第4話 北極北斗の星の神
ドドドドン・ドドン・ドドン・ドドン・ドコドコドンドンドン・・・
日曜日の昼下がりーー、光法寺の境内から和太鼓が響きわたった。華太鼓の妹チーム「なでしこ組」こと略して「なでしこ太鼓」の子供たちだ。ハルカがワタルを励ましてあげようと、真優、陽奈、千尋、沙織の四人の仲間を連れてきたのだ。
「お見事、お見事」
縁側で、早苗さんが拍手した。
「カッコいいぞ、みんな。いい調子だ」
法蓮和尚も笑顔で拍手を送った。
「元気のいい太鼓ですこと。ねえ、ワタルくん」
早苗さんの隣でワタルが「はい」と小さくうなずいた。
「ヤアーーッ」と、ハルカが握る撥を空に向かって突き立て、それが合図で演奏がドドンと終わった。
「ありがとうございました」
なでしこ太鼓の一同、縁側へ向き直り、一礼。
「いやあ、すばらしい、すばらしい」
法蓮とともに早苗さん、ワタルが立ち上がり、なでしこ太鼓に拍手を返した。
「ワタル、いいお友達ができたじゃないか」
法蓮和尚がポンとワタルの肩を叩いた。
「はい」とワタルはまた小さくうなずいた。
「なでしこの皆さん、和太鼓の演奏をありがとう。お礼にいいものを見せてあげますから、お上がりなさい」
法蓮和尚に促されて、なでしこたちは縁側から本堂へ上がった。お堂の中は金ぴかだった。みんな、お寺のお堂の中へ上がるのは初めてで、金ぴかの神々しい立像の仏様を驚きの目で見上げた。思わず、一斉にひざまずき、手を合わせて、ひれ伏すように拝んだ。
「そんなにかしこまらなくてもいいんだよ。仏様もなでしこさんの太鼓を楽しまれて、ご機嫌でいらっしゃるからね」
法蓮和尚が笑顔で言って、なでしこたちの心を和ませた。
「ほら、仏様のお顔をよくごらんなさい。やさしくほほ笑んでいらっしゃるでしょ」
ほんとだ――と、なでしこたちは思った。ワタルも、ほんとだと思った。なんと、やさしいほほ笑みなんだろう。実は、ワタルにとっても、光法寺の仏様に改まって向き合うのは今日が初めてだった。
「この仏様はね、女性なんですよ」
やっぱり――と、みんなは異口同音に思った。
「観音様です。お名前が瑠璃観音菩薩とおっしゃいます」
ルリ・カンノン・ボサツ?――。ルリーー不思議な響きの素敵なお名前。
「瑠璃とは、いろいろな色が交じり合う光のこと。ほら、瑠璃色というでしょ。その瑠璃のいろいろな光が見える眼を持つ女性の仏様です。瑠璃観音とはまた薬師如来、つまりはお医者さんの仏様でもある。だから、眼医者の仏様なんだね」
え――、眼のお医者様。仏様にもお医者さんがいたのか。
じゃあ、眼が悪くなったら、瑠璃観音様を拝めば治してくれるんだ。
「悪い眼を治すというよりも、この宇宙の森羅万象の摂理というか、内観と言ってね、悟り、つまり、心がだね、世の中のいろいろな事が正しく見えるようになる――というふうに考えるほうがいいだろうね」
ふーん、なんだか難しいのね、仏様って。
「そうだな。まあ、仏様にもいろいろな役割があるということだな。こちらには、心のお医者様もいらっしゃる」
法蓮和尚は、隣室への襖をスーッと開けた。板張りの本堂と違って、隣室は畳だった。ワタルもこの部屋に入るのは初めてだった。畳は六枚。本堂に比べると小さな部屋だった。壁に、古い民家にあるような仏壇がはめ込まれていた。その奥にも、小さい仏像が立っていた。瑠璃観音菩薩とは違って、ギョロリと両目をむき出し、怖い怒りの形相でにらみつけている。
「これは不動明王です。仏教では根本をなす仏は大日如来様だが、その化身、すなわち、この世に大日如来の使者として現れた仏様が不動明王で、人間の煩悩と言ってね、うーん、ちょっとみなさんには難しいかな、要するに、人間の欲望とかを断ち切り、悪い人を懲らしめて、魔を追い払うというような力があるとされている」
法蓮和尚はやさしくかみ砕いて説明したつもりだが、それでも彼女たちには難解だった。
「恐い仏様なのね」
ハルカが率直に印象を言った。
「そうだねえ、恐い仏様かもしれないけれど、しかし、いい仏様でもあるんだよ」
法蓮和尚も、小学生を相手の仏教解説にやや苦戦。
「もう一個、もっと小さな仏様が隣にいるわね」
ハルカが不動明王の隣に置かれた仏像を指さした。それは、子供の手でも掴めそうなぐらい小さな仏像だった。
「あら、かわいい仏様ね」
「これは怒ってないわね」
「この仏様、子供じゃないの」
なでしこたちは、こちらの小さな仏像のほうに興味がひかれたようだ。ワタルもまた先程からこの小さい子供の仏像に目が移り、じっと見つめていた。黒光りの立像で、よくよく見ると、ノミで削った跡が荒々しく残る木彫りの仏様だった。
「そういえば、この子供の仏様の顔、ワタルくんに似ていない?」
マユが言った。
「ほんとだァ。ワタルくんにそっくりだァ」
ハルカも気づいた。
「ほんとだ、ワタルくんが仏様になったみたい」
なでしこたちはワタルを見て、はやしたてた。
「ち、違うだ。おらは、そんな、仏様なんかでねえだが」
ワタルは真顔になって否定した。そして、仏像に向かって手を合わせると、声も高らかに唱えた。
「ミョーケンサマ――」
その呪文のような声に、法蓮和尚がピクリと太い眉を動かし、反応した。
「ワタル、いま、何と言った。確かに、妙見様と言ったよな」
「そんでがんす」
「なに、ワタル、きみは、知っているのか、妙見様を」
「んだべ」
「なぜ、知っているのかね、妙見様を、きみが」
法蓮和尚は太い眉を寄せてワタルの瞳を覗き込んだ。ワタルには和尚が怖い顔に映った。だが、臆せずに彼は正直に答えた。
「広田の天明寺にも、この仏様と同じような顔で、剣と珠を持つ妙見童子が、妙見堂の仏壇の中に立っていただ。その仏像も同じ黒い木彫りだったべ」
「そうか。知っていたのか、妙見を、ワタルはーー」
法蓮和尚は今度は眉を開き、やさしい笑顔をワタルへ向けた。
「いい子だ、いい子だ」
そう言いながら、ワタルの頭を撫でた。
ワタルは首をすくめ、恥じらいの笑みを浮かべた。
「いい子だ、いい子だ」
法蓮和尚はなおも繰り返しワタルの頭を撫でた。その手のぬくもりがワタルには気持ち良く感じられた。そのとき、自分の心の中に、一人の少年が映し出されたのを、ワタルは見逃さなかった。
にっこり微笑む少年――。その顔こそが妙見童子に生き写しのようにそっくりだった。
「ケンちゃん」と、ワタルは心の中でつぶやいていた。
その少年の名前は金崎賢治といった。ワタルは広田町にいたとき、学童保育で天明寺の寺子屋へ通っていたが、そこで一番の仲良しの友が賢治だった。
天明寺は、広田半島の山の上にあって、平安時代に創建されたという古刹だが、住職が不在のいわゆる破れ寺で、日曜日だけ、陸前高田の宗徳寺の和尚がやってきて、学童保育の寺子屋が開かれていた。
ワタルは三年生から天明寺寺子屋へ通うようになり、すぐに仲良しになったのがケンジだった。彼はワタルより一学年上だったが、リーダーシップのある面倒見のいい兄貴分、そして物知り博士で、いろいろな事をワタルに教えてくれた。妙見童子のことも、ワタルはケンジから教わったのだった。
寺子屋では、「ミョーケンごっこ」という遊びが始業前のルーティーンになっていた。これをみんなに広めたのが、ケンジだ。ワタルも初めて寺子屋に行ったとき、ケンジからミョーケンごっこに誘われて、この遊びの虜になった。
天明寺には妙見堂の脇に樹齢何百年という樫の巨木がそびえていた。この樫の木をみんなで攀じ登る。一番先に太い枝の先まで登った者が、枝の上に立ち上がり、「ミョーケン」と呪文を唱える。その呪文が合図で、後れた残りの全員が樫から降り、根っこのところに膝まづき、見上げる。ミョーケンになった少年は、睥睨し、枝を揺すり、唱える。下で子供たちも唱和する。
「どっどど どどうど どどうど どどう 青いくるみも吹きとばせ すっぱいかりんも吹きとばせ どっどど どどうど どどうど どどう」
すると、風が騒ぎ、鳥が鳴き、枯葉が舞い、どんぐりが落ちてくる。
「どっどど どどうど どどうど どどう。風の又三郎がやって来たぞお。どっどど どどうど どどうど どどう」
ミョーケンは勢いづき、枝を揺する手にぐいぐい力をこめていく。子供たちはひれ伏す。風はつむじを巻き、鳥は飛び立ち、どんぐりがバラバラと音を立てて子供たちに降りかかった。
「雨ニモマケズ風ニモマケズ雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ丈夫ナカラダヲモチ慾ハナク決シテ怒ラズイツモ静カニ笑ッテイル・・・」
ミョーケンの口上に、ひれ伏す子供たちも唱和する。樫の巨木に光が差し、枝の間から降り注ぐ光を背に受けて、神々しく輝くミョーケン――と、ワタルの目にまばゆく映ったケンジの雄姿が今でも瞼の裏に焼きついている。
「北極北斗の星の神よ、遥かなる旅する我らに照覧あれ」
ミョーケンは空に向かって叫ぶと、悠然と樫から降り、寺子屋のお堂へ闊歩して行く。その後に子供たちが従う。
こうして、「ミョーケンごっこ」で選ばれた者が、その日一日の寺子屋の級長を務める習わしになっていた。その日替わり級長がたいがいケンジだった。
しかしーー、あの大津波の日を最後に、ケンジはもうこの世にいない。ワタルにはそう思うほかなかった。あの大津波でケンジがどうなったのか、今は千葉にいるワタルには何もわからなかった。
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