第2話 千葉一族の被災地脱出行

 ドドン・ドドン・ドドン・テレツクテンテン・テレツクテンテン・ドドン・ドドン・ドンドコドンドン・ドドンドンドン・・・

 和太鼓がハミングロード商店街の夕焼け空に響きわたった。この商店街は戦後の高度成長期には千葉市の目抜き通りと言われるほどに栄えていた。だが、昭和50年代以降からは寂れて、今ではシャッターロードとすら呼ばれている。商店の大半は閉まってシャッターが並び、裏通りは立ち退いた跡地が地上げされて駐車場砂漠になってしまった。

 その駐車場の一つの隅で、女の子たちが撥を振り、和太鼓を叩いている。ハルカが撥を握る手を振りかざし、女の子たちをリードする。華太鼓「なでしこ組」の少女たちだ。ひとりだけ端っこに男子がまじり、ハルカを見様見真似に撥を振るっている。ワタルだった。

 ハルカがワタルを慰めようと思って、なでしこ太鼓の仲間を呼び集め、和太鼓の稽古にワタルも参加させたのだ。

「さあ、みなさん、おなかが空いたでしょ。ここらでひと休みしましょ」

「わーい、たこ焼きだ」

「アケミおばちゃん、いつもありがとう」

 子供たちは太鼓の手を止めてテーブルの席に着いた。駐車場の表は『ちばたこ』という名前のたこ焼き屋だった。店の前にテーブルが置かれ、歩道に沿ってテラス席になっていた。

たこ焼きをテーブルに運んできた「アケミおばちゃん」とは、ハルカのママの明美のこと。ハミングロードの入口角にある『ちばたこ』は、ハルカのママが営む店だった。おいしいという評判で、この界隈ではただ一軒、行列のできる店である。

店員は若いお姉さんばかり。しかも、みんな、和太鼓を叩く集団。千葉市のお祭りやイベントに花形で出演して活躍する「ちば華太鼓」のお姉さんたちである。

この「ちば華太鼓」を率いているのも「アケミおばちゃん」だ。紅白の豆絞りをきりりと頭に巻いて撥をさばく姿が粋ならば、店ではたこ焼きの団子を竹串で転がす一心不乱な姿が甲斐甲斐しく、お酒の帰りに立ち寄るおじさんたちのファンも多い。「行列のできる店」という評判の理由もこの男心をくすぐる女性の魅力も手伝ってのことだろう。

ワタルも男の子だった。テラス席でたこ焼きを頬張りながら、目は店の中を覗き込み、ハルカのママをじっと見つめていた。

ハルカは、そのワタルの瞳が潤んでいることに気づいた。

「ワタルくん、たこ焼き、好きじゃないの?」と聞いた。

「ううん。うめえだべが」

「じゃ、なんで、食べるのがそんなにゆっくりなの。たこ焼きはね、あつあつをフーフーしながら口に入れて頬張るのがおいしいのに」

 ワタルは返事をするより先にポロッと大粒の涙をこぼした。

「どうしたの、ワタルったら」

「たご焼き作るハルカの母さん見でだら、おらのお母あ・・・」

「えっ、お母さんを思い出しちゃったの?」

「んだ・・・。おらのお母あも、ああして働いでだど」

 ワタルの母・美知子は、広田養殖漁業組合のカキ出荷センターで働いていたが、仕事はカキ剥きだった。広田では、カキの身を殻から取り出すのに機械は使わず、手作業で行っていた。広田のカキはぷっくりと膨らんだ大粒で、普通の倍も大きい。その特色がブランド価値になっていたから、一個一個の身を人の手で傷つけないよう丁寧に取り出さなければならない。この仕事は女性の役割だった。男性がカキ筏に乗って育て、収穫したカキを、女性がヘラを使って殻を二つに割り、カキの背中を削ぐようにして身をはがし、ケースに落とす。それを一日千個。それが一人当たりのノルマ。ヘラを上手に操り、手早くやらないと、千個は無理。熟練の技と根気。この二つが備わったベテランでないと一人前ではない。ワタルの母・美知子は「カキむき達人」と同僚からも誉められるほどのベテランだった。

 ワタルは、お父さんと海に出てカキ筏に乗るのはまだ自信がなかったが、出荷センターで母がポイポイ捨てるカキ殻を拾い集めて、掃除のお手伝いをするのが遊びの一つになっていた。だから、ヘラを操る母の手をよく見ていた。

その母の手が、竹串でたこ焼きを転がすハルカのママの手に重なり合って見えた。

「ワタルくん。今日からね、ハルカのママのこと、ワタルくんのお母さんだと思ってもいいよ。今晩、ワタルくんのこと、ママに話しておくから」

 ハルカにそう言われて、ワタルはなんと答えたらいいのか、とまどい、黙ってしまった。ハルカは、ワタルの返事が無いとわかり、話題を変えた。

「ハルカも、広田のカキを食べてみたかったなあ」

「千葉にも広田のカキ、食べられる店、あったんだど」

ワタルが今度はすぐに答えた。

「ええっ、ホントに?」

 それは、ハルカには意外な返答だった。

「ほだがら、千葉にも、おらのお父うが育でで、お母あが剥いだカキ、食べでえた人がえだはずだっべ」

「それはなんていうお店なの?」

「たすか、『花かつ』だっだがぁ。とんかつ屋だげど、カキフライもあったはずだべ」

「そのとんかつ屋さん、今でもカキフライ、やっているの?」

「カキフライはやってるはずだべ。だども、広田のカキでねえ。もう広田のカキは津波に流されですまっだがら」

「そうか・・・、残念だわねえ」

 ハルカは手にしていたたこ焼きの串を皿にもどし、視線を伏せた。

「すかだねえだ」

ワタルも串を皿に置いて、空を見た。そして、「・・・だども」と、ふと何かを思い出したようにつぶやいた。

「その広田のカギフライ、食べさせでくれるとんかつ屋が千葉にあっだがら、おら、千葉に来で、そいで、今、光法寺にいるごどになったんだべ」

「へえ。どういうことなの、そのお話」

 ハルカはワタルへ向き直ると、耳をピクンと立てて、ワタルに続きを催促した。ワタルはどうして千葉へ来たのか。ハルカには驚くばかりのいきさつが、ワタルの口から語られていった。


『花かつ』とは、とんかつに限らず、また千葉市に限らず、いろいろな業態の料理店を千葉県内に手広くチェーン展開している花野商事の経営である。積極的な拡大戦略を目指す社長の花野誠司は、食材を探し求めて全国各地を歩いてきた。自分の五感を信じて埋もれた逸品を掘り出すことに情熱を注ぎ、そして目をつけた食材の一つが、ぷっくり大粒の「広田のカキ」だった。

『花かつ』の店では、「ぷっくり大粒」の素材をさらに「ふっくら」に揚げる工夫をしたカキフライを目玉メニューにしていた。それだけでなく、そのカキの産地である広田湾を紹介する手作りのリリーフをお客さんに配り、宣伝するほどの力の入れようだった。

 花野社長は、「ぷっくりふっくら」のカキフライを切らさずに提供できるようにするために、市場で仕入れるのではなく、広田養殖漁業組合と直接取引で買い付けていた。たびたび陸前高田へ行っては組合を訪れ、カキ筏に乗り、出荷センターにも入り、現場視察を楽しんでいた。そして、組合長とは肝胆相照らす仲になり、カキ漁師とも親しく会話を弾ませる間柄になった。

この信頼関係が緊密になった一つの鍵が「千葉さん」という名前にあった。組合長も、そしてまたカキ漁師の多くの名前が「千葉さん」だった。

 大津波の後、千葉組合長は、組合員の家族の安否を確認して回った。そして、避難先を探した。しかし、生存者全員を収容できるほどの施設は、壊滅状態の町内には一か所もなかった。命からがら助かった者も、家族はばらばら、路頭に迷うありさまで、寝る所すらなかった。千葉組合長自身が家族を失った被災者だった。どうしたらこの被災者たちを救えるのか。困り果てた千葉組合長が藁をもすがる思いで頼ることにした人物が、千葉市の『花かつ』経営者の花野社長だった。

 組合関係の生存者たちは千葉組合長のもとに集まった。避難する、その判断のすべてを千葉組合長にゆだねた。

広田町に救援のトラックが入ってきた。「みんな、乗れ」と千葉組合長は号令をかけ、全員を一台のトラックに押し込んだ。組合員とその家族は荷台に重なり合い、すし詰め状態になって、ガタガタと揺られ、運ばれていった。壊滅した町から脱出し、避難したのだ。その一団の中に、ワタルもいた。

 ワタルは、父・洋の従兄弟、つまり、祖父・千葉源太郎の弟の長男の千葉剛に「おめえもついて来るべ」と手を差しのべられ、叔父さん家族の一員になってトラックに乗った。

 足と足が重なり合う隙間に小さい体をネズミみたいに縮めて潜り込み、不安を噛みしめるしかなかったワタルが、頭をねじるようにして足の間から顔を出すと、知っている小父さんや小母さんの顔があった。その人たちの名前はみんな「千葉さん」だった。

いわば、大津波被災者となった広田の千葉一族郎党が集団脱出行を敢行したのだった。

 トラックは一関から花巻へ入り、東北自動車道の花巻ジャンクションに到着。ここまで来ると、東京から駆けつけて来た被災地救援のトラックやバスでパーキングは満車状態だった。千葉組合長は東京へ戻るバスに掛け合い、全員を乗せてもらった。みんな、バスに乗ってやっと落ち着き、疲れきった体をシートに寄りかからせた。バスはちょうど満席。千葉組合長は車内を眺めて、千葉一族郎党の人数が四十五人であることを確認した。

 バスは東北自動車道から関東自動車道へ乗り入れ、成田から千葉へ向かい、千葉北ICを降り、千葉市街へ入っていった。

 JR千葉駅の北側に市民憩いの緑地の千葉公園が広がっている。そこの裏手に千葉競輪場が立地している。その正門の前に立つ紳士がトラックへ向かって大きく手で輪を描いた。その人が、花野社長だった。

 花野社長は、広田町からの避難者たちがとりあえず過ごせる施設を手配してくれていた。競輪場の近くに自転車会館という競輪選手の宿舎が建っている。ここを避難先として、やっと彼らは身を落ち着かせることができたのだった。

 ワタルが自転車会館で過ごしたのは二週間ぐらいのことだった。その間に、千葉組合長がまず引き揚げて、家族ぐるみで避難していた人たちも後から後からと引き揚げていった。被災地もだんだん落ち着きを取り戻してきたのだろう。そして、千葉剛の家族も引き揚げることになった。

 ワタルは、自分も叔父さん家族と共に広田へ戻ることになるのだろうと思っていた。ところが、ワタルだけは一人、残された。

「今、航が広田へ帰っだところで、おめえの面倒、見でくれる家族、だれもありゃんせんど。そんま、お父うやお母あも、現れるかもしれんし、おらも、広田でまだ暮らしでぐ目途がついだら、そんだらば、航を呼び戻すだべ。そんまでここで待ってろや。必ず連絡すっからよ、待ってろや」

 剛叔父さんは、ワタルにそう言って、自分たち家族だけで引き揚げていった。

 ワタルは、剛叔父さんからの連絡を待ち続けた。だけど、連絡は来なかった。

 小学校はちょうど春休みの期間だったが、その休暇も日一日と少なくなっていくにつれ、ワタルは不安が大きくなっていった。本来なら五年生に上がるはずの始業式が目前なのに、自分は知らない場所で一人ぼっち。

 そんなワタルを心配してくれたのが、花野社長だった。この少年のことをどのように考えてあげればいいのか、頭を抱え、巡らしていて、ふと思い浮かんだのが、光法寺の住職の顔だった。

 光法寺住職の法蓮和尚は『花かつ』のお客さんだった。お坊さんなのに、揚げ物が大好きで、『花かつ』を贔屓にしてくれていた。「ぷっくりふっくら」のカキフライを新メニューにして提供したところ、最初に飛びついて、「こりゃあ日本一のカキフライじゃあ」と大絶賛してくれたのも、法蓮和尚だった。

 そんなことから、花野社長は法蓮和尚と気心を通じ合っていた。それにもう一つ、法蓮和尚が住職のかたわら「保護司」という地域の社会福祉に貢献する役目も担っていると、花野社長は聞いた覚えがあった。

 ワタルは、花野社長に連れられて光法寺へ行った。その日から、ワタルは光法寺の世話になることになった。

 お寺という所は、昔から、少年を「修行」とか「奉公」とか、あるいは「小僧」ということで預かり、一人前に成長させて世に送り出すという習わしがある。ワタルも、「避難」ではなく「小僧」という、いわば修行見習いで光法寺に住み込むことに、法蓮和尚と花野社長の話し合いで決まった。ワタル自身、そのことに抵抗感はなかった。

 同時に、ワタルは、吾妻小学校五年生に転校することになった。


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