燕の桃花蓮 燕の有力三武将は消えた


 堅く踏みしめられた土壌にて、天武は待ちかねた瞬間に、用意していた言葉を発した。

「随分と苦しめてくれたな」

 麻紐で手を縛り上げられ、まず前に引き出された荊軻が、ふと顔を上げた。

表情を見ると、まさに曇りなき瞳をしているのが分かる。

「だが、そなたたちの働きは見事であった」

 ふ、と荊軻の口角が上がるのを見て、天武は眉を片方だけ下げた。

「何故、そのように笑う」

 生まれつきだろう。荊軻の眼は吊り上がっているにも拘わらず、優しさを帯びていた。

穏やかな表情を崩さず、荊軻はやんわりとだが、完全に悟ったような冷静な口調で天武に言い返す。

「貴方の勝利は運だけだ。我らの計画では、貴殿らは黄河の濁流に呑まれ、一網打尽になるはずでした。時折、黄河の濁流は弱まる。燕の渭水育ちの我らには、その緩流を見定める術があった。他所の秦の貴方に見破られるとは思いもしなかった自分を笑っただけです。想定ができた状況を見落としたのが敗因です」

 言葉が出なかった。

 荊軻の舌に乗せた言葉は、一番言われたくない事柄だ。更に単なる夜襲の反撃では無く、黄河という雄大な河に秦軍を任せようとした。金色の蜃気楼に気がつかなければ、無理な渡河を決行した挙げ句、水に呑まれた可能性は否定できない。

 正々堂々と戦う気など、燕には最初からなかった。見え透いた策略に踊らされて何人が死んだのか。何という屈辱だ。

「負けた敗因を、自分に課すか」

「貴方の実力とはほど遠いと言っただけです」

 は、と天武は乾いた笑いを漏らした。

 同じく捕えた樊於期は、ただ眼を凝らし、正気を保とうとしているのか、僅かに震えている体たらくなのに、この度胸は、何だ。

(この男……この私を莫迦にしておるのか)

 沸々と怒りの炎を胸に感じる。と同時に脳裏に警鐘が鳴った。

 ――早々に処分すべきだ。それも、屈辱を味わわせた上で。

 図星を指された天武は、負けじと口調を冷静ながらも強めて見せる。意味がないと思いながらも、せずにいられなかった。また、それが天武自身への怒りに繋がる。 

「だが、私の勝ちだ。半数以上の民が、こちらに寝返ったのだからな。情けなくて、首都にすら帰れまい。ここで終わらせてやることが、そなたへの敬意か」

 腕を縛らせ、髪を掴ませているお陰で、荊軻の整った顔立ちは、はっきりと分かる。

 天武は静かに銅剣の先を荊軻に突きつけて見下ろしたが、怯まず、荊軻は言い返す。

「殺すのですか。噂通り、秦の王は情のない」

「荊軻! 止めろ秦の王!」

 我慢できなくなった樊於期が後で叫ぶ。非常に耳障りだ。

「先ほども告げたが、そなたたちの戦略は見事だった。殺すのは惜しい。我が軍は、どうも地の不利に弱くてね。今後は、泥の死闘もあろう。もうじき花朝節。春雨も増えよう。私から見れば、どちらかに我が軍門に下れと言いたいところだ」

「断る」

 噛みつくように答えたのは、やはり荊軻だ。

「二人で死に行くのも一つの選択だが、殺し合え。残ったほうが、どちらかの首を献上せよ。督亢(とくこう)の全土の地図を添えて私に献上すれば、この燕を治める軍師の地位を与えるというのはどうだ」

 天武の言葉を聞いた群衆は揺れた。かつての自国の武将を興味津々で見つめている。

 そんなものだ。民衆にとっては、いくら善人でも、負ければ敵と同じ。燕のような実力の圧政が在れば、烏合の衆は容易く分解する。

「我らに死に争えと……何という……」

 言葉を出すこともできないほどに荊軻が動揺している。

(今まで苦しめられた様々な策略を思えば、同情は愚か、心を痛ませる必要はない)

 天武は冷酷に吐き捨てた。

「紐を解いて、銅剣を与えてやれ。惜しいな。そなたのような男がいるのにな」

 ククと笑って、天武は剣先で荊軻の顔を持ち上げて見せる。精悍な瞳が天武を映した。 

「さぞ悔しいであろう。そもそも、燕の武器は弱すぎる。青銅の流通を怠り、開発に資金を与えない娯楽王をのさばらせたのが敗因だ」

 絶望に染まる敵将の表情に興味などない。

離れたその場所で、追い詰められた二人にどんな会話が交わされたかは、知る由もない。

残る一人の武将はやはり逃亡したのか、二度と姿を見せることはなかった。

 ――これで燕の有力三武将は消えた。八割方まで掌握したな。

天武は、密かに北叟笑んでいた。

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