第5話 描き足したかったもの
剣志隊の宿舎は、五階建てである。一階が休憩や待機として使われる大広間で、二階以上には隊士たちが寝泊まり出来る個室がある。各フロアにはトイレと浴室があり、生活するのに苦労はない。今は、五人ほどの隊士が、この宿舎を居住としている。それ以外の隊士は、自宅からの通いである。
個室には、それぞれ二段ベッドを二基ずつ備えているため、有事の際にはほとんどの隊士が寝泊まりすることができた。
大広間は、畳敷きで、まさに休憩室という趣だった。休日の昼には、何人もの隊士が昼食を取る光景が見られるが、その日は平日だったため、大広間にいるのは長谷部珠子(ハセベ タマコ)だけだった。
大広間は西側がふすま張りになっていて、開ければ縁側になっている。外には五月の陽気が夏を思わせる強さで照っているのに、今はふすま戸は全て開け放たれていた。潔癖な隊士が見たら「虫が入る」と嫌な顔をするかもしれない。
だが、珠子は畳の上にイーゼルを立て、この大広間から見える築地本願寺の姿を油絵具で描いていた。珠子は座っていない。立って描く方が性に合っているためだった。
何の飾り気も色気も無い洋服姿だった。下は、油絵具の点であちこちが汚れている綿のズボンに、上はこれまた絵具で汚れているブラウス。
傍らには、珠子の刀が置いてある。隊士には違いない。
珠子の描く築地本願寺は、青暗い色合いだった。雨に濡れているというよりは、日が昇る直前を思わせる暗さである。
珠子が手を休めず、一心不乱に筆を進めていると、道場から何人かの隊士が出て来るのが見えた。午前の稽古を終え、これから昼食を取ろうという者たちだった。平日の午前にいる二十歳前後の若者となれば、彼らは学校を自主的に休んで道場に来ているという連中だった。学校で勉強をしているより、道場で竹刀を振っている方が好きだという事でもある。
珠子は、十八歳。今年、大学の芸術学部絵画科に入学している。小さい時から絵を描くのが好きだと両親からは聞いていたが、それがそのまま今の年齢まで続いているようだった。この日は平日なのだから、大学の講義へ出席していない珠子もまた、学校へ通うよりは自分の好きなことをして平日を過ごしているということになる。
稽古を終えた隊士たちが、今日は調子が良いとか、最近また腕を上げたなどと言いながら大広間へと入ってくる。
そのうちの一人が、珠子の姿を認めて近寄ってきた。
「また絵描いてるんですか、珠子先輩」
「うん。今日はいい天気だし」
「なんでいい天気だっていうのに、そんなに暗い色なんですか? 辛気臭いですよぉ。そこのお寺ですよね」
「築地本願寺よ。お世話になってるお寺なんだから、名前くらいちゃんと憶えてないとダメ」
「だってぇ、あんまりお坊さんも見かけないし」
楽しげに話しかけて来たのは、遠山法子(トオヤマ ノリコ)、十六歳の平隊士である。珠子とは気が合う仲だった。
しばらくすると、おにぎりをお盆に乗せて、大広間に秋田和美(アキタ カズミ)が現れた。剣志隊の下で、食事の用意や掃除などの下働きのために来ている女性である。年齢は三十歳とも四十歳とも言われるが、見た目が二十代でも通用するくらいに若々しいために、まるで分からない。
「みなさーん! ご飯の時間ですよぉ。学校にも行かないで好きなことしてる、イケナイ子たちに握り飯持ってきたわ」
隊士たちから歓声が上がる。珠子も、今日は朝食も食べずに絵を描いていたものだから、すっかりお腹が空いてしまっていた。
和美の仕事ぶりは隊士たちからの聞こえもいい。特に握り飯は、どこかの料亭で修行でも積んでいたんではないかと思わせるくらいの絶品だった。今日の具は、おかかだった。ただの塩や醤油からくる塩味だけでなく、何か玄妙な味がする。隊士たちは、「何がなんだか分からないが、とにかくうまい」と食いつくのであった。和美がどこで料理の腕を磨いていたのかは、誰も知らない。本人に話そうとする気配が無いため、隊士の誰も突っ込んだ話はできていないのだった。
珠子も、和美の作った極上の握り飯を頬張りながら、絵のことを考えている。一個目を食べ終えた時には、隊士たちは午後の稽古のためにみな道場へ出払っていた。
午後も珠子は絵を描いて過ごした。
日が傾き、薄い赤色を帯び始めた頃、休憩室に糸無柚希(イトナシ ユズキ)が現れた。武道着を身につけているが、汗をかいていない。これから稽古を始めようというのだろう。
柚希は、絵筆を片手にカンバスに向かっている珠子を見咎めると、これみよがしに顔を曇らせた。
「長谷部。ここで絵を描いているという者がいたから着てみたが、本当に描いているとはな」
珠子は言葉に詰まった。なぜかというと、珠子が柚希に絵を描いているところを見られたのは、これで数えて十二回目だからである。
「私に見つかったのだから、どうするかは分かっているな?」
「でも、えっと、もうちょっと描いていたいのですが……。ちょうどいい夕暮れですし……」
「だめだ。私と一緒に来い」
副隊長の命令を拒むことなどできない。柚希はさっさと背中を見せるものだから、珠子は画材を片付けることすらできなかった。傍らに置いてあった刀だけ手に取ると、慌てて柚希の後を追った。
柚希と珠子は、正面の戸から道場へと入った。
途端、稽古に励んでいた隊士たちの手が止まり、一斉に視線が集中した。副隊長が道場に入ってきただけでなくまるで稽古に参加しようとしない珠子がきたというのも驚きであった。
「手を止めるな! 稽古を続けろ!」
柚希の一喝で、隊士たちが動きを取り戻す。一瞬訪れた沈黙が嘘だったように、また稽古の熱気が道場に立ち込めた。
「お前もさっさと着替えろ」
柚希に促されながら、二人で道場の奥にある更衣室に入った。
中には、剣道の防具が並んでいる。隊士たちには個別に防具が用意されているので、珠子の防具もきちんとそこに置いてある。
柚希は黙って防具を身に着けた。うげぇ、と珠子は心の中で息を吐いた。防具を着るのは三日ぶりである。
珠子はというと、まずは着ている洋服を脱ぎ、武道着を身に着けるところから始めなければならない。柚希はすっかり準備を整えたというのに、珠子が準備を終えるのをじっと待っていた。面鉄の奥の目が、静かに怒りをたたえているのに、珠子は心底、戦慄した。
「いいか」
「はい」
ああ、自分はこれから、こってり絞られるのだなぁ、と珠子は溜息をついた。
再び道場へ出ると、隊士たちにざわめきが広がる。だが、先ほど怒られたばかりであったので、手を止めるということは無かった。
「じゃあ、始めろ」
柚希は、珠子の肩に手を置くと、てきとうに相手を探して歩いた。
ちょうど、同じように相手を探している隊士がいた。帯には「浜口」という名が描いてある。自分より年上の隊士だったが、まだ道場で手合せをした記憶はない。
珠子が会釈をすると、浜口も会釈を返し、竹刀をするすると上げた。
稽古の開始である。
珠子は下段に構えると、相手の出方を待った。珠子は、常に後の先を狙う。
浜口はぱっと胴を薙いだ。
珠子の背丈は、浜口よりずっと低い。浜口の胴打ちは、やや上からの斜めの線を描く。鋭い、とは思ったが、珠子からすればよく見知った剣筋だった。
軽く後ろへ下がっただけで胴打ちを空振りさせると、即座に面を打った。浜口は避けることもできない。
一本を取られた浜口は、礼をしてから別の相手を探しに行った。
珠子はその後も別の相手を見つけては試合をしたが、いずれも、ただ一振りだけで一本を取った。
珠子の家族は、いずれも軍人である。父は陸軍の准尉、母は海軍の准尉、兄は医官、姉は陸軍で曹長を務めている。誰もが、自分が軍人になることを疑わず、そうして人々のために尽くすのが当然だと思っていたため、珠子もそのような教育を受けた。
苛烈な、武道の修練である。
おそらく、珠子ほどに幼少から剣道を叩きこまれた者は、そうはいない。試合を行った数で言えば、剣志隊の誰よりも多く経験している。珠子自身、武道に大して興味が無いため熱心とは言えなかったが、それでもこなした事に変わりはない。
経験は、たとえ本人に気が入っていなくても、確実に身につく。
今は、時間さえあれば絵を描いている珠子ではあったが、その剣の腕は剣志隊の中でも随一であった。まともにやり合って勝てる隊士は、ほとんどいなかった。
その強さは、柚希にも分かっている。だからこそ、柚希から見ると、日がな一日中絵を描いている珠子には、思う所があるのだった。
「やろうか、長谷部」
「あ、はい」
柚希は身に纏う雰囲気が、他の隊士とは違う。柚希が気を入れて竹刀を構えただけで、道場の空気が一変した。
今まで、各々で稽古をしていた隊士たちの手が止まる。みな、柚希に惹かれている。しかも、相手はあの珠子だ。絵ばかり描いているくせに、他の隊士たちを足元にも近づかせない腕を持つ女。
自然、観覧試合のような形となった。隊士たちは道場の壁際まで後退する。
柚希にそんなつもりはなかったが、こうなっては止めるのも変だった。黙ったまま、中央に立つ。
珠子からすれば、冗談ではない。何を好き好んで、副隊長とこんな見世物のような試合をしなければならないのか。
柚希は、珠子からすれば「まるで勝てない相手の一人」であった。十本やって、一本取れるかどうか。いくら剣の道に微塵も興味がないとはいえ、人前で恥をかいても気にしないというわけではない。この辺りは、軍人一家の血を引く者と言えた。
が、こうなっては逃げるわけにもいかない。
珠子も竹刀を構えて、柚希を見据えた。
柚希は上段に構える。柚希が尊大な性格でないことは珠子も知っている。わざと大げさな構えをとり、珠子の打ちを誘っているのだろう。珠子は、徹底して後の先をとるような性格である。それを崩そうというのだ。
上等です、と珠子は面鉄の中で呟いた。きっと、誰にも聞こえていない。
珠子が前に飛びこむ。それでも、剣に対して引っ込み思案という姿勢は変わらなかった。自分の間合いのぎりぎり外で踏み込むと、腕を伸ばして籠手を打つ。
早いが、腕を伸ばした分だけ体重が乗っていない。当たれば有効打ではあろうが、それを柚希は軽く払いのけると、面を打つため竹刀を振り上げる。必要最小限の動き、かつ、十分な力のこめられた動作だった。
珠子は、その竹刀の先端を見上げて、考える。
珠子の剣道とは、思考と記憶力の戦いである。
並外れた経験を持つ珠子は、その記憶と経験から、相手がどのような太刀筋で打てるかを判断し、その者の性格や道場での稽古の様子から、より予想を具体的なものとする。
この判断が圧倒的なのである。中には、この判断と違う筋で打とうと奇抜な戦法を取る隊士もいたが、実戦に即していない剣で勝てるような珠子ではない。結果、剣志隊の中でも屈指の剣士となっている。
道場には夕日が差して、柚希の面鉄の金属部分が淡く照り返しているのが見える。
キレイだ、と珠子は思った。
思うことで、更に頭の中が冷静になる。柚希の竹刀を、見据えた。
(真っ直ぐより、やや左からの、打ち下ろし)
珠子はそう判断する。柚希の左足が少し外を向いているから、そこからの打ち下ろしは真っ直ぐではない、という判断。角度がついているなら、擦り上げやすい。珠子は相手の竹刀を受け止めるべく、竹刀を握る手を持ち上げる。
柚希、これを裏切る。
外を向いた左足の膝を折り、やや上からの胴打ち。
ぎょっとした珠子は後ろに飛び退くが、それだけでは柚希の間合いからは外れない。柚希が少し腕を伸ばすだけで胴を打たれる。今から籠手を打とうとしても、とても間に合わない。
珠子は、打たれるくらいなら相討ちを選んだ。柚希の胴打ちが届くよりも疾く、渾身の突き。
両者の竹刀は、同時に相手を激しく打ちつけた。
道場の時が止まったかのように、誰も言葉を発さない。珠子は息も絶え絶えに、柚希を見ている。
「相討ちだ。もう一本やろう」
柚希の声は、硬くなっていない。緊迫した試合の最中とは思えないほどに柔らかかった。
「はい」
珠子は答え、再び竹刀を構えた。
しかし、珠子の気力は、先ほどの突きで使い果たしてしまっていた。柚希の胴打ちを前に出ることで避けたが、鍔迫り合いに持って行こうとした所で面を打たれた。
「みな、稽古の続きを」
柚希はそう皆に伝えると、珠子を伴って道場を出た。
夕日も、そろそろ遠くの山の稜線にかかり、沈もうとしていた。しばらくすれば、夜が来るだろう。
道場の近くにある井戸で、柚希と珠子は水を飲んだ。試合の後は、水がうまい。
すっかり、試合の緊張から解き放たれてぼんやりしている珠子に、柚希が優しく言った。
「長谷部。剣道では、相討ちなどよせ」
それは、珠子の家族にも時々言っていることだった。珠子にしてみれば、たまの負けを喫した時にたいてい言われる、お馴染みの言葉だった。
負ける、という局面になると「せめて一太刀」という気が起こってしまう。
「剣道では、それでもいいだろう。同時に打突が有効なら、無効になる。やり直しができるだろう。しかし、真剣ではそうはならない。死体が二つになるだけだ」
「それは分かっているんですが、つい……」
「勝ち気があるのは良いことだ。しかし、命を落とせば、もう勝てない。竹刀の時からそれをやっていると、真剣の時にも同じことをするぞ。だから、やめておけ」
「では、さっきの立ち会いなら、副隊長ならどうしていましたか?」
柚希は少し考えた。
あの時、避けようと珠子が後ろに飛び退いても、胴は打てた。仮に届かなかったとしても、珠子の腕は斬れるだろう。珠子からすれば、あの時点で万策尽きたと見えている。
しかし、柚希は明確に答えた。
「相手の太刀を刀で受けろ。両手で柄を握っていては止められないだろうから、こう左手を刀に添えて止めるんだ」
「剣道じゃ、自分の竹刀の刃の部分に触れるのは反則ですよ」
「そうだな」
柚希はそこを突かれて、軽く笑った。
「だから、剣道では、あの時点でお前の負けだった。相討ちにしたお前の判断は正しい。私は今、真剣の斬り合いでの話をした。普段の稽古は、あのような状況にならないように振る舞った方が良い」
言い終えるより前に、柚希は道場へ戻ろうとしていた。もう少し稽古を続けるのか、防具を脱いで今日の稽古を終えるのかは分からなかった。
「ああ、そうそう。もう一つ、お前に言っておくことがある」
説教の言葉なら、もう腹一杯だった。できることなら、耳を塞いでどこかへ行ってしまいたかった。
「お前、私が胴打ちをする前に、窓からの夕日に見とれただろう。この時刻なら、お前は夕日を見ることでいくらか気持ちをそぞろにすることは予想できた。あそこで私の胴打ちを読めなかったのが、一番の敗因だ」
うーむ、と珠子は腕を組んで、道場へと戻っていく柚希を見送った。
そればかりは、分かっていても、自分に対応することができだたろうか。無理なのではないか、と珠子は思う。
もし真剣で打ちあっている時に夕日に目を奪われれば、絵を描けなくなる体になるのは間違いなさそうだ。
珠子は日が沈みきるまで、そのまま外で待っていた。柚希と更衣室でまた顔を合わせるのが億劫だった。
夜には、また和美が隊士たちの夕食を用意してくれた。夜になると、学校を終えて隊士たちがどっと増えるので、夕食の量も多い。今日の献立は、自家製のコーンスープと、トーストだった。和美は和食だけでなく洋食もうまく作る。
隊士たちが自主的に巡察に出たり、道場に向かっていくのを尻目に、珠子は大部屋で絵を描いていた。
下書きも終え、着色を終え、傍目には完成としても良い出来栄えである。この出来なら、大学の美術家の教授だって、そこまで悪い評価は下さないだろう、という出来だった。
しかし、珠子は不満だった。
努力で辿りつける段階は、全て満たしているように思える。
その先に、この絵はまだ辿りつけていない。
努力で辿りつける、限界。
珠子が、剣に対して熱心になれない理由が、それだった。
自分自身を評価するに、その段階に十五の時には辿り着いていた。しかし、それを以って、誰にも負けないくらいに剣を極めたという意味ではない。
もう自分では、これ以上は上達できない、と見限ったのだった。
絵は、まだ見限っていない。どうにかすれば、まだその先へ迎えるという展望を持っている。
それに、自分の力と熱意と時間の全てを注ぎ込みたかった。
親の言いつけで、今珠子は剣志隊の隊士として働いている。
この時間を、絵に。
珠子は、その日、自宅へは帰らなかった。道場に泊まると、家族は「熱心だ」と褒めてくれる。絵に時間をかけたいと思っている珠子からすると、好都合だった。
宿舎の二階の隅の部屋が、珠子が決まって寝る部屋だった。私物もいくらか置かせてもらっている。なにより、隊士たちが寝る時は最上階から埋まっていくので、二階には誰も来ないというのが良かった。
寝間着にしている襦袢一枚に着替えると、珠子は布団を敷いて寝転がった。
疲れがどっと全身にのしかかってきて、しかし心地よかった。
明日、言おう。
隊長に。
そう心に決めて、珠子は目を閉じた。
珠子は自分のことを、運が悪いやつ、と思うことが多い。
その日も、そうだった。
翌日、珠子は目を覚ますと、まずは身支度を整えた。寝癖で乱れた髪のまま隊長に会うというのは、なんとも具合が悪い。特に、重要な話をしようという時は、普段以上に身だしなみに気を使わなければ、という気になる。その気の持ちようは他の隊士とは明らかに一線を画している。軍人の家の出というのが主な理由であろう。
普段、絵を描いている時も含めて洋服を主に着る珠子であるが、今日は和服を選んだ。この方が、自分の真剣な気持ちが伝わりやすいと考えたからである。
宿舎と本館は渡り廊下で繋がっている。
時刻は、午前八時。腹が空いている。隊長への話が終わった頃に、和美がまた朝食を用意してくれるだろう、と珠子は思った。今日は何を食べさせてくれるだろう、という余裕はある。
しかし、渡り廊下から本館に入ったところで、心臓の鼓動が早くなってきた。緊張してきている。こんなに緊張するのは、父親に「大学で美術を学びたい」と伝えて以来だった。
本館は三階建てで、隊長室は三階にある。大仰な鉄の戸の前に立つと、心臓が早鐘を打って、息苦しくなってきた。普通なら、「今日はやめよう」と帰るところだったかもしれない。珠子としては、「早く終わらせよう」という気持ちだった。存外、思い切りが良い。
季節はもう春なのに、鉄の戸に触れるといひんやりと冷たかった。その戸を叩く。
正確には叩こうとしたところで、珠子は手を止めた。
階下から、誰かが大急ぎでこちらに向かっているようで、どたばたと慌ただしい足音が聞こえる。どうやら、隊長に用事があるらしい。
その足音の主は、三階にまで上がると、一度足を止めた。息を整えているようだ。
事務方の京本房江(キョウモト フサエ)だった。事務方のくせに、恐ろしく腕が立つことを珠子は知っている。柚希や隊長と同じく、「まるで勝てない相手」の一人だった。竹刀を握ると頭が空っぽにでもなるのか、まるで次の筋が読めないという相手だった。
「あら、長谷部さん。隊長に何か用事なの?」
「まあ、はい……」
曖昧に答えるくらいしか、珠子にはできなかった。
房江は、手に何やら紙を持っている。ちらりと見えたそれには、何者かの写真や、地図が描かれているように見えた。何かの機密である場合、自分がそれを知るのは不都合だと思われた。
「すみません、出直してきます」
軽く会釈して戻ろうとした珠子の腕を、房江がそっと掴んだ。
「先にこっちの用件を済ませてもらうけど、でも、長谷部さんも一緒でいいと思うわ。どうせ声がかかると思うし」
声がかかる、という言葉に、珠子が眉を潜める。
剣志隊に入隊してから、声がかかる、という単語にはあまり良い印象が無い。
なぜかというと、それは、何かの仕事を頼まれるというのが大半だったからだ。
どうやって断ろうと思うよりも早く、房江は鉄の戸を叩き「京本房江、入ります」と声を掛けた。中からの返答を待って、房江が戸を開く。
中では、隊長の武井初芽(タケイ ハツメ)が机に向かっていた。当人の好きな仕事ではないらしい、頬杖をつきながら、詰まらなそう顔で何やら書類に目を通している。
「ああ、房江か。その上、長谷部もか。どうした?」
「隊長、警官隊から連絡が来ました。誘拐の件です。長谷部さんも同席した方が良いかなと思ったのですが、どうしますか」
「ああ。同席で良い」
うげぇ、と珠子は心の中で舌を出した。
誘拐、だなんて。これはどう考えても、厄介な仕事に巻き込まれる。
房江は書類に目を落としながら、「伊田金融の社長の一家の襲撃の件ですが、社長の娘が誘拐されたようです」
初芽は「誘拐」のゆの字が出た時点で溜息をついた。
「警官隊は、犯人の襲撃に耐えきれなかったということだな」
「はい。うちからも応援を送りましたが、間に合わなかったようです。誘拐されたのは今朝未明」
今日の朝早くにそんな事があったのか、と珠子は驚いていた。応援のために起こされなかったのは僥倖だったのか、あるいは、起こされたけど目を覚まさなかったのか。どちらにせよ、珠子にとっては僥倖だ。夜に叩き起こされて、死ぬかもしれない戦いに駆り出されるというのは、性に合わない。
が、今こうして隊長室にいて話を聞いているのだから、最終的には、とても僥倖とは言えない。不運だ。
房江が受けた警官隊からの報告というのは、以下の通りである。
昨夜の遅い時間に、伊田金融の社長、伊田光一宅に身元不明の悪漢たちが襲撃してきた。この時代、そこまで珍しい話というわけではなく、富裕層が悪漢に襲われるというのは時々ある話だった。
そのため、富裕層は何らかの形で自衛策を講じるのが常だった。
伊田は、自宅にセキュリティシステムを構築していた。電気が貴重なこの時代では、かなり上級な部類に入る。
悪漢たちが戸を無理やり壊した段階で、セキュリティ会社と警官隊に同時に通報があった。同時に、自宅内に轟いたアラームで伊田一家は飛び起きたが、驚いたのは悪漢たちであろう。寝静まって静かだった家の中でアラームが鳴り響いたのだから、腰を抜かすくらいに驚いたはずだった。
伊田は、家族たちを自分の寝室へ入れると、ドアを閉めきって対抗した。
十分ほどで、セキュリティ会社の警備員たちが到着。寝室の戸を破壊したものの、バリケード代わりのベッドに悪戦苦闘していたところで、悪漢たちと警備員で戦闘が始まった。
警備員たちは、ただの素人ではない。特に、富裕層が契約するセキュリティ会社が雇うのは、いずれも腕に覚えのある者ばかりだった。
その警備員たちは、瞬く間に悪漢たちに殺された。悪漢たちの中に腕利きがいるのだろう。
寝室への侵入を邪魔するベッドを破壊する間もなく、警官隊が到着。
警官隊は、セキュリティ会社の警備員に比べると武器も十分であり、練度も高い。瞬く間に殺されるということはなかった。この時に、悪漢の一人が深手を負い、逮捕されている。
しかし、悪漢たちは伊達や酔狂で襲撃を企てたわけではなかったらしい。駆けつけた警官隊は五人いたが、三人が即死、二人が負傷。
ここで警官隊から連絡を受けていた剣志隊の隊士三人が到着。同時に、悪漢たちがバリケードのベッドを破壊し、突破。伊田の寝室へ乱入。
即座に隊士たちが追いすがったが、悪漢たちは剣志隊との戦闘は避けた。本来なら伊田の一家全員の誘拐を考えていただろうが、この時に連れ去られたのは、伊田の娘一人だけだった。
生き残った警官隊二人の話。
悪漢たちは、全部で八人。うち一人は逮捕されているが、警官隊との戦闘で胸を深く傷を負い、話ができる状態ではなかった。
悪漢たちはいずれも、刀、槍、クロスボウなどで武装していた。明らかに、戦闘を前提としている。戸を破壊したのは、破城槌であり、現場に遺棄されていた。丸太のような筒状のもので、取っ手がついている。これで戸の錠前部分や蝶番部分を殴打し、破壊するのである。2000年時でも、映画などで特殊部隊が施錠されたドアを開けるシーンで見ることができる。
金を持っていない輩が、仲間と飲み屋で思いついたといった低級な犯罪ではなかった。
プロの仕業である。
2000年時において、身代金目的の誘拐というのは成功率が低い。殺害だけが目的ならまだしも、身代金を得るということがあまりに難しいからだ。たいていは金の受け渡し時に逮捕されるし、たとえ身代金を奪取できたとしても、その後の捜査により逮捕される事が通例だ。日本国において、身代金目的の誘拐事件で未解決であるものは数例しかない。
しかし、この時代においては、それなりの成功率がある。
警官隊の数は2000年時より少ないと言わざるを得ないし、科学捜査についても機材が足りないためにそこまでの精度を求めることができない。第一に、犯罪発生率が2000年時より高いために、捜査に割り当てられる人間の数にどうしても限りがあるためである。千人の捜査員が事件にあたるならば逮捕できる犯人も、たったの数人であれば解決に至らないというのは、まったく自然な話であろう。犯人が反撃に出て、警官隊を殺すという事態にまで発展するのであれば、なおさらである。
犯人たちは伊田宅から脱出するより際に伊田本人へ身代金の要求を告げている。
その金額は、一般的な市民の年収の何十倍の値段だった。払ってもらえるための、現実的な額の上限ぎりぎりだといえる。
金の受け渡し場所として、浜離宮恩賜庭園の休憩所を指定していた。
そこは、築地本願寺から、一キロメートルも離れていない、庭園である。今でも、近隣の住人による手入れがされているため、見所は残っている。
特に策や塀による囲いは無いものの、園内は池や堀によって区切られて、行動が容易というわけではない。ただし開けた場所であるために、遠くから見張ることが可能だ。おそらく犯人は手分けをし、金を受け取る係のものを園内へ配置し、見張り係は近くの高い建造物から見張っているものと思われる。
当然、金は伊田当人が一人で持って来いという注文がつけられている。もしも警官隊と一緒に現れでもしたら、金を受け取る係の物は逮捕できるかもしれない。しかし、人質の娘は殺されるだろう。そういう作戦であると思われた。
約束の受け渡しの時間は、明日の朝五時半。そんな朝早くであれば、園内にいるのは浮浪者くらいなものだろうという判断だと思われた。警官隊が一般市民を装うのは難しい。夜でないのは、見張り役が視界を確保するためだ。
「警官隊は、どうすると言っている?」
初芽は、市井の治安を守る剣志隊の隊長として、この事件へ協力するつもりだった。手をこまねいているつもりはないということだろう。
「今日の日中から、近隣の建物を総ざらいで調べるとのことです。ただ、動かせる警官隊は三十人にも満たないということでした。あまり大人数で動くと、犯人に気取られるかもしれない、と」
はっ、と初芽は笑った。
「素直に、人が足りないと言う方が可愛げがあるな」
「敵は手練れです。警官隊を返り討ちにしたという所から、どこかの道場の剣士崩れである可能性もあります」
「だろうな。しかも、人数は八人。一人は捕まったから、残りは七人か。お前の意見を聞かせてくれ、房江」
「私は、事務方ですけど……」
事務方は、本来であれば、隊務の前線に立つ身ではない。作戦の立案など、普段任されている仕事からすれば随分遠い。が、隊長に意見を述べろと言われて、黙っているというわけにもいかない。
「こちらも人数を出す必要はあるでしょうが、まだ未熟な者を出すわけにはいかないでしょう。斬られるような事があるのは、良くない。とすれば、出られる者は限られる」
「誰だ」
「それは、私の口からは」
言えないという。隊長を目の前にして、隊士の腕を測ったような口を出すのは憚れる、ということだろう。
仕方ない、と初芽が名を挙げた。
珠子は、自分の名を挙げてくれるな、と祈った。
「私、副隊長の柚希、伍長の大津。あとは、房江。もう一人欲しいな。長谷部だ。計五人とする」
「分かりました」
祈りは届かなかった。うげぇ、と心の中で呟くのがやっとだった。
「他の隊士は、本日は巡察を禁止。帯剣も無しだ。浅野に言って、道場に来た連中にそう触れを出すよう、伝えてくれ。道場に来た隊士は、今日はここに泊まり、帰宅はしないこと。たとえ明日、どんな予定があっても、だ」
「分かりました」
「柚希には、高校に電話してくれ。大津は、まあ、午後になったら勝手に道場に来るだろう。あいつ、大学も辞めてしまったからな。五人揃ったら、警官隊の捜査に合流する」
房江は頷いて、部屋を出て行った。
なのに部屋に残っている珠子を、初芽が物珍しい目で見ている。
「どうした。房江と一緒に誘拐の件を聞きに来たんじゃないのか? それとも、私に何か話があるのか?」
「ええっと……。あるには、あるのですが……」
ここで自分の本心を伝えたら、今日の仕事は無しになるだろうか。
いや、と思う。
たとえ仕事は無しになっても、自分の代わりに誰かが参加し、その結果、その誰かが斬られたりでもしたら、これから一生心が晴れやかになることはないだろう。
剣志隊としての仕事はこれが最後だ、と決めた。本当の本当に、これが最後だ。
「いえ、今日はありません。明日、生きていたら伝えます」
初芽は不機嫌な顔になった。片手だった頬杖を両手でつくと、じっと珠子を睨め付ける。
「私の一番嫌いなことは、隊士を殺されることだ。私の役割は、君たち隊士に、白兵隊に入って仕事ができるくらいの強さと教養を身に着けさせることだ。それなのに、隊士が悪漢どもに殺されるというのは、我慢がならん」
「隊士は自分の作品だから、ですか?」
「はは、絵を描くお前らしい表現だな。だが、それは少し違う。ものを教える相手っていうのは、家族とも、弟子とも違うが、でもものすごく近しく思えるものなんだ。ほとんど、自分の体の一部みたいなものなんだ。自分の体を斬られたら、誰だって腹が立つだろう?」
「そうですね」
初芽は口元だけに笑みを浮かべると、椅子から立ち上がった。
「今日暇なのは、午前だけだ。絵を描きたいなら、今のうちに描いておけ。私も、今のうちに道場で汗をかいてくることにするよ」
二人して部屋を出ると、初芽は隊長室に鍵をかけた。勝手に見られてはいけないものが、この部屋には数えきれないほどあるということなのだろう。
言われた通り、珠子は大部屋で絵を描いていた。とはいっても、筆は進まなかった。
夜明け直後の築地本願寺を描いた絵であるが、これ以上どう筆を入れてよいかが思い浮かばない。さりとて、これで完成とも思えない。何かが足りない。
うーむ、と珠子は腕を組んで考えている。しかし、答えは何も出てこない。
道場では初芽が汗を流していることだろう。珠子は絵で、初芽は剣道。それが、今日の仕事に入る前の、最後の余暇と言えた。
お昼になるより前に、柚希が道場にやって来た。走ってきたらしく、額に汗を浮かべている。学校で電話を受けて、すぐに走ってきたということだろう。宿舎に着くとすぐにシャワーを浴びに行った。
大津も、お昼過ぎには道場に現れた。初芽の読み通りで、今日は午後から剣の稽古でもするつもりだったらしい。大津が来た事で、今日出る者が全員揃ったことになった。
剣志隊の者で町を巡察するとなると、帯剣するわけにはいかなかった。誘拐犯たちに見つかって、剣志隊と看過されれば、人質は無事ではすまい。
こういった時は、剣志隊はよくやる手として、楽器ケースを用いる。無論、ケースの中には鞘が入るように工夫されている。日本刀が収まる大きさの楽器ケースというと、限られる。女性隊士はトロンボーン、男性隊士はチューバのケースを用いるのが通例である。
もっとも、ケースの中に鞘を納めるのだから、抜くには時間がかかる。もしも、誘拐犯に先んじられれば、刀を抜くよりも前に切り倒されるだろう。
服装も、全員が私服を着て出ることになっている。普段であれば、服の上から鎖帷子を着こむところだろうが、これも誘拐犯に見破られないためである。ちなみに、柚希も含めて全員が洋服を着ている。柚希だけは普段から和服であるため、居心地を悪そうにしていた。和服で楽器ケースを持って管楽器を演奏する者もいないわけではないが、少数派である。少しでも目立たなくするためには、柚希も我慢するしかない。
準備を整えた五人は、築地警察署の近くにある、カフェと向かった。
築地警察署は、2000年時にも存在する。中央区のうち、築地以外にも、銀座、入船、新富、湊、明石町、そして浜離宮恩賜庭園も管轄としている。庁舎は、明治八年に開設された警視第一分庁第三署を始まりとしている。2805年から見ると約十世紀が経過している建物だが、改築や修繕を重ねて今も使用している。とはいえ、2000年時の頃と比べると、その大きさはこじんまりとしていた。今は二階建てで、警察官の数もおおよそ百人を超えたという規模である。決して多くはないだろう。誘拐事件を扱うには、特に。
剣志隊の五人は、カフェで待っている。警察署内に入らないのは、今この瞬間も犯人が警察署を見張っている可能性があるからである。二十代前後の人数で、楽器ケースを抱えた五人組となると、剣志隊だと見当がついてしまう可能性がある。顔が割れれば、この後の動きに支障が出てしまう。
球子はオレンジジュースを飲みながら、築地警察署の庁舎を見上げている。中に入ることを期待していたのだった。絵描きの性であろう。警察署の中を心に焼き付けておけば、いつか警察署の中を絵に描くという時に役に立つ、と思っていたのだった。
初芽が日本茶を飲み終えると、テーブルに置いた茶碗をウェイターが取りに来る。トレイに茶碗を載せると、代わりにメモを置いていく。ウェイターは、初芽に目配せすら残さなかった。
しかし、初芽には分かっている。これは、築地警察署での捜査会議の結果が書かれたメモだ。初芽はそのメモ指先でつまんだ。
「なんて書いてあるの?」
房江が、氷の浮いた水を飲んでいる。この時代、氷は価値が高い。氷を浮かせたただの水は、球子の飲むオレンジジュースよりも値段が高かった。
初芽はメモをズボンのポケットに入れた。内容はもう頭に入っている。
「捜査本部は、日が落ちるより前に犯人たちを捕まえるつもりのようだ。今動かせる警察官、全部で八十余名を全て動員するとさ」
「今朝は、動ける警察官は三十人ほどと聞いていたけど、倍増なのね」
「署長からのお達し、だそうだ。代わりに、今捜査中の他の事件や業務は、ほとんどが停止だそうだ。今日は強盗も万引きもし放題だな」
初芽は笑っている。目は笑っていない。
「剣志隊も、調査に加わって欲しい、とのことだ。できれば、剣志隊の隊士全員で調査して欲しいだろうが、それは私が既に断っている。この五人でやる。しかし、私たちの最も大事な仕事は、誘拐犯との戦闘が始まった時、必ず参加することだ。警察官よりも、私たちの方が腕が上だからだ」
探すことは、探すのが専門の警察官に任せるという。それが、初芽の考えだった。
「今から、俺たちはどうするのでしょうか」
大津が聞く。剣の腕に覚えがあるだけに、犯人を探すという行為には気後れがあるようだった。楽器ケースを背負って町中を歩きまわるのは、出来ることならしたくなというのが本音だろう。
初芽は、その希望に半分答えて、半分応えなかった。
「浜離宮恩賜庭園と、その周りを見回っておく。戦闘になった際の地理を頭に叩き込んでおくんだ」
「戦闘を前提に、ということですか?」
「そうだ。絶対にしてはいけないことは、討ち死にすることと、敵を逃がすこと。そのためには、不利な場所での戦闘を避け、敵を不利な場所へ追い込む。敵を見つけるのは、警察官に任せるよ」
カフェの会計を初芽が済ませると、一行は浜離宮恩賜庭園へ向かった。
歩いている時も球子は辺りに目を配っていたが、初芽は「今は頑張らなくていい」と止めた。あくまで普通に歩くだけで良いと。
浜離宮恩賜庭園に着いた一行は、園内を一回りした。
園内は砂利道できれいに舗装されていた。芝生には、松、欅が植えられている。中でも、「三百年の松 」というものが見事である。江戸幕府の六代将軍、徳川家宣が、将軍になった時に植えられたという話が伝えられている。これは2000年時にもある。
球子は、感激しながら浜離宮恩賜庭園を歩いていた。見事な庭園である。自分が通っている、否、半ば生活をしている剣志隊の宿舎の近くに、こんなに美しい庭園があったとは。今回の仕事を生きて終えることができたら、カンバスを持って来よう。そう思う。
園内は、芝生の中を砂利道で道を描いたような格好である。開けていて、遠くからでも中の人の動きがよく見える。芝生の中にぽつぽつと立っている松の樹が、寂寥感をわきたたせる。
背の高い樹が集まって植えられている箇所がいくつかあるので、ここまで敵が逃げることがあれば、戦いづらくなるだろう。数に劣る側は、樹を盾にして戦うのは常套手段である。
その後、一向が庭園の出口に差し掛かった時に、男が初芽に近づいてきた。作業服姿で、掃除人の格好である。帽子を目深にかぶっていた。
誘拐犯か、と緊張がはしる。珠子は右肩から提げているトロンボーンのケースを意識した。ケースを開き、中から鞘を取り出し、抜くまでにどのくらいの時間がかかるか。
しかし、初芽は緊張を感じさせない。歩みを緩めず、男とすれ違う。
男は手に紙片を持っている。それを、すれ違うと共に初芽の指が受け取った。
(警察官なのかな……)
男は初芽に一言も口をきくことなく、庭園の中へ進んでいく。
房江はなんだかワクワクしている顔で初芽に近づいた。
「ねえ、なんて書いてあるの?」
「後でな」
「そんなこと言わずに、見せてよ」
「そんなに楽しそうな顔をするな。犯人が見張ってるかもしれない場所で、開くわけにはいかないだろう」
初芽は呆れながら、小声でそう言った。
時刻は、午後三時。
浜離宮恩賜庭園を出た一向は徒歩で約十五分ほど歩いて芝大神宮に着いた。2000年時も、神前式で利用する人々がいる神社である。創建は1005年という由緒正しい神社である。
その近くに茶屋があった。串団子を食べながら、初芽が紙片を開く。
「……私たちの捜査範囲の割り当てだ。場所は愛宕と新橋。あの辺りは、無人のビルや廃屋が多い。つまり、誘拐犯が潜伏している可能性は十分にある」
足を使った捜査である。浜離宮恩賜庭園の美しさで心が洗われた珠子であったが、心の中でうげぇと呟いた。
「二手に別れよう。私と房江が愛宕。柚希、大津、珠子が新橋だ。愛宕組は私が隊長、新橋組は柚希を隊長とする」
つまり、隊長と副隊長がそれぞれの組を率いるという格好である。柚希が神妙な顔で頷いた。
「犯人らしき者を見つけた場合は、そのまま尾行すること。建物の中に入った場合は、突入しろ」
「二手に別れて人数を減らしているのに、突入ですか?」
大津が質問する。不安な顔はしていないが、訝っているのだった。誘拐犯たちの人数は残り七人と割れている。最悪、その七人と戦闘になる可能性がある。手勢を二人と三人に割れば、数の上では不利になるのは必定だ。
だが、初芽の表情はいつものように涼しいままだった。
「私は、十分にやり合えると思っている。今ここにいる五人は、今の剣志隊で最も強い五人だ」
「それは、そうかもしれませんが……」
「だから、行け」
隊長がそう言うのなら、大津も反対することは出来なかった。ただ、黙って頷いた。
「今、一人の女の子が誘拐されているという事実を忘れるな。剣志隊の任務の一つは、市井の治安の維持である。万一、賊に少女が殺されるということがあれば、剣志隊の歴史に恥として残る。親にも顔向けが出来ぬ。絶対に助け出すぞ」
この発破は、皆に利いたようである。血の気が多いらしい誘拐犯と戦うことばかり考えて隊士達だったが、初芽の言葉で、一番大事な目的が明確となった。
「それともう一つだ」
皆が串団子を食べ終わった頃、初芽は言葉を継いだ。
「絶対に死ぬな。女の子が殺されれば親が許さぬ。お前たちが死ねば、お前たちの親と、この私が許さない」
初芽は小さく笑っている。お前たちは兵士ではない、と言っている。だから、簡単に死ぬな、と。いかなる時も、死ぬことが仕事になることはない、ということを初芽は伝えたいのだった。
(やるしかないなぁ)
珠子も、今日死んでもよいとは思っていない。死ねば、もう絵が描けなくなる。まだ描きたい絵がたくさんある。
柚希率いる新橋隊が向かう新橋は、2000年時には繁華街であったが、今は違う。ビルなどの建物は残っているものの、繁華街としての機能は既に失われていた。コンクリートが割れた所には、土を運んできて畑を作ろうという動きもある。大きな町は長い時間をかけ風化し、自然に戻っていっているようだ。しかし、このコンクリートの町が完全な畑になるには、更に数百年がかかりそうである。
人通りも多いわけではない。
夕暮れがゆっくりと近づく時刻の中、柚希、大津、珠子が歩く。
珠子は柚希から「あまり人を観察するな」と言い含められている。犯罪者たちは、監察されるという視線に敏感だ。何かを感づかれれば、背後を突かれ誘拐犯たちに攻囲されてしまう危険性もあった。
ぼんやりと、意味の無い視線で辺りを伺うことが必要である。
(そういうのは苦手なんだよね)
大津は、その辺りは十分に心得ており、ただ移動している青年という風情であった。
三人は茫々とした体を装って、新橋を歩いた。
何気ないこの町の風景を眺めながら歩く。
いいなぁ、と珠子は思った。
人が少なく、過ぎた時間を感じさせるビル群は、珠子の心に訴えかけた。今日を生き抜けたら、いつか描こう。この風景をカンバスに写し取ろう。
そんな風にビルを眺めながら歩く珠子は、犯人を捜すという目的にはそぐわない。見るべきは、道行く人であり、顔を見上げていても、何も得るものはない。
本来はその通りなのだが、この日は事情が違った。
とある四階建てのビルの窓から、キラリとした光が見えた。何かが割れた窓ガラスを通過した太陽光を反射したようである。しかし、誰もいない部屋で、何が太陽光を反射する? 元いた住人が、姿見でも置いていたのだろうか。
珠子は不思議に思い、首をかしげたまま足を止めた。
柚希と大津がその視線に気づく。気付いたまま、同じように足を止めて、そのビルの一階に目をやる。
男が地面に座り込んでキセルをくわえ、煙をくゆらせていた。浮浪者が時間を潰しているようにも見えたが、違う。その傍らに、日本刀の鞘が置いてある。紺色の着流し姿だった。
その男に近づく別の男がいた。こちらも着流しだが、キセルの男よりは身なりが綺麗である。薄藤色で、高そうな生地に見えた。手に紙袋を持っている。何やら、どこかで食べ物を買ってきたという風情である。キセルの男はそれを待っていたらしく、紙袋を見て立ち上がった。
男たちがそのビルの中に消える。腹を空かせているように見えた。
刀を持つ浮浪者も珍しくはないし、食べ物をどこかで調達してくるというのも珍しくはない。だから、違うなら、それでよい。確かめる必要がある。
三人は何気ない風にビルに近づく。だが、まっすぐに向かうわけにはいかない。ケースから刀を出さなければ……。
珠子がそう思った時、駆け寄ってくる人影。
最初に気づいたのは大津。次に柚希と珠子が同時に気づく。
既に人影は抜刀していた。長髪の男で、スーツ姿。きぇい、と大声をあげると、真っ向から切り下げてきた。
大津が、チューバのケースでそれを受け止める。このケースの内側は鉄板を備えており、盾として使用できる。敵の斬撃を止めると、腹部へ蹴りを食らわせていた。
男ひるんだ時には大津はケースを開け、中から刀を取り出している。
「行ってください、副隊長」
大津が言い終る前より、既に柚希は走り出していた。走りながら、トロンボーンのケース開けた。不要になったケースはその辺りに捨て置く。
珠子も急いで柚希に追いすがる。柚希は慣れているようだが、珠子にとっては走りながらケースを開けるのに難儀した。
大津を一人置いていくのに不安はあったが、しかしもう時間はない。このやりとりが犯人たちに見つかれば、即座に人質を連れて逃げるか、さもなくば人質を殺すだろう。
ビルの入り口に見張りを立て、さらに、遠目からそれを二重に見張るという策だったのだろう。
応援を呼ぶことはできない。最低でも相手は二人と、おそらくは人質を見張る者で計三人いる。
柚希と珠子はビルの入り口に立つと、揃って鯉口を切った。
中に、人影はない。
珠子は後ろを振り返った。大津が長髪の男と切り結んでいる。できることなら、加勢したい。今日、自分が生きても、明日に大津の葬式に出るのは嫌だ。
「前を見ろ、珠子」
柚希が名を呼ぶ。普段、柚希は隊士たちを名ではなく苗字で呼ぶので、珠子はハッとした。
大津に任せろ、ということだろう。
中は、雑居ビルだった。一階は郵便受けと今は動いていないエレベーターがあるだけだった。階段が伸びている。フロア一階につき、部屋は一つだけだと見当がつく。
柚希が前、珠子がその後ろにつく。
二階に上がった。
数百年前は何か店を構えていたらしいが、看板は既になく、ドアすら無かった。
中にいる、浮浪者のように見える男と目が合った。
「なんだ、てめェら」
さきほどの紙袋の中身は、握り飯だったらしい――浮浪者の男はそれを捨て、佩いていた刀に手をかける。
その奥に、これまた先ほど見ている薄藤色の着流しの男がいる。
「先に行け。急げ」
柚希は刀を抜きながら、そう珠子に声をかけた。
すぐさま刀を抜くと、青眼に構えて部屋の中へ進む。
二対一。珠子の心に不安がよぎる。
しかし、見届けることはしなかった。階段を二段飛ばしに掛け上がった。
階下から、金属と金属が打ちあう音がする。
三階は無人。すぐさま上へ。
最上階の四階。
いた。
同じくドアは既に無く、その部屋の奥に少女が椅子に縛り付けられていた。
その傍らに、男。怪我をしているらしく、右目に包帯を巻いている。革のジャンパーに、黒のパンツという出で立ちだった。年齢は、三十代くらいだろうか。
その男は、手に持つ刀を上に振り上げていた。警察関係者が現れたことで、身代金を受け取るのはあきらめ、人質を殺してとんずらしようという肚積もりなのだろう。
珠子は刀を抜くと同時に、鞘を思い切り男に投げつけた。
包帯の男は、やはり素人ではなかった。半ば不意打ちではあったが、男は慌てることなく、素手の左手で投げつけられた鞘を払った。
珠子が部屋の中に入る。
「なんだよぉ、邪魔しに来たのかよぉ」
男は刀を振り上げたままだった。刃は、まっすぐに少女の頭を向いている。
少女は布で猿ぐつわを噛ませられ、涙で頬を濡らしている。
「おい。聞いてんだから、答えろよぉ」
「言っとくけど、その子を殺そうなんて考えないでよ。刺した瞬間、私が斬る」
「邪魔しに来たのか聞いてんだから、答えろよぉ!」
「……そうよ、邪魔しに来たのよ」
「お前、もしかして、剣志隊か」
「そうよ」
珠子の答えに、男はニタリと笑った。
さっきの意趣返しなのか、持っていた刀をまっすぐに珠子へ投げつけた。
(なにっ……)
上手い。切っ先がぐるぐる回りながら、しかし珠子にぶつかる時には刃が刺さるような回転であることが分かった。刀を投げるのが、得意らしい。
珠子は咄嗟に右に飛んでかわした。
かわした時には、男はその手に槍を持っていた。
(槍かよ……)
槍は秘密裡に持ち運ぶことができないため、犯罪には使われることは少ない。武芸においても、やはり携帯できないということから、修める者が多くない武器である。
故に、刀の術者が槍と戦うことが少ないため、研究されることが少ない。刀に大してたいていは有利であるという特徴を持つ。
刀よりはるかに長尺のため、同じ刀同士の時とはまるで違う戦い方を強いられる。
穂、二尺、茎一尺六寸、柄も含めると六尺くらいであろう。成人男性の背丈ほどの長さである。
刃は、真っ直ぐ。素槍という種である。
刀を投げつけた後、近くに立てかけてあった槍を手にしたのだと分かった。この槍が、この男の本来の得物なのだろう。
「下に一人いるだろ。あと、外にも一人いたな。全部で三人か?」
「もっといっぱいいるに決まってるでしょ」
「いっぱいいるなら、結構だぁ。お前を人質に取れずに殺しちまっても、他の奴を人質にできるからなぁ」
包帯男は槍を低く構え、じりじりと間合いを詰めてくる。
「あんまり暴れるなよぉ。うっかり、やっちまうかもしれねえからな」
珠子は、背筋が恐怖で暴れ出しそうになるのを懸命に抑えながら、槍との戦い方を思い出そうとしていた。
記憶の限り、槍と戦ったことがあるのは、二度だけである。
九歳の時、刀の扱いに慣れ始めた頃に父が連れてきた武芸者。その頃は、あらゆる武器との立会いをさせられていた。経験を積むのが最も重要、というのが長谷部家の家訓である。無論、勝ちを取ることはできなかった。
二度目は、十六歳の、剣志隊に入隊した直後である。酔っぱらって暴れている男がいるというのが槍の達人で、隊士である珠子が現場に向かった。この時は、男が酔っぱらっていたから勝てたようなものだった。肩に一太刀入れたところで、同行した隊士が押さえ込んだ。しかし、珠子も無傷ではなかった。今も、右の腹に、突かれた傷が残っている。
槍と刀が立ち会う時、刀がまだ届かない距離いるうちから、槍は突くことができる。常に有利な距離で立ち会えるのである。
刀が槍の術者を斬ろうという場合、槍の突きと同時に前へ出て、次の突きが来るよりも前に斬るしかない。刀が届く位置まで近づかなければ、なにがどうなっても勝てる道理はない。
突きと同時に、前へ出る。遅れれば、二の突きを食う。
相手の出方を伺いながら、珠子も相手に合せて間合いを詰める。
珠子は初太刀で決めるつもりである。右足を前に、左足を後ろにしたまま、すり足で少しずつ、少しずつ前へ。
珠子が、青眼に構えた剣先を上下に揺らしている。突きを誘っているのだ。
今、珠子は自分の命を餌にして釣りをしているのと同然である。
思わず笑ってしまいそうなほどの怖さが、背筋を上下していた。
包帯男は、珠子と同様にすり足で近づいてきている。
両者の間の距離が、五間まで狭まる。
包帯男が一歩踏み出せば、珠子を突ける距離である。
(来い、来い、来い)
一触即発、ほんの少しの刺激で爆発する。
包帯男は動かない。珠子は後の先を取るのが得意ではあるが、今ここで時間を使うのは得策ではない。
珠子は、柚希の勝利を疑っていない。しかし、万一、柚希が討ち取られるようなことがあれば。
階下にいる二人は、自分か大津のどちらかに加勢に向かう。柚希が一人も仕留めることが出来ていないのなら、両方という場合もあり得る。
逆に、柚希が二人を仕留めて、こちらに加勢に来る可能性もある。だから、包帯男にも待つ時間はない。
包帯男の表情は動かない。目は珠子の手足には向けず、まっすぐに珠子の目を見ている。まるで、これから何時間でもそうしていられるような、落ち着いた姿勢だった。
そのままの雰囲気で、手足が動いた。
足が一歩前へ。
槍を握る右手と左手が、同時に左へ流れる。
(引かない……?)
突きであれば、槍を持つ手を引くのが必然。
珠子の背筋で暴れている恐怖が、別の恐怖に変わる。
突きではなく、なぎ払いだった。
ぶぅん、という音を立てて、素槍の真横から襲ってくる。
(止めようと受ければ、殺られる)
刀と槍では、質量からして違う。もし刀でなぎ払いを受け止めれば、それだけで刀は折れるだろう。
後ろに飛び退いても避けきれない。全力で引いても、肋骨を真横に裂かれて、それまでだ。
残る回避は……
しゃがむしかない。
隙あらば前に飛び込もうとしていた足の力を無理やりにねじこみ、膝を折った。
珠子の頭上を、素槍の刃が素通りした。
(いただき!)
飛び上がろうとした珠子の目は、しかし、空振りをして隙を見せている包帯男ではなかった。
なぎ払いをかわされたと同時に両手を引いている。既に、突きの姿勢であった。ここで飛び込めば、猟銃を構える猟師に飛び込む猪と同じである。
しかし、突きの筋は読める。突きとは、体の一点を狙う最速攻撃であるが故に、攻撃される面積が小さい。どこを狙うかさえ分かればかわせる。珠子は包帯男の手足を見た。それは、観察などという悠長な行為ではない。包帯男が突くための構えを見せて、そして突きが始まるまでのわずかな間での行為である。
(右手の絞りが強め、左手が脇が閉まっている。肩が右を向いている)
(敵は、私を人質にとろうとしている。命を取らず、動きを止めるだけだ)
(狙いは、刀を持つ右腕)
珠子は体を左へ流す。突きの瞬間に左へ飛んで避けるか、前へ飛んで切り倒すか。次こそ、隙を見つけてやるという気概だった。
「しゃぁぁぁっ!」
包帯男が奇声をあげて突きを繰り出す。
狙いは、左胸。心臓である。
(くそっ!)
まるで自分の読みが当たらない。珠子は心の中で歯ぎしりしながら、後ろへ飛び退く。それを追うように包帯男の槍が迫る。
珠子は全力で槍の刃を横から叩いた。突きを止めることなどできない。軌道を逸らすのが精一杯である。
槍の穂先は左の胸からは狙いが外れたが、珠子の左腕を裂いた。
痛みがはしる。筋肉や腱はまだ動くが、浅くはない。目を落とさずとも、左腕から血が流れるのを感じる。
距離を取った珠子は、しかし息を整える間も与えられなかった。
包帯男は突いた槍を手元に引き戻すと、すぐになぎ払っていた。
もう前に出ることはできない。珠子は槍の攻撃から逃れるため、後ろに下がるしかない。なぎ払いをかわして前に出ても、同じように突きを食わされるだけである。
珠子は攻撃に詰まった。これでは、斬りあうどころではない。
二度、三度となぎ払いを後ろへ避けながら珠子は押されていき、やがて背中が壁についた。
進退窮まる。
「これで終わりだなぁ。一応、聞いておくぜぇ。おとなしく人質になる気はあるか?」
人質になれば、今この場で殺されることはないだろう。
犯人たちが逃走するための材料にされるのだ。
その後、どうなるか分からないが。
「お断りです。私、剣志隊の迷惑になるのは、嫌なので」
「そうかい」
包帯男は槍を構えたまま、舌舐めずりをした。
なぎ払うか、突きか。珠子は左腕から流れる血に苛々とさせられながら、包帯男を冷静に見ている。もう、次の読みは外すわけにはいかない。
包帯男がなぎ払えば、しゃがむなり飛ぶなりして避けるしかない。後ろに空間はもうないのだから。しかし、外せるだろうか。
突きであれば、穂先を叩いて包帯男の手元へ飛び込むのが定石だが、二の突きを繰り出される前に仕留められるか。
どちらにせよ不利。
ならば。
包帯男が突きを繰り出す、その前に、珠子が動いていた。
男の目が驚きで広がる。
珠子は刀を中段に構えたまま、一歩前へ。
そこは既に槍の攻撃可能の範囲外である。懐に飛び込めば、槍に攻撃はできない。
距離は既に三歩より短い。
珠子は真っ直ぐに面を打ち下ろした。
それを、包帯男が槍を短く持ち直し、柄で珠子の刀を受け止めようとした。
柄ごと、包帯男の顔を割るつもりだった。だが、ギン、という重い金属音がして刀が止まった。
(中に、金属を仕込んでいるのか)
珠子には、見た目かして全て木材による槍に見えたのだが、耐久性を上げるために金属を仕込んでいるらしい。だが、全てというわけではない。全てを金属で仕上げた槍は重くなるため、日本人には向かない。部分的に金属を仕込み、斬りつけられた時に用いるものらしかった。
そんなことを珠子はぼんやり思ったが、今はどうでもいい。重要なのは、必殺と思った一撃が止められたこと。
今、再び距離を取られれば、包帯男の槍に分がある。そのまま珠子は押し切ろうとしたが、包帯男の前蹴りが珠子の腹部に突き刺さった。
ぐぇ、と珠子が息を吐いた。膝がよろけ、倒れかける。
つま先が珠子の横隔膜を潰して、蹴りの衝撃が背骨にまで届いた。体中の血流が腹部で一瞬止まったように思える。珠子の視界が真っ赤に染まって、意識が切れかける。
包帯男はすかさず二度目の蹴りを打ったが、珠子はこれを手で防御した。
刀は離さなかったが、右手が痺れた。しゃがんだままよろよろと後ろに下がった。
包帯男が槍を握る手に力をこめる。突きだ、と珠子は直感した。
珠子が立ち上がるのと、包帯男が突きを放つのは、ほぼ同時だった。
男の狙いが、珠子にははっきり見える。
正中線上、胸の真ん中。右に避けても左に避けても、腕には刃が刺さるだろう。無傷で避けるのは望めない。
やっちゃおうかな、と珠子は思う。
距離は、槍にとって十分と言えるほど長くはない。
このまま一歩前へ出て、持っている刀を突き出せば、包帯男の胸を刺せる。たとえ、自分の胸に槍が潜り込んでいるとしても、おそらく可能だった。
あるいは。
左半身を犠牲にする。肩で槍を食い止め、右手で斬る。おそらく、一刀で首を斬り裂ける。
やっちゃおうか。
どうせやられるなら、相手も。
蹴りで薄まった血の巡りが、刀を握る手の先にまで戻った。
やれる。
珠子は後者をとった。利き腕が無傷である方が、まだ先が望める。槍が突き刺さってから、この男を殺すまでの僅かな間だけ、命が長らえさせることができれば、オールオーケイ。
槍の穂先が迫る。
その切っ先が、僅かに陽光を照り返すのを見て、珠子は心変わりした。
相討ちはやめておけ、と。先輩がそう言っていた。相討ちなんて、ろくでもない。
珠子は青眼に構えかけた刀を、その手の形のまま包帯男に投げつけた。
手首の動きだけで投げつけられた刀は、ほめられたものではない速度だったが、その刃は確かに包帯男の顔面へ飛んでいく。
包帯男に、相討ちなどという神経はない。顔面に向かってくる刀にぎょっとしつつも、顔を思い切り横に倒して避けた。刀の先端が包帯男に突き刺さることはなかったが、肩に落ちた刃が肉に食い込んだ。
その程度で、槍の刺突が止まることはない。が、勢いが乱れ、狙いは狂う。
珠子は膝を追って、しゃがむことで槍をかわした。
その次の一撃はどう避ける? それを避けられたとして、第三撃目は?
そもそも、刀を投げてしまった珠子は空手である。素手の剣志隊隊士に勝ち目などない。
「終わりだなぁ、剣志隊!」
包帯男が吠えた。
珠子は立ち上がりつつ、前へ出た。槍使いとの戦闘において、距離を詰めるというのは常套手段である。
だが、包帯男は、先ほど「蹴り」という手段でそれを無効化できることを証明した。バカめ、とほくそ笑んだ。これで勝てると思ったし、既に考えは珠子を殺した後の事にまで及んでいただろう。
包帯男は槍の突きを止め、再び前蹴りを繰り出した。
それが決定的な悪手になった。
包帯男にとって。
当たるはずの蹴りが空振りに終わる。なぜかというと、その膝から下が一刀のもとに斬り落とされたからである。
珠子は手に持つ刀を残心しつつ、中腰の姿勢から青眼へと構えた。
その刀は、包帯男が最初に放り投げたものである。しゃがんで避けた時に、その柄を掴んでいた。
自分のものでない刀を持つことに、珠子は嫌悪した。この心根が汚い男が持っていた刀を手にしているだけで、自分にまでそれが伝わってくる感触がする。
だから、さっさと手放すことにする。
片足を失い倒れかけている包帯男の胸を、珠子は冷静に貫いた。倒れた時には、既に事切れていた。
珠子は持っていた刀を捨てた。先ほど自分が投げた刀を取ると、同じく落ちていた鞘に収めた。やはり、刀は自分のものがいい。
終わった途端、疲れが全身に伸しかかってきた。こんなビルの階段を駆け上がってきたてから、息をつく暇もなく命のやりとりをしたのだから、疲れて当然だった。
人質になっている少女は、椅子に縛り付けられたまま、目を閉じて震えていた。殺し合いのどこまで見ていたのかは分からない。
嫌な所を見せてしまったな、と思った。
珠子は収めたばかりの刀を再び抜くと、少女を縛り付けているロープを切って、猿ぐつわも外した。
「もう、大丈夫だよ」
珠子は精一杯の優しい声で言ったが少女は怖がって、何も言わなかった。ただ、うん、うん、と頷いていた。
柚希と大津は、無事だった。それぞれ、敵を殺さず捕縛していたと聞いて、珠子は「自分は咄嗟に殺してしまった」と暗い気持ちになった。
捕えた犯人たちは人目につかないように留置場へ身柄を移したのだが、やはり仲間が姿を消したことで察知したらしい。他の犯人たちは翌日の朝五時半になっても姿を現さなかった。人質は無事に救出したとはいえ、まだ犯人の残りがいる以上、この後も捜査は続行となるだろう。
犯人たちを捕らえた日の翌日、珠子は隊長の初芽に除隊願いを出した。理由は、美術の勉強に専念したいため、であった。除隊の意志を持つ隊士を、隊に置いておくことはできない。初芽は承諾した。
「お前がいなくなるのは寂しいよ」
本当に悲しそうな顔をするものだから、珠子の胸も痛んだ。
「もしもですが、戻って来たくなったら、戻って来てもいいですか?」
そう聞くと、初芽はいたずらっ子のように笑った。
「その時にまだ二十二になっていなくて、入隊考査に合格できたらな」
それは無理かもしれないな、と珠子も笑った。
ほとんど自室として使っていた部屋の荷物を段ボール箱に詰めて、実家への配送を手配したところで、珠子はもう隊舎を出る準備を整えた。あとは、手荷物を持って家へ帰るだけだったが、珠子にはもう一つだけやっておきたいことがあった。
午後四時になって、目的の人物が隊舎にやって来た。
柚希である。
斬り合いをしたという日の翌日にも、きっちり現れるのだから、剣志隊の鑑と言えた。
シャワーを浴びて、道着に着替えて道場へ向かおうというところを捕まえた。
「副隊長」
「ああ、長谷部か。今日も絵を描いてるのか。あんまりサボってると、また稽古をさせるぞ」
珠子はひとしきり苦笑した後、深々と頭を下げた。
「今日で除隊させてもらうことになりました。お世話になりました」
柚希はびっくりして目を丸くしていたが、やがて状況を飲み込んだ。
「絵を描くためだな」
「はい」
柚希にとって、除隊する隊士は初めてではない。悲しい顔を押さえるのも、堂に入っていた。
「それじゃあ、達者で」
達者で、か。時代がかった言葉に、珠子はおかしくて仕方なかった。
「お別れする前に、一つだけ副隊長にお願いがあります。聞いてもらえますか?」
「願いによるよ。何?」
「最後に、副隊長の絵を描きたいんです」
いいよ、と言う柚希の手を宿舎の大広間まで連れていった。
柚希を椅子に座らせると、珠子はスケッチブックと鉛筆を手に正面に座った。
「ところで、スケッチっていうのはどのくらい時間がかかるんだ?」
澄ました顔で、なにやら緊張している柚希の問いに、珠子が答えた。
「二時間くらいです。動かないで下さいね」
柚希はそれを聞いて「うげぇ」と呟いた。
珠子は、最後まで助言についての礼を柚希には言わなかった。言ってしまうと今生の別れになってしまう気持ちがしてしまいそうなのが嫌だったからであった。
二時間ほど柚希を拘束した後、スケッチブックを小脇に抱えて家へと戻った。
勝手に剣志隊を辞めたことを父親にこっぴどく叱られるのだろうが、柚希のスケッチの事を思えば耐えられそうだった。
こうして、珠子は剣志隊を除隊した。大半の隊士が、二十二を迎えて白兵隊に入隊するか、任務で死亡するということを考えると、自分の意志で隊を抜けるというのは非常に珍しい例である。
家に戻った珠子は、描きかけていた築地本願寺の絵を完成させることができた。
日の出から間もない時刻に佇む築地本願寺を見上げる、柚希の姿を描き足したのだった。
剣志隊を辞めて家族から猛烈に叱られた珠子だったが、その絵を見ることで、なんとか乗り切ることができそうだった。
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