燕の桃花蓮 花に愛されし貴妃 秦の花芯妃

咸陽に建てた咸陽承后殿も、少しずつ安寧の場所になりつつある。後宮と皇宮を中心に設計した夫婦宮殿は、朝陽を浴びて、今後の栄華を現すべく、輝いていた。噂を聞きつけた地方豪族たちは貢ぎ物を手に、咸陽に押しかけた。


更に娘を差し出し、時には後宮の貴妃として売り出すことすらあった。


「……花の名を持つ貴妃だと? 断る」


 天武は背中を向ける。軍師に置いた男の娘を差し出されての反応だ。花姫と呼ばれる、秦の丞相の娘の花(か)芯(しん)妃(き)についてである。


 親である男は、どれだけ自分の娘が尊く素晴らしいかを説いてくるが、親に似ているという時点で、興ざめした。


「先日の失態が白紙になると思うてか。貴妃を死なせた罪は消えぬ。牢屋で暮らせ」


「……それは我らの与り知らぬ世界にて起こったことでございます。女の園に我らの立ち入りを禁じられては、警護もできません」


「警護という名義の不埒な行為だろうが」


 鋭く図星を突いてやると、男は項垂れた。人を看破する醍醐味を翠蝶華から知った天武は、時折、容赦なく毒舌をぶつける。


「更に横暴になられましたな」という慣老の言葉は、耳が痛い。


 確か、絶命した貴妃は、韓の妓女か何かだった気がする。断るのも面倒だからと引き取って、殷徳に任せていた。


殷徳は死体を見て、泡を吹いて倒れたと言うから、犯人とは違うだろう。


 王の前で桃粥を盛大に啜るわりには、魑魅魍魎に弱いらしい。


 毅然と知らせてきたのは、楚の貴妃庚氏だ。しかも、てきぱきと死んだ状況まで克明に竹簡に彫り込んで、背筋を伸ばして帰って行った。


「恐れ多くも、娘を既にこの咸陽に呼び寄せております」


 今度は天武が、してやられた。この用意周到さには恐らく慣老も関わっているに違いない。全く単に年を食っているわけではなさそうだ。


 唇を噛み締めて言い返した。



「勝手にしろ」



 若い天武は、時に周りの大臣に振り回される。

 従って、頂点に近づけば近づく程、学ばねばならない知識も、知らねばならない情報も増えてくる。


 正直、貴妃を集めて愉しむ余裕などがあるなら、もっと有意義に使いたい。宮殿の設計すら、進んでいない。公務を片付けた後の天武自身の時間は遠くなってしまった。


「顔くらいは、見てやる。だが、後宮に入れるかどうかは、私が決める。面倒事を起こさず、静かに空を眺めている女なら良い。そなたを見ていると、何か失態をやらかしそうで頭が痛いぞ、奔起(ほんき)」


 ようやく思い出した名前を呼び、天武は肘を突いて、遠くを見つめた。


(全く、時間ばかりが過ぎるな)


「天武さま、参りましたようですぞ」


 心なしか嬉しそうな声音の慣老を棺桶に押し込めてやりたくなりながら、天武は目線だけを上げた。


 小さな足先が、まず見え、続いて桃色の薄絹。何故か顔を覆っている絹は背中まで伸び、束帯紐は金色だ。ちらちらと被りが揺れて、柔らかそうな髪が見え隠れした。黒髪直毛の翠蝶とは対極の柔らかそうな髪質だ。


「奔起の娘、花芯にございます」


「では顔を上げよ。どうした? 顔を見せよと言っているのだが」


「見せられる顔など、ございません」


(なんだ、いい態度だな)


 苛つきを父親に向けた。


「奔起! どういうことか!」


「王、花芯は恥じらってございます」と娘の恥じらいを、親である奔起が説明した。天武は台座から立ち上がると、スイと銅剣を抜き、刃を返して、花芯妃に向けて見せた。


「顔を上げろ。それでも、私の貴妃たる立場か。斬るぞ」


「天武さま! それは、あまりにもでございます!」


「黙れ。本気で斬るはずがなかろうよ。ようやく顔を上げたな……」


 つぶらな眼をした、くっきりした顔立ちだが、何より、若すぎる。天武が二十歳を超えているのにも拘わらず、花芯妃はようやく十五歳。心配が的中した。


(褥について、知っているのか。いちから、ああしろこうしろと命令するのも疲れる)


 驚いた花芯妃の顔に、天武は口端を上げてみせた。


「どうした?」


 またすぐに深く、薄衣を被ってしまった。

 強引に顔を上げさせようとして、袂に小さな春の花の蓮華が刺さっているのを見つけた。


 おまけに、涙目で睨み上げたかと思うと、嫌いな花を足下に投げてくる有様だった。


更に、仙術に凝っているのか、小ぶりな水晶を肌身離さず持っている。

花と、仙人。嫌悪を二重にされた天武は、冷たく朗々と言い放った。


「この娘を第五貴妃として後宮に押し込めよ! 庚氏に頼めば、後宮のしきたりなども享受できるだろう。花芯とやら。私の前で二度と仙術と花を見せつけるな。連れて行け」


 番兵と女官が、座ったままの花芯妃の腕を引いた。だが、花芯妃は、まっすぐに天武に向かって歩いてくる。


 ぽい。


 手ずから花を一輪、台座に置いて、去って行った。


無言で大嫌いな花を足で蹴り退かして、天武は玉座に沈み込んだ。ああ疲れた…・・。


「これ以上、貴妃は要らぬと触れを出せ……いつからいた」


「先程。何やら騒がしかったもので」


 庭を廻って姿を見せたまま、顛末を面白く観察していた香桜の余裕綽々の言動に、天武は怒髪天になった。


「娘を次々に差し出して来て、何を望むのだ! 問題ごとばかりではないか!」


「天武さま、お怒りは、ごもっともでございますが」


 笑いを含んだ声音に、思わず銅剣に小指を掛けた。

香桜は笑ったまま笛を構え、見事な音色を響かせた後で、言った。


「世の繁栄には、女は欠かせぬものでございます。この世は、男女あるからこそ」


「ならば、お前が代わるか! あの者の一人の相手をするだけで夜が終わるぞ。香桜」


「先日も、貴妃が死んでいたようですね。究明はされないご様子」


「みっともなくて、言えるか。民が不安がるだろう」


 天武は香桜を睨む。


「それに、私とて、好みと言うものはある。誰でもいいわけではないのだ」


 ぼやいて、天武は遠くの宮を見つめ、唇をきつく引いた。


「あの女は、莫迦だ。いっそのこと、唾吐きの狼藉で斬ってやるか」


 離宮で、今頃は李劉剥と言う遊侠の男との再会や、夜の睦言でも考えているのだろう。


「……やはり、女は分からぬ。愛していると言いつつ、心の中では、舌を出す」


 聞いていた香桜は麗しき竜顔を上げ、魅惑の声で囁いた。


「かつての古代の王たちは、その妃嬪により操られ、殺されたと言います。女は魔性、気をつけ遊ばせるが良いでしょうね」


「……善処はする」


 とは言ったものの、天武は仕事の合間も貴妃の対応で頭を埋めた。


 世の男には羨ましい話だが、手に余る上、まだ子を持たせるつもりもなければ、父になるつもりもない。女と交わる行為は、陰の気を受けることでもある。体内で果てるなど許されるはずもない。むしろ嫌悪が際立つ。


 殷徳の例しかり。庚氏の例しかり。国の円滑な侵略のために娶っただけで。


楚は、庚氏を譲り受けた際に協定を結んでいるし、漢は斉と険悪なまま、勢力を誇っているが、秦に敵対はしていない。滅ぼす理由はないだろう。


残るは趙。大国嬴(えい)姓(せい)趙(ちょう)氏(し)だ。


 放置していたが、母が潜んでいると思われる。


 天武の母趙姫は男に狂い、父を捨てた。実母だ。どうしても手は下せなかった。


(いや、すべてを手に入れてからでも、遅くない)



 絶対的な自信を身につける。

生まれた根源に勝つためには、唯一の方法なのだと、天武は信じていた。

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