第28話 「花は咲く」の決心

 花は 花は 花は咲く――

 この歌『花は咲く』を、ワタルは千葉へ来てから何度耳にしたことだろう。聞かない日はないといってもいいかもしれない。テレビから毎日のように流れていたし、下校途中の商店街からも聞こえてきた。

 学校でも歌っていた。音楽の時間、この歌は教科書には載っていなかったのだが、中村裕子先生がCDを生徒に聞かせ、黒板に歌詞を書いて、みんなで歌った。

 おそらく、中村先生は、『花は咲く』をワタルのために、生徒全員で歌うことにしようと思ったにちがいない。

 このクラスにも、大津波被災者が一人いる。彼を励ますために、生徒全員で一つになり、心を寄せる――。それには、『花は咲く』が好都合だった。

 だが、クラスの中に一人だけ、『花は咲く』を歌おうとしなかった生徒がいる。ワタルである。

 このことに、中村先生は気づいていたのだろうか。たぶん、気づいていなかったろう。生徒が歌っているとき、先生も目を黒板の歌詞へ向けながら歌っていたから。

 みんなが黒板に向かって歌っているとき、ワタルは目を机に伏せ、口を閉じていた。耳も歌声が侵入してくるのを拒んでいた。歌が終わるまでじっと耐えていた。孤立感ばかりが募った。

 花は 花は 花は咲く いつか生まれる君に――

 被災地の復興、被災者の支援のために、国民が心を一つにするには、『花は咲く』はいい歌であろう。しかし、ワタルの気持ちには、この歌を受け入れることができなかった。

 花は 花は 花は咲く わたしは何を残しただろう――

 同級生一同の歌声は、ワタルの心にさざ波を起こし、ワタルを震えさせた。その歌声は、ワタルの心には、「かわいそうに」という同情の声となって渦巻いた。

 クラスの同情の声、その視線から逃れ、慣れるまでに、ワタルにはかなりの時間を要した。しかし、もう大丈夫。自分は希望へ向かって生きていく――と、心に誓いを立てたとき、ワタルの『花は咲く』に対する拒否反応は消えていた。

 花は 花は 花は咲く いつか恋する君のために――

 2学期の最後の日、『花は咲く』をクラス全員で歌った。みんな、もう黒板の歌詞を見なくても、そらで歌えるようになっていた。みんなはワタルの顔を見て歌った。ワタルも、みんなの顔を見ながら歌った。

 そして、新年を迎えた。

 3学期が始まった日、ワタルはショーマ、リョースケと誘い合わせて登校した。朝礼で校庭に集合したところ、吾妻小学校に全校生徒を震撼させる大事件が起きていた。校長が壇に上がると、新学期の訓示もそこそこに、こう述べたのだ。

「わが吾妻小学校は、千葉市の中心市街地という真ん中にあって、少子高齢化の波に勝てず、誠に残念なことでありますが、来年の3月をもって中央小学校に統合され、創立125年という歴史の幕を閉じることになりました――」

 エ――ッというどよめきが校庭にこだました。

 五年生が教室に入るや、「吾妻小学校がおしまいになる」というとんでもないニュースにもちきり。生徒たちは席に座らず口々に意見を吐き出し、学校への批判で憤懣やるかたない怒りを爆発させ、収拾のつかない混乱状態になってしまった。

「みなさん、静かに。静かにして。着席してください。静かに。静かに、落ち着いて、話し合いましょう」

 中村先生が懸命に生徒をなだめて、ようやく喧噪状態が収まり、みんな、着席。

「みなさんの意見も採り入れて、今日は授業に替えて学級会にしましょう」と、中村先生の判断で急きょ討論会が開かれることになった。

「では、みなさん、これから吾妻小学校統合問題の学級会を始めます。意見のある方は挙手をお願いします」

 議長は学級委員のハルカが務めた。学校批判は言い尽くしたのか、いざ討論会になると、鎮火した後の火事現場みたいに教室は沈静化。その沈黙を破り、「はい」と最初の挙手で立ち上がったのは、意外にもリョースケだった。

「吾妻小学校が来年で無くなるということは大人たちが決めたことだから、いまさらぼくたち生徒が文句を言っても仕方がないと思います。それよりも、ぼくたちが吾妻小学校最後の六年生になるということで、ぼくたちはどういう六年生であるべきか、最後の六年生として何をなすべきなのか、吾妻小学校がいい学校だったと惜しまれるような何かを、ぼくたち次の六年生が力を合わせて実現しなければならない。それは何か。そのことをこれからみんなで話し合うのがいいと思います」

 リョースケのこの発言に対して大きな拍手が起きた。中村先生もびっくりした顔でリョースケを見て、つい本音を出してしまった。

「リョースケくん、すばらしいご意見じゃないの。なんだか急に賢くなっちゃったのねえ。センセイ、感心しちゃったわよ」

 リョースケが正直に中村先生へ答えた。

「去年、ワタルくんの光法寺へ行ったとき、法蓮和尚から共生ということを教えてもらったからです」

「キョウセイ?――」

「地球が永久不滅の星であるためには、地球の自然環境が共に生きるという共生の考えで守られなければならないという意味です」

「まあ、リョースケくん、すごい勉強したのね」

「はい。このあいだ、プラネタリウムへ行って、星の勉強もしました」

「ほう、どんなことを学んだの」

「宇宙は、北極星を中心にして星座が共生している。だから、宇宙は永久不滅だということです」

「エライ!リョースケくん、エライわァ・・・先生、うれしい・・・」

 中村先生、声を震わせ、メガネをはずし、ハンカチを目に当て、嗚咽。リョースケ、あ然。そして頭をかきかき照れくさそうに着席。

「中村先生、泣いている場合じゃありません」と言って、挙手しながら立ち上がったのは、ショーマだった。「リョースケくんが言ったように、ぼくたちが六年生になったら、何をすべきなのか、この問題をみんなで考えたいと思います」

 中村先生が冷静を取り戻し、答えた。

「そうですよね、みなさん、立派な六年生になれますよ。みなさんが力を合わせれば、きっと、すばらしい記念事業と誉めていただけるような事ができますよ」

「そこで提案があります」と、またショーマが挙手。

「はい、では、葛西翔馬くん、どうぞ」と、ハルカが指名。

「六年生になったとき、まず最初に全校で取り組む行事として、五月に開かれる運動会があります。この運動会が素晴らしいものになって成功すれば、吾妻小学校最後の一年を有意義に飾ることができると思います」

 このショーマの提案に対しても大きな拍手が起きた。ハルカが討論の進行を促した。

「では、運動会に問題を絞って話し合いたいと思います」

 教室がまたざわめいた。生徒たちが口々に意見を出した。

「運動会の花形はやっぱり組体操だよなあ」

 生徒たちの意見はこの一点で一致。

「組体操が一番の問題ですね」と、ハルカ、確認を求める。

「そうだよ」と、再び挙手して立ち上がるリョースケ。「去年の運動会は、おれたち五年生の組体操が中止になって、ぶち壊しになってしまった。こんな不名誉なことはない。今度も中止なんかになったら、おれたち、卒業する資格もないぞ。だから、みんな、今度はなにがなんでもリベンジしないといかん」

 檄を飛ばすリョースケにみんなも「そうだ、そうだ」と同調。討論が盛り上がったところへ、冷水を浴びせるような不規則発言が飛び出した。

「問題は、てっぺんだよ」

「だれですか、今の発言は。意見は挙手してから言ってください」

 ハルカに促され、窓際の列、一番後ろの男子が立ち上がった。普段は寡黙だが成績は一番でみんなから一目置かれている、椎名寛希だった。

「去年の失敗は、てっぺんが崩れたことに原因がある。今度は必ず成功させるには、絶対に失敗しないてっぺんを選ぶべきです」

「そうだ、そうだ」と、また同調する声があがった。一番前の席で、ワタルはうなだれた。心は穏やかでなかった。そこへ、またも不規則発言が飛び出した。

「じゃ、絶対に失敗しないてっぺんとは、誰なんだよ」

 ハルカに促される前に、リョースケが挙手して立ち上がった。

「絶対に失敗しないてっぺんを選ぶという方法があるのか。あるなら教えてくれよ」

 これには、寛希も答えがなかった。リョースケが続けた。

「選ぶ方法はない。だけど、選ばれるべき人間は、一人、ここにいる」

 リョースケの爆弾発言に「ええっ――それは誰なの?」と、驚きの声があがる。

 ショーマが立ち上がった。

「選ぶのはみなさんだと思います。みなさんが選んだてっぺんを、みんなで信頼して、成功を託す。千葉神社の妙見様にお祈りして、成功をお願いする。それしか、方法はないと思います」

「そうだ、そうだ」と、またも同調の声。ショーマが立ち上がったまま続けた。

「今ここでてっぺんを選んだり、決めたりする必要はないと思います。六年になったら、みんなの投票で選ぶようにすればいいと思います」

 このショーマの提案に、中村先生が賛同した。

「そうだわね。それがいい。みなさん、誰がいいか、今からじっくり考えて、六年生になったら決めましょう」 

 これを結論に、学級会は終了した。

 放課後、ワタルは、リョースケとショーマに付き添われるようにして下校した。

「ワタル、しょげてんじゃねえぞ」と、リョースケがワタルの肩に手をかけて言った。「おれが、てっぺんはここに一人いると言った、それはおまえのことだったんだぜ」

「そうだよ。てっぺんはワタルしかいないんだから」と、ショーマもワタルを励ますように言った。二人は交互にワタルを激励。

「ワタル、去年の失敗は気にするな。リベンジだ。もう一回、てっぺんをやって、みんなをびっくりさせてやろうぜ」

「そうだよ。吾妻小最後の組体操になるんだから、みんながびっくりするような組体操をやって、伝説を作るんだよ。千葉千年伝説みたいな、よ」

「それには、ミョーケンの魔法だ。ワタル、てっぺんでミョーケンをやるんだ」

「それがいい。ワタル、ミョーケンをやってくれよ。絶対に成功するように、おれも千葉神社で妙見様に願掛けするからよ」

 光法寺の門前へ来て、彼らは立ち止った。ワタルは二人を見つめて、言った。

「がんばる」

 三人、手を重ねて、誓った。


 ワタルが本堂の縁側へ上がると、帰りを待っていたかのように和室から法蓮が出てきた。

「ワタル、ちょっと話が」

 法蓮に促されて、ワタルも和室へ入った。

「広田の叔父さんから電話があったよ」

「電話が?――どんな話だったでがんす」

「うーむ」

 法蓮はすぐに答えずに、ワタルを座らせ、向かい合い、ひと息ついてから言った。

「ワタルにそろそろ広田へ帰って来てもらいたいということだった」

 えっ――と、ワタルは息をのんだ。ワタル自身は、広田へ帰る日が来るとは今はもうまったく思ってもいなかった。ここ、千葉で、希望へ向かって生きていこうと決心し、もう覚悟はできている。それに、たった今、ショーマとリョースケに、5月の運動会でてっぺんをやると約束したばかりである。

「返事は今でなくてもいいから、考えなさい」

 ワタルが返答に詰まっているのを見た法蓮は、猶予を与えた。そして、立ち上がったとき、ワタルの答えが返ってきた。

「法蓮和尚、ぼくは、広田へは帰りません」

「なに、帰らない。それは、またどういうわけだね?」

 法蓮は鋭い眼でワタルを見下ろした。ワタルは、うつ向いて、言いよどんだ

「ぼくは、千葉が・・・」と言いかけて、やはりためらった。が、顔を上げて、法蓮を見つめ、つぶやいた。「千葉が、好きになりました」

 法蓮は、思いもよらない答えに、ワタルを見つめるばかり。

「そうか。そういうことだったのか」と、納得すると、ワタルの頭を撫でて、言った。

「ワタル。きみは本当にいい子になったよ。広田の叔父さんへは私から返答しておくから」

 法蓮は背中を向けて廊下へ出た。その大きな後ろ姿がワタルの目の中で溶けていった。ワタルはぽたぽたと涙を畳にこぼした。

 花は 花は 花は咲く――

 たこ焼き屋『ちばたこ』のラジオからも『花は咲く』が流れていた。

 ワタルはハルカに呼ばれて『ちばたこ』へ行った。ハミングロードの道端のテーブルに、アキラとアイリがすでに座っていた。二人で打ち合わせ済みのことを、アキラがワタルに伝えた。

「来年の6月1日なんだけど、星祭りをハミングロード商店街で開催することになった。ストリート・ダンスと華太鼓を中心にしてやる計画なんだが、そこにもう一つの呼び物として、ワタル君の梯子虎舞をやってもらいたいんだ」

「えっ、虎舞を?――ぼくに、でがんすか」

 ワタルはキュンと心が高鳴るのを覚えた。その明るい笑顔を読み取ったアキラは、ワタルの手を強く握った。

「頼んだよ、ワタル君」

「はい」と、ワタルはにっこり、うなずいた。

 千葉の人に自分が認められたのだ――。

ワタルはうれしさがこみあげて、隠しきれず、にこにこと笑い続けた。

「さあ、食べちゃおう、食べちゃおう」

 ハルカがテーブルにあつあつのたこ焼きを並べた。

「プロデューサーはママがやるんだって。ママはね、今は年取っちゃってるけど、若い頃は芸能人だったのよ」

「へえ、そうだったんだべ」と、ワタルは驚くとともに興味をそそられた。「道理で美人のママだと思っただ。なんというテレビ番組に出ていたでがんす?」

「それがね、おニャン子だったのよ」

「おニャン子?」

「そう。工藤静香なんかと同期なんだって」

「クドーシズカ?」

「ほら、キムタクの彼女よ」

「キムタク?――ああ、あのイケメンだべ」

 ワタルにも漠然と分かった。

「あっちはね、スーパースターになっちゃったけど、こっちは千葉のたこ焼き屋。なんでたこ焼き屋なんかに都落ちしちゃったのか、話せばオモロイ、それこそテレビドラマになりそうなラブコメなんだけどさ、それはまたいつか話してあげるわ。要するに、男運が悪いんだって、ママ、いつも嘆いてるのよ」

 ハルカがペラペラしゃべくっている間、ワタルの目はたこ焼き屋の中へ注がれ、竹串を器用に操る手に見とれていた。その手が止まり、ハルカのママがにっこりとワタルへ微笑みかけた。ワタルも恥じらいの笑みを返した。

 花は 花は 花は咲く――

 大津波から1年――2度目の3・11を間近にした日、ワタルが下校して光法寺へ戻ると、和室に来客があった。

「ワタル、元気だったべ」

 声をかけられたワタルは縁側に立ち尽くした。来客は、叔父の千葉剛だった。法蓮は、二人だけで話し合いをさせようと座をはずした。

「ワタル、けえってこ。広田も復興が始まっただ。カキ養殖も再開しただ。おめぇは、広田の千葉一族の長男の家系だがらな。なんぼしても広田へけえって、カキ養殖の家業を継いでもらわなにゃなんねえだ。わかってけろ、ええが、ワタル」

 剛叔父は懸命にワタルの説得にかかった。ワタルは唇を噛み締めるばかり。

「根岬ば、今年の秋、梯子虎舞を復活させるでがんす」

 結局、この言葉が決め手になった。

「はい――」と、ワタルは答えるのが精いっぱいだった。

「おお、えがんべが――」

 剛叔父はうなずき、安堵して深い息を吐いた。

「ほだども――」と、ワタルは剛叔父を見つめた。

「お願げえがあるだ。6月1日までは千葉におらせてござりゃんえ」

「6月?――そんでもえがんべ。そんだらば、6月になったらばすぐに迎えにえぐべ」

 剛叔父はそう言って立ち上がった。境内へ降りると、法蓮と立ち話をし、深々とお辞儀をしてから光法寺を出ていった。


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