◆妃嬪の系譜―古代群雄割拠國戦記―

天秤アリエス

序章 燕の桃花蓮 桃の夭々たる

燕の桃花蓮 黄河の天啓

 妃嬪の系譜

 序章 燕の桃花蓮 桃の夭々たる


「怯むな! 己を信じよ! 活路は開ける!」


       1


 広大な土地に、時代を流れる黄河。枝分かれした支流の一つに渭(い)水(すい)という濁流がある。

 流域面積二千三十八万九千八百畝(十三万五千平方キロ)。遙か上流に頓挫する黄河から流れて出る渭水いすいは、燕だけでなく、秦への恵みでもある。

 目下に広がる大平野は、過去に数多の武将たちが決戦を繰り広げた。

 数百の兵を集めて、まだ余裕があるが、渭水の水勢の前に立ち往生を強いられる。

(夜か)火矢を避けるために火の使用を極力抑えて山脈を進んだが、気がつけば河川に追い詰められていた。(夜襲が知れた以上は、早々に軍を進めねばなるまい)。

 愁天武が率いる秦、燕の名将荊軻、秦舞陽、樊於期の三軍は睨み合ったまま動かない。

 秦軍は追い込まれた泥濘で思うように指示が取れないところを、敵襲された。

 夜襲目的であったため、戦車は用いていない。戦車の音は思ったよりも響く上、目立ちすぎる。確かに派手な演出も必要な時もある。だが、今回の戦いは勢力のある燕の戦力を殺ぐこと――ひいては黄河域の水の恵み、督亢とくこうの全土の奪取だ。

 軍を打ち破れば、残るは肥えた豚の王だ。問題ではない。

 天武の誤算はまさに、眼の前に大きく横たわるかわそのもの。

 特有の霧と河に挟まれて、霞で向こう岸は見えない。

 ここを何とか突破しないことには、敵に刃すら届かぬだろう。

「天武様! これ以上は進めません!」

 泣き言が聞こえた方角を向き、兵士たちが川の前で立ち往生している現状を視認した。

「怯むなと言ったはずだ」

 強く命じたところで、怒濤の水を目にして、士気など上がるはずもない。

 ――天が裏切ったのか? いいや、何が天だと親指を噛みしめた。弱気になっている証拠だ。天武はすぐに状況確認に努めるべく、声を潜める。

「対岸の燕の軍は何人だ」

「およそ三百人ほどではないかと。ただし、兵士の中には年配の男も多いようです」

「ほぼ、互角か……夜襲のため、人数を減らしたからな……援軍を呼ぶ間もない」

 兵卒との会話を終え、天武は夜が明けたばかりの白んだ空を睨んだ。

 燕軍と秦軍の地の分は変わらない。陽が当たり始めたせいで、泥も少しずつ乾き始めている。それでも大河に繋がる浅瀬は踝ほどの高さしかないにも拘わらず、秦軍の兵士たちの足は鎧以上に重く、泥濘に取られてしまっている。

 夜の冷たいみずのせいだけではない。秦とは違った土は、難なく足裏から入り込んでくる。深く粘泥に気を取られ、固まった泥は足裏をじゃりじゃりと刺激してくる。

(土地勘だとすれば打つ手はない)

(ふん、そんな理由で引くようであれば、そもそも、戦いなど仕掛けぬよ、だが…)

 元は山地で戦いを仕組むはずだったのが、いつしか泥地で決戦することになったのは何故なのだろう。追い込まれた? 

 その上で火矢を飛ばされてはーー総崩れの言葉が脳裏に浮かんだ。

(逃げる者が出始めたか)

 少しずつ兵士の数が減ってゆく。天武は薄い唇を噛みしめた。

(考えている暇など、ないな)

 燕軍は地の利で有利だと思い込んでいる。ここを利用しよう。

(は、この秦の王は諦めが悪いぞ。笑っているのも今のうちだ)

 足にしっかりと巻いた布越しにも、泥の冷たさと乾き始めた感触は伝わる。鋭敏な感覚はむしろ有り難い。天武は、再び銅剣を握りしめた。

 泥濘に填まったままの一人の兵士の腕を引き、驚いた顔に向かって、せせら笑った。

「それでも秦の私の兵か」

 瞳を煌めかせたまま、天武は引くべきだと窘めてきた兵を睨むと、再び顔を上げ、睨み合ったままの敵陣に視線を向けた。

「馬鹿を言うな。浅瀬だ。水を渡れば良い話」

「天武様! それは、あまりにも無謀です!」

 天武は返答せず、無言で銅剣を強く掴み、横顔を向けた。

「わかった。では、私が直接の指揮を執る! 勇気のある者だけ従いて来い」

 天武は銅剣を掲げ、泥濘に自ら足を踏み入れた。

「まずは泥地に追い込んだ秦舞陽の首を取る!」

 ズブズブと足が沈む。(尋常ではないな)と見れば粘土のような泥は、液状よりももっと粘着力がある。

(これは黒土だ)

 大河の向こうに見える緑に眼を向けた。青々と茂った木々は青空を割っている。

 空の直下で泥だらけの人間が数百蠢く様を、天は嘲って見ているのだろう。

 頭に来るほど清々しい空。雲一つない碧。

 直下には烏鼠同穴山を源とする地の恵みの黄河が広がっている。

 黄河に比べれば支流の渭水など、大した規模ではないと思っていた。だが、この地質を甘く見ていた。欲した土地に足を引っ張られるとは。

(私の責任だ)

 泥が顔に跳ねた。だが、双眸から零れた水分は、泥を滑り落とした。

(願いは遠い。泥濘に邪魔をされる暇などない! 涙を落とす暇もない!)

 天武は足で泥を蹴飛ばすと、もう一度、空を見上げた。春にしては吹く風は冷たい。

 揺れる水面に天武は眼を釘付けにした。

 何気なく見ていては気づかない風の動き。

 僅かな揺れだが、たった一カ所。揺れが小さい箇所がある。

 風が吹かなければ分からない微弱な揺れだった。

 水面の煌めきが天武の瞳に眩しく映った。

 一瞬だけ金色に輝く水面に、はっと天を見上げる。その金の蜃気楼の真下の水面。

 ――渡れる。

 恐らく燕軍は山河沿いに迂回したところを狙い撃ちにしてくるはずだ。河を渡るなどと、思いもしない。奇襲の絶好の機だった。

「川岸を進み、渡河する! 大丈夫、私と己を信じよ」

 腿までの浅瀬は、脹ら脛の高さだった。堆積物が一部、高いせいで、より浅瀬になっている。思った通り、水流が緩い。吹いていた風が止んだ。

 飛び込んだ天武に続き、一人、二人、最終的には五十人程が同じく河を渡り始める。

「行け!」

 天武の一喝を嚆矢に、河童のように河から上がった秦軍と燕軍が、そこかしこで衝突した。背中を取られた燕軍は、立て直しを図るも、無残に散り始めた。

 加えて、燕軍の武器は白銅であり、秦はいち早く精度を上げた青銅器を導入したことも大きい。耐久性は、まるで違う。

(燕が、弓矢のみを開発し、強化している事実は燕で捕えた男から聞き出し、調査済みよ)

 逃亡を図ろうとする敵兵の目の前に、天武は立ち塞がった。

 兵士が小さく見えるのは、勝利を確信したからだろう。

「逃げる必要はない。私は、燕の民を殺すつもりはない。我が軍に下るか」

 迷いなき天武の一言に、選択権はなかった。

 元々、燕の民が地方豪族の弾圧に耐えていた事実を、天武は知っていた。

 戦略のうちの一つのしがない調査だったが、だからこそ、天武は燕を最初の相手に選んだ。民を救うことを名目に、己の力を知らしめるのには、燕はちょうど良かった。

 武器を手から滑り落とし、次々と兵たちは天武の後方に歩いて捕虜となった。

 やがて兵は波が引くように天武の後に続き、目の前にようやく本陣の二つの軍が見えてくる。

 巨大な戟を持つ男が荊軻けいか、馬刀を背中に背負っているのが樊於期おんおき。共に、燕の誉れ高き武将である。残り一人は逃亡を図ったのだろう。

(荊軻、樊於期……もしも味方であれば、力強かった)

 だが、事前交渉は決裂した。

 二人が戦闘を選んだ以上、燕という国家を落とすためには打破しなければならぬーー。

 荊軻に至っては人望も厚く、しばしば侵略の壁となるだろう状況も容易に想像がつく。天武は、一度は鞘に納めた銅剣を抜いた。朝日に刀身が反射する。

「燕の知将と謳われる荊軻と、武将の樊於期を、生かしたまま連れて来い!」

 戦いとは時には数が圧倒する。秦の兵士に対し、投降した兵を入れて、兵士の数は倍に膨れ上がった。元々すぐに寝返るような兵だ。それだけで燕の人民の心は知れる。

 もはや、勝利は決したと天武は掲げていた剣を勢いよく下ろして見せた。

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