第10話 大津波の夜の満天の星空

 朝、物置部屋でワタルは目覚めると、いつものように境内の掃除、本堂廊下の雑巾がけをやり、朝ご飯を和尚夫妻といただいて、それから早苗さんに見送られて登校した。が、玄関に立つ前に、もう一つ必ず行う習慣が加わっていた。和尚に気づかれないようにそっと和室に入り、仏壇の妙見童子像に向かって手を合わせる。そのとき、「ケンちゃん」と心の中で拝み、願掛けする。

 今日は、いじめられないように――これが、ワタルの願いだった。

 登校する道すがら、ワタルは思った。

 ショーマは本当に寺子屋に来るだろうか。

 ワタルには気がかりだった。吾妻小学校へ行ったら、そのことをショーマに確かめてみたいと思っていた。

昨日、寺子屋で、ショーマは次から自分も仲間に入りたいというような態度だった。それが本気なのかどうか。もし、本気なら、寺子屋で自分はどのようにショーマに接すればいいのか、心の準備をしなければならない。

 ワタルは、ショーマに確かめようか、どうしようか、迷った。

 学校では、ワタルは、ハルカとなでしこ組の他にはだれとも話せない状態が続いていた。

「ズーズー弁がうつる」「バイキン」などと言われて、みんなから遠ざけられ、シカトされていた。

「やい、チビチュー、おれたちと話したけりゃ、ズーズー弁を直してからにしろ」と、男子からははやしたてられ、ツバを吐きかけられた。そのイジメっ子の中心がショーマだった。ショーマに声をかけようものなら、反撃のイジメに襲われる。だから、ワタルの方からはショーマには話しかけられない。

 教室の一番前の席で、ワタルは黙って黒板だけを見つめていた。ショーマは後ろから二番目の席だから、彼の様子はワタルにはわからない。逆に、ショーマからはワタルの後ろ姿が丸見えだ。

 自分は、ショーマに見つめられ、監視されている。

 そう思うと、ワタルは教室では、緊張感に縛られ、コチコチに固まり、洞窟の中にいるような、そんな苦痛に耐えるしかなかった。

 この日も一日、学校は洞窟の中で終わり、ワタルはほっと解放されて下校した。やっぱり、ショーマには本心を確かめられなかった。ショーマもワタルには知らん顔だった。


 翌朝、ワタルは竹箒を手に境内を掃いていた。すると、犬が吠えた。前の家の柴犬のピースだった。鳴き声がけたたましい。いつものピースとは違う声だ。

 ワタルは竹箒を持ったまま外へ出てみた。門を開けて、くぐろうとしたそのとき、あっとワタルは立ち止まった。門の外に、ショーマが立っていた。ランドセルを背負って。

「ショーマ、こげな朝早よう、もう学校さ行くんだべ」

 ワタルが言った。こんな言葉をショーマにかけるのはワタルにも初めてだった。でも、自然に素直に出た言葉だった。

「ううん、違うんだ。学校の前に光法寺へ行こうと思ったから、いつもより早く家を出てきたんだ」

 ショーマも素直に言葉をワタルへ返した。

「そんだらば、中へ入りなせえ」

 ワタルが本堂の方へ足を向けた。二歩、三歩と向かって、立ち止まり、振り返った。ショーマは門の下に立ったまま、一歩も中に入っていない。境内の右、左へ目を配り、あ然と眺めるばかり。

「なじょした、ショーマ」

「ワタル、おまえ、こんな朝早くから、掃除をしているのか」

「そんでがんす」

「ふーん」

 ショーマが眺める境内の地面には箒の目がきれいに円を描いていた。

「あの廊下も?」

 視線を本堂へ向けた。廊下が朝の光を浴びて光っている。

「庭を掃いた後は雑巾がけだべ」

「ふーん」

 ショーマは、ワタルを見つめた。

「ワタル、掃除を続けなよ」

「ショーマ、何か話すこと、あったんだや」

「ちょっとだけな。ワタル、今、ここで話すよ」

 ショーマは「ワタル」と呼んだ。「チビチュー」ではない。

ワタルは、自分がショーマからちゃんと「ワタル」という名前で初めて呼ばれたことに気づき、胸を突かれた。

「立ち話で済むべ、ショーマ」

「うん」

 門の下のショーマへワタルのほうから歩み寄った。

「ワタル、おまえが転校して来たばっかりのとき、おまえの話をちゃんと聞いてやれなくて、ごめんよ。もう一回、話してくれないか。今度はみんなもちゃんと聞くから」

「なんだ、そげなごど」

「ワタル、もうおまえ、大丈夫だよ。みんなと同じ言葉でちゃんと発表できるから」

 ショーマはそれだけ言うと、「じゃあな、ワタル」と手を振って小走りに駆けていった。

 その日、教室では学級会が開かれた。

「まもなく夏休みですよね。みなさん、夏休みの宿題の自由研究をがんばってくださいね。テーマを考えていますか。優秀な研究作品は秋の文化祭で発表しますから、まじめに取り組んでくださいね」

 中村裕子先生が教壇から生徒たちに呼びかけた。

あっ、そうか――とショーマは思った。今朝、ワタルに「もう一回、話してくれないか」と言ったことは、夏休みの自由研究でやればいいんだ。


 その翌日の朝も、光法寺にショーマはやって来た。しかも、またワタルが境内を掃いている時間に。

「おはよう、ワタル」

「あっ、ショーマ、おはよう」

「ワタル、おれも手伝うよ」

 ショーマはランドセルを肩から下ろして鐘楼へ放ると、竹箒を取った。

「箒は一本しかねえだ、ショーマ」

「じゃあ、庭はおれがやるから、ワタルは廊下をやれよ」

「そうか、任せてもええだか、ショーマ」

「いいとも――だよ、ワタル」

 ショーマはにやりと笑みをワタルへ向けた。ワタルも笑みをショーマへ返した。お互い、それぞれの笑顔を見るのは初めてだった。

 二人とも黙々と役割分担に集中し、あっという間に掃除は終わった。

「ショーマ、いいものを見せてあげるだべ」

 ワタルはショーマを和室へ上げた。

「ここに座りな」

 ワタルは仏壇の下に座布団を敷き、ショーマを座らせた。自分もショーマの右に座った。

「ほら、これが、妙見童子だ」

 小さな黒い木彫りの仏像――。ワタルは見上げると、手を合わせ、目をつぶった。ショーマもワタルを見て、同じように手を合わせた。ワタルが目を開けると、ショーマはじっと目をこらして妙見童子像に見入っていた。

「妙見童子――って、何の神様だったけな」

 ショーマは小声でワタルに訊いた。

「神様?――うーんと、光法寺はお寺だから、仏様だべ、きっと」

 ワタルも小さな声でショーマの耳元にささやいた。

「あっ、そうか、仏様か」

「童子っていうから、子供の仏様だべ」

「子供の?――子供でも、仏様になれるのか」

「んだ。なれると思うだ」

「へえ――」

「だって、ケンちゃん、妙見になったんだ」

「ケンちゃん?――ケンちゃんって、だれだよ」

「広田で仲良しだったケンジ兄ちゃんだべ。一個年上だども」

「そのケンちゃんがどうして妙見になったんだい」

「大津波で天国へ飛んで行っただ」

「飛んで行った?――天国へ」

「そんだ。天馬に乗って、飛んで行っただ」

「天馬に?――」 

「そうだちゃ。翼のある白い馬だ。宇宙の銀河を駆けめぐる妙見が乗っている馬だど」

「へえ、妙見は白馬に乗って宇宙を飛ぶ仏様なのか。カッコいい仏様なんだなあ」

「んだ、カッコいいだ。時々、日本にもやってくるんだ」

「えっ、いつ?」

「いつかはわからんが、何か空に異変が起きた時、稲妻が光って、空が割れた時とかに、妙見は現れるんだ」

「嵐で雷様が落っこちた時とか?」

「そうだちゃ。大津波の夜も――」

 ワタルは、真顔になってこっくりとうなずくと、ショーマに向かって、大津波で体験した事を打ち明けた。


おらは山へ逃げたから助かった――とワタルは、大津波で難を逃れた理由をハルカに語っていたが、その山とは、寺子屋の天明寺のことだった。

「津波が来たらてんでんこ」

これは、ワタルは祖父の源太郎が言っていた言葉だった。津波のときはてんでんばらばらになって逃げるんだーーと、源太郎じいちゃんは言っていた。

「てんでんこだァ」と、ワタルは叫んで避難の列から抜け、校庭の裏山へ向かって駆けた。必死になって逃げた。山の斜面を駆け上り、灌木の繁みをつかみ、木の根っこを踏んづけ、両方の手足を機械のように動かして這いつくばい、歯を食いしばり登っていった。山の上の天明寺を目指してまっしぐらに。

 崖を這い上がり、ほうほうの体で天明寺の境内へにどり着いたら、ばったりと倒れた。地面に大の字になって伸びた。

 目を開けると、境内に寝転がっていたのはワタルだけではなかった。子供も大人も、年寄りも、何人もいた。泣く声が聞こえた。子供の声ではない。大人の声だった。大人たちが泣いていた。声も出なく、涙を流し、しゃくりあげるお年寄りもいた。

 ワタル自身も、自分の頬を濡らしている涙に気づいた。その冷たさに、震えた。

おらは、助かったんだーー。

 そう思ったら、涙があふれ出て、声を詰まらせ、しゃくりあげた。

ワタルは大声で叫びたかった。立ち上がると、這い上がってきた崖へもう一度向かっていった。恐る恐る目を崖の下へ向けた。木々の間から、小学校が、広田の町が見えるはずだった。右へ、左へと視線を振った。だが、木々の間に形あるものは何も見つけられなかった。見えるはずの町の全体が真っ黒に塗りつぶされていた。

 眼下は、真っ黒な海だった。逆巻く海鳴りが暗黒の海から沸き起こっていた。

 信じられない凄い出来事が起きたのだと、ワタルは改めて知った。

 町全体が黒い海に飲み込まれてしまった――。

 この黒い光景に目が奪われるとともに、ワタルは否定しようのない現実を突きつけられ、胸をえぐられるような恐怖に襲われた。

 おらは助かった。ほだが、おらは、ひとりぼっちになっちまっただーー。

 カキ養殖の漁師だった父、千葉洋は広田町の消防団の青年分団長を務めていた。たぶん、津波が押し寄せるなか、避難する人たちの救助で懸命だったにちがいない。母の美知子は広田カキ養殖組合のカキ出荷センターで働いていたが、その組合の保育園に妹のさくらが通っていた。たぶん、さくらを迎えに行って・・・

 お母あ、お父う、さくらーー。

 ワタルは心の中で叫びを破裂させた。涙が噴き出た。泣くまいと、懸命に歯を食いしばった。しかし、両方の手で拭っても拭っても、涙は止まらなかった。

 お母あ、お父う、さくらーー。

涙で何も見えなくなった。足の感覚がなくなり、尻から体が崩れ落ちた。時の刻みも忘れてしまった。

 ようやく涙が枯れ、目を開いて、気がついた。見上げると、太い木の枝が頭上に横たわっていた。ワタルは、樫の木の根っこにうずくまっていた。ミョーケンごっこで遊んで、ケンジと木登りを競った樫の木だ。

 この枝の上で、ケンちゃんは踏ん張り、天へ向かって叫んだ。

「ミョーケーーン」

 そのケンジの叫び声がワタルの耳の中ではじけた。ワタルは立ち上がり、樫の木を見上げて、「ケンちゃーん」と、叫び返した。

だが、樫の木からは何の気配も返ってこなかった。

 ケンちゃんも「てんでんこ」で津波から逃げたにちがいない。あのケンちゃんが津波に飲まれてしまうはずがない。天明寺へ登っていったら津波から逃げられると、ケンちゃんも分かっていたはずだ。

 ワタルは信じていた。樫の木の下で待っていれば、きっとケンジは現れる。ワタルは根っこにうずくまり、じっと待った。

海鳴りが止んだ。天明寺の森が暗くなった。けれど、ケンジは現れなかった。

 

 大津波に遭遇した記憶を思い起こしていったワタルは、ここまで語ったところで一息ついた。ショーマにどこまで詳しく話したらいいのか、ふと迷いが浮かんだ。自分が大津波で体験した出来事を、ショーマは本当に理解してくれるだろうか。それに、これから登校しなければならないという時間のことも気になった。

 だが、ワタルはショーマの表情を見て、話を続けようと思った。黙って耳を傾けるショーマの顔は真剣だった。これまで学校ではワタルが見たことがない真面目な少年の顔だった。

 しばしの沈黙の後、ワタルはいきなりショーマに問いかけた。

「ショーマ。地面に寝そべって、星空を見上げたこと、あるべ?」

「ないよ。この千葉の街中には、そんな寝転べるような場所、どこにもないしな」

 ショーマは答えた。

「星空は、すごい美しい世界なんだべ。おらは、これまで生きてきた中で一番美しい星空を、あの夜、見ただ」

「へえ、あの大津波の夜に?、――本当か、ワタル、その話」

 ショーマはワタルの顔を覗き込み、確かめた。

「本当だ」と、ワタルは真顔でうなずき、繰り返した。「それはそれは美しい満天の星空だったべ」

「ワタル、そのすげえ満天の星空というの、おれにもっと話してくれよ」

 ショーマは興味をそそられた。

「うんだべ」

 ワタルは応じた。そのとき、「ワタルくーん」と、早苗さんの呼ぶ声が廊下に響いた。

「どこにいるの、ワタルくん。朝ごはんですよ。早く食べなきゃ、学校に遅刻しますよ」

 早苗さんの足音で廊下が揺れた。

「あっ、ヤバイ、見つかっちゃうぞ、ワタル」

 ショーマはあわてて立ち上がり、身を隠そうとしたが、どこにも隠れるところがない。やむなく、座布団を抱えて、顔を隠した。障子が半分開いた。早苗さんの顔だけが和室に入ってきた。

「あら、ここにいたの、ワタルくん」

 早苗さんの眼前に立ちはだかり、苦笑いを浮かべるワタル。その背後で座布団を頭にうずくまるショーマ。

「あら、お友達が来てたの?」

「んだ。葛西翔馬くんだ」

 ワタルの背後から、ショーマがしょんぼりと出てきて、「葛西です」と、早苗さんへ向かってペコリ、お辞儀をした。

「ああ、ショーマくんなのね。じゃ、ショーマくんも一緒に朝ごはん、食べましょ」

 早苗さんがショーマに向けて微笑みを投げかけた。

「おれは、いいです」

 ショーマは無愛想に拒み、早苗さんと障子の隙間に身を滑らせるようにして廊下へ出たと思ったら、一目散に駆け去った。

「先に行くからよ、ワタル。続きは学校で、な」

 と、叫びながら。

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