第7話 罠
7.罠
透明な雫となって、手にした杯の淵からわずかに零れた。
静寂に包まれた空間。視界の端に映るのは、肩でさらさらと揺れる銀色の髪だった。
さあ契約を、と低く促す声がする。
私の還る場所が貴方にある限り、ずっと共に。
そして、杯が割られた。
遥かな約束の下、彼女の目の前に現れたのは藍色の瞳をした銀の狼だった。
それはとても深い憂いを帯びて名前を呼ぶ。
――カヤ、と。
視線が絡み合った瞬間、蛍はパッと目が覚めた。
まだ夢の手触りがそこのあるようで、ゆっくりと自分の髪に触れる。
(……何だかやけにリアルな夢だったな)
この前の夜に、宗司から儀式の話を聞いた時のことを思い出した。
あの儀式を見た時も、蛍はまるで自分がそこにいるような感覚がしたのだ。予知夢とはおそらく違うだろう。けれど、気になったので登校中に宗司に尋ねた。
「銀色の狼に何か心当たりある?」
「何を言ってる。狼と言えば、この土地神の化身だろう」
さも当然のことだとばかりに宗司は答えた。
(そんな大事なことなら、もっと早く教えてほしい)
宗司の態度にムッとしながらも、ここは当初の目的を優先することにした。
「じゃあ、銀色の狼は神様ってことだよね。でも何で狼の姿なの?」
「子どもの頃によく聞かされた昔話はこうだ。一族の先祖がこの土地に行き着いた。あの森は永く禁忌の森と呼ばれていて、人々に畏怖されていた。森の主は、一匹の狼だった。だが、それこそが守森の土地神だった。一族の者は永く森を守ることを約束に、この力を授かったっていう話だ」
「そんな話があるんだ。聞いたことなかった」
「正直、爺連中がどんだけ脚色してるかわかんねえけどな」
宗司の余りの言い草に、くすくすと笑みを零す。
長老衆は分家から七人選ばれている。その全員を束ねるのが、神無翁だ。
何度か本家で会ったが、一見すると柔和な笑みを浮かべた気のいい老人に見えるのに、底の見えない笑みは緊張を覚える人でもあった。
「でも、そんな話ならもっと聞いてみたい」
どんなことでも知っていきたい、という気持ちが今の蛍にはある。
「オレじゃなくて、こういうことは颯に聞け。あいつの方がずっと詳しい。まあ直澄みたいなのとは違って、あいつは怖い話や噂話が単に好きなだけだけどな」
「ほんと、宗司くんは颯さんには厳しいね」
裏を返せば、それだけ年の近い颯には一目置いているのかもしれない。
「でもすごく綺麗だったな……」
「どこかで見て来たような口振りだな」
「いや、夢の中だけで、その、そんなに詳しく見た訳じゃないんだけど」
しどろもどろに説明すると、宗司は深く考え込んで口にした。
「オレは実際目にしたことはない。ずっと昔話だと思ってたからな。でも、もしかしたら当主ならその狼についても何か知っているのかもしれない」
「でも、私なんかが見た夢に意味があるのかな? たまたまかもしれないのに」
「もう忘れたのか。当主の言葉を思い出せ」
「直にわかる、ってこと?」
そういうことだ、と宗司は鼻を鳴らして頷いた。
昼休みに教室へ顔を出したのは、今日の送り役の颯だった。
蛍ちゃーん、とドアから声をかけられ、ぎょっとする。千鶴と沙穂がにやりとするのに舌を出して、蛍は慌てて廊下に飛び出した。そして腕を引っ張ると、クラスメイト達の好奇の視線を避けるように階段の踊り場まで連れて行った。
「何であんな目立つことするんですかっ」
「そんなに怒んないでよ。あんなの全然目立つうちに入らないよ」
「そういう問題じゃなくって、私にもクラスでの立場とか事情があるんですっ」
珍しく憤慨する蛍に颯が肩を竦めた。そして、こう言った。
「じゃあ、みんなに暗示をかけてあげようか」
「……や、やめてくださいっ!」
蛍は悲鳴じみた声をあげて颯の腕を掴んだ。
何てことないように言われたが、本来の颯の力はそんな使い方をしていい訳がない。
何より自分の都合で誰かの記憶や意思を捻じ曲げるようで恐ろしい。
「そんなこと、軽々しく言わないでください」
「ふーん。意外だね、蛍ちゃんがそこまで言うなんて」
目を眇めた颯が、一瞬別人のように見えて蛍の心臓が嫌な音を立てた。
まあいいや、と颯が気を取り直したように用件を告げた。放課後に学級委員会が急に開かれることになったため、送り役を宗司と交代したという話だった。
そのまま立ち去ろうとする颯を呼び止める。
「あ、あの、狼……、銀色の狼について、颯さんは何か知りませんか? あと、もしかして守森山にはまだ狼がいたりしませんか?」
無理矢理話題を変えるべく、今朝の質問を矢継ぎ早にぶつけた。
ぴたりと足を止めた颯が振り返った。
「蛍ちゃんはその話、誰から聞いたの?」
「銀色の狼が土地神の化身だって話は宗司くんから。私が今朝見た夢に出て来たから、少し気になって。それにここに来た時も、狼を見た気がするし……」
「だいじょーぶ、ここは多少の不思議は当たり前だからね。蛍ちゃんが自分で気づかない内に順応してきてるってことだよ、きっと」
何も怖いことなんてないから、と気休めを口にした。
(……でも、東京にいた頃はこんなこと一度だってなかったのに)
戸惑いと怯えの混じる蛍と違い、颯はにこやかだった。
「じゃあ、もうすぐかもしれないね」
え? と蛍が仰ぎ見ると、こっちの話、とはぐらかされてしまった。
「ということで、今日はごめんね。気をつけるんだよ」
「あ、はい」
その背中を見送りながら、ふと気づかされる。
(ここのことだけじゃない。私は本当は宗司くんや颯さんのことだって、全然わかっていないままなのかもしれない)
知らないことの多さは、蛍だって十分自覚している。今更だ。
それでもここに来てから一番身近にいて、味方だと思っていた二人のことを信じられなくなるのは、足下が崩れてしまうようで怖くなった。
高等部の校門前で約束通り宗司を待っていると、その当人からメールが届いた。
悪いが教室まで来てくれ、と簡潔な一文に蛍は首を傾げる。
「宗司くん、何かあったのかな」
中等部は馴染みがないため、きょろきょろしながら校舎に足を踏み入れる。
放課後だからか、上の階からは吹奏楽部の練習音が大きく響いていた。すれ違う中等部の生徒と視線が合うと、蛍は曖昧な笑みで会釈しながら教室を探していった。
三年生の教室は四階にあるようだ。
「どこにあるのかメールに書いてくれればいいのに」
宗司はその辺り気が利かないタイプだと心の中で結論づける。
三年生の教室前まで来たが、どうやら人の気配はないようだ。下校したか部活動に出払ったのか、教室前の廊下は随分と静かだった。
(……でも、こんなに静かって)
ふとここにきて違和感の正体に気づく。
さっきまでの楽器の音も部活動の喧騒もここまで届いて来ない。それはおかしな話だ。
すっと背筋が冷えた。その足下の影にさらに大きな影が重なった。
突如として背後に現れた気配に、弾かれたように振り向いた。
そこには蛍よりも一回り大きな影が、いくつもの眼で闇の中からぎょろりと蛍を捉えた。あまりの禍々しさに蛍は一歩後ずさり、小さく声を漏らした。
「いや……っ!」
よろけそうになりながら、その場を駆けだした。
だが、その化け物はすぐには追い掛けて来なかった。
怖くて後ろを振り返る余裕もない。それでも全身にまとわりつくような視線を感じた。蛍にじっくりと狙いを定め、捕まえようとしている。
(あれに捕まったら、おしまいだ)
蛍にも本能でそれだけはわかった。
この間の一件の比ではない。さっきのアレは歪で禍々しく、悪意に満ちていた。
「誰か……、宗司くん……っ」
階段を駆け下りて、廊下を走る。誰もいない。
ここはもう別空間なのだと気づいて、蛍は自分しかいない状況に絶望を感じた。恐怖に足が止まりそうになるのを叱咤する。
それでも息が切れ、蛍は足を止めると荒い呼吸を繰り返した。
(どうしよう、どうすればいいの……っ)
ぞわり、と首筋に寒気が走った。何かを引きずるような音が近づいてくる。
蛍はいやいやと首を振った。廊下の暗がりから、それは今にも現れようとしている。
逃げ出そうとして、足下に蔦のように何かが絡みついた。
そのまま強い力で引っ張られたかと思うと、視界が一気に反転する。衝撃に蛍は何度も瞬きを繰り返して、自分が逆さ吊りになっているのだとわかった。
「ぃや…、やだ……っ」
化け物の本体がずずずっと距離を縮めてくる。
捕まれた足首から痺れたように、外そうと力を込めようにも自由がきかなくなる。死の恐怖と与えられる苦痛に蛍の顔が歪んだ。
そこによく知る声がした。
「――もう十分、あなたも思い知ったでしょう」
三峰学園の中等部にいるのは、宗司だけではない。
そのことにもっと早く気づくべきだった。
「……真、耶ちゃん」
かすれた声で呼ぶと、真耶は場にそぐわぬにこやかさで応じた。
「ねえ、姫さま。これ以上、怖い思いはしたくないでしょう? 私のお願いを聞いて、約束してくれればいいの。後継者候補を降りて、あの男とここを去る、と」
「どうして、こんなこと……」
「ふふ、どうして? そんなの決まっているでしょう。あなたはここにはふさわしくない。どうしてあなたが守られなくちゃいけないのか、私には理解できない」
「そんなの私にだって」
わかるはずない、と答えようとして言葉を失くす。
真耶の目は本気だった。
「ほら早く、早く言いなさい……っ!」
顔を赤くして激昂した真耶が、大きく足を踏み鳴らした。それに呼応するように神異による拘束が全身へと及んだ。きつく体を締め上げられて呻いた。
だんだん体から力が抜けていく。意識が朦朧としてくる中で、頭の中に声が響いた。
『宗ちゃん』
(……誰の声?)
『ねえ宗ちゃん、泣かないで。宗ちゃんのお父さんは、お務めなんだって静江が言ってた。だから終わったら絶対帰ってくるよ。だから、泣かないで』
蹲る男の子と、その後ろで佇む女の子。
『この力があれば、私が宗ちゃんを守ってあげる』
『だから、私のことも守ってね』
***
真耶と宗司は同い年のため、幼馴染だった。
兄の直澄はいつも本を読んでばかりで、真耶の遊び相手にはちっともならなかった。
家の事情など露知らず、宗司に鬱陶しがられてはそれでも後を着いて回った。
宗司はぶっきらぼうで乱暴なところもあったが、誰に対しても真っ直ぐで分け隔てがなかった。強い力があることから一族の子どもから一線引かれていた真耶に対しても、その態度は変わらなかった。だから、真耶にとって宗司は特別だった。
成長するにつれ、永峯は当主の守護役でありながら姿をくらましていること、そのせいで宗司が肩身の狭い思いをしている姿を目の当たりにした。
捨て犬だった雪之丞を拾ってきたとき、真耶は宗司と一緒にその世話をした。自分と重ねる部分があるのか、宗司はとても大切にしていた。
その雪之丞を、看取ったのも二人一緒だった。雪が全てを白く染めた冬の朝。
そうやってどんな時も宗司の一番近くにいたのは自分だという自負が真耶にはある。
いつの間にか出来た距離も、宗司と後継者候補の立場を思えば仕方なかった。
それなのに。
それなのに。それなのに。どうして。なんで。
おかしい。変だ。隣にいるのは、一緒に笑うのは自分であるべきなのに。
宗司は、真耶を選ぶはずなのに。
憎い。憎くてたまらない。
……なら、いっそいなくなればいい。そうすれば前の二人に戻れる。
そうだ。それがいい。
***
「ばっかやろーっ!!」
怒号がしたかと思うと、体が宙に浮いていた。
地面に叩きつけられると思って目を瞑ると、その衝撃はやって来なかった。おそるおそる目を開けると、投げ出された蛍を受け止めたのはあの直澄だった。
「ギリギリ間に合ったかな」
「……どうして、ここに」
呆然として蛍は現れた直澄と、そして宗司を見つめた。
宗司は怒りの形相で真耶の胸倉を掴んでいた。
「おまえ、何したか自分でわかってるのか」
「……そんなこと、今更言わなくちゃいけないの」
「神異を利用して、ただで済むと思うのか! あいつが死んだらどうするんだ!」
「私の力は三峰でも一番なのよ。当主候補を侮らないで。こんな神異、いざとなったら自分でどうにだって出来るに決まってるじゃない」
「この間の式、あれもおまえの仕業だな」
「少し怖がらせてあげれば、すぐに候補を降りるかと思ったのに。……ね、宗ちゃんだって、こんな何も知らない姫さまのお守をさせられるのはうんざりでしょう」
このっ、と宗司が頬を打った。その勢いで真耶がたたらを踏んだ。
「何で、何でこんな人のこと、そんなに……っ」
きっと睨みつけると真耶の瞳には、宗司への失望と蛍への怒りが渦巻いている。
直澄が遮るように鋭い声をあげた。
「――宗司、そこまでにしろ。真耶、神異を早く片付けるんだ」
真耶の背後で動きを止めていた神異に視線が集まった。
「神異の源は穢れだ。人の負の感情で、いくらでも力を増幅させる。真耶の願いに答えた代償を求めて、より力を欲する。そうすればどうなるか想像がつくだろう」
唇を嚙んだ真耶が、何事かを唱える。神異が低い呻き声をあげ、真耶へと手を伸ばして呪うように喚いた。それだけ真耶の力が強いことが蛍にもわかる。
だが、一向に姿は消えなかった。
それどころか大きく膨れ上がり、形を変え、おぞましく変貌しようとしている。
「おかしいぞ。おい、どうしたんだ」
「……な、何で、どうして。神異が、私の力を奪って――」
一気に瘴気の濃い霧が廊下に立ちこめた。
(どうしてこんなに怖いの……)
それなのに目を逸らすことすらできなかった。
隣で直澄が呆然としながら呟く。
「神異は穢れによって力を失ったまつろわぬ神のなれの果て。憎しみを食らい、恐怖を食らう。そして、力を得た奴らは、――人の命を食らう神(しん)鬼(き)になる」
黒い塊は、やがて人のような形を為した。
宗司が言った。
「逃げろ」
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