第3話 組体操ぺしゃんこ事件

 お寺の朝は早い。まだお日様が昇る前、空が白み始めた午前五時、ワタルは寝床から這い出た。お手洗いを済ますと、境内へ降りて、納屋から竹箒を取り出し、庭を掃いた。ゴミなどは目につかない、落葉が数枚、散っているだけだ。それでも庭の全体に箒の掃き目を入れていった。

 次に、廊下の雑巾がけもやった。バケツに井戸水を汲み、雑巾を濡らして絞ったら、春なのに、手が赤く腫れるほどに冷たかった。廊下の板に雑巾を置き、両手でしっかり押さえて、顔を寄せ、猫が背を丸めるみたいな姿勢でダッシュ。タッタッタッとつま先で板を蹴り、全力疾走。お寺の廊下は長い。20メートルはあろうか。突き当ったら、折り返しだ。それを5往復も繰り返したら、息は上がり、体がぽかぽか熱くなった。

「おお、ワタル、おはよう。雑巾がけ、なかなかうまいじゃないか」

 法蓮和尚が朝の経をあげようと本堂へ入ってきた。

「庭も、きれいに波が描かれているじゃないか」

 廊下から境内をながめ、ワタルを誉めた。

「感心だなあ、ワタル。広田でも、こうやって掃除のお手伝いをやっていたのかい」

 法蓮和尚は、自分が言ったわけでもないのに、ワタルが自らすすんで掃除をしたことに心を動かされた。

「はい、和尚さん。おはようごぜえますだ」

 ワタルは明るい声を返した。

「広田で、おら、家の手伝いはせんがっだど。だども、寺子屋の掃除はおらだちでやっていただ」

「寺子屋?――って、お寺のかい」

「はい、山の上さ、天明寺いうお寺があったど、そごで日曜日、寺子屋が開かれて、おらも行ってただ」

「ほう、そうだったのか。いい子だったんだなあ。感心、感心じゃ」

 法蓮和尚はワタルを見つめる目を細めた。そして、心の中でつぶやいた。

「この子は、何かを持っているなーー」

 毎朝、ワタルは掃除を済ませてから、和尚家族といっしょに食卓を囲み、朝御飯をいただいた。家族といっても、一人息子が比叡山で修行中とかで、法蓮和尚は妻の早苗さんと二人暮らしだった。

「行ってらっしゃい。お友達と仲良くするのよ」

 早苗さんはいつも明るく玄関でワタルを送り出してくれた。

 転校してから半月、そろそろワタルも新しい環境に慣れたはずのころ、ワタルの帰りが遅いと、早苗さんは心配になり、門前に出てみた。すると、千葉市科学館『きぼーる』の角を曲がってくるワタルの小さな姿が見えて、早苗さんはほっと胸をなでおろした。

「ワタルくん、お帰りなさい。遅かったのね」

 早苗さんが声をかけた。が、ワタルはうつ向いたままで返事がなかった。

「あれ、どうしたの」と、早苗さんは思うや、ワタルの異変に気づいた。ワタルは、泣いて帰って来たのだ。服も、肩や腕に土が付いて汚れている。

 ワタルは、早苗さんを見上げるや、ワッと涙を吹きこぼした。一目散に境内を駆け、縁側に体をぶつけるように倒れこむと、声を上げて泣いた。

 何があったのか。早苗さんは、ワタルに聞かなくても、事情が推察できた。

 学校でいじめられたにちがいない。


 吾妻小学校の運動会は5月の第3日曜日に行われる。母の日の次の日曜日だ。その日に備える練習がもう始まっていた。運動会の花形種目は五年生と六年生が演じる組体操である。

 千葉市中心街にある吾妻小学校は、居住人口減少のうえ少子化の波に洗われて児童数が年々減り、今では一学年一学級しかない小さな学校になってしまった。だから、組体操も一学年一組で演じる。五年生の全員が一体になり、組体操に取り組むのだ。それだけに、五年生たちは組体操に練習の時から真剣だった。

 組体操のなかでも「人間ピラミッド」といわれている技は、ピラミッドが大きく高いほど迫力が出て、演技がすばらしく見える。3段よりも4段、4段よりも5段。その段の高さは構成人員の数で決まる。4段の場合、下から8人、4人、2人、そして上に1人という構成で15人。5段になると、下から16人、8人、4人、2人、1人で31人構成。

 五年生は男子女子合わせて36人いる。5人が掛け声の応援に回るとして、5段に挑戦できる。

 問題は、一番上の一人、「てっぺん」にだれが立つか。そこに、五年生たちの関心が向けられていた。てっぺんが組体操「人間ピラミッド」の花形である。

 中村先生は、クラスの話し合いで決めるという方法を取った。その結果、てっぺんには体格の大きい生徒は下段にかかる負荷が大きいので無理、一番小柄な生徒がいいということになった。そこで、改めてクラス全員の身長を比べることになり、みんなで教室をぐるりと囲むようにして身長順に並んだ。

「なに、一番チビは、ツバチューかよ。チェッ」

 一番後ろのリョースケが小さい順の先頭を見て不満気に舌打ちした。

 教壇の横から小さい順に並んだ先頭は確かにワタルだった。その隣の二番目はショーマだった。

「チェ、このチビが転校して来なかったら、おれがてっぺんだったのによ」

 ショーマがあからさまにワタルへ向かって不満を吐いた。

「はい、みなさん、一番上に立つのはワタルくんに決定しました」

 中村先生が宣言した。パチパチと拍手がまばらだが起きた。一方、ブーブーとブーイングも起きた。

 ワタルは、複雑な思いでうなだれた。

 午後からさっそく組体操の練習をすることになった。段の構成で、だれがどのポジションにつくか、適材適所を検討しなければならない。

 試しに、ともかくピラミッドを作ってみよう。中村先生の笛で、体格のいい順に下段の16人が並んで、地面に四つん這いになった。その上に8人が乗り、下の2人の肩に手を当て、四つん這いになった。2段目ができた。そのさらに上、3段目に4人が上がり、四つん這いになろうとしたとき、グラグラッと2段目が揺れた。

「おおいっ、あぶねえな。つぶれるぜ」

 最下段の真ん中で両手を地面に突っ張るリョースケが叫んだ。

「だって、上のやつがぼくの背中に手をギュッと押し付けるんだ。背骨が折れちゃうよ」

 リョースケの上、2段目の椎名寛希から悲痛な声が漏れた。

「そんなことはいいから、次のやつ、早く上がれよ」

 リョースケに促されて、4段目の二人が上がった。そのうちの一人はショーマだった。ショーマは1段、2段、3段と腰骨を踏んづける勢いで上がっていった。ところが、相棒となる隣がなかなか上がってこない。女子で一番小柄の相原真優だ。

「マユ、なにもたついてんだよ」

 すでに四つん這いになったショーマがどなった。

「だって、怖いんだもん。わたし、高所恐怖症なのよ」

 右足を上げてはグラッ、左足を上げてはグラッ、おっかなびっくり、真優が上がってきた。その足がブルブルと痙攣しているのがショーマにも伝わった。

「おい、おい、マユ、おれまで震わせるなよ」

 ショーマもブルってきた。

「おーい、そんなところでいちゃつくんじゃねえよ。早く、てっぺんを作れ」

 リョースケは、自分がピラミッドの大黒柱だという覚悟で、両手両膝を地面に突っ張り、歯を食いしばって30人分の負荷に耐えていた。だが、もう限界のギリギリだった。

「おーい、てっぺんはまだか、急いで登れ。おれ、もうつぶれちゃうぜ」

 リョースケの叫びに、1段目から2段目へ足をかけようとしていたワタルは、グラグラッと自分の体が揺れるのを覚えた。それはワタルだけではなかった。

「おれも限界だァ」と、ピラミッドのあちこちから叫びが上がった。それに呼応するかのように、ピラミッドがユラユラ揺れた。

「わわッ、地震だァ」「大地震だァ」「震度6強だァ」「マグニチュード8・2だァ」

 叫び声が、ワタルの耳の中ではじけた。ワタルは恐怖心に襲われた。足がすくみ、額から、首から、冷や汗が噴き出た。全身が震えた。目の前が何も見えない。それでも、暗闇の中を手探りするように人間ピラミッドを攀じ登った。勇気を振り絞り、目を見開くと、目の前に、柴犬みたいに口を開けて震えているショーマがいた。「てっぺんだ」と、ワタルは思った。右手を伸ばして、ショーマの背中を掴んだ。どういうハズミだったのか、その手が滑り、空を切った。と同時に足も滑った。アッ、落ちる。滑った右手が何かに引っかかった。それはショーマの腰のベルトだった。

「何するんだよ、こいつ」

 ショーマが腰を振った。ワタルの体が裏返り、ショーマのベルトを掴む右手一本でピラミッドの壁にぶら下がった。ショーマのズボンがズルッと脱げて尻が丸出しになった。

「バッカヤローッ」

 ショーマの怒声もろとも人間ピラミッドが崩れ、ペシャンコに潰れてしまった。

「あっ、危ない!ヒャーッ、壊れちゃう」

 中村先生が悲鳴を上げ、潰れた人間ピラミッドに駆け寄った。下敷きになり、地面の土を食って這い出る男子たち。声を上げて泣く女子たち。彼らの上で、てっぺんから滑り落ちたワタルとショーマが一体になり、折り重なっていた。さいわい、ケガはなかった。が、ショーマはズボンが脱げて、さながらカエルみたいに仰向けにひっくり返っていた。

「アッハハ、ショーマがひっくりカエルになっちゃった」

「ショーマのおチンチン、丸見えだァ」

「らっきょうみたいにちっこいチンチンだあ、ハッハハハ」

 ショーマの無様な恰好に、生徒たちがお腹を抱えて笑った。

「みんな、大丈夫だった? ああ、よかった、よかったわ。心配したわよ」

 中村先生が胸をなでおろし、そして言った。

「やっぱり、ワタルくんのてっぺんは無理だったわね」

 午後の授業はこれで終わった。下校する生徒たちは、教室を出ようとして、教壇下の席へ向かって剣のある視線を投げかけた。

「組体操がぺしゃんこになったのは、おまえのせいだ」

 唇を噛みしめ、しょげかえるばかりのワタル。教室にだれもいなくなってから、やっとワタルは席を立ち、出た。

「おい、チビのツバチュー」

「今日からおまえはチビチューだ」

 ワタルが校門を出たとき、呼び止められた。リョースケとショーマだ。

「ちょっと来い」

 言われるままに、ワタルは二人について行った。

通町公園の御影石モニュメント。ここにワタルは引っ張り込まれて、突き飛ばされた。

「ショーマ、仕返しだ、やっちまえ」

 転んだワタルの上にリョースケがまたがり、のしかかった。

「よくぞおまえ、おれに恥をかかせやがったな。おまえもひっくりカエルにしてやらあ」

 ショーマがワタルのズボンを引きはがした。そのズボンを丸めてモニュメントのてっぺん目がけ、投げ上げた。

「口惜しかったら、あのズボンを取ってみろ」

 ショーマとリョースケは仰向けに伸びたワタルの顔にツバを吐きかけ、去っていった。


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