第7話 軽やかに、茫々と

 剣志隊の道場で、「たん」という踏み込みの音が響いた。

 決して大きな音ではない。なのに、道場にいた隊士たちは竹刀を持つ手を止めると、一斉にその音のした方へ顔を巡らせた。

 ある一人の剣士が、見事な面打ちで勝ちを得たところだった。

 瞳は相手をしてくれた隊士と共に礼をすると、この日の稽古は終わりとするらしく、道場を後にした。

 その後ろ姿を、隊士たちが見送った。

 瞳は、あくまで一隊士であり、地位が高いわけではない。

 腕も、隊内では巧者と言われる。しかし、随一と言われるほどでもない。

 しかし、その踏み込みは随一と見られていた。

 その剣士は更衣室で防具から胴着へと着替えると、道場の外へ出た。

 外はすっかり日が暮れて、もう暗い。見上げると、満天の星空である。2000年時と比べると、街灯が一切ないので星空がより多く見えるのだった。

 風が吹いていた。

 耳がかぶる程度の短い髪が、そよそよと揺れる。

 隊内では男性と思ってる隊士もいるが、歴とした女性である。

 鯉志川瞳(コイシカワ ヒトミ)。十六歳の高校二年生。


 瞳の「たん」という踏み込みには逸話がいくつかあり、その踏み込みからの打ちは難剣と言われ、隊内ではかわすことは出来ないとまで言われている。

 隊長である武井初芽(タケイ ハツメ)も、二度ほどその踏み込みを受けたことがある。

 一度目は、道場での稽古の時だった。瞳が剣志隊に入隊して僅か数日の話である。

 新人たちに教えをつけやるかと喜び勇んで道場に現れた初芽は、新人たちを相手に竹刀を触れさせることなく一本を取り続けた。

 瞳がその相手になった時も、周りで見ている隊士たちは負けるだろうと思っていた。

 しかし、鮮やかに初芽が一本を取られた。隊内でも屈指と言われる使い手、あるいは最も強いと言われる初芽が、瞳の打ち込みに応ずることすら出来ずに、棒立ちだったのである。

 初芽は、悔しいというよりは、驚いていた。今までに、そこまで鮮やかに打ち込まれたことなど、一度も無かったのだ。

 だが、もう一度立ち会ってみると、瞳が再びそのような踏み込みを繰り出すことはなかった。

 本人としても、意図しての動作ではないらしい。

 二度目は、隊士総出で行われる組手であった。この組手はいつ行うのかは決まってはおらず、たいていは初芽の「そろそろやるか」という一声で開催が決定する。

 これは、隊士たちの武術の腕を競うというもので、発案者の初芽は特に名前をつけなかったため、隊士たちからは単に大会と呼ばれる。優勝すると金一封が送られる。隊士たちは、自分の腕を測ると同時に、お金がもらえるということで、勇んで参加する。

 が、これには仕掛けがある。

 隊士が総出で参加するということは、隊長も参加するということである。

 たいていは、隊長の優勝で終わる。

 これを理不尽だと言う隊士は少ない。それにはきちんと理由がある。初芽がたまには汗を流そうと道場へ行っても、その途端に隊士たちはそそくさと道場を出て行ってしまうので、肝心の稽古の相手がいないのである。誰もかれもが、初芽と剣を交わすことを避けていた。やっても必ず負けるのでは、上達も実感できないし、なによりひどい劣等感に襲われるのである。

 唯一の例外が、初芽の古い友人で、今は剣術指南役を務めている京本房江(キョウモト フサエ)であり、声をかければ組手の相手をしてくれた。しかし、房江は、事務方でもあった。基本的に忙しいのである。

 初芽が存分に腕を振るえる場なのが、この大会なのだった。

 その日、瞳は大会で順調に勝ち進み、決勝まで進んだ。

 相手は、当然のように、初芽。

 初芽は、一度「たん」で一本を取られている。その上での大会である。隊長として、そして剣士として、負けられぬ、と思っている。

 対する瞳は、何も考えていない。無心に至ろうとしているのではなく、元から無心なのだった。

 互いに蹲踞し、審判の「始め」の声と共に、初芽は踏み込み、面へと撃ち込んだ。

 確かにその日の瞳は好調で、普段ならさばけないであろう一撃を冷静に、鍔元で押さえた。

 続けて初芽が胴、籠手、胴と続けざまに打ち込むが、いずれも瞳は見事に受け止める。

 続く初芽の渾身の突きを、瞳は真後ろに飛び退いて避けた。

 初芽には、瞳を休めさせる気などなかった。すぐに踏み込み、勝負を決する気だった。

 その足が止まる。

 踏み込めない。

 飛び退いて下段に構えた瞳を前に、初芽の足が止まる。

 瞳の構えは、気魄が充溢しているというものでもない。冷たい殺気を叩きつけるようなものでもない。

 茫々としている、とまでは言わないが、瞳の構えには力がこもっていない。脱力はしていないが、しかし力んでもいない。

 どこまでも自然体で、まるで、何もしていない時と同じ。

 だが、竹刀を持っていることから、内部に何かを秘めていることは分かる。

 火薬庫を見ている気分にさせられる。別に、火薬庫は勝手に爆発したりはしない。戸が閉まっていれば、賊が中に入ることもない。誰も何もしなければ、おそらく永遠にそのまま朽ちていくだけだ。

 しかし、一握の火をその中に投じれば。あるいは。

 そんな、「あまりに確率が低いが、当たりが出れば恐ろしいことが起きる」という、薄い薄い不安。

 しかし、待っているだけでは何も起きない。攻めなければ変わらない。

 初芽の胆力は常人のそれではない。不安をねじこみ、踏み込むべく足と腰に力を入れかけた瞬間。

 たん。

 そんな軽い音と共に瞳が飛び込む。

 またしても繰り出された、その鮮やかな面打ちを初芽は避けようとした。

 だが、突然目の前に幽霊が現れたかのような、そんな攻撃を避けることは出来なかった。

 この二度目の一本が、隊内でも有名になった。

 曰く、鯉志川瞳の「たん」が出ると、隊長ですらはずせない。

 瞳は、この大会で瞳が初芽から一本を取ったことで、初芽相手に二回連続で一本を取った隊内で唯一の剣士となった。

 以下、初芽のその時の言葉。

「あいつが構えると、どうにも居心地が悪いんだよな。落ち着かなくなるんだ。で、どうしようかっていう考えがまとまった瞬間に、打たれるんだよ。剣で一番危険な時の一つは、攻撃しようとする瞬間だ。守りながら攻撃することは、どんな者にも出来ない。攻撃する瞬間は、どんな奴でも守ることができない。そこを攻撃してくるんだ。ありゃあ、どうしようもない。あれを外せる奴なんているのかな。まあ、いつかは外してやるけどな」

 だが、瞳本人は、そのように意図してはいない。時々、ただの踏み込みが「たん」に化けるのだ。自由自在にその踏み込みが出来るようになれば、おそらくは天才剣士と呼ばれるほどになるだろう。世の中はなかなか上手くはいかない。

 ところで、大会で出る金一封というのが、なかなかの額である。物欲らしい物欲はない瞳は、これをどうしようか悩んだ。

 その結果、刀を買った。MIHASHIというメーカーのモデル「シャーク」という刀で、柄に鮫革が巻かれている。この刀は、瞳のお気に入りとなった(この時代、刀工が手ずから鍛えた昔ながらの刀の他に、大手メーカーによる工場での大量生産品という刀もあった。実用品というよりは、ファッションとしての側面を満たそうという流れが強いため、剣客からは敬遠されることが多い。しかし、時折、そうしたメーカーが刀工とコラボをして実用性とファッション性を同時に満たすことがある。「シャーク」はこの流れを汲んだもの)

 この大会以降、瞳はみんなの注目を浴びるようになった。

 しかし、そうそう「たん」は出ないため、あくまで巧者という評価までだった。手傷も負うし、命を危機に晒したことも一度や二度ではない。

 重要な隊務には呼ばれるが、少数精鋭であたる時は呼ばれない。

 しかし、瞳は気にせず、真面目と言えないものの、黙々と仕事をこなした。

 いずれは白兵隊へと入隊し、そこでも黙々と仕事をこなすだろうと思われた。おそらくは、それまで変哲もない剣士生活が続くのだろうと、瞳自身も思っていた。

「でも、その方がいいよ。大変なのは、嫌いだし」

 そう瞳は言う。

 しかし、そういうわけにもいかなかった。

 そういう意味でも、世の中上手くはいかないようにできている。

 八月の日がよく照っているその日、隊士の一人が他国の過激派と会っているのを見かけた。


 その日も高校の授業を終え、道場での稽古も終えると、井戸の水で軽く顔を洗い、秋田和美(アキタ カズミ)の作った夕食を摂った。

 今日献立は魚のきすの天ぷらに、里芋の煮っ転がしだった。どれも白飯に嫌というほどあう。隊の誰もがうまいうまいと言って食べるのだが、瞳はそれほど喜んでいない。

 仏頂面で、ただもくもくと箸を運ぶ。

 味音痴なのか、と隊士にからかわれることも多々ある。そんな時は、瞳はこくりと頷くだけだ。

 食事中、静かなのは外面だけで、瞳の心中はえらい騒ぎになっている。

(うまい! こんなにうまいもの、どんなレストランとか料亭に行っても食えない! 剣志隊になって良かった!)

 これだけ喜んでいるのだが、表情には露ほども出ない。存外、喜怒哀楽がはっきりしている。それが外に出ないだけである。

 食事を終え、水を飲んでほっこりしていると、浅野が食堂に入ってきた。

「隊長殿からの通達です。隊士のみなさんは、これに目を通して下さい」

 何やら紙を配り始めた。

 瞳もそれを受け取る。

 それは、男の写真を白黒コピーしたもので、その下に何やら書いてある。

 どうやら、人相書きのようだった。

 男の名は、綾井友朗(アヤイ トモロウ)。岩手国出身の、社会運動家。飢狼団という徒党を組み、どこで調達したのか、爆薬で庁舎を破壊した疑いで指名手配されている。他にも、要人暗殺、要人の家族の誘拐、銀行の襲撃、大手企業恐喝など、枚挙にいとまがない。

 金が目的であれば、一銭にもならない犯罪も行う。ではなにか政治の転覆などを図っているのかというと、特に声明を出すわけでもない。

 ただただ、悪を成すのみ。

 そういう生き方しか出来ないのであろう。

 その綾井が、東京国で何度か目撃されているのだった。警察はこのことを重く見て、剣志隊にも捕縛の協力を求めてきたということのようだった。

 瞳は、ぼんやりとその顔を見つめた。

 その写真は、どこかの定食屋でラーメンを食べている時を撮影したもののようだった。顔はカメラの方を向いていないため、判別はしづらい。綾井は、左手で箸を持ち、右手で新聞を持っている。

(左利きなのかな)

 髪は男のくせに、肩にかかるほどの長さ。左目の上に、刀傷の痕がある。目つきがやたら鋭く、まるで爪痕のような細さだった。

 服は、スーツ姿で、ネクタイまで締めている。

 まるでビジネスマンにも見えるが、左の腰に日本刀を提げている。ベルトに、鞘をくくりつける工夫をしているらしい。

 どこかで見たことがあると思ったら、隊士の志位健市(シイ ケンイチ)が同じようなベルトをしていたと思い当たる。

(どこかで、そういうベルトが売ってるのかな)

 もしどこかでこの男を見かけるようなことがあれば、さてどうしよう。何はともあれ、剣志隊の道場まで走って伝えに行くべきだろうか。それとも、その場で斬り伏せるべきだろうか。

(まあ、そんなこと起こることも無いか)

 瞳は、宝くじを必ず一枚は買う。いつかは当たるかもしれないと思いつつ、当たらないことを確認するために買っているふしがある。

 自分は平凡で、なんら特徴もない一般人だから、そうした大きなことにぶつかるわけがない。そう瞳は心の底から信じている。

 信じることで実現させることができるものがあるが、信じていないことが実現することもままある。

 瞳は普段着であるデニムのジーンズにTシャツというラフな普段着に着替えると、人相書きをポケットに突っ込み、自前の刀、モデル「シャーク」を左手に提げて道場を後にした。

 蒸し暑い夜だった。

 こんな日に夜更かししても、何もいいことはない。家に帰ったら、すぐに寝てしまおうと瞳は考えていた。

 瞳の家は、内幸町にある。徒歩で行けば、およそ三十分ほどであろう。

 途中、銀座を通る。この辺りは、夜店やら定食屋やらが並んでおり、瞳にとっては強い誘惑だった。食欲が旺盛なもので、和美の作った夕食の後でも、夜食もとれる。食欲は人並以上なのであった。

 だが、欲のままに食事をとれば、すなわち太る。

 そんなのは嫌だと思えるくらいには、瞳の精神は強靭である。無駄な肉をたくわえれば、剣の扱いの邪魔になり、そして命を落とす。それを嫌だと思えるくらいには、瞳は命に執着がある。

 瞳は目に力を込め、店の看板を見ないようにしながら真っ直ぐに歩いていた。

 しばらく歩いて、銀座に差し掛かる。誘惑は、この辺りが最も強い。

(あぁ、ラーメンいいなぁ)

 しばらくは何ものも見ずに歩いていけたのだが、それはたったの二十歩で終わった。

 ぐぅ、という腹の虫が聞こえたと同時に、瞳は足を止めた。

 右を向けば、ラーメン屋「撃龍」。海老を出汁にしたスープに、よくスープが絡む細ちぢれ麺。具のチャーシューが分厚いので、瞳はこのラーメン屋が大好きである。

 空腹の時に、大好きなラーメン屋の前を通れば、喰わずにいられるものか。

 最後の砦として、今日の夕食の献立を思い出す。

(……今日なら、太らないかな)

 瞳は、自分にそこまで厳しくできない。そのように出来ている。

 さて、手持ちの金でラーメン一杯は食べられるか。出来れば、チャーシューを一枚追加したいところだが……。

 ポケットに手を突っ込んで財布を取り出そうとした時、瞳にとって最高の、あるいは最低の運が顔を出した。

 撃龍の店内は、カウンター席が十個ほどと、テーブル席が二つ。客入りはそこまで良くはなく、半分も埋まっていなかった。

 財布の中に千円札が二枚入っているので、ラーメンは全部のせにしちゃおうかと思った時、店内に知っている顔を二つ見つけた。

 一つは、今日知ったばかりの顔。

 綾井友朗だった。写真で見た綾井もラーメンを食べている時だったので、よく似ていた。いや、本人としか思えない。カウンターの席には、ラーメン丼の他に、餃子の乗っている小皿が並んでいるのが見える。なんて羨ましい。金持ちだ。

 もう一人。

 こちらは、記憶をくすぐる程度しか覚えていない。しかし、おそらくは間違いない。

 剣志隊の隊士、国塚敏郎(クニヅカ トシロウ)。特に目立つような存在ではなく、剣の腕も中の下。二十一歳で、大学四年生なので、来年は白兵隊への入隊考査を受けるはずの男である。稽古もあまり熱心ではない。瞳が彼と道場で立ち会ったのは、恐らく五度もない。もしかしたら一度しかないかもしれない。

 よく見ると、あまり仲良しげではないが、しかし会話はしているのが見てとれる。さて、仲良しなのか。もしくは、国塚は綾井に脅されてでもいるのか。

 ふむ。

 瞳は、刀を引き寄せた。

 まさか、人相書きを見た時に浮かんだ疑問に、今答えなければならないとは。

 急いで道場へ戻るか。

 もしくは、綾井を斬り伏せるか。

 ここで見送れば、もう二度と剣志隊が綾井を捕えることは叶わないかもしれない。道場へ戻るのは良くないように思えた。

 だが、もし万一。

 国塚が、綾井の手の者だったら?

 二対一である。

 自信は無かった。

 しかし瞳は、道場にも向かわず、店内にも入らずに逃げるなんてことはしない。

 そんなことができるほど、隊士としての役目をないがしろに出来るような人間ではない。

 瞳は財布の中から千円札を二枚抜くと、ポケットに突っ込んだ。

 そっと、鯉口を緩める。もし、綾井が刀を抜くのであれば、それに先んじるためである。

 がらがらと戸を横に開いた。

「いらっしゃませぇい!」

 中に入ると、店員が一斉に威勢の良い声を上げる。丼から顔を上げる客が一人いたが、他のものは気にせずにラーメンを食べ続けている。

 瞳は、カウンター席ではなく、テーブル席についた。普通なら二人以上の客がつく席ではあるが、瞳は気にしなかった。

 カウンター席では、綾井と国塚の様子がうかがえない。そして、カウンター席より、テーブル席が好みであった。

「何にしやしょう」

 店員が、怒っているのか笑っているのか分からない難しい顔で注文を聞いてくる。

 海老ラーメン、全部乗せで」

「全部乗せ一丁ぉ!」

 唾が飛ぶくらいの勢いで店員が叫ぶと、同じく「全部乗せ一丁ぉ!」と他の店員が呼応する。

 どちらかというと静かな場所が好きな瞳ではあるが、こういう勢いのある飲食店も好きである。いや、美味しい飲食店ならなんでもいいのである。

 綾井と国塚は、二人してラーメンを食べながら、小声で話している。しかし、余程警戒しているらしく、その内容は聞き取れない。

(どうするかな)

 瞳は机に頬杖をついて、メニューを手に取って見ながら、聴覚を集中させている。

 何か決定的な事を喋ってくれればいいのだが、聞こえないのなら意味がない。

 まだ、国塚が綾井に手引きされているのか、もしくは脅されているのかが判然としない。どちらに転ぶかで、自分の今からの身の振りが変わるのだが。

 やがて、瞳の前に海老ラーメン全部乗せが来た。

 瞳は割り箸を片手で器用に割ると、ラーメンを一口すすった。

(うまい……! 海老スープの風味が、ラーメンの麺とこれ以上無いほどに合っている……!)

 夢中で、今度はスープを飲もうとした時に、「勘定を頼む」という声が聞こえた。

 それは、初めてはっきりと聞こえた綾井の声だった。

 綾井は太っ腹らしく、自分と国塚の二人分の勘定を払って行った。

「毎度ぉ! また、よろしくお願いします!」

 がらがらと戸を開けて、綾井と国塚が出て行く。

(ああ、まだ一口しか食べてないのに……)

 しかし、ここで見逃すことは出来ない。たとえ絶品の海老ラーメンを目の前にしていても、だ。

 瞳は千円札二枚をテーブルの上に置くと、席を立った。おつりは八三〇円であったが、それを受け取る暇もない。

「あれ、お客さん。お釣りは?」

「いらないです。とっておいて」

 まだ何か後方で店員が言っていたが、瞳は二人を追って店の外に出る。正直、海老ラーメンが食べられない羽目になり、泣きそうである。

 見つからぬように尾行する必要があった。綾井の今晩の寝床を突きとめれば、あとは警察隊と剣志隊で包囲すれば、それで事が終わる。

 尾行というと、剣士の仕事からはだいぶ離れている。気は乗らなかったが、仕方ない。

 がらがらと店の戸を開けた。あの二人とどのくらい差が開いているかは分からないが、急がなくては見失う。

 戸から一歩を出した時、瞳の脛を狙って、白刃がきらめいた。

 常人であれば、膝から下を斬りおとされていたろう。瞳は落ち着いていた。敵の踏み込みは浅く、右足しか狙っていない。やるなら両足同時だろうに。そこまで戸の近くにいるのが怖かったのだろう。

 瞳は右足を上げて、刃を避けた。

 同時に、鞘から刀を抜き、左からきた面打ちを受け止めた。

 すぐさま、瞳は前へ飛ぶ。最初の脛狙いから予想していただけに、動きは軽快だ。

 数メートル飛んだ後、瞳は素早く敵へと向き直る。

 続くと思っていた追い打ちは無かった。ラーメン屋の戸の両側に陣取った二人が、刀を手にこちらを向いている。

 綾井と国塚である。

 瞳が剣志隊であること、綾井を探しているという事を既に察知している。返り討ちにしようと、ラーメン屋を出てすぐに陣取って待ち構えていたが、瞳もそれを予想していた。帯刀している女子高生など、余程の物好きか、あるいは剣志隊隊士くらいしか、この東京町にはいない。自分がラーメン屋に入った段階で、警戒されているのは想定範囲内だった。

 髪の長い男と、国塚が瞳を見ている。国塚はばつが悪そうに眉を下げていていて、どうにも不細工な顔になっていた。

「いやあ、さすがですね。仕留められると思ったのですが」

 思っていたより、綾井は柔らかい口調だった。右手で刀を青眼に構えたまま、肩にまでかかっている長い髪を肩の後ろに流した。一瞬とはいえ、片手で刀を持つとは、度胸がある。あるいは、剣の腕に自信があるのか。

「私と彼を、捕えるつもりですか?」

「そうしたいけど、無理そうなら、斬る」

 国塚が、その言葉にひっと顔を引きつらせたが、綾井は声も無く笑った。

「強気なお嬢さんだ。二対一でも、勝てると断言するとはね」

 瞳は刀を青眼に構えた刀を八相に構え直した。右肩のそばに、両手で刀を握った拳を持っていく。

 綾井は笑顔のまま、刀を青眼に構え、呼吸を整える。この場で瞳を斬り伏せるつもりである。

 国塚は、及び腰だった。刀を構えてはいるが、見るからに気が萎えている。隊内で「巧者」とまで言われる瞳を前に、斬り合いたくないという気持ちが勝っている。

 瞳は右足を踏み込み、素早く納刀した。

 駆けた。

 完全に、綾井は虚を突かれた。向かってくると思った相手がその場を逃げ出すとは、少しも思っていなかった。

 瞳は陸上部のクラスメイトが教えてくれたように両手を振って走り続けた。

 数百メートルほど駆けたところで、瞳は後ろを振り向いた。誰も追いかけてはいなかった。

 瞳はそれで安心すると、更に駆け続けた。

 十分ほど駆けたところで、瞳の自宅があるアパートに着いた。

 二階建て、戸数は十という小ぢんまりなアパートだった。瞳の住む部屋は、二階の一番奥である。

 戸を開けると、瞳の兄である鯉志川純也(コイリカワ ジュンヤ)が机に向かって勉強をしていた。年は十九で、昼は本屋でアルバイトをしながら夜は受験勉強をしているという苦学生だった。鯉志川の家はどちからというと貧しい家であり、学生二人を養うという余裕はなかった。純也と瞳は、それぞれ自力で生活していると言える。

 純也は良い大学に入学したいと必死なのだが、性格がおっとりしているか、立場の割には焦燥感や悲壮感といったものは感じられなかった。

「やあ、瞳。今日も無事だったんだな。よかった」

 数学の問題を解いていた右手の動きを止め、朗らかな笑みを浮かべる。

 瞳は兄の顔を見て、ようやく一息ついた。手の甲で額の汗を拭うと、手に持っていた荷物を部屋に置いた。

 玄関をあがると、純也がいる部屋が居間兼台所にあたり、その奥の部屋が寝室である。質素というよりは、みすぼらしいと言えるだろう。

 瞳は食器棚からガラスのコップを取り出すと、水道の蛇口をひねって水を一杯飲んだ。駆け続けて乾いていた胃が落ち着いて、眠気すら湧き上がってくる。

 が、湧き上がった眠気に体を任せる訳にはいかない。

「ちょっと、吉久さんちに行ってくる」

 水を飲み干したコップを台所に置き、荷物も自分の机の上に置くと、刀だけ手に持ってまた靴を履いた。

「何かあったのかい?」

 帰ってきたばかりの瞳がまた外出するというのを、純也は自然に受け入れる。彼は、自分の妹が剣志隊の隊士であることや、その仕事について理解している。今までもそういったことは何度もあった。

「お兄ちゃん、明日もバイトだと思うけど、お休みできないかな」

 少し純也が目を曇らせる。

「何か、事件?」

「まあね。ちょっと、危ない人が東京国に入って来てる。もしかしたら、事件になるかも。そうじゃなくても、国境に警察が張り込むと思う」

「かなり危ないんだね」

 純也は首を傾げて思案しているが、おそらくアルバイトを休んだりはしない。真面目なので、そうそうな理由で欠勤したりしないのだった。

 吉久さんとは、吉久郁夫(ヨシヒサ イクオ)という名の、弁護士をしている男だった。政界や行政にも顔が利き、次の選挙には立候補するかもしれないと周りからは言われている。

 この男の自宅には電話が引いてある。この時代では、かなり珍しい。社会的地位の高さが窺える。

 瞳は、何か剣志隊に連絡したい時は、この吉久の家で電話を借りるという事をしている。瞳の住む家から、電話を引いている場所としては、最も近いのだった。

 万一、綾井や国塚がここまで追って来ている場合、家で籠城戦になるなと思いつつ、瞳が家のドアをそっと開けてみるが、人影は無かった。

 それでも注意深く辺りを探る。電信柱の影、塀の影、木の影。大丈夫だ……。やはり誰もいない。あの二人は、自分を追うのではなく、逃げることを優先したらしい。それも当然か。剣志隊の隊士を一人どうこうしたところで、何かの役に立つとは考えづらい。人質にして、剣志隊を強請るというのであれば話は別だが。

 瞳は刀を収めた鞘を手に、小走りで駆けた。

 瞳の住むアパートの二軒隣が、吉久の家である。

 吉久に迷惑をかけることは絶対に避けなければならない。瞳はもう一度通りに誰もいない事を確認してから、戸を叩いた(あらゆるエネルギーが貴重であるこの時代に、呼び鈴を備えている家は殆ど無い。一部の大手企業のビルを除けば、官公庁くらいしかない)。

 やはり、日が暮れてからの訪問は迷惑だったかな、と瞳の脳裏に少しばかりの罪悪感がよぎる。が、相手は指名手配され、人相書きまで出回るほどの犯罪者である。遠慮している場合でもなかった。

 もう一度瞳が戸を叩くと、中から「ちょっと待ってね」という明るい女性の声がした。

 出てきたのは、綺麗な女性である。この女性が吉久の細君であった。吉久という男は既に五十を超えようかという年齢であったが、その細君は若くて美人である。金持ちだからかなぁ、というのが瞳の感想だったが、以前に吉久からは「ドラマチックだったんだよ」と言われたことがある。細君が恥ずかしそうに目を伏せるあたり、どうやら一席設けられそうな話がありそうだった。瞳はそれ以上聞いたりはしなかったが。

「あら、瞳ちゃん。どうしたの? 電話?」

「はい、そうなんです」

「いいわ。どうぞどうぞ」

 細君がにこやかに瞳を迎え入れてくれる。

 通されたリビングを、瞳は目を細めて眺める。テーブルといい、ソファといい、蛍光灯といい、瞳の家はえらい違いである。これが社会的地位の違いか、と思わざるを得ない。自分は、大人になってもこんな生活は出来ないだろうなという漠然とした予感がある。どうしたら、こんな生活が出来るだけの収入を得られるのだろう。

 ありがたい事に、細君はこの電話機に剣志隊の事務室への電話番号を登録してくれている。おかげで、ボタンを一つ押すだけで繋がる。

 コール音は長く続いた。この時間は、遅くまで剣の稽古に精を出している隊士を除くと、宿直当番くらいしかいない。だが、綾井と国塚の事は必ず伝えないといけない。

 数えて十回目のコール音で「もしもし」という声がやっと聞こえた。

 ああ、と瞳は安心の溜息をついた。

「あの、私、鯉志川瞳です」

「瞳? どうしたの、こんな時間に」

 電話に出たのは、京本房江(キョウモト フサエ)だった。剣志隊の事務方兼剣術指南役である。剣志隊でも屈指の使い手であり、同時に、最も良く働く隊士だった。たまたま宿直をしていたというよりは、この日も何か事務仕事をしていたのだろう。

 瞳は少しばかり安心した。房江は、報告相手としては、とても話しやすいし、その後が楽だからだ。

「えと、私、綾井を見ました」

 少しばかり電話の向こうにいる房江が言葉を止めた。

「綾井って、綾井友朗?」

「はい」

「もしかして、斬りあった?」

「その通りです」

 はぁ、と房江が呆れたように息をついた。

「こうして話してるってことは、あなたは無事だと思っていいのかしら?」

「はい、無事です。しかし、綾井を斬ることも出来ませんでした。国塚もいたもので」

 これには、房江も驚いたらしい。「えっ」という反応をしてくれた。

「国塚って、国塚敏郎? それが、綾井と一緒にいたっていうの?」

「そうです。事情は全然分かりませんが、綾井のために何か働いていたようです」

「あなた、尾けられてないわよね」

「大丈夫だと思います。この家まで、無事に着けましたから」

「ああ、吉久さんのお宅からなのね」

 吉久の家は、房江も知っている。それくらい、剣志隊の中でも知名度がある。

 だからこそ危険なのだった。国塚が、この場所の住所を知っている可能性がある。

「今日は、その家に泊まらせてもらいなさい。万一、綾井や国塚がそこに来たら、吉久さんが危ないわ。あなたが身を挺して守ること」

「分かりました」

 房江のテキパキとした指示に、瞳はホッとする。だから房江が相手だとやりやすいのだ。

「それと、お兄さんもその家に呼びなさい。あなたの家が攻撃される可能性もあるわ」

「助かります」

 瞳にとって、兄が危険に晒されるのが一番恐れることであった。一晩、自分と一緒にいられるのなら、安心できる。たとえ綾井とその徒党が攻めてきて、自分や兄が殺されるような事があっても、自分が戦って守ろうとしたなら、諦めることもできる。自分の知らないところで殺されるなんてことがあったら、諦めきれない気持ちになるだろうと思っていた。

「この事は、すぐに隊長にも伝えるわ。警官隊にも動いてもらって、検問所を設置してもらう。東京国から逃がさないわよ。どこで綾井と会ったのか、詳しく教えて」

 瞳は、銀座のラーメン屋に寄り道したことや、脛からし下を切り落とされそうになったことを詳しく話した。それだけで、房江はこれから剣志隊がどうすればいいかが眼目が分かったらしい。

「明日は学校に行かず、まっすぐ宿舎に来て。隊士総出で捜索することになると思うわ」

「分かりました」

 電話を終えると、瞳は自宅に戻り、勉強をしていた兄を引っ張って吉久の家まで戻ってきた。

 こういった事態は初めてではない。瞳が電話で剣志隊に連絡をする時は、大抵は危急の事態であり、そういう時は大抵は吉久の家に泊まらせてもらうのである。だが、吉久の家からすればいい迷惑だろうに、細君は嫌な顔一つしなかった。

 寝室で寝ればいい、という細君の提案を瞳は断った。もし房江の言う通りに綾井たちが攻めてくるとすれば、ふかふかのベッドで寝こけている場合ではない。今晩は居間を借りて、刀を抱いたままソファで横になることにする。

 純也は瞳に付き合う必要などないのだが、一緒に居間で夜を過ごすと言い出した。うちにはない立派なテーブルに参考書とノートを広げた。

「勉強しなきゃいけないからね」

 そんな兄を見て、瞳は、この男はどこまで真面目なのだろうか、と思う。


 瞳が剣志隊に入ろうと決心したのは八歳の時だった。

 鯉志川の家が裕福ではないことは前述した。

 だが、両親に問題があるわけではない。父も母もいたって真面目で、自分たち家族のためと、世の中の人のために働くという意識の持ち主だった。

 真面目過ぎたのだろう。

 友人に「借金の保証人になって欲しい」という頼みを聞き入れ、その友人が不慮の事故で死んでしまうと、その借金が両親が負うことになった。

 いたって平均的な二人の稼ぎでは、人生を四度はやり直さないと払いきれない額だった。

 東京国にも、現代と同じような破産法は存在している。だが、両親には破産によって借金を免責されることが出来ない理由があった。

 実は父と母が結婚して間もない頃、母が暴漢に襲われた事があった。金を奪うのが目的だったらしい。ちょうどその日は勤めている会社から給料が出た日で、手に持つバッグには、大切なお金が入っていた(この時代、給与の支給は現金支給というのがたいていだった。銀行は大口の顧客のみを取扱い、一般市民が口座を開くということは無かった。電気やコンピュータが希少となった今、紙に名簿をしたため、金の出し入れを紙に記録していくという方法をとるしかなく、そのために一般市民からの預金引き受けるにはあまりに人手がかかり過ぎるた)。

 母は必死に抵抗した甲斐もあって、金は取られずに済んだ。しかし、暴漢どもにひどく乱暴をされ、大怪我をしてしまったのだった。

 その時の治療費のため父は借金をし、そして支払うことができないと判断した父は母の治療が終わると共に破産し借金を免責されたのだった。

 一度破産すると、法律で定められた期間内は破産することができない。

 父が二度目の破産が出来るようになるまで、鯉志川家の生活は辛酸を極めた。生活費は切り詰められ、遊興費にまわせるお金など一円もない。瞳と純也は級友と比べても悲惨と言えるほどの低い生活水準で幼少期を過ごした。

 瞳は思った。早く、自分のことは自分でできるようになろうと。

 八歳の瞳が図書館で調べたところ、最も早く自分で金を稼ぐことができるのは、小説や絵画などの娯楽類で一角の人物になるか、あるいは軍人になることだと分かった。

 東京国の剣志隊の入隊考査資格には、二十一歳以下という事以外に規定が無い。

 武芸と筆記による考査にさえ合格すれば、入隊できる。

 入隊できれば、隊士には給金が出る。年齢の他、手柄によって給金が上がっていくらしいことが分かった。入隊したばかりの稼ぎでも自分一人であれば十分に食べさせることが出来そうだし、真面目に勤めて剣志隊へ貢献できれば、父や母や兄を助けることも出来そうだった。

 狙いを剣志隊に絞った瞳の幼少期は、剣志隊に入隊するためだけの生活を送った。

 およそ、友達と遊ぶということも無かった。学校のクラブ活動といったものにも参加はしなかった。

 小学校の時から、放課後はすぐに働きに出て、日が暮れたら家の近所の公園で竹刀の素振りをした(竹刀は買ったものではなく、ゴミ捨て場で拾ったものだった)。

 勉強も熱心で、分からないことは教師に聞きに行った。勉強した分だけ身につくものだから、次第に授業を完全に無視して、授業中は自分で持ってきた問題集に取り組むという事が習慣となっていた。教師も、勉強熱心なのだなと思い、それを咎めることはなかった。

 両親も応援してくれた。少ない金を集めては、瞳が道場で剣道を習えるようにしてくれたし、問題集も買ってくれた。

 着々と準備を進めていく瞳は、しかし、兄に対しては負い目を感じていた。

 兄も、少しでも早く家族を助けようと考えていたらしいが、瞳とは違い「勉強で良い成績を取り、良い大学に行く」という目標を立てていた。

 本当は、もっと難しい参考書や問題集を買いたかったに違いないし、塾に通ったり家庭教師に勉強を見てもらいたいに違いない、と瞳は思っていた。

 しかし、純也は黙々と、援助らしい援助も受けずに一人で頑張っていた。

 両親は、純也に冷たくしていたという事はない。瞳と全く同じように接していたし、純也にも援助は惜しむ気は無かった。

 しかし、両親が何を言おうとも、純也は柔らかく微笑みながら首を左右に振るのだった。

 瞳は、兄が自分に遠慮しているのだと思っていた。

 自分がいるから、兄が思うように出来ないのだ、と。

 八歳で剣志隊と志した瞳は十歳で初めての入隊考査を受けた。

 鯉志川の家から剣志隊の道場までは三日ほどの距離があり、初日は野宿、残り二日は民宿で泊まった。そこまで苦労して行ったのに、考査に落ちた。

 だが、瞳は微塵も諦めていなかった。

 剣志隊の道場を出る際に、その時の剣志隊隊長、八幡和也(ヤハタ カズヤ)が瞳を待っていて、言葉をかけてくれたからだった。

「君は、とても筋が良かった。足りないのは経験だけなので、今のまま経験を積んで下さい」

 瞳は、少しばかり感激した。そうやって声をかけてくれたのは、考査に落ちた人の中でも特別なのだ、と思った(実のところ、八幡は真面目な男で、この日の考査を終えた後は道場を出た全ての受験者に声をかけていたのだが、瞳はそうとは気づかなかった)。

 次の一年も、瞳にとって決して楽な一年とは言えないが、希望がある分だけ気持ちが楽になった。

 しかし、手を抜いたりはしない。剣志隊に入隊し給金を得るという目的がある瞳は、ただ真っ直ぐに努力を続けた。

 翌年、二七九九年。秋頃に二回目の入隊考査。

 瞳は筆記試験も通過し、武芸による考査においても対戦者として選ばれた三名のうち、二名から一本をとり通過した。

 心に浮かんだのは、喜びではなかった。瞳も意外だった。自宅に入隊の通知に届けば、もっと自分は大喜びするかと思っていたのだ。

 瞳は、合格の通知を見て、安堵していた。心の底からの深い安堵だった。

 はぁ、と溜息をついた。

 これでもう、自分の世話を自分ですることができる。もう、両親の負担になることはない。

 鯉志川の家から剣志隊の道場に通うには、距離がありすぎる。九歳の瞳は即座に引っ越すことに決めた。剣志隊に入隊することを小学校の教師に伝え、転校の手続きをし、転居先の家も自分で探した。引っ越しに必要な金は剣志隊が出してくれるという。豪奢な話ではないか。

 家を出るという日、両親が瞳を送り出した。目に涙を浮かべて、「元気でな、時々は帰って来てくれ」と言っていた。

 瞳も、不覚にも泣いてしまった。

 今まで、自分のために身を粉にして働いてくれたこの両親。今度は、自分が助けることができる。

 兄は、「危険なことはしないように」と言った。両親よりは、剣志隊というものが分かっていたようである。刀を帯びて市井の人々を守るということが、死に直結するということが分かっているようだった。


 そんな兄の純也は、中学校を卒業と同時に家を出た。入試受験に合格した高校は、剣志隊の道場からも程近い場所にあるため、瞳と同じく家を出る必要があった。

 そうして、瞳は純也と暮らすことになった。

 瞳は、アルバイトをしつつ、受験勉強をしつつ日々を過ごす純也に、見張られている気がしている。

 剣志隊となった自分が無茶をして、死んだりしないかを見張っているようだった。


 だから、瞳が居間で目を覚ました時、おそらく兄は居間で早起きして勉強をしているのだと思った。

 そうして、瞳が起きたのを見届けて、朝食もしっかり食べるのも見届け、そして剣志隊の道場へ向かうのを見届けるのばかり思っていた。

 いない。寝る前は、テーブルに向って勉強をしていたはずの純也が、いなかった。

「あれ」

 純也がアルバイトに出かける時間は知っている。それは、瞳が学校か、あるいは剣志隊の道場に行った後のはずだった。純也が先に家を出るということはない。

「なぜ」

 言葉に出してみたけれど、理由までは思い浮かばなかった。

 しかし、兄妹であるだけあって、瞳には全く見当がつかないということでもなかった。

 純也は、飄々としていて周りの雰囲気に合わせて態度が変わるということがほとんど無い。しかし、それは感情が乏しいというわけではなく、むしろ激しい。ただ、それが外に出て来ないだけなのだ。

 瞳は、昨日、家に帰ってきた時の自分の振る舞いを思い出した。

 それは、純也を心配させるほどに、焦っていたように見えてはいなかったか?

「まさか……」

 とは思うが、純也が一足先に家を出る目的は、一つしか思いつかなかった。

 綾井友朗を探しに行ったのでは?


 瞳の考えは、半分当たっていて、半分外れていた。

 確かに純也は瞳のために行動を起こしていた。

 純也がアルバイトをしている本屋は、銀座の商店街にある。開店は十時なので、出勤はその三十分前で問題ないのだが、純也は八時には商店街に現れていた。

 2000年時の銀河と言えば、各種高級店や百貨店が並ぶ街であるが、この時代の銀座はもっと庶民的で、定食屋、八百屋、魚屋などが並ぶ商店街がある街だった。

 純也は、本屋に向かわず、今朝の仕入れを終えた飲食店を回っていた。

「昨日の夜、何か怪しい人は見かけませんでしたか? そういった話があったというだけでも構わないんですけど……」

 純也は、この商店街の本屋でアルバイトを初めて、既に四年目になる。夕食の買い物もこの商店街で済ませるし、服や雑貨も全てこの商店街の店で購入していた。すっかり、商店街の一員である。

 この青年に対し、商店街の人々は優しかった。

「オレは見てねえけど、親父がなんか怪しい奴を見かけたって言ってたな。ちょっと待ってろ、聞いてきてやる」

 仕入れた魚を店先に並べる手を止めて、魚屋の主人が店の中に引っ込んだ。

 純也は、にこにことしたまま、それを待った。

 しばらくして、、でかい魚でも釣り上げたような顔で親父が戻って来た。

「見たってよ。この商店街の、一番いい宿に入って行ったって」

「男が二人ですか?」

「ああ、二人だよ」

 純也は、瞳が電話口で綾井と国塚という二人の名前を挙げたのを聞いている。

 一人は犯罪者だとして、はて、もう一人は剣志隊だ。この商店街で長く働いている老人が見たことがないというのに、少し引っかかった。

 しかし、それで十分だった。

 すぐに吉久の家に戻り瞳に伝えたかったが、自国はもうすぐ十時。真面目なこの男に、アルバイトを無断欠勤するという考え方は無かった。

 その二人の男というのが、予想外に行動が早いということにも、考えは及ばなかった。不幸にも、純也には、剣志隊を狙うという綾井がどのような男なのか、まるで知識が無かった。綾井という男のことを知っていれば、無断欠勤していたであろう。

 本屋の主人に遅れたことを謝り、素早く開店の準備をした。

 午前中は何も起きなかった。

 純也は昼の鐘が鳴るのを待っていた(この時代、時計を持っているのは上流階級を除くと、非常に稀だった。そのため、市民たちに時刻を伝えるために鐘を鳴らしていた。時刻によって鳴らす鐘の回数が決まっており、それによって市民たちは時刻を知ることができた。江戸時代に行われていたことを、この時代でも行われていたのだった)。

 昼の鐘が鳴ったら、すぐに吉久の家に駆けこむつもりだった。

 鳴った。

 純也の代わりに店先に立つべく現れた主人を見かけるなり、純也は家に一度戻ることを伝えて、店を出た。

 出たところまでは良かったが、すぐさま足を止めることになった。

 二人の男が、今まさに本屋に入ろうとしていた。

 一人は、髪が肩にかかるほど長く、左目の上に刀傷の痕がある。もう一人は、丸坊主のスキンヘッドの男だった。

 髪の長い男が言った。

「ええと、鯉志川純也君ですか?」

 なぜ知っているのか、という疑問に、喉が詰まる。しかし、持ち前の正直さが、詰まった喉から素直な言葉を吐き出させた。

「はい、そうです」

 髪の長い男……綾井はにこやかに笑顔を浮かべ……刀のツカに手をやり……

 抜くより前に、綾井と連れの男が後ろに大きく飛びのいた。


 瞳が、MIHASHI製の刀、「シャーク」72.72cmモデル(二尺四寸)で、今まさに綾井に斬りかかろうとしていた。

 驚いたのは、純也である。瞳が刀を抜いている所を見たのは初めてではない。しかし、瞳が人に斬りかかろうとしているのを見たのは、これが初めてだった。

「お兄ちゃん、下がって」

 純也は素直に従った。出かけようとしていた店先から、店内へと後ろずさる。

 しかし、店内の奥まで引っ込むつもりはなく、そこから身を固めて綾井を見ている。睨んでいると言ってもよい。

 瞳としては、姿が見えなくなるくらいに、どこかに逃げていて欲しかったが、本人にその気がない以上、それは望めなかった。

「あなたは、昨日の子ですね。鯉志川瞳ちゃん、ですね」

 瞳は、自分の胸がむかついてくるのを感じた。よく知らない男に名前を呼ばれるだけでも不快なのに、目の前は犯罪者だからだろう。

「うちの兄に、何か用ですか」

「いえね、人質になってもらおうと思いまして」

「それで、どうして私の名前を知っているんですか?」

「そりゃ、国塚さんに教えてもらったんですよ。他の隊士のことも、住所くらいは知ってます」

 瞳は頭の中で舌を打った。

 思った通りだった。

 綾井は、剣志隊隊士の国塚と繋がっている。何が目的かは知らないが、何か剣志隊を害しようとするか、もしくは利用しようとしたのだろう。

 国塚が、剣志隊隊士の名簿を外に持ち出し、綾井に供用したのは間違いなかった。

「国塚君によれば、君に兄がいることが分かった。それで、誘拐しようと思ったんですよ。ですが、彼は朝から商店街のあちこちへ何かを聞き回っている。どうやら、私たちのことを調べているようでしてね。既に剣志隊と彼が通じているなら、待ち伏せがあるかもしれない。そう思って本屋をつぶさに観察していたのですが、どうにもそんな様子がないようでね。昼に外へ出ようとしたものだから、そこを押さえようと思ったわけです」

 つまり、瞳が出るには、最後の機会だったと言える。もし瞳が兄の様子をもう少しの間だけ遠目から見ているだけだったら、この二人に純也が誘拐されるところを見送る破目になるところだった。

 綾井はツカにかけた手を解き、連れの男に目をやった。

「では、後は頼みます。例の場所で待っていますが、待てるのは今日の夜までです」

 男が頷く。

 綾井は背を向け、ゆっくりと離れて行く。まるで犯罪者らしくもなく、それが大物のような素振りだった。

 瞳は綾井を追いかけ、その背へ斬りかかりたかったが、この傍らの男がそれを許しはしないだろう。

 シャークの切っ先を男へ向け、下段に構えた。

「隊士同士で斬りあうなんて気が進まないけど、やろうか、国塚」

 男が口元に小さく笑みを浮かべた。

 その表情で、この男が、国塚でないことが分かった。

 丸坊主にしているのは、人相を変えて追ってを振り切るためだと思っていた。違うらしい。この男は、国塚でなく、別の男だった。

「聞きたいんですけど、国塚って男には、会った?」

 男は笑みを消さない。

「会った。だが、話はしていない。あの男は綾井さんに捨てられた」

 ああ、そういうことか。

 剣志隊の国塚から情報を受け取ったはいいが、自分がその場を目撃してしまった。そのままなら、初芽のスケジュールやら、剣志隊の宿舎の合鍵やら、外部に出してはいけないものを洗いざらい持ち出されていただろうけど、瞳が目撃したことによって、その計画は頓挫してしまったのだろう。

 国塚は用済みになったのだ。

 この丸坊主の男は、ただの綾井の用心棒か、あるいは部下なのだろう。綾井が組織している餓狼団の一員なのだと瞳は思った。

 丸坊主の男は油断なく瞳の挙動を見つめたまま、ゆっくりと刀を抜いた。

 隙あらば切り込んでやろうと瞳は思っていたが、その隙は無かった。

 瞳は下段、男は上段に構えた。

「やり合う前に聞いていいですか」

 瞳の質問に、男は少しだけ眉を動かした。

「なんだ」

「名前、聞いていいですか」

 その質問に、男はさっきしたように、口元に小さい笑みを浮かべた。

「そんなことを聞いてどうする」

 もちろん、この争闘が終わったら、名前を報告して調べてもらうためである。

 そう思ったのだが、男は何も答えなかった。

 ちぇっ、と瞳は名前を聞き出すのをあきらめた。そんな簡単に運ぶものではなかった。

 男は気合を発すると、真っ向から切り下ろしてきた。

 瞳はそれを物打ちでさばくが、手首に尋常でない重みを感じた。男女の膂力の差を考えても、この差は大きい。

 この男、並大抵の使い手ではない、と瞳は思った。

 二撃、三撃、と続く男の剣を嫌って瞳は後ろに飛びのいた。

 視界の端に、兄が写る。

 ああ、お願いだ。

 こんなところを見ないで欲しい。

 斬るのも、斬られるのも嫌だ。

 一人きりなら、構わない。知らない人間が見ていてもいい。

 だが、家族には。

 自分の体が固い、と瞳は思った。いつものような自然体で刀が振るえない。

 そんな瞳の不調に、男も気づいていた。

 男はさらに調子付き、瞳の頭頂に向かって、雷のような勢いで刀を振り下ろした。


 何度か記述しているが、瞳は隊内で巧者と呼ばれる。

 それは、「たん」と呼ばれる踏み込みだけではない。

 一つに、体のこなしが剣士らしからぬ動きを見せるところも、よく隊内では話にあがっている。

 下段に構えていた瞳は、突然に右足を踏み鳴らし、その爪先で男の喉元を狙った。

 剣だけに全神経を集中していた男は、瞳の蹴りで大勢を崩した。切り下しの斬線が歪になり、揺れた。

 あろうことか、瞳は男の刀を蹴飛ばした。

 止まっているならいざしらず、自分を斬ろうとする刃物に足で触れるなど、とんでもない丹力である。

 揺れた男の体は、攻撃も防御もとることなど出来ぬ。

 瞳は蹴り上げた足を勢いそのままに、地面を踏み込んだ。

「たん」と呼べるほどではなかった。が、その勢いは、体制を崩した男が構えを取り戻すまでの一瞬の間に入り込んでいる。

 横っ飛びに飛びつつ、瞳のシャークは男の右胸を下から切り上げる形で切り裂いた。肝臓を真っ二つに切り裂き、肋骨を砕き、肺臓を潰した。

 右半身から血を撒き散らしながら、男はぼんやりと瞳を見やった。すぐに手当すれば命は取り留める傷ではあるが、それらをいっぺんに、一瞬で負ったとなれば、生まれる痛覚は尋常ではない。男の精神が瞬時に停止して、体になんの命令を下すこともなく、男は倒れた。その後数秒して、男は絶命した。

 瞳は、自分が荒く音を立てて呼吸をしているのに、やっと気づいた。どうやら死に物狂いだったらしい。

 懐紙を取りだし、シャークの刃についている血を拭うと、震える手で刀を鞘に納めた。

「……お兄ちゃん」

 やっとの事で絞り出した声は、純也に届いた。

「なに」

「今日、アルバイトは早退してよ。家に、一緒に帰りたい」

 そんな形でも、瞳が兄に甘えるということは少ない。純也は驚いていたようだった。

 やがて、「店長にお願いしてみる」と言って、やっと店の中に引っ込んだ。

 兄の視線が無くなって、瞳はその場にへたりついた。

 今、生きている。真剣で斬り合ったが、まだ生きている。

 死んでいないという事に違和感を覚えるほどに、死線に迫っていたようだった。

 改めて、自分がどのような仕事をしているのだと理解させられた。

 人はいずれ死ぬが、剣志隊にいるという事は、ずいぶんと寿命を縮めることになるだろう。

 そうすれば、兄とも、郷里にいる父や母と一生会うことは出来なくなる。自分を今まで育ててくれたもう父や母に報いることが出来なくなる。

 死ねば、出来なくなる。


 瞳の報告を受けた初芽は、東京国から逃げる綾井を捕らえるべく、警察隊と協力して捜索をしたが、見つからなかった。

 瞳が切り倒した男も検分されたものの、名前も分からなかった。手持ちの財布には、かなりの金額を持っていることから、綾井から報酬を前金で受け取ったか、よほど遠くから東京国へ出張ってきたのだと予想されたが、真相は不明のままだった。

 警察隊による東京国の国境での警戒は続いているが、綾井や国塚はその姿を現していない。警戒網が早々に国境を抜けていたか、あるひあ、警戒網が解けるのを待っているか。

 もし後者であれば逮捕するまで警戒網を解くわけにはいかないが、いつまでも警戒に警察隊の人員を割くわけにもいかない。都市部で働く警察隊の人数が減れば、治安悪化が懸念されるからである。

 初芽から、警戒網を維持できるのもあと数日だろう、と瞳は聞いた。

 その日の夜、瞳は家で愛用のシャークの刃を研いでいた。剣士は自分で研ぐことはせず、専門家である砥師に出すというのが普通なのだが、瞳は刀を研ぐのが好きだった。とはいっても、やはり専門家ほどに上手くは研ぐことはできない。あくまで、寝刃を研ぐ程度のことしかできない。それ以上に、瞳は自分の使う道具の手入れをするのが好きなのだった。

 研ぎを終えて、シャークを鞘に納める。

 兄の純也は、いつものように机に向かって勉強をしている。だけど、どことなく上の空なのは瞳にも分かった。

 こんな夜分に刀を研いでいるその理由に、不穏なことしか浮かばないのだろう。

 まさしく、瞳はその不穏なことをしようとしている。

「ねえ、お兄ちゃん」

 声をかけると、一呼吸置いてから、純也は顔を向けた。

「どうした」

「もしも、私が死んだら、お父さんとお母さんをよろしくね」

 その言葉に、純也は顔をしかめた。

「そんなことを言ってはダメだ。絶対に、死んではいけない」

 次に顔をしかめるのは瞳の番だった。

「私は、剣志隊の隊士だよ。この間みたいに斬り合いになれば、死ぬかもしれない」

「瞳は忘れている。お父さんとお母さんのを助けられるのは、僕たちしかいないんだ。瞳が死ねば、僕一人だけになる。それは、絶対に駄目だ」

「でも……」

「もし死ねば、瞳が剣志隊に入隊する時に、反対しておけばよかったと後悔するよ」

 瞳は目を丸くして驚いていた。そんな風なことを考えたことは無かった。

 自分一人で食い扶持を稼ぎ、両親を助けられれば、それで良いと思っていた。

 そのままでいれば、自分の存在が両親や兄の負荷になると考えていたからだった。

 だから、自分が剣志隊の入隊考査に合格した時、両親がそれに反対するなど、少しも考えなかった。止めておけばよかったと後悔するだなんて、微塵も思いつかなかった。

 剣志隊で働くために家を出た後、兄は両親とそんな話をしたのかもしれなかった。

「もし瞳がこれから死ぬかもしれないだなんて思っているのなら、僕も一緒に行く。瞳を死なせたりしない。僕も死ぬわけにはいかないから、二人で生きて帰れるようにする」

 純也は真っ直ぐに瞳を見ながらそう言った。

 そこには、決意があった。

 瞳が持ってはいない種類の決意だった。

 だが、その決意は瞳にも伝わった。

 瞳は立ち上がり、出かける支度を整えた。

「シャーク」72.72cmモデル(二尺四寸)を腰に帯び、移動に必要なだけの金を財布に入れ、靴をはいた。

 ドアを開ける前に、瞳は純也の方に振り返った。

「絶対に生きて帰ってくるよ。だから、お兄ちゃんは家で待ってて」

「ああ、分かった。気をつけて行ってくるんだよ」

「うん」

 家を出た瞳は、西へ向かった。旧新宿区、旧渋谷区の辺りである。

 東京国の国境の西側は、その辺りに構えられている。その中でも最大の検問が敷かれているのは、今の都庁のすぐ近くにある、旧新宿中央公園である。

 家を出たのは二十時頃であったが、旧新宿中央公園にある検問に着いたのは二十二時ほどであった。

 検問にいる警察隊の警官に、剣志隊隊士であることを示す証書を見せると(剣志隊には、そのような証書が配られている。警察官が持つ警察手帳と同様で、紛失されたり奪われたりすると、支給された者にとって大きな汚点となる)、今までの状況を教えてくれた。

 綾井、国塚の人相書きはこの検問にも届けられているが、姿は現していない。

 今は警戒中で増員されているが、警戒はあと一日で解かれる予定。

 分かったと伝え、瞳は一時間ほど検問の休憩所で体を休めると、検問を抜け、更に西へ向かった。

 時刻は、既に二十四時に近い。月明かりの他は、ずっと遠くに電気による明かりが小さく見えるだけだった。 瞳が歩く道は、東海道であった。このまままっすぐに向かえば京都国に入る。

 しかし、瞳は、そこまで歩くことはないだろうと踏んでいた。

 時刻は分からないが、月の明かりが一際明るくなった。そろそろ日付が変わるな、と瞳はぼんやり思った。

 こんな夜中に出歩くのは、余程道を急ぐ者か、そういった者を狙う山賊の類しかいない。

 だから、道から少し離れた木の根元でうずくまる人影は、酷く目立った。

 瞳は歩みを止めず、しかし左手で鯉口を緩めた。

 ずんずんと間合いを詰め、距離は十メートル。

「国塚!」

 瞳が叫んだ。冷たく沈んだ夜の闇に、瞳の声がシンと響いた。

 その者は、余程驚いたのだろう。座ったままびくりと肩を震わせ、立ち上がった。

 右手に、鞘を握っている。

 左手には、何かノートを握っていた。

「国塚」

 今度は、瞳は静かに呼んだ。

 その者が顔を上げる……男だった。綾井よりも長い髪をしていて、眉を剃っていた。

 浅ましい顔だ、と瞳は思った。

「国塚だな」

「な、なんで……俺がここにいると分かったんだ……」

「警察はあんたを見つけられなかったけど、剣志隊の諜報方はあんたを見つけていた。でも、隊長は追跡命令を出さなかった。もしあんたを追って、餓狼団と出くわしたら死傷者が出るかもしれないってね。だから、あんたなんか放っておけ、と隊士たちには言ってたんだ」

「なのに、なんでお前は……」

 瞳はシャークを抜いた。月明かりが刃を青く照らし返す。

 慌てて国塚も刀を抜いた。瞳に抜かされたようなものだ。

「隊士の名簿が一部、失くなっていた。あんたが持って行ったことは予想がついた。だから、あんたを追ってきた」

 その名簿が、今も国塚が大事そうに左手で持つそれである。

「それを売る気でしょう? 餓狼団に捨てられたあんただから、別の犯罪者に売り込むだろうと思ってね」

「阻止するためか。なんで、わざわざ来たんだ。俺がどこの誰に名簿を売りつけたところで、剣志隊にとってはなんでもないだろ。紙の印刷代がそんなに惜しいのか?」

「違う」

 瞳は刀を下段に構えた。

 落ち着いている。

 目だけは、国塚への殺気を隠さない。

「その名簿が外部に出たおかげで、ほとんどの隊士が引っ越しする羽目になった。犯罪者に住所が知られれば、隊士たちの身が危険になるから。あんたのせいだ」

「お、俺を殺すつもりか」

「剣志隊の仲間を危険にするやつを、私は許さない」

 本物の殺気にあてられて、国塚は刀を構えた。

 しかし、心中は穏やかではない。目の前にいるこの少女は、明らかに自分より強い。

 瞳はあくまで自然体だった。先日、あのスキンヘッドの男と斬り合った時のような焦りはない。ただ静かに剣先を揺らして、下段に構えている。

 国塚は、切り込むか迷っている。瞳にどう斬りかかればいいか分かっていない。

 かといって、逃げることもできない。背を向けて走ったところで、逃げ切れる気がしない。

 なら、切り込むしかない。活路を見出すしかない。

 なにせ、男女の性差がある。押し込むんだ。力で押し切るんだ。

 斬るんだ。

 国塚は刀を握る手に力を込め、足を踏み込んだ。距離はたったの数メートルしかない。踏み込めば、刀は届く。押し切ってやる、と国塚は気合をみなぎらせた。

 勝てる、と思った。

 直後、「たん」という音を聞いた。冷たい床にゴムボールが跳ねるような、金属バットで硬球を打ったような、軽やかな音だった。

 国塚の意識が、突然消えた。

 おそらく、自分が斬られたことにも気づかなかったに違いない。

 裏切り者としては、ごく慎ましい最期だった。


 瞳は国塚の遺体をそのままにし、名簿だけを取り戻して検問へと戻った。遺体の処分は検問にいる警察隊に頼んだ。検分はいらないのですか、と聞かれた。不要だと瞳は答えた。

 この後、瞳は初芽に一週間の休暇が欲しいとお願いした。

 兄と一緒に、郷里へ戻って親の顔が見たい、と話をした。

 初芽は快諾した。

 郷里へ戻ったら、父や母と話をしたいことがたくさんあった。

 それは、瞳の、剣士として必要な会話になるはずだった。

 死ぬわけにはいかない。

 それを確認するためだった。

 その後、純也は東京国の防衛大学に入学した。ゆくゆくは軍人になるつもりだった。瞳からしたら意外ではあったが、しかしよく考えると、意外でもないと思い当たった。

 瞳や純也が、まだ一人では自分の食事を手に入れることすらできない頃、自分たちを守り、育ててくれたのが父と母だった。その経験が、強く、誰かを守らなくてはという気持ちを育んだのだろう。

 郷里から帰ってきた瞳が道場で稽古に励んでいると、隊士たちは、以前より「たん」が繰り出されることが多くなった、と口々に言った。

 何か変わったことがあったのか、という質問に、瞳は柔らかい笑みを浮かべて、しかし何も言わなかった。

 両親と話をした事で、心境に変化があったのだろう。

 瞳は、それを誰かに話すつもりはなかった。

 今は、それでいい、と思っている。

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