第9話 選択
9.選択
穏やかな朝を迎えていた。
朝食の席についたのは、蛍と宗司と永峯の三人。
この三人で食事を取るのは、随分と久しぶりだった。
なぜなら、永峯はずっと仕事を理由にこの地を離れていたからだ。あまり詳しく知らずにいたが、実際は神異絡みの事案を引き受けていたようだ。
東京にいた頃からよく出張だ何だと家を空けることがあったため、永峯はどういう仕事をしているのか常々不思議だったものだ。
今回はずいぶん長引いたが、一段落してようやく本家に戻って来たという次第だ。
以前なら気詰まりでしかなかった場だが、今は少し違う。
蛍の向かいに座った宗司が口を開いた。
「今日の帰りは何時になる」
「えっ、今日は帰りに友達と買い物に行く約束してるからいいよ」
「……聞いてないぞ」
「だって、言ってないもの」
あっけらかんと蛍が答えると、宗司の眉間の皺がくっきりと刻まれた。
「蛍、ちょっと醤油取ってくれ」
はい、と蛍が差し出すと、うーん、と永峯が口元に手をやった。
「いつの間にか、二人ともずいぶんと打ち解けたなぁ」
「どこがだ、どこがっ」
どん、と食卓に手を置いて宗司が唸る。そして小言を一通り述べた。
それに対する蛍はもはや慣れっこだ。時折反論したかと思えば、うんうんと聞き流し、適当になだめて、最後は宗司が「もういい、好きにしろ」と折れた。
「最初はどうなることかと思ったが、わからんもんだなぁ」
にやにやと永峯が口元を緩めた。蛍と宗司は顔を見合わせて、揃って永峯をにらみつけた。こうなるまでの日々を知らないから好きに言えるのだ。
二人の怒りの矛先を感じて、永峯はコーヒーを片手にそそくさと立ちあがった。
「そろそろ用意した方がいいんじゃないか、お二人さん」
玄関先から、おはようございまーす、と颯の呼ぶ声がした。
アッ、と今度こそ二人は揃って食事を終えると、バタバタと出て行った。
真耶の一件があってからも、表向き蛍たちの生活は変らなかった。
宗司の小言が減ることもなければ、颯がそれを仲裁することも変わらずだ。今日のように颯も交えて三人で登校したり、相変わらず二人は蛍の近くにいる。
蛍と宗司が契約したことは本家の知るところとなり、呼び出しを受けるかと思ったがそれは杞憂に終わった。まだ後継者候補としての問題は残るが、このところ目立った神異の事件もない。蛍自身の身の周りでも不思議なことは起きていない。
それに永峯がしばらくは仕事を控えて本家に留まると聞いて、蛍としては何となく全てが順調に思えて、心が浮き立つのも仕方ないことだった。
選択授業で隣に座ると、珍しく直澄の方から声をかけてきた。
「何だか前よりも、雰囲気が明るくなったね」
「そう? そんな風に見えるかな」
耳元に髪をかけながら、蛍は照れ隠しに教科書に視線を落とした。
「前までは、随分固く見えていたから」
「そうだね。そうかもしれない」
ここに来てから、ずっと誰かに心を許すことを恐れていた。
けれど、今はそんな自分から本来の自分に戻りつつあると蛍は感じる。委縮していた心がのびやかになって、最近は人前でもよく笑うようになった。
それは颯に言わせれば、いい変化、ということだ。
「真耶ちゃんは最近どうしてるの?」
「別に変わりないよ。ようやく謹慎も解けたし、今は普通に生活している」
「そっか。あれから、ほとんど会っていないから」
「あの時は、悪かったね」
思わず蛍は、直澄の表情を伺った。
「真耶はうちの一族の期待を一心に受けていたから、君への当たりもきつかっただろう」
(理由はそれだけじゃないんだけど……)
恋愛事には疎そうだと思いながら、蛍は曖昧に頷き返す。
「ここにいる内には、真耶ちゃんとももっと仲良くなりたいと思ってるよ」
「そう。不出来な妹だけどよろしく」
直澄はそう言いつつも、満更でもない様子だ。
あの日、真耶の企みに気づいて、蛍の元へ宗司を呼び寄せたのは直澄だ。
真耶が三峰学園で何かをやろうとしていること、それが蛍に関係していることまでは勘づいていたようだが、その内容までは把握していなかったらしい。
真耶の思い詰めた様子から探りを入れて、その相談を宗司に持ちかけようとしていた矢先の出来事だったと後から聞かされた。
「でもここにいる内って?」
「実はね、大学は東京に戻りたいと思ってるんだ」
直澄は意外そうに目を瞠った。まだ誰にも口にしたことはない。
直澄は学年でも成績上位だから、もしかしたら同じように思っているのかと考えていた。
「そんなに意外? 自分ではけっこう前からそう決めていたんだけど」
「僕も大学生になったらこの土地を離れるつもりだ」
「三峰くんは、やっぱり歴史を専攻するの? それとも民俗学とか?」
「そのどちらかになるだろうね。ゆくゆくこの学園は継ぐだろうけど、真耶が降りたことで僕の役割は終わったようなものだし、今更誰かに文句を言われることもない」
「そっか。じゃあ、お互い希望を目指して頑張らないとね」
ふと考え込む仕草で、直澄は言った。
「でも、君の場合は本家の意向が絡むんじゃないか」
「――え?」
すっと心を冷たい風が撫でていった。
「君が本家の跡継ぎになるのなら、もしかしたら……と思ったんだけどね」
直澄も深く考えてのことではないようだった。だが、確かに少し引っ掛かる。それを考えないように、そう言えば、と蛍は話題を変えた。
「あの時に電話で、三峰くんが色々難しいこと言ってたよね」
システムがどうとか、と人差し指を口に当てて蛍が思い出そうという素振りを見せた。だが、直澄はまだピンとこないのかその言葉の続きを待っている。
「何かそう、スペアとか、ほら今みたいに守護役の役割とか」
「……覚えがないな」
あれ、と拍子抜けして直澄を見た。
あの時は落ち着いて尋ねる余裕もなかったが、機会があれば聞こうと思っていた。直澄は宗司や颯とは違う意味で、本家の事情や歴史に詳しい。
本当に何も覚えていないのかともう一度問うと、不思議そうな顔をされた。
(おかしいな。実は忘れちゃうくらい大した話じゃなかったとか?)
小さな違和感を覚えたが、授業のチャイムが鳴って蛍は話を打ち切った。
「うええ、オレだって遊びたいのにぃー」
遊びに行く蛍たちを羨ましそうに見てふてくされると、佐庭はそのまま机に突っ伏した。
放課後に教室に残る生徒は少ない。千鶴が人差し指をチッチッと振った。
「この一学期の中間テストから赤点取ったのは誰かなぁ」
「そう言ってる誰かさんも国語はかなり際どかったでしょ」
「いいの、赤点をクリアしてさえいれば、追試じゃないんだから!」
千鶴が意気込むと、その横で佐庭ががっくりと肩を落とした。数学担当の教師から出された課題のプリントを恨めしげに眺める。
「こんなの無理、絶対無理っすよ」
「まあ、でも追試に出てくる問題は簡単だって噂だよ」
蛍が気休めを口にしたが、佐庭はそれでも唸って眉を八の字にした。どうやら本当に苦手な教科のようだ。それを見て千鶴が胸を張った。
「安心なさい! 明日からはちゃーんと付き合ってあげるから」
「マジっすか? ちーちゃん」
「うん、この理系選択の数学女史の吉井先生にかかれば、追試なんてへっちゃらよ!」
「――あたし、人に教えるのとか興味ない」
沙穂はすげない態度で断った。えええ、と二人の悲鳴が二重奏になる。
「そこの二人は放っておいて早く行くわよ、蛍」
あ、うん、と慌てて教室を後にする沙穂の後を追いかける。もう二人とも待ってよー、と千鶴もバタバタと走って追いかけてきた。
今日は試験を挟んでテニス部が休みになり、千鶴の提案で遊ぶことになったのだ。
学校を出るとそのまま三人は駅前のカラオケへと足を運んだ。その後はお決まりのカフェに移動して、甘いデザートに頬を緩ませておしゃべりに花を咲かせた。
女子が三人集まれば、どれだけ時間が経とうが会話のネタは尽きないものだ。
「いやぁ、遊んだ、遊んだー」
千鶴が大きく伸びをして、蛍を振り返った。
「ちーちゃん、いくら何でも最初から飛ばし過ぎだよ」
「千鶴の元気は見てるこっちを疲れさせるのよ」
「何それ、ひどくなーい」
蛍も珍しく今日は時間を忘れてはしゃいでしまった。
千鶴は明日からまたテニス部で練習三昧の日々に戻るため、名残惜しく足を止めた。
「ね、ね、プリクラで三人一緒に撮ろうよぅ」
「また撮るの? この間も撮ったじゃない」
沙穂はつれない反応だ。千鶴はえーっ! とふてくされ、蛍に視線で訴えてくる。蛍はまあまあとなだめながら、確かにこの間も撮ったな、と思って苦笑いした。
「いい? 今この一瞬は、これっきりなんだからね」
「それこの間のときも言ってたわよ」
「だから、この一瞬は今日一日の記念なの。特別なの。思い出なの」
「ちーちゃんに一票!」
ちょっと蛍まで、と沙穂がやれやれと額を押さえた。
やった! と蛍の手を取って、千鶴はゲームセンターの一角へと足取り軽く向かう。早く早く! と二人に急かされ、仕方ないわね、と沙穂も結局ついてきた。
一旦撮ると決まってしまえば、また大騒ぎだ。沙穂は「千鶴は前に出過ぎよ」とたしなめたり、千鶴は千鶴で「沙穂は表情が固すぎなんだよ」と言い返したり、狭いスペースで忙しい。仲良く三人でポーズを揃えて笑い転げる。
「あ、この蛍、すごい可愛く映ってるよ」
どれどれ、と沙穂と覗きこむと、自分でも驚くような笑顔で映っていた。
(ふふ、こんなに楽しそうな顔してたんだ……)
心の底から楽しんでいる自分を切り取ったようだった。
改札まで千鶴たちを見送ろうと駅前に来て、先に気づいた沙穂が蛍を肘で小突いた。
「ほら、私たちが引っ張り回したからお迎えよ、お嬢様」
「いいなぁ。年下男子、うらやましい」
パーカー姿で私服の宗司が歩道橋のところに立っていた。帰宅してから、もう一度ここまで来たということだ。宗司も気づいたのか、二人に軽く会釈する。
「ほら、行きなさいよ。待たせちゃったかも」
「じゃあ、行くね。今日はすごい楽しかった、二人ともありがとう」
「次は期末試験が終わってから打ち上げだ!」
「千鶴の場合、そろそろ授業中寝ないようにしないと期末は追試確定だけどね」
「ちょっと佐庭なんかと一緒にしないでよぉ」
口喧嘩しながら改札を通る千鶴たちに手を振って、蛍は宗司に駆け寄った。
宗司の足元には雪之丞もいる。小さく尻尾を振っていた。
「ごめんね、気づいたら遅くなって」
いつもなら遅い! と一喝されるところだ。だが、宗司は意外なことを口にした。
「邪魔して悪かったな。……早く来すぎたみたいだ」
「どうしちゃったの、急に」
「別に何でもない」
驚いて蛍は目を丸くした。いつもの宗司らしくない。
行くぞ、と背を向けて歩き出すのを、数歩遅れて追った。
宗司は出会った頃から守護役としての役目に忠実だ。だからこれまでも蛍を守る上で、蛍の意思よりも目的に忠実だった。だからこそ、意外だったのだ。
(何だか宗司くんも最初の頃と変わったな)
「……おまえ、変わったな」
自分が考えていたことと同じことを口にされて、蛍はぷっと吹き出した。
「なっ、何でそこで笑うんだよ」
「ううん。わざわざ迎えに来てくれてありがとう」
蛍は素直な気持ちで答えた。
横に並んで歩くことが、気がつけばとても自然なことだった。
こうして、ゆっくりとどんな関係も変わっていくのだろうと思った。
ここにいていい、と宗司は言ってくれた。ここが自分の居場所だと思えたあの日から、蛍の中では確かに何かが変わった。
最初は本家に戻って来たことを後悔してばかりだった。意に反して後継者候補とされたこともそうだ。本家に対してだけでなく、宗司たちとだって、どう接していいのかわからなかった。真耶から妬まれ、酷い目にあったりもした。
それでも宗司がいて、永峯や颯がいて、千鶴や沙穂たちがいて、だんだん少しずつここにいることが当たり前に思えるようになった。
(……私は、ここに来てよかった)
はじめて蛍はそう思った。
その夜、居間で蛍が永峯と過ごしていると宗司が母屋に顔を出した。
「どうしたの?」
「オレが来ちゃ悪いのか」
そんなことはないけど、と言葉を濁した。
宗司はいつも食事と風呂を済ませれば、別棟の自室で過ごすことが多い。こんな時間に居間に来るのは、何か用があると思って当然だ。
宗司はテレビの前のソファに腰を下ろした。蛍は気をきかせて、チャンネルを人気のバラエティ番組に変えた。途端、宗司がムッとする。
「何で変えるんだよ」
「だって今見てた番組、宗司くんにはつまらないかと思って」
蛍としては機嫌が悪くなる理由が思い当たらない。訳が分からずに首を傾げると、永峯がとんとんと肩をつついて小声で言った。
「いいからチャンネルを戻してやるんだな、蛍」
永峯と暇つぶしがてら見ていたのは、世界遺産を巡る番組だ。チャンネルを戻すと、宗司は食い入るように見つめて瞳を輝かせた。
「……宗司くん、もしかして世界遺産好きとか?」
ハッとしたように宗司が動きを止めた。誰だって知られたくないことはあるだろう。
永峯がちょうど席を外したので、おやすみ、と答えて、蛍はあえてそ知らぬ振りを決めた。その上で、番組を見ながら何気なく口にした。
「一回は行ってみたいよね。モン・サン・ミシェルとか」
てっきり同意が得られると思ったのに、宗司はすぐには答えなかった。
宗司を見ると、足下に目を伏せた。
「でも、オレには絶対無理だ」
(絶対って……、そんなに頑なに否定しなくてもいいのに)
さっきまでの楽しそうな雰囲気も明るさも、宗司の表情から消えていた。
どうしたのだろう、と蛍は首を傾げる。
「守護役は当主といつも共にある。それが絶対の掟だ」
宗司の言った意図が掴めない。なぜ思い詰めてまで、そんなことを口にするのだろう。けれど、その先を聞きたくないと思った。
「当主はこの土地を離れることはない。それが務めだからだ」
「……そんなの、別に少しくらいいいじゃない」
「そういうものだ」
そういうものなんだ、と宗司自身が自分に言い聞かせるように言った。足下が崩れ落ちて行くような気がして、蛍は目の前が真っ暗になった。
「当主になるのは、そういうことだ」
にべもなく告げた。
短いノックの後、ドアを開けた永峯に蛍は無言で抱きついた。
面食らった様子だったが、蛍の震える肩に気づくとしばらくそのままじっとしていた。
どうした、とやがて落ち着いた声で永峯が尋ねる。
「ねえ、本当に当主になったら、ずっとここにいなくちゃいけないの?」
「……蛍」
「答えて、お父さん。私は、もうどこにも行けないの」
蛍の頬を幾筋もの涙が伝っていく。宗司の言葉は、嘘だと言ってほしかった。そんなことはない、と言ってくれるだけでいい。その言葉があればまだ蛍は笑っていられる。
永峯は蛍の涙を袖口で拭って、そして、優しく微笑んだ。
なあ蛍、と呼びかける声はいつもの通りだ。
「おまえは、選択しなくちゃいけない」
身を引き裂かれる思いがした。
「どうして……、ねえ何でそんなこと」
「――これから試しの時が訪れる。そこで、お前自身の答えを選べばいい」
ぐっと抱きしめる腕に力がこもった。
そして永峯の言葉通り、その時はすぐにやって来た。
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