燕の桃花蓮 永巷
「何故、後宮を断る!」
咸陽に到着して、半日が経過した。
永巷と呼ばれる牢屋のとば口。皇宮内に置いた最も警備の厳しい場所である。
翠蝶は格子の前で澄ました表情だ。声を荒げても、ぴくりとも動じない。代わりに睨み上げるようにして、天武に詰め寄った。雅な香が鼻先を掠める。
「威張りくさった王さまがお作りになった素晴らしい宮殿で休めるほど、私は神経が太くありませんの」
完全に喧嘩を売っている言い方だ。天武も負けずに顔を近づける。
気高そうな瞳が、ちろりと視線を向けては、逸らす。男の顔を間近にしても、微動だにしない。天武は翠蝶の細い顎を二本の指で持ち上げて見せた。至近距離で巴旦杏のような瞳が瞬いて、ますます眼力が強くなった。大した女だ。
「そなたの喧嘩腰は、何とかならぬのか」
ぱしん。細い手が天武の手を叩き、振り払った。紅裙を軽やかに揺らした翠蝶は、何事もなかったように振り返り、うきうきと地下への階段を降りていった。
「待たぬか!」
「さて、私のお部屋は、どこかしら。まあ! 秦の王さまの宮殿にしては見窄らしいわね」
「だから、牢屋だ、ここは!」
ひやりとした石牢に、天武の怒り紛れの声が響き渡った。
翠蝶は遮二無二連れてきた仕返しとばかりに、命じた後宮には見向きもせず、向かった先は牢屋だった。報告を聞いて慌てて駆けつければ、見事な態度だ。
最近は見張りのように寄り添っている侍医の慣老が、眉を顰めた。
「天武さま、横暴にも余りありますぞ」
「おまえは、どこを見て言っている。心配しているのだ、私は」
慣老は「良いですか」とお説教の態で口調を強くする。
「そもそも天武さまは、女心に疎く見えるのでございます。戦闘ばかりが人生では、余りに花……娯楽がないように思えます。心身を病みますぞ」
聞いていた翠蝶は肌身離さず持っている扇子で口元を覆って、眼を細めている。分からないようにして笑っているのだ。腹立たしい。
「天武さまのお手を煩わせる程、立派な女ではございません」
翠蝶は付け加え、扇子を閉じた。足を止めたところを見ると、呆れたことに、入る牢を決めたらしい。
「王として夜の相手を命じる前に、男として遊侠の一つも、おやりになってみるが宜しいですわ! さあ、私は貴方を侮辱いたしました。どうぞ、牢屋をお開け下さいまし! さあ!」
「鍵を開けろ……っ」
ふん、と背中を伸ばして、いささか嬉しそうに牢屋に向かった翠蝶の颯爽とした後姿は、眼に焼き付いている。
「私は、ここから出ませんわ。攫われて貴妃にされるなんて、まっぴら」
翠蝶は勝ち誇ったかのように、格子の向こうで少し足を開き、腕を組んで見せた。
一昼夜で泣きながら格子を揺するに決まっている。
即、後宮に放り込んでやるつもりで天武は足早に永巷を後にした。
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