言を本気にするような男だとは思えないが、万が一首を持参し、督亢(とくこう)の地図を持っているならば、恩赦するつもりだった。


天武は、彫りかけの銅板を大切に布にくるむと、台座の後方に置いた。その後で素知らぬ表情で書簡に秦隷(しんれい)文字を彫り込んでいるところに、有能な書記の頴娃が恭しく現れた。


「天武様、乞食が舞い込みましたので、武器の所用許可を願いたく」


乞食の言葉に、天武の表情が嫌悪を醸し出す。


「見窄らしい成りで、更に小脇に物乞い用の箱を掲げてございますので。早急に追い出しますが」


「ああ、そうしてくれ。関わっている暇など……」


 言いかけた天武だったが、(待て)と思考を止め、跪いた頴娃を見やった。



「頴娃、その男は、本当に乞食か?」



「何も言わず、箱を抱え、じっと門扉に立ち尽くし、皇宮を見上げたまま動かずに追い払おうにも、我らには武器もなく……」


(そんなに哀しむことか)だが、頴娃は心底困っている風だ。天武は、片腕を上げた。


「殿上を許可する。連行せよ」


既に陽は傾き、目の前を諾々と流れる水面は橙色の光を投射している。


現れたのは、荊軻であった。

頬は返り血で汚れ、衣服は乞食のように破れている。これでは乞食と言われるのも頷けると天武は笑い出したくなった。


 逃げることもできただろうが、のこのこと敵陣に来るような愚かな男であったかと、目の前の乞食を少し穏やかに見下ろした。


 だが、乞食―――荊軻の眼は輝きを喪っておらず、勝ち気そうな双眸は上目でしっかりと天武を睨んでいるのに天武は気づいた。


(そうでなければ、面白くない)


 荊軻は武人に剣を向けられ、抵抗することもできず、王座に座った天武の前に膝をついた。精錬そうな唇は屈辱で震えている。


 視界に入れた瞬間、何とも言えない愉悦を感じた。


「やはりな。生き残ったのは、お前か、荊軻。確かに樊於期の首であろうな?」


「正真正銘の燕の名将、友であった樊於期の首にてございます」


 目下に置かれた、かつての敵の首の双眸は、ただ天武に向いていた。両眼は鋭く、草臥れた顔の肉は半分ほど削げているが、脳裏に残っていた顔と一致はした。


「なるほど、確かに」


王座を囲む丞相たちが戦く中、天武はまず荊軻に視線を向けたが、すぐに興味が失せて眼を逸らした。次に台座に載せられた首の横に丁寧に置かれた皮の巻物に視線を移した。


「見事だな」


 豊穣の神天上聖母がおわす土地、燕の一領土である督亢(とくこう)。仙人が住むと言われる霊峰や、殷の蓬莱伝承のままの豊穣の土地の全貌が、ここにある。


「中身のご確認を。我が燕の宝でございます」


 頷いて、金色の麻紐で結ばれた巻物を丁寧に解いた。中身を確認して、顔を上げ、嬉しさを隠しきれない声音で告げた。


「確かに。考え得る限りの九嬪の礼で持て成そう。何なりと望みをいうが良い」


「それでは、ご厚意のままに申し上げます」


その時だった。鈍く光る刃先が最後の巻きの中に潜んでいるのに手が止まった。


七首だった。薄く小さくも鋭い刃が皮膚を突き破る。溢れた血に脳裏が空白になり、思わず天武は地図を落とした。


 荊軻は天武の一瞬の緩みを逃さず、落ちた七首を鷲づかみにし、体勢を整えた。


「貴方の首だ! さすれば私は、知将として燕に戻れるでしょう!」

「く……」


 七首を自らの手が切れるのも厭わず振り回してくる。暗殺の手練れの動作だ。天武は銅剣で応戦しようとした。

 だが、荊軻の腕のほうが長い。座ったままの天武の真横に七首を構え、首を片手で締め上げた。


「樊於期と私は共に燕の繁栄を願い、命を捧げた! 奴は私に暴君を滅ぼす夢を託し、自ら首を預けた! 思い知れ、友の首を下げ、敵地に来る男の覚悟を!」


首に充分に研磨された刃が滑る。――頸動脈を切られては終わりだ。


間一髪で腰の銅剣を抜こうとした。ところが、鞘から出て来ない。


(こんな時に!)


天武は何度も鞘から銅剣を引き抜こうとした。傍の丞相らが応戦する。


 だが、荊軻は戦い慣れている武将であり、殿上には武器を持ち込ませることは許していない。武器を持てば即反逆人として切り捨てるが習わしであり、それが必定だったのだ。


「邪魔をするなァ!」


 荊軻の咆吼が宰相たちの動きを止めさせる。明らかに戦場で相まみえた時とは違っていた。剣法などない、狂気に任せた兇刃はすべてを切り裂くだろう。友の首を下げ、死を覚悟した男の覇気に躊躇した。首を押さえられ、視界が揺らいだ。


 必死で荊軻の脛を蹴り飛ばした。荊軻は戦いに必須の足篭手を付けていない。震えの止まった腕を、抜けないままの銅剣で振り払う。


(くそ、何故、抜けない!)


 一度、荊軻は膝をついたが直ぐに向かってきた。とはいえ、七首と銅剣では勝負は見えている。


(この男は莫迦か)


天武は台座から立った。呼吸を整えて、剣を鞘ごと台座に叩きつける。


「命が惜しければ、下がれ!」


 猛追を避けながらも、鞘ごと背中に掲げ、強く振り回す。鍔がずれる音が、しっかりと耳に響いた。引っかかっていたのだろう。さァ反撃だ。天武は上唇を舐めた。


「よくも…よくも……っ!」


 怒りに震えながら、剣を荊軻に向ける。

本当の覇気と言うものがどういうものか。知ってから冥土へ送ってやるのも一興だ。


 ――だが、すぐには殺さぬ。最後に怯えさせてからだ。


 剣を振り下ろし、最初は手薄な足、続いていつまでも意志の強い視線を向ける双眸を狙った。


 瞳を切られ、動けなくなった獲物は足下で大人しくなった。それでも七首をやにわに掴み、渾身の力で投げてきた。


七首は柱に刺さり、避け損ねた頬に一縷の血が流れる。荊軻は曇らせることなく、血で赤く染まった双眸で天武を睨んでいた。


「一瞬とて、この私に死の恐怖を知らしめたこと、褒めてやろう」


頬の血を手の甲で拭う。付着した血液に腸が煮えくり返る。


「さあ、命乞いをしてみろ。死にたくなかろう……?」


銅剣を振り翳しても、最後まで荊軻は天武を睨むのを止めず、とうとう凶刃の前に伏した。絶命の瞬間を迎えても尚、屈服の気配すらなかった荊軻への怒りは加速した。


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