第10話 試しの時
10.試しの時
今度は以前のように御簾越しではない再会だった。
神無翁が低い声で手招いた。
「さぁ、蛍殿。こちらへ参りなさい」
ここに来るのは二度目だ。普段は立ち入りを許されない本家の奥座敷。
足を踏み入れた時から、雰囲気に呑まれていた蛍は静かに前へと歩を進めた。
そこにいるのはずっと会いたくて、本当は会うのが怖くて、それでも会いたい人だった。ここに来て一度だけ話をした母であり、当主である葵だった。
(お母さん、……この人が、お母さんなんだ)
「その姿、何で――」
一番最初に目についたのは、長く艶やかな極上の銀糸を思わせる髪だった。
やわらかな陽が差しこむと、雲母のように肌が透き通っていた。
目を伏せたその姿は、まるで絵に描いた人形が抜け出て来たようだ。この世のものとは思えない、人ならざる容姿に畏怖と感嘆の溜息をつく。
その瞳がわずかに開かれた。だが、声を発することはない。
一瞬、捕らわれたような錯覚に陥った。
「そこに座りなさい。今から大事な話を始めよう」
そこにはずらりと七人の長老衆が居並んでいた。本家を束ねる神無翁を中心に、彼らはこの場に立ち会う資格があった。虚ろなガラス球のような瞳が蛍を映す。
ここには永峯もいなければ、宗司たちもいない。蛍一人きりだ。
(私が何とかして一人で乗りきらなくちゃいけない。当主になんてなりたくないのだから)
蛍はぐっと手を握り込んだ。そう心に決めてここへ来た。
その場にいる全員の顔を見回して、さて諸君、と神無翁が口を開いた。
「すでに三峰の候補は資格を失った」
「しかし、あれは元より代わりでしかない」
佐庭と名乗った人物が重々しく後を引き継いだ。
もしかしたら、佐庭譲の祖父なのかもしれない。だが、蛍は緊張した面持ちで挑むような視線を向けた。聞き捨てならない台詞だ。
「真耶ちゃんが代わりって、どういうことなんですか」
「所詮は分家の血筋、類稀なる逸材であれど、あれは本物の器ではない」
また別の人物が事もなげに言う。
真耶を貶める言い方に蛍は眉を顰めた。後継者候補として選ばれたはずなのに、まるで最初から値しないと言わんばかりだ。
「我らはずっとここにある。この土地と共に、そして、災禍からこの地を守るために」
「それは以前にも聞きました。一族はこの土地を守る者だと」
そう、と神無翁は扇を真っ直ぐに蛍に向けた。
何もされていないのに、自然と背筋が伸びて緊張が走った。
「遥か昔から、この国には多くの神と共に在る地があった。八百万と言われるようにな。ここ守森と同じ、神の力を宿した他とは理の異なる地、すなわち神畏地と呼ばれていたものだ。今では多くが時代と共に守る者を失い、その力をも失っている」
嘆かわしいことだ、と応じる声があがった。
「もはや神畏地として残された場所は少ない。多くの地が神異や今もなお続く愚かな神狩りの所業によって、神を奪われ、穢れの中に呑まれていった」
それこそが愚かな人の歴史、と断罪する。
「この時代、人間の抱く憎悪はいともたやすく人々の間に拡散し、伝染するようになった。他愛無い悪意、人を傷つける欲望、それらが手に取るようにそこにある」
その言葉に携帯電話やインターネットを思い浮かべた。
悪口や暴言だけでなく、羨望や誹謗中傷、様々な人々の思いが溢れている。
それらは蛍たちのすぐ身近な日常に渦巻いて、時に蛍たちの現実に大きく影響を及ぼし、また脅かす存在にもなっている。
『さっき思いっきり電車で足踏まれた。なのに無視。謝れよな、オッサン!』
ネット上で、千鶴が何気なく呟いた言葉。
最初は小さな苛立ちを発信しただけだ。大丈夫? というほんの少しの慰めやいたわりがあれば、気が済む話なんだろう。だが、それに呼応して答える声がある。
『何それ最悪。どさくさに紛れて思いっきり踏んづけてやりなよ。笑』
『そうそう。そしたら千鶴も気が済むよー。笑笑笑』
白い紙に落ちた小さな染みが悪意とするなら、瞬く間に真っ黒に塗りつぶされる。
最初は些細な恨み辛みだったはずだ。だが、それが思わぬ引き金となって次から次へと悪意を引き寄せ、どんどん見えない敵意となって増長していく。
そんな感覚を、蛍自身も知っている。
「人々の悪意は穢れとなって人の心を蝕み、より大きな悪意を引き寄せることになる。神異とはかつては神であったものが穢れに呑まれた姿なのだ。やがて神鬼となり、神鬼は人々の魂を食らう。そうなった末路は、蛍殿、そなた自身がよく知っているだろう」
それは春休みの通り魔事件のことを指しているのだと思った。
あの男がまとっていたのは、悪意そのものだった。
誰かを傷つけたい。傷つけることで、奪うことで、そうすることで自分の仄暗い欲求を満たそうとしている。自分本位な欲だ。
「そうなってしまっては、もはや我々も手に負えぬ。だが、闇は光を求める性だ。ここは神畏地である以上、より多くの神異が力に引き寄せられてくる。神異を祓い、その侵蝕を食い止めることでしか、この土地の人々を守れはしないのだ」
強い意思を秘めた眼差しに圧倒される。
(私は、それでも当主には)
「我ら一族の当主とは、神の力をその身に宿す者だ」
「神の力を宿す……?」
神無翁の視線の先にいる葵を見た。
まどろみをたゆたうように、伏せた瞳には意思や生気が感じられない。
「当主の姿をよく見なさい。あの姿は、我らの神、カミシロの力を宿した証なのだ」
「人でありながら、神なる者。もはや当主は人ではなく、神そのものなのだ」
「……そんなの、変じゃないですか」
つまり、大神一族は神を守るのではなく、実際は当主が神の化身であると言っているのだ。その力でこの土地を納めてきたのだ。生き神、という言葉が頭に浮かんだ。
当主はこの土地を離れないのではない。離れられないのだ。
その身に宿る魂ごと、身体ごと、強く土地と結びついている。
真耶との一件で、自分自身に眠る不思議な力を目の当たりにした。それでも突きつけられた真実は蛍の理解を越えた。到底理解できるようなことではなかった。
「お母さんは、自分の意思でそうしたんですか」
ふりしぼるような声で蛍は尋ねた。
「葵は選んだのだよ」
(だって、こんなの変だよ。神になるとか、人ではなくなるとか)
「当主が契約した力によって、我々はこの土地を、守森の民をずっと守って来た」
「しかし一族の多くは、このことを知らぬ」
これは一部の者にしか明かされず、ずっと隠されてきた歴史だと長老たちが語った。あの図書室での直澄の言葉が思い出された。
神森。すなわち、神守となる者。守護役という役割。
これまでばらばらだったままのパズルのピースがはまっていくようだ。
「永き時を経た今、人々の心のありようが我らの神を変えていく」
「巫女としての葵の力をもってしても今が限界なのだ」
「神が全て穢れに呑み込まれる時、それは神異や神鬼がもたらす災厄の比でない。大いなる災いが起きる、これを我々はかつてより『神災』と呼んだ」
「そうならないためにいるのが、我ら一族なのだ」
「神異は、災いは断たねばならぬ」
口ぐちに長老衆が言う。
「巫女となるべき器」
「神の器なる者」
「選ばれし者」
「それがそなただ、大神蛍」
全員の視線が一斉に向けられて、蛍はびくりと身を固くした。まるで金縛りにあったように体がぴくりとも動かなかった。首筋を冷や汗が伝っていく。
息苦しさに喘ぐように唇を動かした。言葉が出て来ない。
「――蛍」
呼びかける声にはひどく感情のないように思えた。
「……お母さん」
「あなたは、どうするのか選ばなければならない」
ゆっくりとその場から立ち上がった。
長老衆が葵の前に道を開けた。一歩、一歩、蛍へと向かってくる。そして、蛍の前に跪くと、ゆったりとした動作で目を閉じさせた。
「お母さん、どうして」
「ねえ蛍、あなたはここが好き? この街が、ここに生きる人々が」
そう、静かに問いかけた。
「今から、あなたに全てを伝えましょう」
かくん、と蛍は体の力が抜けるのを感じた。
「これは代々の当主が受け継ぐ、この守森の記憶。あなたが真にふさわしいか、試される時は今です」
***
目を開けると、そこには知らない光景が広がっていた。
けれど、蛍はこの感覚を知っている。不思議な夢を見ている時と同じだ。
そこは深い青々とした緑に包まれ、むせかえるような木々の匂いに満ちていた。
足下は絨毯のように苔と草が広がって滑りやすくなっていた。
「カヤ、そんなに行くと転んでしまうぞ」
「だいじょうぶ。ここは私が村で一番よく知っているもの」
拙い歩きで倒れ込みそうになった腕を取ったのは、一人の青年だった。少女は安堵した様子で、自分の腕を掴んだ人物を見上げる。青年は少女の兄だ。
「ここは元より神が住まう森だ。長居しない方がいい。そもそも恐れを知らずに近づくのは、村でもおまえくらいだ」
「そうね。タエのために薬草を摘んだらすぐに戻るわ」
カヤは病で目がほとんど見えないため、おぼろげな光を頼りに歩いていた。
「ねえ、あれは何かしら。向こうに、強い光が見えるの」
おいカヤ、と呼び止める声はしたが、構わずにカヤは足を向けた。まるで何かに導かれるように、光を追い求めて脇目もふらず駆けた。
林を抜けて空が見えた。木々が開けた場所に、一つの泉があった。
そこにいたのは一匹の狼だ。銀色の狼。
満月のような輝きをその身に宿し、カヤの瞳の闇の中で静かに佇んでいた。
カヤの目はほとんど何も映さない。それでも、その眩しいほどの光だけは、ハッキリと感じることができた。闇の中に現れた、たった一つの光。
ほう、と感嘆のため息をもらした時、後ろにようやっと兄が追いついた。そして同じく息を呑んだ。その荘厳な光景と畏怖を感じさせる神々しい姿に。
「これは、……銀の狼」
「あの狼、また森で見たのよ」
それでね、と続けようとした苛立った声に遮られる。
「――おまえ、またあの森に近づいたのか」
カヤのささやかな喜びに対して、青年は表情を曇らせた。
「いいか、おまえはいいかもしれないが、今この村は流行り病で長も村の者たちもみんなただでさえ不安に怯えている。森に恐れを感じているんだ。もしあの森を荒らしたのがおまえのせいにされてしまえば、オレたちはこの場所で生きてはいけないんだ」
「ごめんなさい。私が、こんな目で、ちっとも役に立たないから」
いいんだ、と涙を零すカヤを抱き寄せる。
「だから約束してくれ、もう二度とあの森には近づかないと」
男は鼻から何度も荒い息を吐いていた。
宿を貸してもらい、たまたま聞いた話を信じた甲斐があったというものだ。
「あれが兄妹の話していた狼か。なかなかじゃないか」
「これはすごい。何としても仕留めるぞ」
類稀なる獲物に色めき立つと、弓を目一杯引き絞る。
だが、横でじっとその狼を見つめていた男は、だんだんと体の震えが止まらなくなった。心臓が掴まれたような錯覚に陥る。
「いかん、あれはこの森の主だ」
「それがどうした。所詮は、獣だぞ」
「――やめろ!」
矢が弓が射られる。一直線に虚空を割いて狼に迫る。
「ちっ、仕留め損ねたか……!」
億劫な仕草で、こちらに視線が向けられた。途端、弓を引いた男が苦しみだした。
腕から弓が落ち、手足をばたつかせてもがき、やがて事切れた。
「……あぁ……、うぁあああっ」
許さぬ。
決して、許さぬぞ。
静謐な空間におどろおどろしい声が響いた。
そして一歩踏み出した足下の草花が、見る間に枯れていく。
狼のまとう空気は禍々しく歪み、黒い霧のようになって全身を覆った。
主の怒りを感じて森がざわめき、鳥の羽音が一斉に鳴り響いた。たくさんの目が男を捕らえていた。あまりの恐ろしさに男は一目散に逃げ出した。
蝋燭の灯火に照らされた男たちの影が、吹きつける隙間風に時折大きく揺れた。
沈痛な表情で村の男たちは長に口ぐちに訴えた。
「このままでは村は終わりだ。作物もみんな枯れてしまった」
「村の女、子どもは皆、病に伏せたきりだ。よくなる兆しは見えない」
「誰がこのような災厄を招いたというのか」
「あんな他所者共を、山に入れてしまったことが間違いだった」
「狩人の片割れは捕らえたが……、もはや話はできん。魂が土地神に食われておる」
「何か手を打たねば、我らはこの土地と共に絶えるしかない」
「山に出入りしていたのは村外れの兄妹くらいだろう。あれの妹は、薬草を煎じて不思議な術を使うと聞いた」
「傷に触れただけで傷を治すとも聞いたぞ。なんとも恐ろしい娘だ」
それは本当か? と人々が驚きと共にざわめく。
「不思議な力を持つ妹を贄にすれば、神の怒りも鎮まるのではないか」
「それでも駄目だったらどうするんだ」
「その時は――」
長老が閉じていた目を、わずかに開いた。
「村の問題は村全体で解決する。これは古くからの仕来たりである」
カヤを呼べ、と低く告げた。
闇に浮かんだ満月が、その明るさと反対に足下の影を濃くしていた。
呻き声をあげて、屈強な男たちが地面に倒れ伏した。
私の森を穢すな。人間が。
その愚かさに怒り狂いながら、腹の底に響く声で告げる。
村の男たちは皆がただの骸と化した。腐った果実のように土気色になった。かつての形すら留めようとせず、月光を浴びた狼が吠えると一斉にその姿は風に消えた。
矢を受けて血を流す少女の傍らで、青年がその体を抱えて蹲る。
「どうか、妹を助けてくれ! 何でもしよう、オレの命を奪えばいい。どうなってもいいから、この子だけは……っ」
「……カミ、シロ」
その透きとおるような白くか細い手が伸ばされた。
わずかな呼びかけに応えて、その傷がみるみる癒されていく。
致命傷になった矢傷は、すっかり影も形もなくなっていた。その代わり、カヤの髪は銀色に代わると、夜闇の中で一際目を惹く美しさとなって広がった。
***
永い永い夢を見て、深い時間の海をたゆたうような心地だった。
いくつもの出会いと別れ、非劇の断片が、刹那であり永遠のようにも思えた。
ゆっくりと目を開けると、一筋の涙が瞳から零れた。
蛍の体は布団に横たえられていたが、自室ではなく、おそらく本家の一室のようだった。体には力が入らず、頭はひどくぼんやりとしていた。
起き出した気配に、近くに控えていたらしい依子が体を起こすのを手伝ってくれた。
(……私は、あの後一体どうしたんだろう)
「目覚めましたかな、蛍殿」
しばらくして現れたのは神無翁だった。目配せで依子を下がらせる。
「三日三晩、熱を出してうなされておりました」
「そうだったんですね」
「では、貴方の答えを伺いましょう」
単刀直入に問われる。いつにもまして細い目に鋭い光が宿っていた。
「……私は、当主の力を受け継ぎます」
蛍はそう答えた。
「わかりました。それでは、なるべく早く儀式の準備を執り行いましょう」
あご髭に手をやると、神無翁はとぼけた仕草で目を細める。
幸い明日の晩は、満月だ。実に都合がいい。
「蛍殿、よろしいですね」
神無翁はほがらかに告げた。蛍はただ黙って頷いた。
その背後から現れた人物に、あぁ、と蛍は諦めにも似た気持ちで微笑んだ。
(最初から、私には選択の余地なんてなかったんだ……)
蛍のいた部屋を出て、颯は無言のまま神無翁に並んだ。
昼間だというのに本家の奥廊下は、漆黒の闇が広がっているように先が見えない。まるで出口のない迷路のように思える。神無翁が重々しく口にする。
「我らが守り継ぐのは大いなる力だ」
「人の身には余る力、の間違いでしょう」
「おまえがそれを言うか」
戯言を、と一笑に付して、神無翁はゆるゆると歩を進める。
「おまえの出番はなかったようだな。今度の器は、葵より少しでも長く持てばよいが」
「器を変えても、この土地の行く末は変わらないかもしれないですよ」
「たわけ、我らは守らねばならぬ。この土地を、この命の恵みを絶やしてはならぬ」
颯は窓から差し込んだ光に目を細めた。その向こうにあるのは守森山だ。
多くの恵みをもたらし、人々を守り、在り続けた存在。
「当主になれば、きっと望んでも得られないほどの力が手に入る。けれど、得てして人は本当に欲しいものを手に入れることができない」
いや、違うかな、と背後の闇を振り返る。
「その願いを、君はきっと口にすることはできない」
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