第8話 思慕

 二千八百五年の夏は、例年よりも熱いようである。この時代にクーラーが取り付けられているような建物はごく限られており、それは剣志隊の道場も例外ではない。八月の猛烈な日差しが道場の床をじりじりと焼いている。扇風機すらない。

 脱水症状にはなるなという事なのか、道場の片隅には水がたっぷり入っているやかんが二つ三つ置いてある。 武井初芽(タケイ ハツメ)は防具の面を取ると、用意していたコップに水を入れてごくごくと飲み干した。 時節は八月。夏休みである。剣志隊は二十二歳までの若者で構成された部隊である。その殆どが学生であるため、一日中時間がある。学校から出されている宿題を取り組む時間を除けば、好きなだけ稽古に精を出すことができる。

 というのに、この道場には二人しかいない。

 もう一人いるのが、京本房江(キョウモト フサエ)で、こちらは防具をつけずに胴着姿だった。生まれた家が剣道場を営んでおり、房江自身も一流の剣士と言って良い実力の持ち主である。房江が稽古をする時は、いつも防具をつけないのは、実戦の時には着けていることなどないというのが理由だった。普段から実戦に即しているとも言えるが、臭くて重い防具をつけるのが好きではないという理由の方が多いだろう。

 他の隊士が稽古をしに道場に現れないというのは、この二人がいるのが原因である。あまりに腕があるこの二人がいる時は、大抵の者が尻込みをして稽古を避けるのである。

 困ったものだ、と初芽は軽く笑っている。

 房江も、困ったものね、と笑みを浮かべる。

 ほんの十分前まで、この二人は見た者の身を震わすほど激しく竹刀を打ち合っていた。見た者がいれば、わざわざ道場に入ってくる道理などない、という程だった。

 しかし、房江は暇ではない。隊長である初芽は忙しいのだが、隊内の事務仕事の責任者である房江にも、地味な仕事が常に山ほどあった。時折道場に来て竹刀を振るのは、体を鍛えるためでもあるが、適度な気分転換でもあったのだった。

 いつまでも稽古で時間を潰しているわけにはいかない房江は、じゃあねと声をかけて道場を出て行った。

 さて、一人残された初芽は、どうしようと考えた。今日の残りの仕事の量のことを考えると、もう一時間ほどはここで稽古をしていてもいい。

 一人では、筋トレをするか、素振りくらいしかやることがない。

 それでも、退屈な書類に取り掛かるよりは、筋トレか素振りでもしておいた方がいいと思い至った。

 初芽は一人しかいない道場の真ん中に立つと、竹刀を青眼に構え、素振りを始めた。

 こうして竹刀を振っているだけでも、気持ちが集中していくのが分かる。雑念が消えていき、自分の体のあらゆる部分が、敵を討つための道具となっていくことを感じる。

 敵を前にして刀を握った時に、己を迅速に凶器と化すために。

 ふと気づくと、日が夕暮れになりかけているのに気付いた。

 これ以上現実逃避をしていると、房江に後でしこたま怒られる羽目になる。

 初芽が溜息をついて道場を出ようとした時、男が一人、防具を着けた男が中に入ってきた。

 面鉄を着けているので顔は分からないが、防具の帯に書いてある名前でその者が誰かは一目で分かる。

 山峰一雄(ヤマミネ カズオ)だった。二十二歳。よく鍛えられた体をしていているのが、防具の上からでも分かる。

 山峰は、初芽と顔を合わせると、ぐっと深く会釈した。

 初芽は軽く頷くと、精を出せ、と言って道場を後にした。

 山峰は、初芽が道場を出ていくまで、見送った。

 彼は、隊内でも珍しく、初芽と稽古をするのを嫌がらない隊士だった。こうして現れたのも、初芽が道場にいると誰かから聞いたからであろう。

 一人になった山峰は、竹刀を握り素振りを始めた。

 初芽が道場からいなくなったのを聞いたのだろう。それからしばらくして、隊士たちがぞくぞくと現れた。

 山峰は、ただ一人、素振りを続けた。


 この山峰という男は、隊内でも「豪傑」というあだ名がついていた。

 剛腕なのである。

 こんな話がある。

 ある休日に、山峰は隊士と共に二人で定食屋で昼食を摂っていた。

 市中の巡察中であるため、刀を傍らに立てかけてある。

 その刀にきっと気づいていないであろう男が、店員に難癖をつけて無銭飲食を企てた。強面の男で、丼の中に虫が入っていたのだから代金は払わぬと言い張っていた。

 それだけなら、警察隊に通報され、連行されただけであろう。

 男は、あろうことか、懐から短刀を抜いた。

 目は血走り、開いた口からは酒の臭いがした。

 酔っぱらった勢いであったろう。

 食事中だった山峰が、連れの隊士と共に立ち上がった。左手に鞘を握っている。

 やめろ、と山峰が男を制止した。この時の山峰は、まだ男を斬ろうという気はない。

 しかし男は止まらない。その上、山峰が刀を持っているという事に気づいたらしい。

 剣志隊の隊士である事が分かれば、すぐに逃げただろうが、男の運の悪いことに、それにはまるで気づかなかった。

 カッとなった。

 男は短刀を振り上げそれを山峰の脳天に打ち下ろした。

 それより山峰の刀の方が早い。抜き打ちで男の左肩に刀を打ち込んだ。

 びくりと男が体全体を震わせ、即死した。仰向けに倒れている。

 山峰の連れの隊士が隊内で広めた話によれば、たったの一撃で肩甲骨、あばら骨を砕き、臍近くまで斬撃が降りていた。余程の腕と十分な腕力があってこその一撃である。

 以降の仕事で斬った時も、そのいずれもが凄まじい切り口の死体を作った。

 尋常ではない太刀さばきである。

 備えているのは、刀の腕だけではない。

 別の話。

 数人からなる強盗団が食品を扱う卸問屋に押し入り、売上を強奪したという事件があった。しかし、店員は容易には屈しなかったらしい。強盗団は逃げる機を逸した。

 通報を受けた警官隊がその卸問屋を包囲。強盗団は店員を人質に立てこもった。

 現代の日本国であれば、辛抱強く説得を続けたであろう。だが、現代に比べると、この時代の犯罪者はとかく人を殺めることに慣れている。警官隊は包囲を続けたが、時間をかけていては店員たちの命が奪われてしまうと考えた。

 突入を決心。

 しかし、その突入する人員の中に、剣志隊が一人含まれた。

 たまたま巡察に出ていた山峰であった。

 中央入口は山峰一人、警官隊はその裏口という布陣で突入に臨んだ。無茶だという警官隊に対し、山峰は、一人の方が戦いやすい、と答えたようである。

 実際に乱闘になれば、狭い店内では十分に剣が振るえない。周りに味方がひしめき合えば、自分の剣が味方を斬ってしまうという事がある。山峰はそれを嫌ったのである。

 警官隊の鳴らした笛の音を合図に、突入開始。

 山峰は、何者をも恐れぬ勢いで店内へ殺到した。

 数人はいたであろう強盗団を即座に斬って捨てたという。命からがら逃げた強盗団の残りも、裏口から突入していた警官隊に捕縛された。山峰に斬り殺されるよりは、逮捕される事を選んだらしい。押し入った時は血気盛んだった強盗団の男たちが、しおらしく縄についた。

 突入した警官隊たちは無傷。山峰も、肩にかすり傷を負っただけだった。

 事件後、警官隊は剣志隊へ感謝状を送ると共に、山峰に金一封へ進呈した。

 剣志隊の隊士たちは口々に山峰の勇敢さを口にした。

 しかし、山峰はそれを誇るわけでもなく、驕るわけでもなく、その後の任務も淡々とこなした。

 問われても、言葉少なに、それが仕事だ、と答えるだけだった。

 豪傑というあだ名は、その頃についた。

 この時代には古い書物にしか残っていない、戦国時代の豪傑の姿を、隊士たちは山峰に見たのである。


 武道の強さ、人格、共に平隊士に収まるものではないと判断された山峰に、昇格の話が出た。

 夏の暑さが強くなるばかりの八月も半ばになる頃である。

 剣志隊での昇格の話というのは、剣志隊の中からだけでなく、白兵隊からの指示による場合もある。山峰がこれにあたった。

 きっかけは、東京国と岩手国が武力衝突した際に、剣志隊が参加した時だった。各国とも、日本統一という事を考えてはいるものの、積極的な軍事行動には出ていないという時代である。しかし、膠着状態と言えるほど、平静でもない。軍部に所属すると目される集団が国境付近に現れると、すわ戦争かと即座に迎撃部隊を出すという時代であった。年に何度かは、そうした小戦闘が発生する。

 その時は、東京国の白兵隊が岩手国の国境付近の山で遭難した学生の捜索と救助を行うという事をしたのだが、それを軍事訓練と捉えた岩手国が陸上部隊を出撃させ、戦闘となった。

 この時、白兵隊に随伴した剣志隊隊士が、山峰以下五人である。岩手国との国境付近であることから、戦闘になった際に助けとなるためであった。また同時に、捜索へ参加することも目的としていた。

 剣志隊にとって、このような任務はかなり稀である。初芽は、捜索に参加する隊士たちに、普段貸与している日本刀の他に、脇差も貸与した。古来の武士は刀を二振り帯びるのが常識ではあるが、この時代においては金を持っている剣客を除けば、ほとんどいない。異例とも言えた。

 もし岩手国との戦闘になった場合に、隊士が無事に帰って来れるようにという初芽の計らいである。

 山峰は感激した。自分たちは大切にされている、と感じた。

 岩手国と戦闘になってしまった際は、山峰は率先して切り込んだ。

 この時代では、銃器は貴重である。また、最初から戦闘を目的としない限り、また、まとまった人数がいない限り弓兵を用意することもないため、白兵隊も、岩手国の軍人も、それぞれ、刀槍が中心の戦闘となった。

 山峰は、自分たちが遭難者の捜索のために来たことと、戦う意志はないということを叫びながら戦った。決して、無駄に敵を斬るということは無かった。

 そのため、戦闘は一時間も満たなかった。事情を理解した岩手国は、早々に引き揚げたのである。

 その後、遭難に戻った白兵隊は、遭難者を探し当てることができた。

 東京国側、岩手国側の双方に死者はなし。怪我をした者はいたが、浅手であった。

 白兵隊がこれを激賞。

 剣志隊隊長である初芽に、伍長への昇格を打診した。

 白兵隊は、基本的に、剣志隊の上位組織であり、打診といってもほぼ命令に近い。

 とはいえ、山峰の実力と人格は、初芽としても十分に理解できている。伍長への昇格は、きっかけが必要なだけだった。

 初芽のいる隊長の部屋に呼ばれた山峰は、緊張した面持ちで姿を現した。

 体を固くしている山峰に、初芽は優しく笑いかけた。辞令の書かれた紙を黙って渡した。

 渡された文面を呼んだ山峰は、膝を折って泣いた。初芽がうろたえてしまうほどの男泣きだった。

 相当な喜びだったのだろう。普段から真面目な山峰は、以前にも増して精力的に励んだ。

 事件があれば、イの一番に現場へ駆けつけた。

 道場での稽古も苛烈を極めるというくらいに激しいものになった。

 精悍に努めてはいるが、しかし、初芽は心配になった。山峰の仕事に対する姿勢は尋常ではない。自分を捨てに行くようにも見えた。

 だから、宿舎の中で山峰に会う度に、初芽は「無理はするな」と重ねて伝えた。今までに、そうやって命を失った隊士を何度も見てきた初芽は、そう言わずにはいられなかった。

 しかし、そんな言葉をかける度に、山峰は喜び、更に仕事に励むのだった。


 三月。

 二十二歳である山峰が、白兵隊の入隊試験を受ける時期となった。

 しかし、山峰に関しては、伍長であるため、試験らしい試験はない。面接をして、おしまいだった。

 問題なく合格し、四月の入隊を待つだけとなった。

 この時から、山峰の様子が変わった。

 妙に暗い顔をし、何かを考え込むようになった。

 隊の仕事には、今までと変わりなく参加している。

 しかし、以前のように、我先にという態度ではなくなった。

 怯懦というわけではない。その証拠に、斬り合いになった時には、今までのように勇敢に立ち向かう。

 だが、イの一番という態度ではなくなった。

 一言で言えば、暗くなった。

 初芽は、その様子を気にした。

 隊の中でも屈指の使い手であり、言わば、剣志隊の中で最も隊士らしい隊士である男が、打って変わっておとなしくなった事が心配だった。

 ただ、思った通りに行動するのはためらわれた。だから、初芽はただ遠目から見ているだけにしていた。

 山峰も、その初芽の視線は感じていた。そのせいで、初芽の前に出るのを避けるようになった。今までの山峰であれば、率先して挨拶をしていたのに関わらず。

 刻一刻と、四月が近づいてくる。

 あと数日で四月になる、という日。

 山峰は、下男として剣志隊の宿舎で働く浅野(アサノ)から、今日の初芽は書類仕事で忙殺されており、帰宅せずに夜通しで働くと聞いた。

 それを聞いた山峰は、日課としている町の巡回を終わらせた後、道場で稽古をして時間を過ごした。

 泊まる者を除くと、おおよその隊士は、日没くらいの時刻には自宅に戻る。宿直をする者を残して隊士たちがすっかりいなくなっても、山峰は道場にいた。

 一人きりで、竹刀の素振りをしていた。胴着姿である。

 時折、素振りの手を止めて、道場を眺めていた。今まで剣志隊の隊士として過ごしてきた日々を思い返しているのだろうが、それだけでもない。

 また、道場の窓から、外も眺めていた。道場の東側からは、宿舎とは別に建っている本館が見える。そこの三階には隊長室がある。まだ明かりがついているのが見えるから、初芽が仕事はしているのだろうと山峰は思った。

 その明かりが、不意に消えた。今日の仕事を終え、私服に着替え、家に向かうのだろうと思った。

 ふぅ、と溜息をつき、山峰は竹刀や胴着を片付けた。道場の中にいる更衣室で自分の服に着替えた。

 この道場に来れるのは、あと何回だろうと思った。

 山峰が道場を出ようとした時、道場の戸がいきなり開いた。

 初芽だった。誰かがいたとは思っていなかったらしく、目を丸くしていた。

 薄手の革ジャケットに、黒のパンツ。刀をベルトに括り付けている。およそ女性らしい恰好ではなかったが、肩から下げているショルダーバッグは、誰が選んだか知らないが、パステルピンクのポリエステル製だった。

 山峰は、お疲れ様ですと言って、腰を折った。

 初芽は困った顔をして笑みを浮かべた。誰か、電気をつけ忘れたのだと思って道場に顔を出したので、まさか山峰がいるとは思ってもいなかった。

 顔を上げた山峰は、じっと初芽の顔を見つめた。

 見つめられて、初芽は少し緊張した。いつも豪胆な初芽が緊張するというのは、滅多にないことである。

 たっぷり一分ほど黙っていた山峰は、覚悟を決めた。

 それが喉から出すにも勇気が要ったが、山峰は必要なだけの勇気を振り絞った。

「お慕い申しております、隊長」

 その言葉を、いつの頃からか予想していた初芽はそこまで悩まずに、次の行動に移ることができた。

「すまない。君の事は好きだが、恋愛感情ではない」

 きっと、山峰も、その言葉を予想していた。

 山峰はもう一度頭を下げると、道場を出て行った。

 その背中に何か声をかけるべきか、と初芽は思った。

 しかし、何も浮かばなかった。

 四月を迎えて、山峰は白兵隊へと入隊した。

 入隊後、山峰は再び、イの一番で現場に向かい、勇敢に働くことになった。

 もしも、剣志隊での山峰の働きぶりを知っている者がいれば、山峰を諌めたかもしれない。

 だが、白兵隊の中に、山峰を諌める者は誰もいなかった。

 とある日、某過激犯罪組織がとあるビルを占拠しようとした際に、山峰は討ち取られた。人質を救うために、単身で討ち入ったらしい、とのちの報告にある。それはまさに、犯罪者たちが人質を殺そうとした時で、山峰は切り刻まれながらも、悪漢達を斬り倒した。人質全てを助けたことを確認すると、その場で倒れた。致命傷が二か所あり、失血により死亡。

 その報を受けた初芽は、通夜にも出席し、葬式にも出席した。山峰の墓が出来上がると、それにも墓参りした。

 次の年も、その次の年にも、自分は墓参りするだろうと初芽は予感した。

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