燕の桃花蓮 火棘の毒。斉の美女、遥媛公主


 翌年。後宮である咸陽承后殿の増築も無事終了し、暦は立秋に突入した。

秋の最初の月「孟秋」上弦の月すなわち半月の日である。二十四節気では立秋前後の時期に相当する。太陽太陰暦では七月。太陽黄経百三十五度。

火(か)棘(きょく)という花が、火のような真っ赤な実をつけて咲き誇る季節だ。

枝に無数の棘がある花は、根を絶っても増え続けた。


(眼の毒だ)


 天武は、完成したばかりの咸陽の宮に張り付くように茂っている火(か)棘(きょく)の火葬を命じたが実は火の中でも生き続けた。根負けして放置しておけば、赤い実は今や皇宮全体を取り囲み、火の宮になってしまっている。


 摘むと、たちどころに指に棘が刺さった。膨れた先から溢れた赤い血を舐める。ふと、燕の武将を斬り刻んだ過去を思い出し、手を見つめた。


 赤い実が秋風に吹かれて、ユラリユラリと揺れている。


 ――荊軻……。


 今も尚、骨を刺し、肉を切り、筋を千切った感触が消えない。血を見る度に、しつこく思い出すのだ。浅ましい天武自身の欲と、激しい程の憎悪。

 燕を滅ぼしても、消えない荊軻の瞳から、どうすれば逃げられるであろう?


 天武は思考を切り替えようと、空を仰いだ。数多の星屑が広がっている中に一縷の星が流れた。流れ星は凶星。すぐに眼を逸らしたところで、番兵の騒がしさに気がついた。


「どうした」

「後宮にて異変でございます!」


 天武は、自身の過ごす宮と対極になるように、貴妃たちの宮を建設させ、増築を命じていた。先日も、貴妃が死んだばかり。


(あの時は、庚氏がきびきびと報告をしてくれたが……まさか)


「死んだ貴妃の名は!」


 天武は言うが早く、銅剣を手に庭を上がった。火(か)棘(きょく)がゆらゆらと陽炎のように揺れる中を突っ切って、剣を振り回すと、実がぽとりと落ちてゆくのが視界に入った。


 あたかも命を削るような錯覚に陥った頭を、軽く振る。


「私が様子を見に行こう。……被害状況を報告できる者を寄越せ」


 早足で歩きながらの脳裏には心配より、別の事項が渦巻いていた。

もし、楚の庚氏や斉の遥媛公主が同様の状況になれば人質の意味がなくなる。

特に楚とは、庚氏を介し、和平を受け入れた。もしも庚氏が殺されれば、楚は大軍を秦に向けるはずだ。


 歩きながらふと、天武は今後の後宮の警備を考えた。あまりにも異変が多すぎる。絶対的な警護の必要を感じるものの、男を入れては元も子もない。


「そうか……男でもなく、女でもない……もの……女を脅かさぬ男……」


 天武は即行動に出ることにした。番兵は天武の姿を見るなり、平身低頭で出迎えた。


「このような場所に、天武さまがいらしてはなりません」

「礫(れき)は、おるか」


 天武は集団の中から一人の男を見つけ出した。渭水の戦いで、先陣切って戦った男だ。功績を称え、警備長に任命した男を礫と言った。


「今から、私の決定事項を伝える」


 躊躇なく突っ込んだ燕での勇姿は、数多の兵を魅了している。

俄に静かになった兵たちの前で天武は鞘ごと銅剣を掲げ、床に打ち付ける。

後宮に、朗々と声が響き渡った。


「男を捨ててまでも生きたいものは、根を切り落とせ! 恩賞に、生涯麗しき貴妃に仕えさせ、眺めさせてやる。逸物がなくなれば、大人しい人畜無害な狗のような番兵となるであろう」


 男たちは絶句した。絶句して、自身の股間を見下ろす者も、ちらほら出てきた。


「勿論、そなたたちの希望も通す。男を捨て、貴妃に仕えたい軟弱者が私の軍にいるとは信じがたいがな」


 一瞥された兵たちは、更に震え上がった。


「真の死か、男としての死か……罪人たちは私の温情に涙するやも知れぬ」

「しかし、それは危険を伴いますが」


「では、貴妃たちは、誰が護る? 私は男というものを知っている。……対して女がいかに淫奔かもな……殷徳を見ていれば分かるだろうよ」


 見据えるような視線を注いだ場所には、青褪めたまま俯せに倒れている貴妃の姿があった。それなりに美しかったであろう、しかし好みではない溌剌とした表情は突然の死の苦悶の内に終わっている。

庚氏でも、遥媛でもない女だった。


「丁重に弔え」


 命を下したところで、さわさわと衣を引きずる音がして、一人の貴妃がゆっくりと死体の傍に寄ってきた。斉の美女、遥媛公主だ。


「穢れが移る。遥媛公主」

「構わぬ。第一発見者は、私だ」


 よく似合う黄金色の衣装は、斉の王族の証だ。まだ燕のように滅ぼしてはいないが、東方の勢力を集めていると聞く。


 遥媛公主は諸侯の娘であり、王族の公主の位を持っていた。兄は斉の太子に当たる。


 少し伏し目がちの切れ長の目尻に、一見すると男のような高い鼻。月氏という遊牧民から派生した斉の特徴が濃厚な美人で、しかも、天武よりも背丈があり、妙な迫力があった。


「そなたでなくて良かったと、安堵したところだ」


「命失えば、誰とて同じ。かように、すぐに人は死ぬもの」


 そうだな……と硬直し、固まった指を見つめる。名も与えないままの韓の女だった。さほど利用価値もないため、むしろ除外していたような貴妃であった。死なせるつもりはなかった。声も掛けずの死であった。


 今や後宮には、王が見捨てた貴妃たちが犇めいている。無理もない。まるで犠牲の羊のように貴妃は集められ続け、天武の眼が行き届かぬ場所で、自害する者もいる。


 後ろ盾のある殷徳や、庚氏、秦の娘の花芯は別格だ。斉の遥媛公主は、公主の気高さを持って、後宮入りをした。だが、滅多なことでは表に出てこず、天武との逢瀬も未だなされてはいない。遥媛公主の長い髪が、ゆっくりと踊る。


「火(か)棘(きょく)を使った仙術だ。火(か)棘(きょく)の毒は強いからな。実よりも棘のほうだろう」


 天武は、ふっと自分の指を見つめた。先程うっかりして刺さった棘が痛むが、特に腫れているようでもない。


「先程、棘を刺したが、私は平気だった」


「仙術と言ったろう。特別に調合したとき、花は毒になる……口元を見よ」


 天武は頷いて、死体の唇を見やり、動きを止めた。肉厚の花びらには、覚えがある。


「桃の花だな」


「ほう。よく分かったな」


 天武は答えずに、僅かに目元を動かす。


 遥媛公主は、大柄でも華奢な上半身を屈み込ませるようにし、指で口元の花びらを剥がした。


「今は立秋だ。桃が咲いているはずがないのだが」


 永港に囚われになった漢の貴妃が脳裏に浮かんだ天武に、遥媛公主の声が被る。


「我が斉は、薬学の流通が盛んだ。手を結ぶべきだぞ」


 爪先を翠蝶華の入っている永港に向けたとき、遥媛公主の含み笑いの声が響いた。


「かように、女というのは浅ましいものよ。集めるだけ集めて、同じ水槽に入れておけば、食い争うことになろうぞ。そなたの力量が問われるな」


 不遜な物言いは遥媛公主の特徴だ。当初は面食らったが、幾度となく会話を交わす内に慣れてきた。


 麗しい斉の遥媛公主を一目でも見ようと、男たちが蟻のように群がり始めている。


 ただでさえ、遥媛公主は殷徳や庚氏のように人前に姿を現さない。

死体を発見し、興味を示して表に出てきたのだ。


 遥媛公主は、手にした花扇を振り回して、道を空けさせ、颯爽と後宮の奥に姿を消した。落ちていた火(か)棘(きょく)の実と、桃の花が消えている。恐らく遥媛公主が持ち去ったのだろう。


 ――全く女は、弱いのか強いのか、わからんな…。


 天武は遥媛公主の後姿を見送り、自身も後宮を後にした。

 だが、翠蝶華には会えなかった。道中で、兵士に咎められ、天武は王の部屋に戻らざるを得なくなった。


「何故貴妃が、こうも死ぬ!。見解を申してみよ!」


 苛々した口調で、天武が怒鳴る。直ぐさま華奢な武人が進み出た。


「天武さま、得てして女は、公務と自分とを常に見比べ、憎悪を募らせる生き物。小職がそうでありますゆえ。構わぬと反乱を起こすのです。あたかも、神のように天変地異を起こします」


「……おまえの名は」


「李逵(りき)にございます。少々史学を齧っております。先日、殿上致しました。出身は燕です」


「では、荊軻という武将を知っているか」

「さあ? 記憶にはございませんね」


 嘘をついている顔だ。天武は進言した男を見つめた。


 今や天武の周りには、馴染みの者に加え、多様な人間が蜷局を巻いている。中には利用しようと甘言を囁く輩もいた。若い天武を追い落とそうと、常に男たちは策略を練っては、いち早く淘汰されていった。


(この男、あいつに似ているな……信念のためには、まこと偽りない瞳だ)


 過去に無情のまま消した上、屠った燕の武将を思い起こさせる、強い瞳。


――そう言えば、翠蝶とも似ているな。


「ふむ、そなたは、自分の恥をさらけ出せるのだな。して、女は、どのように扱えば良いか。指南せよ、李逵」


「天武さまの愛する宮殿を作るが如く、隅々まで気を配り、優しさを見せるが宜しいでしょう。居心地の良い麗しい宮殿に化けますゆえ。お心に触れた貴妃は、おりませんか」


 答は出さず、天武は大きく一呼吸して、肩を落とした。


「人民に対してにせよ。後宮以外は上手く行っているのだが。これ以上は、後宮の問題が起こらぬよう、努力するしかなさそうだ。一日に一人ずつ廻る公務とする。滅ぼした国の貴妃たちへの労いとして、故郷を模した宮殿に住まわせる。設計は、私が当然……」


 言いかけて天武は、まだ先の宮殿が完成していない状況を思い出した。


 ちょうど良い。美しい渭水の畔に、宮殿を並べよう。霊峰を背に、夕日に輝く宮殿は、きっと美しいと思う。そうだな、翠蝶華や花芯が望むならば、一本くらい、桃の木を植えても――桃の花びら……。


 死んだ貴妃の唇に張り付いていた桃の花びらを、不意に思い出した。


 ――翠蝶は、桃の木の傍で何をしていた?るいは蝶の名の通り、間諜か。


(問い質してやる)


 天武は考え込み、やにわに命じた。


「永港に居座った貴妃の翠蝶華を、ここへ。唾を吐かれようとも、力尽くで連れて来い!」

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