一橋公徳川慶喜

@utsunomiya_ayari

テスト(完結済み)

 一橋公徳川慶喜は、乗り気では無かったうえ、多くの幕臣や十四代将軍徳川家茂やその母達などから毛嫌いされ、将軍職など継ぐ気は無かったのに歴史の流れに折れ十五代将軍となった。

 しかし、慶喜は徳川将軍の歴史の中でも異質の傑物である。幕府をこのままの体制で続けることが困難なのはこの男が良く分かっていた。慶喜は自分が議長となる形で、欧米列強の政治思想を取り入れ議院内閣制を敷き、殖産を増強せねばこの国は立ちいかないであろうと、江戸の市街を眺めながら考えていた。


 元より水戸徳川家の系譜を受け継ぐ一橋家である。

 今は命を狙う的である、有力な後ろ盾であった長州の島津斉彬などと同じく、広い海岸線を持つ土地に住んでいたため、ペリーの黒船来航以前から海外の最新式の蒸気船を頻繁に目にし、脅威を敏感に感じ取っていた。


 このままではいけない。優秀な人物を取り入れ改革を行わねばならない。眼下に広がる江戸の市政の者達。ひいては日の本津々浦々に住まう下々の者までの運命を、その双肩に背負っているのをひしひしと感じていた。

 天下人の何たる息苦しさよ。

 太平の世で鈍りきった日本を改造すべく、欧米について知るため西周などの西洋の学問に精通した学者を近くに置き、政治体制の一新を図り、その姿から支持者より「神君家康公の再来」と謳われた慶喜であったが、元より父に「将軍職に興味は無し」としていた通り、実際に天下の采配を担う立場になってみれば、想像以上の苦しさである。


 しかし、天下の動きは欧米列強の接触により百年が一日で過ぎるような目まぐるしさであった。天下分け目の大戦よりこの方二百五十年に渡る太平の世も一瞬で過去のものになろうとしていた。


 これはいけない。江戸の娘らしい気っぷの良さを持つ色黒の、京女の正室より付き合いやすいと感じていた、愛妾お芳の父であり、懐刀平岡円四郎が京において暗殺された時より、身の回りを警護する江戸火消しの老侠新門辰五郎のような一般の者とでも、能力を認めれば対等に付き合おうとするのが慶喜の美徳であった。


 そして慶喜は冷や飯ぐらいだった勝海舟をその能力の高さから海軍総監に命じた。

 そしてさらに広く日本全国に頭脳を求めていった。

 そしてこの江戸の守りを固めるため、希代の奇才勘定奉行小栗上野介に江戸幕府開闢以来となるような巨額の費用を集めさせ。守りの要である見張りの塔。江戸三十六見附の大改装を行い、既にその偉容を上空三万六千キロメートルの静止衛星軌道上にまで延伸していった。

 当時最先端の国であるイギリスから導入した蒸気機関と、イギリス本国においては開発が断念されたチャールズ・バベッジの階差機関による周到で膨大な演算能力と、日の本で腕を競う最高の宮大工達の腕の競い合いにより数々の透かし彫り飾り彫りで飾り立てられながらも質実剛健な木組みにより、法隆寺以来数千年でも持つと思われる木造の高高度施設江戸三十六見附は、遙か天の頂に達した。


 その中では超高速で資材が大気圏を突破し、地球の引力圏から脱出するかというギリギリの地点まで全国の大名にかき集めさせた立派な大木・銘木を運びあげ、静止軌道トランスファーに強固な要塞を築き、西洋式の訓練を施した精鋭である、日本では初の近代的軍隊。大気圏外での極地活動も可能となった全極地行動型トルーパーが遙か空の彼方より地上に睨みをきかせていた。


 今までの関ヶ原以来開発の足がほとんど止まっていた旧式の火縄銃を、最新式のイギリス製ライフル銃を改造した、小型大電力発生装置を備えた個人携帯用レールガンに持ち替え、清国のように国を蝕もうとする何者かが無人衛星に阿片を積み、御禁制品を持ち込もうとするのを容赦なく撃ち落としていった。

 その落下し流れ星となる姿に日本中の人が魅せられ「鍵屋」「玉屋」と歓声を送る一般的な催しとなっていた。


 天を摩滅する三十六見附は互いに第七世代量子暗号網で巨大情報の通信を行い緊密な防衛網を敷いていた。

 江戸城本丸地下二十六階層にはバベッジの階差機関を改良進化させた最新の固体量子素子を用いた百万量子ビットクラスの計算力を誇る光量子コンピュータがおかれ、それを中心に、幕府の天領地と皇居におかれた「からくり儀右衛門」こと、若き日の久留米藩の技師田中久重の手になる自立進化型モック・ニューラルネットワーク人工知能の広大なネットワークにより、日の本の流通経路をNP困難であるなしにかかわらず、自立型都市建設者群が膨大な演算の果てに作り出された最適な流通網を、半永久的な機動を持って築き、それまでの自由位置のようなこじんまりとした寺や神社の境内で行われているような楽市楽座は、人類初のフィンテック・ビッグバンを迎え、金融は沸騰する経済という名の巨大な生物と化した。


 江戸城本丸は、歯車と螺旋と蒸気と電子が支配する論理迷宮と化し、脳をサイバネティック化しニューラル・ネットワーク内を漂い、正当なルートを知っている旗本達だけが「魂の量子化」により情報生命体となり登城し、それぞれの職務にあたっていた。


 それ以外の侵入者。他藩の忍びなどが、ハッキングを試みると江戸城内の論理迷宮の様々な場所に設置された電子トラップに引っかかり、量子化された魂を物理的に江戸城端末にコネクトするための脊髄に埋め込まれたサイバー・コネクティック・インプラント・ゲージに膨大な巨大電流を流され、中枢神経を物理的に焼かれ次々と闇の内に葬られていった。そして情報端末の残す指紋により居場所が発見された死体は江戸城の外堀に自動で投げ込まれることになる。


 一時期あまりにも侵入者が多かったため、後に江戸城無血開城が行われるまでは、死体は有機転換炉に放り込まれ、魂を量子化する手順を踏むことなく、ネイティブに電子情報に適応した有機素体を主とする合成人間制作の研究にあてがわれた。


 これについては後に一橋公も後悔したようで、朝敵の烙印が解かれ明治天皇皇后両陛下に謁見が叶うまでの間、天皇が謁見を暗に拒否し、また慶喜も合わせる顔が無いと乗り気では無かった大きな理由だと、後世の歴史学者から考えられていた。


 江戸城本丸は既に静止衛星軌道を越え月の中継基地に巨大な量子グリッド・コンピュータを置き、そこから更に火星の軌道上までその甍を伸ばし、宇宙の暗い空間の中で宮大工達が作り出した壮麗な切り妻破風の屋根が宇宙の無音の中静かに佇んでいた。


 しかしこれでも欧米列強の力にはまだまだ及ばない。マイクロ・ブラックホール推進装置の理論に指がかかっていた眠れる獅子、清王朝もイギリスの仕掛けた阿片という魔の粉により三等国へと転落していった。


 今では無重力蒸気船団が大気圏内のありとあらゆる海を支配し、フランス、プロイセン、ロシア、アメリカ等と競い合っていた。

 特にアメリカの技術は凄まじく。ペリー来航から数年で無人探査機をエッジワース・カイパーベルトに送り込み、南極点・北極点以遠の人類最遠不到達地にして、建国の祝詞、独立宣言の及ぶ我が偉大な領地としていた。


 慶喜公は憂慮していた。

「殿。我々は最早太陽系内に新たな領地を探すのは不可能でございます」

 ブレーンである西周が奏上する。

「ではこの美しき江戸の、日の本の土地の上を欧米列強の蒸気船団が何の遠慮も無く航行していく様を我々は月衛星軌道上の、江戸城第八天守閣から指を咥えて眺めるしか出来ないと申すか」

 天守の外。宇宙空間では、遺伝子を組み替えられた極地生存適応ゲノム強化宮大工がせっせとデブリからの防御隔壁を太陽の強烈な放射線が飛び交う空間の中、一流の職人らしく見事な技術で真空の中黙々と新規に開発された特殊サーメット剤などでゲノム適応型左官職人などと一緒に並び葺いていた。

 左官職人の見事な蛟の鏝絵など、見る者は居ないだろうにそこまで気を配って働いていた。この勤勉さが日本を三等国に堕さない一つの要因であった。


「我々は三次元的に成長することばかりを考えていました。江戸三十六見附の中に通っている高速弾頭軌道内のチャンバーを超真空にし、江戸城の地下最も深い、今や廃棄層となっている石垣の更に遙か下から巨大なハドロンを火星軌道上まで加速し、フォボス上空で純粋炭素結晶と衝突させるのです。幸い我々には清から渡ってきたマイクロ・ブラックホール推進装置の図面があります。大江戸粒子加速装置で発生するはずのマイクロ・ブラックホールはカラビ=ヤウ多様体の余剰次元に格納され、ワームホールを連鎖的に生じさせ、この次元の裏側に新たな日の本の領地を開くはずです」

「そんなことが可能なのか」

「はっ。日の本に集うこの国の頭脳達も日の本全体の核融合炉の電力の七割以上を江戸に集めることで10劾ゼタ・エレクトロンボルト以上のエネルギーをハドロンに与えることが可能であり、目視可能なサイズでのマイクロ・ブラックホールが生成可能と申しております」


 慶喜は考えた。

 将軍職に就いてからの数年だけで地上はサイバネティック手術を受けた人斬りだけに特化した最早思考を失った不逞浪士や、不法に他の生物の遺伝子を人体に適合させつづけた不気味なバイオ攘夷ソルジャーなどが江戸周辺で小型限定核等を使い暴れ回り、無辜の民を傷つけていた。


 必死に欧米列強に食らい付いていたが、日本は今や清国と変わることの無い窮地である。一刻の猶予も無い。幕府の権威を示しつつ、武士達の不平を収め、朝廷を掲揚するにはこの極微細な多様体の余剰次元に眠る広大な沃野を民に開放し、皆の生活が豊かになったところで、議院内閣制を敷くしか無い。


 慶喜は決断した。

「各藩に参勤交代ならぬ、エネルギー質素倹約をしかせ電力供与を求める布告をせい」

 こうして江戸城極超長軌道巨大ハドロン加速余剰次元開墾計画が発布された。

 計画は順調だった。各藩毎のいがみ合いは、慶喜が自ら出向き鎮圧し、核融合炉を最大効率で回すよう幕命を出した。


 江戸城下での不穏な動きは、慶喜心の友新門辰五郎が火消し衆を率いて平定していった。火消し達はこの頃既に体内で反物質を生成させ、こぼつ相手を質量からエネルギーに変換し、原子レベルで崩壊させる技術を体得していた。

 質量とエネルギーの関係をアインシュタインに先駆け経験則で理解していたのである。自立全自動人斬り装置と化した不逞浪士達はこの火消し達によって次々と消滅させられていった。


 そして天才田中久重は芝浦に工房を構え、積層型都市開発理論に、高度な数理物理的理論を足した全く新しいマンデルブロート・フラクタル・カオティック都市自動成長理論をうみだし、江戸城の弾体発射装置としての強化改造改良のための理論的物理的肉付けを行っていた。


 この頃の副産物が彼の有名な光格子万年時計であり、現在和光市の理化学研究所に設置され、三百億年に一秒の狂いも生じないという、からくりの芸術が見られることを知る人も多いだろう。


 そしてついに朝廷からの勅命が下り、江戸城に日の本全体の電力が送られてくる。

 このときのために全国の電線を地下に埋設し、極低温状態でほぼロスの生じないスマート送電法が開発されたことは、中学の授業でも習った記憶があるだろう。

「では、これが征夷大将軍としての最後の仕事になることを祈る」

 慶喜が真空ポンプで加速機内のチャンバーの空気を抜き、ゲッター・ポンプで遊離イオンや、電子すら排除した宇宙のヴォイド空間よりも更に真空の度合いを高めた空間に、巨大な電力でハドロンを発射させる。


 光の99.9999パーセント以上の速度で発射されたハドロンは十四分程度で地球と火星軌道上の第一天守閣開放路まで到達加速させ、この粒子のチャンバー内での回転を数時間かけて行い、ついに炭素の純粋結晶にハドロンが衝突する。


 激しくニュートリノや陽子、ヒッグス粒子などが炸裂し、科学の火花を散らせる。衝突子の温度は一瞬電子が分離するほどの宇宙開闢時の膨大な温度という概念を超越した、エネルギー密度で観測する高密度エネルギー体に変貌する。


「殿、やりました。チャンバー内に設置したマイクロブラックホール捕縛用ガウス・トラップ内にマイクロ・ブラックホールが捕らえられました!」

「どうなったのだ、分かるように説明しろ」

 西周は慶喜のパブリック視界のレイヤー・ビューに清のマイクロ・ブラックホール原理論と超紐を取り扱うM理論に基づいた理論を図示するコンピュータ・グラフィックスを映し出す。

 網膜内にレイヤーを表示させることによって人間の認知・学習機能は格段に進化した。もちろん田中久重の技術である。


「ガウス・トラップ内でのブラックホールは安定しており、重力係数をモニタする限りではホーキング放射も微かにしか行われておらず、蒸発は理論値以下の水準で推移しているようです。ガウス・トラップ内のエネルギー密度が未知の動きを示しています。これは余剰次元との重力干渉を起こしていることを示している証拠だと考えられます。やった科学の勝利だ。ワームホールが発生しています。この宇宙が天地開闢以来のエネルギーの影である幻影という考えがありますが、ホログラフィック原理からブラック・ホールの向こう側の体積。つまり植民可能な沃野が高次元なレベルで開かれ、現在の太陽系の体積とは桁違いの更に数学的に次元が拡張された植民空間の拡張に成功したのです。あとはこの門を抜けてDブレーンの膜の裏側に存在する平行宇宙に進み方行くするだけです。ここに日本最遠到達地点の石碑を建てましょう!」

 西周のはしゃぎ振りをよそに慶喜はこれで征夷大将軍の職を辞しようと静かな気持ちにあった。


 これは長きにわたった江戸幕府の終焉の始まりであり、近世から近代への橋渡しであり、現代の我々が星々の海の遙か彼方の数理的空間にまで至る道のりの最初の一歩であった。

 その後勝海舟と南州翁西郷隆盛の尽力により江戸城は無血開城し、ワームホールの向こう側へ、清国のマイクロ・ブラックホール・エンジンを実用化した移民船が建築され、第一の開拓民は長州藩から送られた。


 開拓は苦難の連続だったようだ。

 様々な植物の栽培や生活環境を整えるための酷く根気のいる開拓生活。

 ある者は高次元の存在に触れ、気をおかしくしてしまい。

 ある者は、三次元空間から高次元に飛ばされたおかげで認識が狂い続け、網膜に映るナビゲーション・ビューがなければ厠にもいけない始末であった。

 日本は確かに広大な土地を得たが、そこから利益を受けるには、この時まだまだ時間が必要であったのだ。


 その後議院内閣制が組織され、日本は欧米列強の歴史のダイナミズムに飲まれること無く独立を保った。

 そしてその後の歴史は皆の知るとおりである。現在江戸城跡地は皇居となっており、マラソンランナーの絶好のスポットとして愛されている。

 空を摩滅する宇宙にまで伸びた江戸の終わりから田中久重の理論に沿って働き続ける都市建設者群は今も天空のどこかで量子コンピュータの指示を受け、都市を地球からはみ出させる高さまで積層建築を行っている。

 時を経るに従って、ほとんどの人類が大地という概念の理解に苦しむという統計すらあるらしい。


 しかしこれらは歴史を知ることによって解決できる問題であろう。

「我々は知らねばならない。我々は知るだろう」

 この言葉を忘れてはいけない。

 異次元にまで生活の脚を伸ばした人類であるが歴史を知らねばならないというのは、ギリシャ・ローマの時代から人類に経験則として与えられていることである。

 しかし、あの時を知るものも今は全て亡く、日本の払暁に輝いた有名無名の英雄達の輝きの記憶の全ては歴史の彼方に消え去ろうとしている。


 私は、この記憶を遺産としてフィロンやプリニウス、司馬遷やギボン、モムゼンのように名を残すつもりはないし、そうあろうと思ってもいないが、彼らのように人類の歴史を後世に伝えたいと願う者だ。

 全てが忘却の彼方に消え去る前にその破片を掴もうとした者のあがきをここに記した。


(了)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

一橋公徳川慶喜 @utsunomiya_ayari

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ