第6話 金髪の少女
棚網圭子(タナアミ ケイコ)は中学二年生の十四歳である。
真面目な性格であるため、学校をさぼるということはない。
そのため、道場に朝からいるという日は、学校が休みの日に限られた。
その日は土曜だった。
朝起きて、風呂場で水を浴びて全身を引き締める。その後、身支度を整えて家を出た。その時に、父親が神妙な顔をして見送ってくれた。まだ、娘が剣士をしているということを受け止めきれていないようだった。
道場に着くと、道場の周りをぐるぐると三十分ほど走り込んだ。その後に汗を宿舎のシャワーで洗い流すと、道着姿で炊事をしてくれている秋田和美(アキタ カズミ)の作ってくれた朝食を食べた。この日は塩のおにぎりと味噌汁という簡素なものだったが、目が覚めるほどに美味しい。圭子は、そのおにぎりをまじまじと見つめた。ただ塩で握っただけの握り飯なのに、なぜこんなに美味しいのか。何か妖しい術でもかけているのだろうか。
朝食を食べ終えたら剣の稽古である。
この日は、圭子以外に、羽場紗江(ハネバ サエ)が来ていた。ジャージ姿である。圭子が朝食を終えた頃にやって来ると、食堂で勉強道具を広げていた。午前中は勉強に時間を充てるらしい。
圭子は、この中学三年の紗江と同日に入隊している。いわば同期とも言えるのだが、あまり話をした事が無かった。
紗江は、隊の中でも既に指折りの剣士とされている。荒事が起きると、隊の中の練達者が選ばれ派遣されるのだが、紗江もたいていは呼ばれていた。目立っていた。
対して、圭子はまだ新人扱いをされている、と感じている。剣の腕もまだまだだ。
だからこそ、稽古を重ねて上手くならなければならない、と思っている。
数学の教科書を開いて、眉をしかめている先輩を眺めてから、稽古は道場へ向かった。
今日は、まずは軽い木刀で素振りをしようと考えている。そのうちに道場へ誰かが来るだろうから、その時は組手でもしようと思っていた。
さて、道場に入ろう、という所で、見知らぬものを見かけた。
道場の入り口、その戸の前に置いてある。
その見知らぬものは、金色のふわふわした毛と、土で汚れた白い布で構成されていた。
いったいこれはなんだ、と圭子は足を止めている。
まずは近づいてみるか、と思った時に、その金色の毛と土で汚れた白い布が、がば、と顔を上げた。
人間だった。
それも、外国人だった。その上、女の子だった。
年齢は、自分と同年代のようでもあるし、圭子より年上のようにも見える。肩も腰も細く、体にも腕も足にも余分な贅肉など微塵もついていない。なのに、はっきりとした胸の膨らみ。
なぜだ、と圭子は強く思った。なぜそんなにはっきりとした大きさなのだ。
その次についたのが、瞳だった。見たこともない、ブルーの瞳。
その瞳は、驚きと疲れで、ふるふると震えているように見えた。
さて、どうする?
外国人は、この時の日本においては異端極まる存在である。
なにせ、日本が鎖国政策を行っているのは、諸外国での致死性感染症の蔓延が原因である。
この時の日本に、外国人の存在は皆無と言って良い。
それでも、時折、外国人が現れる時がある。大抵は密入国であった。その場合、東京国のみならず、大抵の国は、即座に捕殺する。感染症を持ち込むかもしれない、というのが理由だった。
処刑されたという旨は、市民に広く知らしめる。また外国人を見つけるようなことがあれば、すぐに知らせろという事だった。
この異端の者から感染症が広がるかもしれない、というのは一般的な市民の常識と言える。
それは、剣志隊も例外ではない。
圭子についても、それは全く同様だった。
外国人など、見たことがない。写真であれば、本で見たことがある。動いている外国人も、数回だけ見た事がある映画で見たことがある(映画館というものはない。映画を視聴するには、図書館の視聴覚室で見ることができるが、いつも長蛇の列を作っているので見ることは難しい。自宅で、フィルムやディスクのプレイヤーを持っている者もいるが、それは余程の好事家か、上流階級の家庭に限られる)。
しかし、動いている外国人を直に目で見るのは、これが初めてだ。
はっと気づいて、圭子は息を止めた。この外国人が吐いた息を自分が吸うのは良くない、と考えたからだった。
その外国人の少女は、怯えた表情をしたまますっと立ち上がった。逃げるつもりだ、と直感した。
息を止めたまま、圭子は「待って!」と叫んだ。
叫んだところで、もう肺の中の息を使い切ってしまったので、圭子はあきらめてまた普通に息をした。
待ってと言われた少女に、果たして言葉が通じたのだろうかと思った。が、少女は言われた通りに動かなかった。
さあ、どうする? 次の一手は?
「ちょっと待っててね。ど、どこにも行かないでね」
日本語が通じるかどうかは分からない。だが、圭子は手の平を見せて「待ってて」と連呼しつつ、目を合わせたまま後ろ足で下がった。宿舎の玄関口にまで来たところで、少女がどこにも行こうとしないのを確認したのち、圭子は背中を向けて全力で走った。
食堂まで来て、誰に助けを求めようと思ったが、そこには紗江しかいなかった。まだ数学の問題に悩んでいるらしく、片手で頭を覆っている。
真面目に勉強へ取り組んでいる所申し訳ないが、助太刀してもらえるのは彼女しかいない。
「あ、あの」
声をかけられた紗江が、悩んでいる顔のまま圭子の顔を見た。声をかけられたことは分かっているが、なぜ声をかけられたのかは見当がつかない様子だった。
「えっと、その……」
どう説明したらいいか圭子も分からない。なぜ、外国人の少女が、剣志隊の道場にいるのかも分からないのだ。説明しようもなかった。
「ちょっと、来て下さい……!」
「な、なんで」
「いいから、ちょっと……!」
圭子は、紗江の腕を引っ張って、無理やりに道場まで連れて行った。
果たして、道場の入り口には少女が立っていた。再び圭子が現れて、ほっとしたようである。
紗江も、さっき圭子が見て驚いた時と同じように驚いている。
「なんで、こんな所に、外国の人が……?」
「私も分からないです。道場で稽古しようとしたら、この人がいて……」
「で、どうするの?」
「どうしたらいいんでしょう……」
どうしたらいいか分からないから紗江を連れてきたわけであるが、その紗江にだって分からない。
どうしていいのか分からないのは、その少女も同じのようだった。困りきった顔で、圭子と紗江を交互に見ている。
三人の女の子が、土曜のまだ朝といえる時間に、お互いを見ながら固まっている。
一番最初に金縛りが解けたのは、圭子だった。慌ててはいるが、頭の中で状況を整理し始めた。
このまま、この状況を放置したと仮定する。
この道場から、表の通りまで三十メートルあるが、目が良ければ、頭が金髪の女の子の姿は見えるはずだ。道行く人は、すぐに警察に通報するだろう。即座に警察が剣志隊にやって来て、この青い瞳の少女は連れていかれることになる。
その後、おそらく、何らかの処分が行われることになる。
それは、まずい。何がまずいかって、こうして今目の前にいる女の子が殺されるというのは、理屈抜きに、嫌だった。
だから、このまま、ここでこうしているわけにはいかなかった。
「羽場先輩……」
「なに」
「まずは、隊長に伝えた方が良いと思います」
「ちょっと待って」
ものすごく真剣な顔の紗江が、圭子を遮った。
「ど、どうしたんですか?」
「その、羽場先輩っていうのは、やめて欲しい。同年代の人は、みんな私のことは名前で呼ぶから」
「じゃあ、えと……」
「紗江って呼んで。先輩ていうのもいらない。私と棚網さんは、学校同じじゃないし」
「じゃあ、えっと、紗江さん。私のことも、名前でいいです。私だけ苗字じゃ、変だから」
「分かった。名前は……なんだっけ」
「圭子です」
「分かった。圭子ね」
「……」
「……」
二人して、真面目な顔して見つめ合っていたが、圭子が一番最初に言ったことに紗江が答えてくれていない。
「それで、隊長に伝えた方がいいと思うんですが……」
「あ、そうだった。ごめん」
この異常事態ではあるが、この人は抜けている所がある可愛らしい人なのかもしれない、と圭子はふと思った。
「隊長の所に行く人と、この子を見ているの、どっちがいいですか?」
「私が見張ってる。圭子が行ってきて」
「分かりました」
「その前に、刀持ってきて。もしも……」
その後の言葉を、紗江は切った。
この少女が逃げるようなことがあれば、その場で斬り伏せる、ということだろうか。恐ろしくて、紗江の考えている事を問い質すことはできなかった。
圭子は走って食堂に行くと、紗江のバッグの傍に置いてあった鞘を手に取った(三代目田路純太作の二尺二寸。入隊時に支給された早良入道の二尺二寸一分は、伊勢という男との闘争で折れてしまっている)。
紗江の所まで戻ると、鞘を渡した。紗江が、この刀を抜くことにならないようにと願うばかりだった。
圭子は本館の三階まで走った。
やはりというか、隊長室の戸を叩いても中からの反応は何も無かった。隊長はまだ来ていないらしい。
隊長の自宅がどこにあるかは、圭子は知らない。
どうするか考えている時に、本館を掃除している浅野(アサノ)を見つけた。
浅野は、住み込みで働いている二十二歳の仕事熱心な男だった。ひどく痩せていて、圭子は見ているだけでひやひやするほどだった。
その浅野も、箒を片手に稽古を見つけた。
「おや、どうしたんですか? 棚網さん」
「隊長を探してるんですけど、隊長室に誰もいなくて……」
「まだ来ていないようですよ。そろそろ来られるとは思いますが」
「すごく急いでいるんです。あの、電話を使わせてもらって良いでしょうか」
「それは、もちろん。案内しますよ」
電話は、大抵の公的機関には用意されているが、急務でない限りは使用することはない。制限されているという事はないのだが、公務にしか使わないため、平隊士である自分が使うのは遠慮がある、と圭子は思っていた。
しかし、今は公務である。しかも急務であった。
隊士も使える電話は、本館一階にあった。
プッシュ形式の電話機である。圭子は受話器を取った。
さて番号を、というところで圭子の指がはたと止まる。隊長の自宅の電話番号を知らない。
「あ、浅野さん!」
箒を片手に掃除に戻ろうとた浅野を呼び止める。
無論のこと、浅野は隊長の自宅の番号を知っている。今までにも何度もかけたことがあるのだろう。圭子から受話器を受け取ると、軽やかに電話機の番号を押した。
プルルルル、と相手を呼び出す音が受話器から聞こえてきたところで、浅野が受話器を圭子に渡す。
圭子が電話と使うのは、実はこれが初めてである。この機械が、遠方にいる人と話ができるというのは理解できるが、機械を通じてする会話というものがどういったものなのかは、初体験であった。
三回のコールの後、先方が出た。
「はい、もしもし。武井ですけど」
ああ、隊長の家には電話が引いてあるのか。さすが隊長、と圭子は納得してしまった。もちろん、圭子の家には電話などない。
「あ、あの、私、剣志隊隊士、棚網圭子と申します」
「ああ、はいはい、剣志隊の人ね。初芽なら、もう家を出たわ。あと少ししたら、そちらに着くと思いますよ」
「わ、分かりました。ありがとうございます」
圭子は受話器を置いた。
初めての電話の会話は約十秒ほどだったが、心臓が強く打っている。
しかし、これで、もうじき初芽が隊舎に来ることは分かった。それまでどうするか、だが。
「何があったか、教えてもらってもよいですか? 私にも、何かできることがあるかもしれないので」
圭子が電話をしている最中も傍にいてくれた浅野が、遠慮がちに、しかし、はっきりと聞いた。この男は隊士ではないが、この男なりに剣志隊に尽くしてくれている。
「実は……」
外国人の女性が敷地内に入ってきている、という話を聞いて、浅野は「それは大変だ」と圭子と一緒に道場入口まで戻った。
そこでは、紗江と外国人の少女が、先ほどまでと同じ立ち位置で見つめあっていた。しかし、紗江の左手は鞘の鯉口を切っている。万一、外国人の少女が何か行動を起こせば、すぐさま抜き打ちに斬るつもりなのかもしれない。
「本当に、外国の人なのかぁ」
浅野は、青い瞳の少女を見て、独りごちた。
少し浅野は何かを考えていたが、道路の方を振り返り、よし、とまた呟いた。どうやら、圭子と同じ考えに達したらしい。
浅野は手ぬぐいを顔に巻き、右手にも巻くと、その右手でそっと少女の手を掴んだ。顔の手ぬぐいは、少女の呼気を吸わないため、手に巻いたのは、素手で触らないためと分かった。浅野も、素手で触るのは怖いらしい。
浅野は、少女の手をぐい、と引っ張った。そのままぐいぐいと引っ張っていく。その先は、宿舎である。
その引っ張り方が少々乱暴だったので、優しくして欲しいと言おうとしたが、「あ……」と言葉を詰まらせるのが精一杯だった。
少女は、痛そうにしている。浅野の腕は細いが、それでも少女よりもずっと力は強いだろう。抵抗をしないのは、素直だからか、抵抗しても無駄だと思っているからか。
「浅野さん」
紗江が、唐突に声をかけた。もう、鞘には手をかけていなかった。
「強く引っ張らないであげて下さい。その子、痛がってます。大丈夫、きっと逃げませんし、もし逃げても私が止めます」
「……分かりました」
すごいなぁ、と圭子は目を丸くしていた。紗江さんてば、やる時はやる人なんだ。
浅野が青い瞳の少女を連れていったのは、宿舎一階にある拘置用の部屋だった。剣志隊は、その任務上、捕えた者の身柄をどうするかが決まるまで、拘置するための部屋を用意してある。鍵を外から掛けられる上に、窓もない部屋のため、外に出られるような部屋ではない。戸には、中の様子を見るためのガラスがはまっている。まさに、閉じ込めるための部屋だった。
「すまんね」
浅野が軽く頭を下げると、戸を閉じて鍵をかけた。
戸を閉じきる寸前に、圭子に少女の顔が見えた。怯えていた。圭子は、自分の胸がぎゅぅっと締め付けられるのを感じた。
浅野も、その少女が罪人だとは思っていない。だが、外国人が外を出歩いていれば、大きな問題になる。浅野の考えは、理に適ったものと言えるだろう。
その後、圭子は道場へ、紗江は食堂へ戻って、土曜の午前の時間を過ごそうとしたが、すぐに隊長室に呼ばれた。
隊長の初芽が、本館に着いた。
圭子は、初芽の私服は見るのは初めてかもしれない。
圭子と紗江が揃って隊長室に入った時、初芽も来たばかりのようだった。革のジャケットを脱いでハンガーにかけていた。その下は黒いTシャツに黒のパンツ。まるで男性モデルのようだと圭子は思った。
隊務にとりかかる時はおおよそ和服を着ているので、初芽は公私でファッションを切り替えるようにしているらしい。
髪をまとめていたバレッタを外すと、ざあと音を立てて腰まで黒髪が落ちた。
「あの……、出直した方が良いでしょうか」
圭子がおずおずと聞くと、初芽は人懐っこい顔をして首を左右に振った。
「いや、いいよ。着替えるのは後にする」
圭子と紗江は、横に並んでぴしりと直立していた。それに大して、初芽は机に尻を乗せると、くつろいでいる風を見せた。
「それで、その外国人の少女を見つけたのは、お前たち二人なんだな」
「見つけたのは圭子です。その後、私が呼ばれて、その後に浅野さんが宿舎まで連れて行ってくれました」
紗江が説明してくれた。学校の勉強は苦労しているらしいという話を聞いてたことがあるが、頭の回転は速そうだ、と圭子は感じた。
「よくやってくれたな。ありがとう。そのまま外を出歩いていれば、殺されていただろうからな」
初芽も、圭子が思っていた通りに考えていたようだった。
「もう、役人には連絡した。そのうちに、来てくれるだろう」
「役人というと……連れて行ってしまうのですか?」
どこかの刑務所へ。圭子はそのように思って聞いた。
「いや、違う。そうなる可能性は大いにあるが、まずは病気の検査だ。外国人といえば、何か感染症にかかっていると思うのが普通だからな。政府からも、そのようにお達しが来ている」
そこまで言って、初芽は視線を外して壁の方を向いた。
「私は、そうは思っていないけどね。感染症が海外に蔓延していて、実際に全滅した国もあるとは思っている。でも、外国人だからって、全員が感染しているとは思えない。それに、日本で生まれ育った外国人がいるという可能性も大いにあるからな。私は、そちらの方が可能性があると思っている」
圭子は、自分の思いもよらぬ考えに触れて、考えが晴れる思いだった。
「まあ、どうなのかは、調べてみないと分からん。実際にエイズやらクロイツフェルト・ヤコブ病やらハリセファロブス感染症やらに感染している可能性はあるにはあるしな。まずは色々と検査だろう」
聞き慣れない病名をさらさらと並べる初芽は、圭子から見るとひどく大人に見えた。ただの剣客ではない。やはり、色々と勉強しなければ、と思う。
「で、さっきちらりと見てきた。ひどく痩せてたな。食事をさせなければならない。そこで申し訳ないが、二人にお願いしていいかな」
「食事ができないほど、衰弱してしまっている、ということでしょうか」
紗江の言葉を、初芽が否定する。
「万一、何かの感染症にかかっているという場合、浅野にお願いするわけにはいかない。隊士の手でしなければな。お願いするのは、単に、食事を持っていって欲しいということだけだ」
「分かりました」
「あと、これは申し訳ないが、既に接触している君たち二人と浅野も、検査が終わるまでは、隔離させてもらう。すまんな」
当然の処置であろう。紗江は素直に頷いた。圭子にも異論はない。
二人は初芽の指示で、ビニール袋で全身を包むことになった。これも、以前に本で見たことがあるなぁと圭子は思っていた。本に書いてあったのは、宇宙服のような服を着ている科学者だった。そうやって、感染を防ぐのだと書いてあった。
ゴミ袋を切り開き、大きな布のようにしてから、全身に巻きつけていく。初芽の指示では、空気に触れる場所を一つも作ってはいけないということだった。
手足や胴体は、スーツのようになっても良いのだが、顔はそうもいかない。マスクのようになってしまったら呼吸が出来なくなってしまう。出来るだけ大きく容積をとることにする。
全身の密封を済ませると、圭子と紗江はお互いを見つめ合った。
なんだか、笑えてしまう。小学生の演劇のようだ。
とはいえ、あまり悠長なことは言ってられない。本で見た科学者が来ていた宇宙服は酸素ボンベを背負っていた。今の圭子と紗江は、そんなものを持っていない。うかうかしていると酸素不足で窒息する。
「急ごう、圭子」
「うん」
二人は食堂へ向かう。
「洋食にしてくれって言われたからそうしたけど、……どうしたの、その格好」
トーストとポテトサラダを作った和美が、笑いをこらえている。圭子と紗江が笑える格好をしているわけで、そのような反応は当然だろう。
「詳しく説明出来ないんです。ごめんなさい……」
今、外国人の少女をこの宿舎に閉じ込めているというのは、和美にも口外できないことだった。どこからどう話が漏れ伝わるか分からないためである。
「私もここで働き始めてけっこうするけど、隊士がそんな格好をするのなんて、私は初めて見たよ」
「私たちがこんな恰好しているということも、誰にも言わないで欲しいんです」
「いいよ~」
トースト、ポテトサラダ、水の入ったコップが乗っているお盆を圭子が受け取ると、全身をビニールで包んだまま、拘置用の部屋へと向かう。
戸の前に立っても、中に人がいる気配はない。圭子は、受け取っていた鍵で戸を開けた。
中は、宿舎の他の部屋と似たようなものだった。畳敷きで、押入れが一つ。座卓が一つ。
その部屋の隅で、青い瞳の少女が膝を抱えて座っていた。
「ご飯、持ってきました」
日本語が通じるかは分からないが、そう声をかける。少女に反応は無かった。
「どうぞ、食べて下さい」
少女が顔を上げて、圭子と紗江を見る。ビニールを装備している二人を見て、少し表情を曇らせた。なぜそんな格好をしているかの意味を察したようだった。自分から何か病気をうつされると思われれば、誰だってそんな顔になるだろう。
おずおずと座卓に近づくと、トーストに手を付け始めた。お腹は減っていたらしい。ゆっくりではあるが、もぐもぐと味わうように食べている。
綺麗な髪だなぁ、と圭子は思った。この時代でも髪を脱色して金髪や茶髪にしている者はいるが、そういった者たちよりもずっと綺麗だと思う。
おそらく、顔が、日本人ではないからだろう。
少女が、圭子の視線に気づいて、気まずそうにトーストを皿に戻した。
「あ、ごめん」
そう言って圭子は視線を外した。
紗江は最初から心得ているようで、腕を組んで壁の何もないところを眺めている。
少女が全てを食べ終えるのに、たっぷり三十分かかった。空腹だからこそ、飲み込むのに時間がかかったのだろう。それに、線の細い少女である。元々の食事量も大したことはないのだろうと思えた。
食べ終えて空になった皿をお盆に戻し、今度は紗江がそれを持った。
部屋を出そうとした時、圭子の背中の余ったビニールを、少女がちょんと摘まんでいた。
圭子と目が合うと、少女はぺこりと頭を下げた。
ありがとう、ということなのだろう。
圭子はにっこり笑顔になると「どういたしまして」と言った。
少女からの返答は無かった。ただ、困った顔をしていた。
圭子と紗江は拘置用の部屋を出ると、お盆を持ったまま、左に二つ隣の部屋に向かった。初芽には、少女の食事が終わったら、食堂に戻ることなくその部屋に行くよう言われている。
その部屋で、検査が終わるまで軟禁状態なのである。
部屋の中には、既に浅野がいた。手に文庫本を持って、猫背であぐらをかいていた。読書が趣味だとは圭子は知らなかった。
浅野は二人の姿を認めると、「お疲れ様です」と言って、また文庫本に目を落とした。
さて、やる事がない。勉強道具もないし、竹刀もない。ぼうとする他、何もすることが浮かばない。本を持って来た浅野は準備がいい、と思う。
圭子と紗江は、二人で協力してビニールから脱出した。ハサミなどないから、無理やりにビニールを破くしかない。脱ぐというよりは、脱皮するようだった。
二人とも、ビニールに閉じ込められていたものだから、汗だくだった。浅野がいなければ、下着姿になっている所である
紗江は、何もせずにいることが苦手らしい。腕立て伏せやら足の屈伸運動やらを始めた。筋トレをして基礎体力作りでもしようという魂胆らしい。ジャージ姿だったため、妙に堂に入っている。
負けじと圭子も、同じように運動を始めた。
「む」
紗江は、負けず嫌いらしい。圭子が自分の真似をしだすと、ペースをあげた。
圭子も、同じくらいに負けず嫌いである。
二人して、息を荒くして腹筋運動をしている。
圭子は、途中までは浅野に変な目で見られていないか気になっていたが、途中から気にならなくなった。それより、紗江に負けることの方が重大だ。
二人して回数が百に迫った時、紗江が「うっ」と声を出した。
「どうしたの?」
紗江はたっぷり十秒ほど言葉を溜めて「お腹がつった……」
仰向けになったまま、紗江が苦しんでいる。
浅野がいるのに申し訳ないが、ジャージの中に手を突っ込んで紗江のお腹を揉んであげた。紗江はう~う~言いながら、圭子に揉まれるがままになっている。
(あー、引き締まってるなぁ)
贅肉がまるで無い。つまめる脂肪など微塵も無かった。どれだけの稽古を重ねるとこうなるのだろうか。残念ながら、圭子のお腹は、つまめるほどの脂肪はある。
(羨ましい……)
ふと気づくと、仰向けになった紗江と目が合った。
「もう、痛くなくなったけど……」
「あ、はは……」
「でも、ありがとう。随分楽になった」
その時、ガチャリと戸が開いた。
初芽がいた。紗江のお腹に圭子が手を突っ込んでいる様を見て、表情が固まっていた。
「……深くは聞かんが」
「いえ、説明させてください」
圭子は紗江のお腹から手を抜くと、深々と頭を下げて頼んだ。
初芽も、この部屋で軟禁にされるとの話だった。青い瞳の少女と接触した紗江と圭子に接触したから、というのが理由である。
この日は隊長不在となるが、その間の全ての采配は、副隊長である柚希に任せられるとのことだった。
初芽は、竹刀を三本持ってきてくれた。この狭い部屋で組手というわけにはいかないが、素振りはできる。
浅野は黙々と文庫本を読んでいるが、剣客である三人はもっぱら素振りをして過ごした。
その日の夜は夕食が抜きだった。一食くらい抜いても死なんだろう、と初芽は豪胆に言い放った。浅野も紗江も文句一つ洩らさなかったので、圭子も我慢した。
実のところ、お腹が減って減って仕方が無かったが。
三人は素振りにも飽きると、青い瞳の少女について話した。
どこから来たのか。
この辺りに、外国人が居住しているという話はない。
密入国の可能性が最も高いが、怪しい船が近づいたという話もない、というのが初芽の話。
とすれば、他国から来たということになるが、しかし、警察にも市民にも見つからずに出歩くことなど可能なのか。
本人から話を聞ければ一番分かりやすいのだが、さすがにそれは出来ない。どこの国の人かも分からないのでは、会話が成り立つはずもなかった。そもそも、仮に英語を公用語にしている国の人間だとしても、英語を話せる者は剣志隊の中にはいないが。
いくら考えても、答えは出ない。
日が落ちた十九時には、電灯を消して床に着いた。
翌日。
朝食は食べられるだろうと圭子は思っていたが、初芽の答えは「否」だった。
「午前中には、役人が検査に来る。それで問題が出なければ白だ。抜いてしまった分は、私が大層なメシをおごってやるよ」
食事も問題だが、風呂に入っていないというのも問題だった。六月で、季節は春。まだ暑くないからいいものの、それでも服の匂いが気になる。
(お風呂入りたい……。役人さん、早く来て!)
圭子の願いが通じたのか、午前八時に役人たちが現れた。
戸を開いて中に入ってきたのは、宇宙服のようなスーツに身を包んだ役人だった。本で見たままだったので、圭子は少々驚いた。
「そういうの、うちにも一人分くらいは置いておいた方が良いかな」
初芽が感心している。本気でそう考えているのかもしれない。
役人は注射器の準備を始めた。採血をして、検査で何も反応が無ければ、食事にありつけるという寸法だった。
圭子は注射が嫌いだ。といっても、真剣で斬られるのと比べれば、注射の針なんて問題にならないほどに浅い傷だ。だがしかし、それで納得できるものか? 針が腕に刺さるんだよ?
圭子は自分の腕に針が刺さる瞬間は目を逸らした。
「注射、苦手なんだね、圭子」
紗枝が、神妙な顔をしている圭子を気遣った。
紗江と浅野は、ごく普通に採血された。
が、初芽は違った。鬼の形相で、注射器を持つ役人を睨みつけている。
「隊長……?」
圭子が声をかけると、初芽はしかめっ面のまま、腕を役人に差し出した(ちなみに、シャツにパンツ姿のままである。昨日の初芽に、普段の和服に着替える時間は無かった)。
役人の持つ注射器の針が初芽の腕に触れた瞬間、「あ」と初芽が声を上げた。普段は聞くことがないような可愛らしい声だった。
「あの、刺してもよろしいですか?」
役人がおずおずと聞く。相手が、剣志隊の隊長であり、「修羅」とまで呼ばれるほどの腕であることを知っているのかもしれない。
初芽は大仰に頷いた。しかし、顔は青ざめていた。
これ以上の時間を費やすと、初芽がぶっ倒れるかもしれないと思った役人は、さっさと仕事を終わらせることにする。
「あ……っ……つっ……」
何やら艶めかしい声をあげて、初芽は注射に耐えていた。
初芽にとっても、同席している圭子と紗江にとっても、そして男性である浅野にとっては地獄としか言えない数秒が終わった。
「検査キットは用意してありますから、すぐに結果は出ます。もう少しお待ちください」
役人はそう言ってそそくさと出ていった。
初芽は長い黒髪を乱して、ぐったりと横になっていた。
「私は、剣の腕が良いとよく言われるが、その理由の一つは、間違いなく、斬られることが嫌いだからだ」
そう初芽は告げた。
隊長にも苦手なものはあるんだなぁ、と圭子はしみじみと思った。
役人が担保してくれた通り、検査はすぐに出たようだ。三十分ほどすると、役人が部屋に戻ってきてくれた。既に宇宙服は来ていなかった。
初芽、紗江、浅野は白。
「え、私は……?」
役人は優しい笑顔を浮かべた。
「ライノウイルスが陽性でした」
「そ、そ、それって、何か、重大な病気ですか……?」
恐れおののく圭子に、役人はさらに優しい笑顔を浮かべて教えてくれた。
「ただの風邪です。症状が出ずに終わることの方が多いですが、念のため数日は安静にしていて下さい」
ほっと圭子は溜息をついた。
「一応、四人の血液は研究所で再度、精密検査を行いますが、恐らく問題はないでしょう」
「その検査キットは信用できるのか?」
初芽の質問に、役人は頷いた。
「外国人の調査用に、今確認されている全ての感染症のチェックができるキットです。また、白血球やリンパ球の数値も調べられますから、未確認の感染症だとしても、兆候は見えます。全ての検査に引っかからない未知の感染症という可能性もありますが、まあそんなものにあなたたちが感染しているとしたら、その感染源である外国人がここに来るまでに病原菌をばら撒いているわけで、手遅れです」
手遅れだなんて断定していいのかは分からない。そんなものか、と圭子は納得するしかなかった。
役人は、青い瞳の少女の採血も行った。圭子はその現場を見たわけではないが、おそらくは怖がりながらだっただろうと想像した。軟禁されていた四人と違い、青い瞳の少女は、本当に未確認の致死性感染症に感染しているかもしれないと想像させるのだから。
しかし、検査結果を見ることで、少しは安堵できただろうか。
検査キットが弾き出した答えは、青い瞳の少女についてもあらゆる感染症の兆候はゼロ。白だった。
「ねえ、お風呂に行こう、圭子」
軟禁状態が解かれた紗江の第一声が、それだった。
「一緒にですか?」
「一緒は嫌? なら、一人で行くけど」
ちょっとばかり、紗枝が拗ねているように見える。もしかして、割と寂しがりやなのだろうか。
「ううん、私も一緒に行きます」
宿舎の風呂で、圭子は丹念に洗った。一回分風呂に入れなかった分の仇とばかりに、体のあちこちを磨いた。紗江も、部屋で軟禁されている間は一言も文句を漏らしてはいなかったが、風呂に入れなかったのは堪えていたらしい。
入浴後、二人で木綿の着物に身を包み、食堂で涼んだ。宿舎にいくらか常備している服で、隊士は自由に使うことができる。こうやって落ち着くことで、軟禁で失ったかを取り戻していく心地だった。
そうやってお昼を待っていると、初芽も入浴して来たらしい。これは自前の袴で、しかし巡察などに出ることなく宿舎で書類仕事をする時に着る服だった。それを涼しげに着こなして、コップで水を飲んでいる。
「腹減ったなぁ」
初芽によれば、浅野も風呂を入れさせ、今日のところは帰したらしい。彼も剣志隊のために働く人員の一人ではあるが、命やら健康やらを害してまで働いて欲しいとは初芽は思っていない。昨日は、ほぼ一日中軟禁されていたため、初芽は彼のために今日は休みとさせたのだった。
「それで、あの女の子はどうなったんですか?」
初芽が聞くと、初芽は少し困った顔をして黙った。その表情は少しばかり暗い色を含んでいたので、紗江と圭子はみるみるうちに不安になった。
「刑務所に行くんですか?」
「いやいや、刑務所になんて行かない。それどころか、どこにも行っていない。まだ、解放の許可が下りていない。精密検査の結果待ちだそうだ」
「私たちは、精密検査の結果が出る前に、こうして外に出てるじゃないですか」
初芽は肩をすくめた。言うな、ということだ。
「今も彼女は軟禁中。しかも、拘置用の部屋で」
「出してあげられないんですか」
「政府の確認が出ないと、出せない。それに、出せたところで処遇を決めなければいけないしな。あのナリで外を出歩くと、すぐに悪い奴らに捕まって、売られるか殺されるかされる」
紗江と圭子は沈痛な顔になった。二人とも、この社会のことは十分に理解できている。
外国人で、しかもあの少女の顔はなかなか可愛らしい。おそらくは誘拐されるだろう。
昼になり、和美の作ってくれた、なぜか凄まじく美味しいざるそばを食べた。いつもなら、驚きと笑顔になれる和美の食事も、この日の紗江と圭子の胃袋は満足させてくれても、気持ちまでは満たしてはくれないようだった。
食後、圭子と紗江は道場で汗を流した。普段であれば、圭子は夕方には自宅に戻るのだったが、その日は夕食も道場でとった。少女のことが気になって、それどころではないのだった。
夜になると、初芽の所に役人が連絡が来た。青い瞳の少女は、精密検査でも感染症の疑いはなし。それよりも、栄養失調の方がひどく、食事と水分補給が必要だとのことだ。
必要だ、というだけで、補給させろ、という連絡ではなかった。
圭子は隊長室を訪れた際に、それらのことを聞いた。なぜ訪れたかというと、道場で圭子をしている時に、午前中に採血をしていいった役人が姿を現して隊長の居場所を聞いたので、一緒に隊長室に行ったのだった。
なお、圭子が隊長室に入った時には、紗江が既に中にいた。
今、少女の身柄は剣志隊が預かっている。栄養失調だと診断された少女を放置できるほど、初芽は薄情ではない。が、浅野は帰宅させているし、和美も同様だった(和美には子どもがいるという話であるが、家族構成や、家では何をしているかを詳しく知っている隊士はいない。いや、以前はいたかもしれないが、今はいない。誰も知らない)。
「済まないが、あの子に何か食べさせてくれるか」
「でも、和美さん、帰っちゃいましたよ。夕食はどうしましょうか」
「私が作ろう」
圭子と紗江は驚いた。初芽が食事を作れるとは想像もしたことが無かった。
二人は初芽と一緒に食堂へ向かった。初芽は腕まくりをして料理を始めたが、すぐに紗江と圭子が交代することになった。
冷蔵庫から魚を取り出して、それを短刀でさばこうとしたのだった。
「短刀は、魚をさばくものじゃないです。普通は、包丁です……」
圭子が指摘をすると、そうか、と言って初芽は素直に引き下がった。
初芽に料理を任せると、壊滅的な結果になりそうだと予感した。いや、もしかしたら、短刀で見事に魚をさばくかもしれないが……。
しかし、見知らぬ外国人に対して出して良い料理が出来上がる予感はしない。
とはいえ、圭子と紗江も料理が得意というわけではない。台所の冷蔵庫の中を見て出来そうな食事は、卵焼きと、トマトのドレッシングかけくらいなもののようだった。
初芽は「なかなかやるね」と褒めてくれたが、そんなに上手くやれている気もしていないので、なんだか背中がくすぐったかった。
拘置用の部屋まで行き、戸を叩く。中からは反応が無かったが、それを初芽が持っていた鍵で開錠した。
中には、前に見た時と同じ姿勢で、青い瞳の少女が膝を抱えていた。
部屋の中に、初芽、紗江、圭子が入る。
もう、誰もビニールで体を包んではいなかった。この青い瞳の少女は、何にも感染していないので、その必要がない。
だが、一度はビニール姿で現れたのに、今度は素肌を晒していることに少女は少なからず驚いているようだった。
「これ、卵焼きと、サラダです」
と圭子が言うものの、少女に元気はない。
「食べてください」
座卓に置いた皿に、少女はもぞもぞと四つん這いで近づいた。
ゆっくりと食事を始めたのを見届けて、初芽は部屋を出た。
出る時に、そっと圭子に耳打ちをした。
「話し相手になって欲しい。できれば、どこから来たのかも聞き出してくれ」
戸を閉めて出ていった。
初芽の思惑は分かる。今のままでは、彼女の処遇をどうすればいいのか判断が出来ないのだろう。
紗江と圭子は、立ったまま少女が食べる様子を見ていた。昨日と同じである。
少女が用意したものを全て食べ終えて、水を飲んで一息ついたところで、紗江は「さて」と手に持っていたメモを開いた。
「How are you?」
発言した内容を文字で記載するとこの通りではあったが、その発音はアルファベットで記載すべきでないくらいに拙いものだった。ひらがなの方が良いくらいだった。
少女は、不思議そうな顔をした。その次に悲しい顔をした。
通じていないのかは、分からなかった。
紗江は気を取り直したようだった。メモに用意してある挨拶は一つだけではないらしい。
「Wie geht es dir?」
次はドイツ語だった。説明するまでもなく、発音はなっていない。たとえ少女がドイツ人であったとしても眉をひそめていたかもしれない。
だが、少女の表情は変わらない。「ドイツ語らしいが発音が下手だ」といった顔でもなかった。何を言っているのか分からない、という顔である。
この後に、別の外国語をもう三語ほどを紗江は口走ったが、いずれも効果を上げられなかったことをここに付記する。
それで、紗江は手持ちの駒を全て失ったらしい。はぁ、と溜息をついて、丹精こめてつくったらしいメモをくしゃくしゃに握りしめると、着物の帯の中に押し込んだ。
さて、紗江は下手な発音ではあるもののコミュニケーションを試したわけで、それが全て功を成さなかったとなると、他にとれそうな手段は圭子にも浮かばなかった。
いっそ、手話やモールス信号でも試す必要があるか。
図書館にでも行ってみようか。
そんな風に、明日は学校の授業が終わった後の予定を考えていると、少女は右手を少しあげて「すみません」と言った。
紗江と圭子は驚いて、二人で顔を見合わせて、もう一度少女を見た。
しかし、言葉は継げない。
いつまで経っても紗江と圭子が何も言ってくれないので、少女が代わりに言葉を継いだ。
「すみません。日本語でもいいですか?」
すぐに初芽を呼んで来ようとも思った。しかし、そうすることで、この少女との会話を中断するわけにはいかないと圭子は思った。
「日本語で、いいです」
圭子は、ゆっくりと腰をおろした。
紗江も、その横に腰をおろした。
「私の名前は、エリザ・ホワイトウェルです。えっと、はじめまして」
外国人の顔をした少女が外国人の名前を、綺麗な日本語で話す。その一点だけで、目の前にいる少女が嘘のように思える。
しかし、この少女の存在は嘘ではない。
このエリザという少女は、確かにここにいる。
「お二人のお名前を聞いても、よろしいですか?」
流暢な上に丁寧に聞かれたものだから、紗江と圭子は即座に反応ができなかった。一拍置いてから、紗江と圭子は名前を告げた。
「圭子と、紗江……」
噛みしめるように、大切なもののようにエリザが呟いた。
「なぜ、ここに来たのか聞いてもいい?」
紗江が、率直に聞いた。
外国人が、この時代の日本国において異端であることは前述した通りである。鎖国状態である日本において、外国人が自然発生するわけがない。
どこから来たのか。
どんな事情があるにしろ、簡単な事情でないことは窺い知れた。
「私は、大阪国から来ました。山口県の田舎の生まれです」
「あなた、日本人なの?」
「母は日本人です。父は、イギリス人です」
そこでエリザは言葉を一度切って、「父は密入国者です」
稀なことだ。日本国に入ってくるだけでも奇跡的なのに、その男が日本人の女と出会い、子を成し、そしてその子がこの年齢まで育つとなると、いったいどんな言葉で評価すれば良いのか。
「父は、医者でした。顔つきにメスを入れ、毛を黒く染めて、目にはカラーコンタクトを入れて、診療所を営んでいました。母も医者で、二人で患者さんの治療をしていたのです。」
「幸せそうなのに、どうして東京国にいるの? 家出?」
紗江が質問すると、エリザはそこで悲しそうな顔をした。不謹慎にも、その表情は彼女に似合っている、と圭子は少し思った。
「父が外国人だということを知った人たちがいたんです。その人たちは悪いことをしていて、しょっちゅう仲間が怪我をして担ぎ込まれてきました。彼らは、やくざか、テロリストだったんだと思います。父は強請られ、彼らの治療をさせられていました。でも、ある日、彼らがひどく気が立っていて、それで……」
ひどい奴らだ、と圭子は思う。しかし、そういった人がいるのは知っている。ひどい奴ら、で済む話ではない。平気で人を傷つけ、殺し、ものを奪う人たちがいる。
剣志隊が作られた理由の一つでもある。大阪国にも似たような組織はある。しかし、残念ながら発生する全ての犯罪を、発生前に止めるのは不可能である。
「それからは、母と二人で暮らしていました。でも、彼らにとって、私の父を殺したということは、誰にも知られたくなかったことのようです。いつ警察に通報されるのかと心配だったのでしょう。間もなく、私と母は殺されかけました。夜中に診療所を囲まれ、全員が刀を持って……。母は私を逃がしてくれたんです。それから私はずっと逃げて、誰にも見つからないようにして……」
それで、ここまで来た。
紗江は、よいしょと声を出して立ち上がった。
「もう大丈夫よ。あなたのことは、私たちが守る。きっと知らないだろうけど、ここは剣志隊といって、剣の腕がある者ばかりがいる機関なの。誰だろうと、もうあなたを傷つけさせたりしない」
紗江の言葉は真っ直ぐだった。それは、本心だった。
その日、圭子は家に帰りたくはなかった。
しかし、既に一日外泊している。しかも、家にはなんの連絡もしていない。今頃、父も母も心配しきっているだろう。ここに怒鳴り込んでこないのが不思議なくらいだ。
エリザのことを、二人は初芽に報告した。事情を聞くと、初芽は「分かった」とだけ返事をした。それ以上の話は何もしなかったが、何か決意を込めた表情をしていた。圭子は、おそらく紗江と同じような気持ちなのだろうと思った。
本当は帰りたくはなかった。圭子と紗江は、後ろ髪を引かれる気持ちで、自宅に帰った。
しかし、圭子も紗江も、翌日の学校の授業を受けている時の気の入らなさといったらなかった。
授業を受けていても上の空で、先生の言葉は何にも頭に入って来ない。圭子は板書をノートに書き写すことはできたが、紗江はそれすら出来ずにいた。共通しているのは、ただただひたすらにぼうっとしていることだった。
圭子は、全ての授業が終わる六時間目まで耐えきったが、紗江は耐えきれずに昼食を終えた時には中学校を抜け出して道場に来ていた。
学校を終えて汗びっしょりになって道場に来た圭子が、道着姿で稽古をしている紗江を見た時の最初に思ったことは「ずるい」だった。
「だって、身が入らなかったから。何もできないくらいなら、稽古をしていた方がましだと思う」
「それは正しいですけど、剣志隊の筆記試験は定期的に行われますよ。あまり成績が悪ければ除隊になっちゃいます。大丈夫ですか、紗江さん」
そこまでは考えていなかったらしく、驚きで紗江は目を大きく見開いた。それで、少しばかり圭子の溜飲が下がった。
「圭子、この後、巡察に一緒に出てくれる?」
意外な提案だった。紗江は、巡察をするよりかは、道場で汗を流している方が好みだと思っていた。
「いいですけど、なんでですか? 巡察で外に出るよりかは、エリザの話し相手になってあげたいなって思ってますけど」
「隊長の命令なの。今日の朝、知らない男が、ここの敷地内をうろうろしてたんだって」
人相書きは用意されたが、見たという隊士と人相書きを描いた隊士が、それぞれ、あまり絵心が無かったために精度は低い。本当にその人相書きの顔をした男がいるのだろうか、という出来である。
しかし、男を見たという隊士は数名いる。商人たちとよくやりとりをしている事務方の房江も見ていて、「知らない男だった」と証言した。誰かの気のせいではなく、間違いなく、剣志隊の隊舎を探っている者がいるということになる。
紗江と圭子は人相書きの内容をしっかりと目に焼きつけると、身支度をして巡察に出た。
しかし、情報は少ないし、運も無かったらしい。紗江と圭子は、道場で目撃された男を見つけることは出来なかった。
午後十七時。
紗江と圭子が食堂で夕食をとっていると、驚くべき人物が食堂に姿を現した。
隊長の初芽と、エリザである。
初芽ですら、隊務が忙しくて普段は隊長室で食事をとることが多い。食堂で食事をとるのは珍しい。
その上、エリザである。
同じく食事をとっていた隊士たちがぎょっとしている。外国人の少女がこの隊舎に匿われているという話は聞いているだろうが、実際に目で見るのは皆初めてだろう。
「みんな、聞いてくれ」
初芽が、エリザの肩に手を乗せている。
「この子の名前は、エリザ。見ての通り、外国人の血を引いている。政府からは拘禁を指示されていたが、それが今日解除された。何も病気にはなっていない事が分かったからだ。処遇が決まるまで、しばらくは剣志隊の宿舎で生活をすることになる。みんな、よろしく頼む」
どこに座ろうか、と初芽が視線を巡らせると、紗江が真顔でぶんぶん手を振った。ここが空いている、ということだった。
エリザが苦笑している。どんな風に反応して良いのか分からないのだろう。
今日の献立は、味噌汁に鯵の塩焼きだった。お盆を持ってきた和美がエリザに「箸は使えるの?」と聞くと、エリザは「見た目以外はほとんど日本人です」と答えた。ああ、なるほど、と和美は笑顔で頷いた。
紗江と圭子は、食事中、一生懸命にエリザに話しかけていた。とはいえ、共通の話題は少ない。会話といっても、探り探りであった。
その様子を初芽は柔らかい笑みを浮かべて見ている。一歩間違えれば、エリザは剣志隊の宿舎内で孤立し、どこか別の場所に移してくれという隊士さえ出てきたかもしれない。それが、圭子と紗江により、人間関係が構築されつつある。隊長の身としては、喜ばしい限りだった。
食後、圭子と紗江は道場で汗を流したが、拘置用の部屋への軟禁が解かれたエリザは、食堂で過ごした。これも初芽の指示である。出来るだけ、隊士たちの目に触れる場所にエリザを置き、少しでも早く、「エリザがこの隊舎にいる」ということを当たり前にしようという意図であった。
稽古を終えて家に帰ろうという時刻になっても、エリザは食堂にいた。この日は和美もまだ家には帰っていない。「明日の食事を作るの、手伝ってくれる?」などとエリザを話をしている。
「私、きっと、ここにこうやって置いてもらっているだけでありがたいことだと思うんです。少しでも、役に立ちたいんです」
「エリザは、良い人だね」
「そんなことはないです」
正直、この日も家には帰りたくなかった。明日も授業には身は入らないような気もする。しかし、時間は容赦なく経過し、環境に適応していかなくては取り残される。無為に過ごすのは良くないと、圭子と紗江は良く分かっている。特に、勉強に自信が無い紗江には。
二人は急ぎ足で家へ戻った。翌日も、学校を終えたら急いで宿舎へ向かうと心に決めて。
しかし、翌日に宿舎へ来た時には、事態が大きく変わっていた。
エリザが隊舎からいなくなっていた。行方不明。
姿が見えなくなったのは、朝食のすぐ後。和美と一緒に直食を作り終えた時が、最後に目撃された姿となった。
和美によれば、「いなくなるとは思わなかった。昼食に作る話をしていた」との事だった。
既に警官隊には通報済み。相手は外国人の少女である。普通の行方不明事件の倍以上の人数が駆り出された。
初芽からは、巡察の指示が出ていた。
昨日の見知らぬ男の目撃から続いて、二日連続である。
ところで、エリザが家出をして大阪国から東京国へ来るはめになった理由を知る人間が、隊に三人いる。
初芽、紗江、圭子である。
紗江は焦っていた。
学校を終えて宿舎に来た紗江は、事情を浅野から聞いてすぐに身支度を整えた。三代目田路純太作の二尺二寸を帯びていつでも出られるようになった時、圭子も宿舎に現れた。
「もしかしたら、エリザのお父さんを殺した奴らがここまで来たのかも。それくらいしか、理由が思いつかない」
圭子にも、そのように思える。
この時、二人にとって幸運な、剣志隊にとっては不幸なことが起きた。
今まさに巡察に出ようとしている二人と、制服を着た警官隊がすれ違おうとした。
「もしかして、ここの人ですか?」
そう聞かれて、紗江は「そうです」と返事をした。
「隊長殿へ、連絡事項です。この手紙を渡してもらえますか?」
「分かりました」
警官は、伝達を終えてほっとしたのだろう。敬礼をすると、隊舎へ入ることなく戻って行った。
その手紙は封筒に入っているが、封はされていない。この手紙を用意した人物は、すぐに読まれるから封は不要だと思ったのだろう。
読んでしまおう、と紗江が提案した。圭子は猛烈に反対したが、紗江は強行した。
止めきれなかったのは、圭子にも、その手紙を読みたいという心があったからだろう。
『外国人の少女の目撃証言あり。数人の男たちと共に西へ向かっている。警官隊は追跡へ向かう。剣志隊からも派遣を要請する。十七時に赤坂氷川神社にて今後の捜査方針を伝達する』
西。どこだか分からないが、方向が分かるだけましだった。
紗江は手紙を封筒に戻すと、浅野を探して手紙を渡した。
「警官隊から届きました。これを隊長に渡して下さい」
「分かりました」
これで手紙は隊長へ届く。
圭子も佩刀を手に取り仕度を整えると、二人は宿舎を出た。
途中で馬を使われれば追いつけないだろうが、それは無いと見当をつけた。馬は高価だ。ちんけな犯罪をするような者たちが持っているとは考えづらい。
紗江は宿舎に常備されている地図を持ち出していた。
「ここからまっすぐ大阪国へ向かえば、どこかで必ず追いつくはず。途中で人に聞きながら向かいましょう」
紗江の提案は功を奏した。
エリザは目立つ。特に変装をさせることなく歩かせているらしい。ものの一時間もしないうちに、「見かけた」という人を見つけた。
東京国から大阪国へ向かうには、東海道を使うだろう、と見当をつけた。川崎宿へ向かう。
紗江と圭子は旧首都高速1号羽田線の通りに入った。築地本願寺からは南に向かう道である。すれ違う人から話すと、おおよその人が見かけたと話してくれた。
エリザを連れて行った男達と同じ道に入った、と判断した。
十七時。旧大田区の川崎宿へ到着。
川崎宿は、日本橋から出発する日本橋から数えて、二つ目の宿場である。この時代にも、宿泊施設がいくつも集まっているため、繁華街と言える。
二手に別れて探すことにする。
エリザらしき外国人が入った宿はすぐに判明した。
そこは民宿のようだった。「麗月館」という立派な名前の看板を掲げているが、二階建ての日本家屋である。外から見る限り、六部屋ほどしかない小さな民宿だった。
ぐるりと回ると、正面の入り口と裏口の二か所が出入り口である。二手に別れて双方から中に入れば逃げ口を塞ぐ形になるが、二人がばらける事は避けることにした。一人では、多勢に無勢となった場合が危険だった。
二人で正面の入り口から入ることにする。
「行くわよ。覚悟はいい、圭子」
紗江が言った。
二人で斬り込むつもりだ。
「大丈夫です」
圭子もそのつもりだった。
「圭子は、今まで人を斬ったことはある?」
当然の質問だった。お互いに入隊してから間もない。斬り込むという事は、斬り合うという事である。その時は、経験の有無が大きくものを言う。
「まだ、ありません」
「なら、これだけ覚えていて。決して深入りしないこと。自分の命を大事にすること。斬ることは目的ではない。私たちの目的は、エリザを救い出すことよ」
「分かりました」
しかし、紗江は? 圭子は聞かなくてはならない。
「紗江さんは? 人を斬ったことはありますか?」
「一度だけ」
そうか、と圭子は思った。それ以上聞くのはやめておいた。なんとなく、聞いて欲しくはなさそうだった。
「じゃあ、行くわ」
「はい」
圭子がそう言ったのを確認した紗江は、民宿の戸を開けた。
時間は戻り、紗江と圭子が宿舎を出たすぐ後。
紗江と圭子が隊舎にいないことに一番初めに気づいたのは、初芽であった。
普段は隊長室にこもりがちな初芽は、しかしこの日は食堂にいた。
今は、エリザ捜索が最優先であり、それ以外の隊務は全て後回しにするためである。
巡察に出た隊士たちから方向を受け、巡察に出る隊士たちへ指示を出す。
集めた目撃証言から、エリザと、エリザを連れ去った男たちの向かった方向は散見できた。南に向かったらしい。東海道に入り大阪国に入るという事も見当がついた。エリザから、大阪国からここまで来たという話を聞いているからである。
ところで、エリザの調査に最も熱を入れるのは、紗江と圭子だと初芽は思っていた。なのに、その二人はどこにいる? ここ数日、学校を終えてから真っ直ぐに隊舎へ来ていた二人が?
嫌な予感が頭で言葉になるより前に、浅野が初芽の所まで手紙を持ってきた。
「警官隊が持ってきたようです。隊長へ、だそうです」
軽く頭を下げて仕事に戻ろうとした浅野を引きとめた。
「待て。だそうだ、とはどういうことだ?」
「私が、直接警官隊から受け取ったわけではないです」
「では、誰がお前にこの手紙を渡した?」
「羽場さんと、棚網さんです」
紗江と、圭子である。
「それはいつの事だ?」
「ほんの、十分前くらいです」
ばか、と初芽は口の中だけで呟いた。怒っていた。初芽は普段あまり怒ることがないので、浅野は身を縮こまらせていた。
初芽は浅野に、今隊舎にいる隊士全員に巡察の準備させ、その後に道場に集めるように伝えた。
この時、隊舎にいる隊士は、全員で約二十名。巡察に出ている隊士が約三十名。
十分ほどで、隊舎にいる隊士たちが道場に集まった。
初芽も、外に出る仕度は澄んでいた。袴に大小を差している。
「隊士二人が、無断でエリザを探しに行ったようである。これより、後を追う。連中の別動隊がここを襲撃する可能性もあるため、副隊長糸無柚希(イトナシ ユズキ)、京本房江(キョウモト フサエ)以下、この二人が選抜したものは守りに残るとする。今、この場にいる隊士は全員で出撃する」
隊士の一人が、「無断で出た隊士とは誰ですか」と質問した。当然であろう。
「羽場と棚網だ」
初芽以下約二十名の隊士たちは、揃って東海道へ向かった。
副隊長と剣術指南役を欠くとはいえ、伍長大間崎謙太(オオマサキ ケンタ)、同じく伍長大津義樹(オオツ ヨシキ)、他に巧者とされる隊士鯉志川瞳(コイイシ ヒトミ)、槍を使う三条恒吉(サンジョウ ツネヨシ)など、そうそうたる顔ぶれであった。
初芽は、今できる全力で、隊士二人を救おうとしている。
紗江が刀を抜くのを見て、圭子も抜刀した。
時刻は午後十八時過ぎ。大分傾いた日が茜色を帯び、玄関に満ちている。
入ってすぐのところに受付がある。中年の太った女性が客の入りを受付で待っていたが、抜き身を持った紗江を見て目を大きく見開いた。しぃ、と紗江が立てた指を口元に持っていくと、女性はこくこくと慌ただしく首を上下させた。
「剣志隊です。外国人の少女を連れた男たちを追っている。この宿に泊まっているな」
紗江が、剣志隊の威を嵩にかけて、居丈高に聞いた。堂に入っている、と圭子は思った。
質問された女性が答える。きっと、冷や汗をかいている。
「は、はい」
「どの部屋だ」
「二階の、階段に一番近い部屋です。二〇一号室です」
「他の部屋に、客はいるか」
「今日は、満室です」
「その少女を連れた男たちは、二〇一号室以外の部屋にも泊まってる?」
「いえ、みな、その部屋です」
「人数は」
「男の人が四人。それに、外国人の少女です」
少ない。が、その四人全員が初芽並の達人である場合、話は変わってくる。
しかし、やるべき事は何も変わらない。
「鍵をちょうだい」
紗江の要求に、女性は黙って従った。受付の下にあったらしい引き出しから鍵を取り出すと、紗江に渡した。
紗江は目で圭子を促した。圭子は黙ったままうなずく。
受付の横に階段があり、二階へと続いている。階段の所には館内の見取り図がかかっていて、一階には四部屋、二階には六部屋があることが分かった。
「私が上に行く。圭子はここにいて」
「私も行きます」
「だめ。私が取り逃がした奴を、圭子が斬って」
斬る、という語が、ひどく重い。その重さが、圭子が握る刀に染みる。
圭子は階段の脇の位置につく。顔を見上げれば、二〇一号室の戸が見える。
紗江が、その階段を登っていくのが見える。もしも紗江が危機にさらされれば、即座に助太刀に入るつもりだった。
戸は洋式で、ドアノブがついている。その下の鍵穴に受け取っている鍵を差し込むと、静かにというよりは、ごく普通に鍵を回した。
かちゃん、という音がする。物音を立てることを恐れていない紗江は、圭子からするとはらはらさせられる。
紗江は戸を開けると、刀を青眼に構えて中に入っていった。
紗江の姿が見えなくなる。圭子の全身に緊張がはしる。
開いた戸の奥から、男の声が聞こえた。それはすぐに怒号に変わり、そして悲鳴に変わった。
おそらく時間にして七秒ほどだけだったろう。部屋から紗江が現れて、そして、紗江はエリザの腕を引いていた。エリザに会った後から大した時間も経っていないのに、ずいぶん久しぶりに見たという気持ちに襲われる。
「逃げるよ、圭子!」
「な、中に人は?」
「まだいる! 斬ったのは二人だけ!」
紗江とエリザが階段を降りる始めるのと同時に二人の男が部屋から飛び出してきた。一人は刀を、一人は角棒を持っている。
民宿を出ると、男がたむろしていた。数えて三人。さらに男たちが集まってくる。何人いるかも分からない。
「そいつらは、ガキを連れ戻しに来た! やっちまえ!」
紗江を追いかける男が叫ぶ。
男たちは分宿していたのだった。この後、どこかの飲み屋にでもくりだそうとしていたらしい。
男たちは手に持った得物で襲いかかってくる。
圭子は、一番近い男の篭手を打ち、その右手にいた男の腿を斬りつけた。
手の中に、肉ではない何かを断った感触がある。
それで、確かな何かが吹っ切れた。覚悟が決まった。
紗江の目の前にも別の男が立ちはだかる。その男が刀を抜くより前に、紗江はエリザの腕を左手で掴んだまま、右手の刀で男の胴を打った。
囲みが緩む。
それを見逃さなかった。圭子と紗江は、同時に走り出していた。エリザも、それになんとかついていく。
いくつもの店舗が軒を並べる川崎宿の通りを、三人の少女が走る。体力が尽きないのなら、築地本願寺にある剣志隊の隊舎まで駆けていただろう。
圭子と紗江には体力がある。
しかし、エリザにはない。
「ちょ……と……止まって下さい……」
エリザの足が止まる。無理に走っても、もう歩くほどの速さもない。
三人は、店の壁を背に、足を止めて息を整えた。
男たちが怒号を上げて追いすがってくる。
人数が多い。およそ三十人ほどはいるだろう。
まずい、と圭子は思った。いずれも、ただ粗暴なだけのチンピラである。刀を持った圭子や紗江の敵ではない。
それは一対一の話である。
男たちは、追いついた順に襲いかかるようなことはしなかった。そこまで愚かではないらしい。人数が揃うのを待っている。
今、不利なのは、圭子と紗江である。
しかし、男たちが人数が揃うのを待つほど、愚かでも臆病者でもなかった。
エリザを後ろに下げ、二人で斬りかかった。
あとは乱闘となった。
二人の働きはみごとであった。
同時に襲いかかって来る男のことごとくを斬る。
隙あらばエリザを捕えようとする男を、二人は的確に相手をした。
男たちは、数は揃ってはいるものの、烏合の衆であった。個人の能力も、明らかに紗江や圭子に劣っている。心根も据わっているとは言えない。一心不乱に刀を扱う剣志隊隊士に対して、襲いかかることが出来ないでいる。恐れが男たちの気を殺している。
しかし、数が多い。
意を決した順に男たちは斬り込んだ。
斬られた男たちは、順番に倒れていく。しかし、すぐに別の男が取って代わる。
紗江も圭子の息は、既に上がっている。
男たちは、腕も心根も貧弱であったが、このまま引くわけにはいかないという気持ちだけは、圭子や紗江と同じだけあった。
(もうすぐ、みんなが来てくれる)
圭子は、剣志隊のみんながここに来てくれると思っている。初芽隊長なら、ここに来てくれると信じている。
(それまで耐えきれば、私たちの勝ちだ)
しかし、綻びは突然に生まれた。
男が必死に繰り出した突きが、圭子の脇腹に食い込んだ。
「ぐぅ……!」
刺さってはいない。男の突きはそこまでの鋭さは無かった。圭子も、避けられたと思ったのだ。その突きの刃が、圭子の脇腹へ斬りつけたのだ。体力が落ちて、集中力も途切れかけていたのが理由であろう。
「があぁっ!」
紗江が激昂する。圭子を傷つけた男へ飛びかかると、剣道の基本を完全に無視した動きで面打ちを浴びせた。
顔面を割られ、男が倒れる。
「ふぅ……ふぅ……」
紗江の気魄が、それまでと変わった。刀は青眼に構えていない。右手に下げたまま、粗い息をして男たちを睨んでいる。
その気魄で男たちが怯む。
既に、男たちの死体も、動けないほどの傷を負った男たちも、地面を覆うほどである。
そして、その時が来た。
刀を抜いた少年少女たちが走って来るのが見えた。
二人を相手に、一人を手負いにしたのみで、エリザを奪うことはもう叶わない。
潮時であった。
男たちは何も言葉を残さず、走って逃げて行った。
紗江が、粗い息を止めて、戦いが終わったことを悟った。
「……圭子!」
持っていた刀をその場に捨てると、圭子に殺到した。
斬られた脇腹からは、血が溢れてきている。それを紗江は手で押さえた。しかし、それでも、血は止まる気配など微塵もなかった。
このままでは、失血で死ぬのでは?
「圭子……!」
圭子は痛そうに目を固く閉じて、痛みに耐えている。
「紗江さん」
エリザが呼びかける。
「ここのお店の人に言って、お湯を沸かしてもらって下さい。それと、針と糸を」
「え?」
紗江には分からない。ただ、エリザの目を見ているだけだ。
エリザはそれ以上説明しなかった。圭子に肩を貸して、ゆっくり立ち上がった。
紗江の金縛りが解けた。
エリザは、圭子を治療するつもりなのだと分かった。
紗江は店の中に飛び込んだ。
背後から、ついに追いついた初芽が「お前は休んでていい」と怒鳴ったが、それも耳には入らなかった。
圭子は、右の腰を正面から斬りつけられていた。しかし、大きな血管には刃が通っていなかったらしい。
エリザは、沸かせた湯で糸を殺菌すると、裁縫用の糸で縫った。血管の修復は不要だという判断だった。
しかし、すぐに動くことはエリザが固く禁じた。最低でも一週間は安静にするべきだと。
針と糸を貸してくれたその店は、丼もの屋だった。店主は筋骨隆々の男で、素手で熊でも倒せそうなほどだった。エリザが「しばらく置いて下さい」と頼むと、構わないと即断してくれた。
圭子が横になっているのは、丼もの屋の奥にある居間だった。そこに布団を敷いてもらっていた。
店主との話をつけた初芽が、その居間に入ってきた。紗江と圭子は、初芽にこっぴどく叱られた。だが、怪我人然とした圭子を前に、そこまで強くは出なかった。
「独断専行は、隊士としてあってはいけないことだ。貸し一、だ」
圭子と紗江は、神妙な顔で頷いた。初芽の言う「貸し」という言葉が、実はとても重いものだということを、二人は後日知ることになる。
「圭子が動けるようになるまで、紗江はここに留まれ。動けるようになったら、エリザと三人で帰って来い」
それだけ言い残して、初芽は剣志隊隊士を率いて隊舎へと戻って行った。
紗江は帯びていた刀の鞘を外して床に置くと、ふぅと安堵の息をついた。
「圭子が死ななくて、本当に良かった。エリザのおかげだね」
そう言われて、エリザがにっこりほほ笑んだ。
エリザは、両親が営む診察所の手伝いをしていたのだった。難しい施術を行う時も、助手として働いていたらしい。まだまだ勉強中だ、というのはエリザの弁。
「この後、エリザはどうするの? あいつらが、エリザのお父さんを殺して、お母さんも殺そうとしたんでしょう?」
悲しそうな顔をして、エリザは首を横に振った。
「お母さんは、もう殺されています。あの人たちが、そう言ってました」
「……ごめん」
この日の午前は剣志隊の隊舎にいたエリザだったが、道場で見学でもしてみようかと敷地内に出た時に、見知らぬ男に話しかけられた。てっきり隊士だと思ってエリザは警戒していなかったのだが、男はエリザの耳元で囁いた。
「母親を助けたければ、俺に付いて来い」
この男が、父を殺し、母親と自分も殺そうとした男たちの仲間だと分かった。そして、エリザからすれば、それは抗うことなどできない言葉だった。
隊舎を出たエリザが見たのは、そこからそう遠くない場所で待っている男たちだった。その数に、エリザは希望を捨てさせられた。
その後、川崎宿まで徒歩で移動した。
部屋をとり、次の出発は朝だと決めた男たちだったが、そのうちの一人が既に酒を飲み始めていた。酔いに任せて口走ったのだった。
「悪いな、お前の母親は既に殺しちまった。お前は、この後売る。金持ちの買い手が現れたもんでな」
この男は、勝手に話した咎で仲間たちに半殺しにされた。紗江が飛び込んだ部屋は、当初は男が五人とエリザで計六人が泊まる予定だったらしい。
逆らっても、どうにかなるとは思っていなかった。エリザは、粛々と受け入れた。
紗江が飛び込む一時間前の話である。
「私には、帰る場所が無くなりました。弔うべき墓も、作ることができませんでした。それに、東京国政府が、私を黙って大阪国へ送り出してくれるとも思いません」
泣き出しそうなエリザの手を、誰かが握った。エリザは驚いて、その手が誰のものか確認すると、それは圭子だった。布団の中に収まっている圭子が、エリザの手を握っていた。
「独断専行はだめだって言われた後だけど、エリザのためなら、私が守ってあげる。だって、エリザは私の命の恩人だから」
エリザの手に重ねられた圭子の手の上に、紗江も手を重ねた。
「私も、それに乗る。貸し二になるだろうけど」
一週間後、エリザのお墨付きが出たので、圭子たちは隊舎へ向かうことにした。
迎えに、柚希が川崎宿まで来ていた。万一、男たちが再度襲ってきた場合を考慮してのことだった。
隊舎へ戻った圭子が家に帰ると、両親は卒倒せんばかりに驚き、そして泣いた。圭子には申し訳ない気持ちもあったが、しかし毅然とした態度を貫いた。圭子の両親は、それで少し心境の変化があったようだ。自分たちの娘は、確かに、剣士となったのだと。
それから数日して、政府から正式な公布があった。その公布は、剣志隊にだけ伝えればいいというわけではなく、東京国の全市民に伝える必要があったため、各町に掲示板が用意され、それは一か月ほど掲載され続けた。
『エリザ・ホワイトウェルを東京国の市民として受け入れる。剣志隊隊長武井初芽をその保護者とし、他の市民と同等の扱いとする。なお、危険性のある感染症には罹患しておらず、その接触に関してなんら危険性は無いことを東京国政府が保証する』
こうして、エリザは剣志隊に入隊することになった。それも、下働きをしている浅野、炊事洗濯をしている和美とは違い、正式な隊士である。これは、東京国政府が正式な身分をエリザに与えるための措置である。
逆に言うと、エリザからは外国の情報を入手できず、また未知の感染症の発見も出来ないため、外見と遺伝子を除けば日本人と何ら変わらない。となれば、ただ外国人の娘だということで衣食住を提供する利点もない。だから、一個人として勝手に生きろ、というのが東京国政府が決断だった。
野晒にするのではなく、剣志隊に入隊させたのは、人道的な処置であったであろう。
そのため、エリザは、隊士としての報酬を手に入れることができ、自立することが可能となった。
入隊考査を受けずに隊士となる例は、非常に稀である。
とはいえ、エリザにはメスなどの医療器具や薬剤を扱うことはできても、刀を扱うことはできない。
初芽は、エリザのために医師方という役職を作った。今までは、隊士が怪我をするたびに医者を呼んでいたわけで、その手間が省けたと喜んだ。しかし、エリザ曰く、医師を名乗るにはまだまだ技術不足だった。
じゃあ正式に勉強すればいい、という初芽の意見を受け、エリザは大学医学科に進むための勉強をしている。
紗江と圭子は、普段の生活に戻った。しかし、学校での授業を終えてから隊舎に着くまでの時間が、今までよりも少し早くなった。
誰も怪我をしていない時は、エリザは和美と一緒に炊事洗濯に励んでいる。紗江と圭子が食堂に来た時は、世間話をした。
「ねえ、エリザって何歳?」
紗江が質問した。実は、初めてエリザを見た時から浮かんでいた質問だった。
「十四歳です」
「じゃあさ、胸の大きさは?」
圭子は、なんてことを聞くのだ、という顔をした。驚いていた。
しかし、興味がある。
エリザは恥ずかしそうにしていた。言いたくない、というのが本音だろうが、自分の命を救ってくれた二人に対して、エリザには拒むという考えが微塵もない。
顔を赤くして、エリザが数字を告げた。
「……そんなに大きいの」
紗江が少しばかり衝撃を受けたようだった。
以後、この三人は絆を深めていっている。親友、と呼んで差し支えない。
六月、梅雨の気配が近づいている頃の話であった。
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