第4話 紗江の家庭教師
羽場紗江(ハネバ サエ)の父、羽場浩一郎(ハネバ コウイチロウ)はファッションデザイナーで、暮らしは裕福と言えた。専門は洋服である。この時代の服には、洋装と和装の二種があるが、外国からの文化の流れが止まって以来、紗江の父のようなファッションデザイナーがいなければ洋服は作られなくなるだろう。そういった意味で、文化の保存に寄与しているとも言える。
母、羽場寿美代(ハネバ スミヨ)は専業主婦で、家のことのほとんどを一人で回している。真面目で熱心な主婦だから、浩一郎は安心して家のことを妻に全て任せていた。
そんな寿美代には、一つだけ、浩一郎も閉口する趣味があった。
剣である。
本人は、ごく普通の家庭に生まれ、ごく普通に育った。寿美代が剣に出会ったのは、小学生の時の剣道の授業である。
小学生の剣道など文字通り児戯であったが、寿美代は剣の道に夢中になった。父親に頼み込んで道場へ通い、近所の道場で行われる試合なども残らず見に行くほどの入りようだった。
本人に剣の才能があったわけではなかっため、剣士としては高校を卒業した時に終わった。しかし、剣道のファン活動はその後も続け、浩一郎と結婚した後も続いた。
そして、紗江が生まれて両足で立てるまで大きくなった時に、紗江に剣道を始めさせたというのも、このような母を持ったからには、やはり自然だったのかもしれない。
だが、紗江が非凡なる剣の才能を持って生まれたのは、寿美代が剣道ファンであることと関係があるのか、それは誰にも分からなかった。
晴れて剣志隊の隊士となった紗江の一日は、以前と大きな違いはない。その日も、それまで通りに自宅の布団の上から始まる。時刻は朝六時であった。
寝間着としているのは綿のパイル織のパジャマだった。寝間着が洋服なのは、父親の影響であろう。この時代の生地としては、綿はごくごく標準的である。
紗江が私室を出ると、冷蔵庫でコップ一杯の水を飲む(電気は貴重なエネルギーであるが、冷蔵庫はさらに貴重であった。食物の生産が決して多くない日本において、野菜やら魚やらを腐らせることは、大いなる損失である。この時代での発電は水力発電によるものが八割ほどを占めるが、そのうちの半分ほどは、町中の水道管にびっしりと敷き詰められた小型の発電装置による。なお冷蔵庫の生産に使用される冷媒は日本での生産がとても難しいため、故障した冷蔵庫は各国の行政機関がリサイクルする。そのため、冷蔵庫の不法投棄は重罪であり、業者が行えば死罪は免れない)。
その後、紗江はシャワーを浴びて、ジャージに着替えると、庭で木刀の素振りを行う。毎朝五百回が日課である。
それが終わる頃、大抵は母が目を覚まし庭に現れる。
「今日も精が出るわね。朝ごはん、作るわ。今日は、ご飯は一杯? 二杯?」
紗江は少し考えて、「二杯で」
五百回の素振りを終えると、紗江は再びシャワーを浴びると、中学校の制服に着替えた。その後、椅子に座って髪の毛を三つ編みに編んだ。髪型は、その日の気分によって変える。
姿見に立って、身だしなみが整えられているかを確認した。
紗江の背丈は158センチ。髪の毛は腰にまで届くロング。前髪は常に作らない。髪が目にかかると、剣士として致命的になる可能性があるからである。
登校の身支度を済ませて居間に降りると、母親が朝食の用意を済ませたところだった。父の姿はない。職場が遠いため、紗江が起きる一時間前には家を出ていた。紗江が父と会うのは、もっぱら夜である。
事前に言っていた通りにご飯を二杯平らげると、紗江は中学校へ向かう。
八丁堀中学校。総生徒数は約90名。この地域の学校としては、生徒の数は多い方である。各学年とも1組ずつであり、紗江は中学三年生だった。
この時代の中学校は、2000年時と大きく変わることはない。
八時三十分に朝のホームルームがあり、一時間目は八時四十分に始まる。
そのまま、十分間の休み時間を挟みつつ、午前は四時間目で終了である。
学校によっては弁当というところもあったが、紗江が通う中学校では給食が出る。
昼食後には昼休みがある。紗江はきまって、勉強をしていた。放課後は剣志隊の武道館に行くので、夜には時間が無いためだ。昼休みを各々自由に過ごす中、勉強に勤しむ紗江の姿は、クラスの中では多少浮いていた。
五時間目は体育だった。
当然のことながら、紗江の運動神経は抜きんでて良い。この日の授業では、テニスを行った。この時代においては海外の情報は皆無であったが、日本国においてはテニスというスポーツは残っているということになる。
クラス全員でラケットの素振りやらサーブの練習などを行った後に、四人一組となりダブルスで試合を行った。紗江は、相棒のミスによる失点を除けば、相手のチームを圧倒した。紗江が本気で打つスマッシュは、クラスメイトの比ではない。相手チームは球を受けるというよりは、避けていた。
授業は六時間までである。その日も、紗江は最後まで真面目に授業を受けていた。
教科書を鞄に入れ、下校しようとしたところ、クラスメイトに呼び止められた。
「途中まで一緒に帰りましょ、紗江」
その女の子の名は、熊井曜子(クマイ ヨウコ)といった。紗江よりも頭一つ分背が高い。体も引き締まっているので運動をしていると思われがちだったが、本人は料理部に所属する、おっとりした女の子だった。
「悪いけど、先生に呼ばれてるの。先に帰っててていいよ」
「ううん。じゃあ、待ってる」
そう言って、曜子はバッグから文庫本を取り出して小説を読み始めた。古い小説が好きで、今読んでいるのはマークトゥウェイン作「ハックリベリー・フィンの冒険」だった。海外贔屓は、過激な国粋主義者からは嫌われる傾向があるため、あまり海外文学を人前で読むのは避けている。こうやって曜子が海外文学を読むのは、誰もいない放課後か、友人である紗江の前くらいだった。
紗江が職員室に行くと、担任の教師である大元源吾(オオモト ゲンゴ)が紗江を待っていた。名前は勇ましいが痩せっぽちで、頼りない印象の男である。最近薄くなってきた髪を、ヘアスタイルで隠そうと苦慮している。
「羽場か。待っていたぞ」
やや鷹揚に言う大元に、紗江は軽く会釈を返した。
「用事とは、なんでしょうか」
大元は机の上に用意していた一枚の紙を紗江に渡した。
成績表だった。紗江の中学二年の時の期末試験の結果がまとまっている。
およそ剣において欠点らしい欠点を持っておらず、人格面においても肉体面においても弱点を持っていない紗江の持つ唯一の弱点と言えるのが、学業であった。剣志隊の試験は筆記試験を含むが、紗江が合格できたのは、剣の腕が圧倒的だったからと言える。
試験の結果は散々だった。国語、歴史、公民はまだ標準的な成績だったが、数学、科学は散々だった。理数系が特に苦手だった。
「お前は、剣志隊からそのまま白兵隊へ進みたいんだったな」
「はい」
「そうだとすると、今のままの成績だと、無理かもしれん。剣志隊に入っても、筆記試験は定期的に行われるんだろう? それに、白兵隊に入る時だって、筆記試験があるはずだ」
その通りであった。紗江は、剣志隊に入隊を果たした今も、除隊となる危険性を孕んでいる。そうならないよう勉強をしているのだが、どうにも成績が上がらない。それが、今の紗江の悩みだった。
「今、俺の知りあいが家庭教師をしていてな。もう少し生徒を増やしたいという話だった。本人は東京大学に入った秀才だし、どうかな」
東京大学は、2000年時でも入学の難しい大学であるが、この時代でもそれは変わらない。その大学に入ったとなれば、さぞかし筆記試験の点数は良いのだろうと思える。
だが、そう言われても「しかし」と紗江は否定的にとらえた。
今までにも、家庭教師にお願いしたり、塾やらには通ったことはある。だが、どうにも紗江とは相性が悪かったらしく、成績が上がったことは無かった。
「いや、不安に思うのは仕方ない。ひとまず、一度会ってみないか? もしも、合わないと思ったらやめればいいんだ」
やめても良い、というのであれば、気持ちは大分楽になる。紗江は「両親に相談してみる」と答えた。
教室に戻ると、曜子がまだ文庫本を読んでいた。紗江に気づくと、曜子が本から顔を上げた。
「もう終わったの?」
「うん。生徒を探してる家庭教師がいるからどうだ、だって」
「紗江、いっつも勉強には苦労してるもんね」
「本当、そう」
紗江は、傍目から見ても、真面目に生きている。嫌いな勉強だってきちんと真面目に取り組んでいるのに、こうも成果が出ないと、間違っているのは世界の方ではないかと思えてしまうほどだった。が、紗江は学業は劣っていても、怜悧である。間違っているのは自分の方だと理解している。自分勉強のやり方が間違っているのだと。
家に帰ってから両親に話すと、「試しにやってみたらいいんじゃないか」と賛成した。両親とも、自分の娘は真面目に勉強をしていることだけは認めている。不憫だと思っているのだった。
翌週の月曜日の放課後から、その家庭教師の授業が始まった。
授業は、紗江の自宅ではなく、八丁堀中学校の教室を使わせてもらっている。紗江は家庭教師の授業を終えた後には剣志隊の武道館に向かう。自宅から武道館へは時間がかかるため、家庭教師の授業は教室で行う方が都合が良いのだった。
家庭教師の名は、伊勢伸郎(イセ ノブロウ)といった。やせ気味で、穏やかな目を持つ男だった。ただ、紗江が意外だと思ったのが、体が引き締まっており贅肉がまるでない体つきをしていることだった。何か運動をしているようだ。
今は大学生で、発電に関する勉強をしているらしい。
「ええっと、羽場さんの苦手科目は、理数系だったよね。まあ、文系の科目もちょっと厳しい点数だけど……」
伊勢は、紗江の担任が紗江に見せた成績表を見て、苦笑いを浮かべている。立派な大学の入学試験に合格したくらいの秀才から見れば、笑うしかないくらいの成績なのであろう。
なかなかどうして、伊勢の教え方は上手だった。学校の教師の授業よりも数段分かりやすく、紗江の頭にすんなりと入ってくる。安くはない金が支払われているのだから、それも当然か、と紗江は納得した。
その日は、午後六時まで勉強をした後、紗江は武道館に向かった。
剣道着に着替えて、防具を身につけると道場に入る。
そこには、隊長の武井初芽(タケイハツメ)が防具を付けて竹刀を振っていた(剣志隊が使う帯は、それぞれが個人用であり、名前が描いてある。そのため、防具を身につけて顔が見えなくても、誰なのかが分かるようになっている)。一人であった。
道場に入って来た紗江に気づくと、初芽は竹刀を振る手を止めた。
「誰だ?」
「羽場紗江です」
「ああ、羽場か」
「隊長は、お一人ですか?」
「ああ。誰かが来たら汗でも流そうと思ったんだがね。今日はみんな予定があるようだ」
それは嘘だ、と紗江は思った。武道館に入った時、巡察に出た隊士を見かけた。下働きをしている浅野に何かあったのですかと聞いてみたが、特に事件は無いという話だった。隊士たちは、自主的に巡察に出ているという。おそらくは、隊長が珍しく道場に顔を出しているものだから、稽古というわけにはいかなくなったのだろう。
紗江だって、隊長と一緒に稽古というのは、全くもって気が進まない。自分の要領の悪さに頭を抱えたくなる。
「羽場が来てくれて、助かった。一汗かこう」
「よろしくお願い致します」
隊長の初芽のことは、紗江も聞き知っている。一度は白兵隊に入隊したものの、後進の教育のために剣志隊へ戻ってきたという。踏んだ戦場は数知れず。修羅、と呼ばれることもあるほどの剣士だった。
互いに蹲踞し、紗江は竹刀を構えた。
初芽は下段に構えている。待ちに入っているようだ。
紗江の腕を確かめようというのだろう。
紗江は中段に構えたま、すす、と間合いを詰めた。
一間まで詰まったところで、紗江は面に浴びせた。
それを初芽は危なげなく擦り上げると、素早い面を打った。
紗江は横っ飛びに右に避けると、素早くまた構える。
初芽は面鉄の奥で楽しそうに笑った。
「お前と稽古するのは、初めてだよな、羽場。そうだよな?」
「はい。初めてです」
「これでも隊長なんてのをやってるものだから、みんな警戒して好きに打ってくるなんてことがまるでない。それなのに、初めてのやりとりでこれほど強く打ってくるなんて、嬉しいよ」
「恐縮です」
初芽は右手に竹刀をぶら下げたまま考えていた。やがて、考えがまとまったらしく、提案した。
「これから、私とお前が持っているものは“真剣”ということにしよう。いいか?」
紗江は少しだけ考えて、「分かりました」と答えた。
紗江は下段に構えた竹刀を中段に上げた。
剣道による一本とは、面、籠手、胴、突きのいずれかを取られることを指す。
真剣による闘争は、これによらない。体のどこでも斬りつけられれば怪我となるし、それが深ければ致命傷となる。手足が動かなくなるほどの傷を受ければ、相手は悠々ととどめを刺すこともできる。
その身に刃が触れることは、ほんの少しも許されぬ。
「じゃあ、行くよ」
初芽は右手に竹刀を下げたまま、ゆっくりと近づいてきた。何の構えも取っていない。
紗江は動揺した。竹刀での試合は数えきれないくらい経験したが、構えを取らないで試合に臨む者はいなかった。
構えは、攻めにせよ守りにせよ、迅速に動くための姿勢である。それをとらないということは、攻めだろうと守りだろうと、一手遅くなるということである。
しかし、利点がある。
自然体であるが故に、体のどこにも力みを生じない。いかなる動きにも対応できる。
そして、構えが無い故に、次の動きを予想させない。
初芽はずんずんと間合いを詰めてくる。紗江が動かなければ、あと一秒未満で初芽が紗江の間合いに入る。受けになる。
受けは、紗江の性には合わない。
紗江は竹刀を握る手に力を込めると、真っ直ぐ前に飛んだ。
飛んで、初芽が竹刀を持つ右手に斬りかける。
ぶら下がっていただけの初芽の竹刀が、びゅうんと空気を裂いて、時計と逆回転に弧を描いた。ばしっと音を立てて紗江の竹刀が弾き返される。
しかし、なお紗江はひるまずに、面を打ったのだった。
即座に初芽も面を打つと、二人は鍔迫り合いになった。
紗江の身長は158センチ。初芽の背はそれより頭一つは高い。自然、膂力も紗江を上回る。
紗江は鍔迫り合いに拘泥しなかった。
竹刀を傾けて、初芽の竹刀を下に逃がす。瞬間、竹刀を反転させ、柄の尻で初芽の面を下から打った。
たとえ真剣であったとしても、柄では致命傷ではならないだろう。だが、一瞬ではあっても、初芽の視界は揺れる。
紗江は打ち上げた柄を再び反転させると、面を打った。手本とするべき、綺麗な面だった。打ち込みも完璧であり、真剣であれば顔を割っていただろう。
しかし、紗江は面鉄の奥で初芽を睨みつけていた。
「悪かったよ。そう睨むな」
初芽の竹刀が、紗江の腰を突いている。その突きは、紗江の面よりも早かったが、その突きはただ触れただけだった。実戦であれば、相手の腰骨を砕くほど強く突くのだから、紗江が面を打てるはずもない。
真剣での試合、と言った初芽に手心をかけられたことに、紗江は怒っているのだった。
初芽は面を外すと、ふぅと息を漏らした。紗江も面を取る。紗江は汗びっしょりだったが、初芽は額に少しばかり汗を浮かせている程度だった。息も切らしていない。手心を加えるだけの力の差がありありと見えると、紗江の中の怒りも冷えていく心地だった。
ただ、もう一本やろうという気にはならなかった。シャワーでも浴びて、他の隊士たちと同じように巡察にでも行こうかなと思う。
紗江は会釈をして武道館から出て行こうとしたところ、初芽に声をかけられた。
「羽場、剣志隊に入ってから、人を斬ったことはあるか?」
「まだありません」
「では、剣志隊に入る前は?」
「もちろん、ありません。それでは、正当防衛でもない限り、ただの殺人です」
「そりゃそうだ。いやね、手を合わせた感想なんだが、とても中学生とは思えない手際だった。それで、人を斬った事がないというのがね」
紗江は、少し目を伏せた。が、言った。
「剣士として、いずれは斬るであろうと考えています。そのことを考え過ぎているせいかもしれません」
頭の中で繰り返し、繰り返し。
紗江は沈鬱そうに眉を下げて、顔も伏せた。辛そうであった。
初芽は紗江に歩み寄ると、その肩に手を乗せた。
「考え過ぎるな。剣士として、いずれ白兵隊に入隊し市井の治安を守るために必要なことだが、それが苦痛なら辞めろ」
除隊しろ、と言っている。だが、紗江はかぶりを振った。
「斬るのが苦痛とは思っていません」
「……そうか」
それ以上、初芽は言わなかった。紗江は、頭の中も優秀だと初芽は思っている。答えを出すための考えも既に持っていると思っていた。どうするかは、紗江が自分で決められる。ならば、他者からの意見は不要だろう。
紗江は道場を出ると、貸与されている刀を帯びて巡察に出た。
幸か不幸か、この日も紗江は誰かと斬り合うということは無かった。
放課後、誰もいない学校の教室紗江が伊勢に数学の手ほどきを受けている時に、ひょっこり曜子が現れた。
「その人が、家庭教師の人?」
伊勢は、柔らかく微笑んで答えた。
「そうです。伊勢といいます」
「私は、あの、熊井曜子といいます」
「よろしく」
紗江は、二人の挨拶に目もくれず、確率を求める問題に取り組んでいる。四人の人間が一本の当たりくじを含む十本のくじを同時に引く時、誰かが当たりを引く確率はどのくらいという問題だった。だいたい半分、では駄目なのか?
「紗江、頑張ってますか?」
曜子が、頭を抱えながら確率の問題に取り組んでいるのをこっそり覗きこみながら尋ねる。曜子にとって、この級友が数学の問題にここまで熱心に取り組んでいるのが珍しいからだろう。
「なかなか頑張ってるよ。今日の小テストは点数が悪かったが、次の小テストは期待できる」
机の上には、今日行ったという数学の小テストの答案用紙が無造作に置かれている。点数は、曜子が見てもため息がでるほどであった。点数が低いのが嘆かわしいのではない、こんなに紗江は頑張っているというのに、取っている点数が低いというのが嘆かわしいのだった。
「あの……、もしお邪魔でなかったら、私もこの教室で勉強してていいですか? 紗江の勉強が終わったら、途中まで一緒に帰るんです」
「羽場さんの邪魔をしないなら、私は別に構わないが。羽場さんはどう?」
「構わない」
紗江は短く答えて、また確率の問題に戻った。四人の人間と、十本のくじを絵で描き、これをどうやって数式にするのかを考えているところだった。
この日から、紗江が勉強をしている時に、曜子がひょっこり現れて自習をするということが始まった。
曜子からすると、紗江の様子が少しずつ、勉強に対する苦手意識が無くなっていくように見えるのが、楽しかった。
また、隣で伊勢が教える内容を聞いていると、自分のためにもなる。家庭教師代を払っているのは紗江なので、曜子としては、なんだか悪い気もしてくる。
だが、放課後は紗江と伊勢と曜子の三人で過ごす、というのが日課になりつつあった。
ある日、紗江が剣志隊の武道館で稽古をしていると、入り口に何者かが立っている気配に気づいた。
目をやると、伊勢であった。片手にノートを持ち、道場の中を興味ありげに眺めている。
「伊勢先生」
紗江は、家庭教師の伊勢を、そう呼ぶようにしている。
「困ります、伊勢先生。ここは、部外者は立ち入り禁止のはずです。誰にも止められなかったのですか?」
「ああ、止められたはしたが、君に忘れものを届けに来たと伝えたら、通してくれたよ。あの、人の好さそうな男の人に」
浅井さんか、と紗江は眉を潜めた。後でしっかり言わなければ。
「そのノートですか」
「ええ。せっかくやった宿題を、忘れたとなるともったいないですから」
この日は、数学の宿題として、確率の問題を百問ほどは解いていた。確かに、これを「忘れました」となれば、次の成績に響く。
「ありがとうございます」
紗江はノートを受け取ったが、伊勢は去ろうとしない。道場の一角をぼんやり眺めていた。
「どうしたんですか、伊勢先生。早く行かないと。今ならまだ、入り込んでしまった、という言い訳で済みます」
「そうですね。すみません。それでは、また明日」
「はい、また明日」
背中を見せて、伊勢は道場を出ていった。
隙の無い背中だった。
ふと気になって、紗江は伊勢が熱心に見ていた一角を確認してみた。
そこは道場の裏口だった。道場の正面入り口は引き戸であったが、奥の東と西にある裏口は、開き戸だった。隊士の大半が学生であるため、日中は道場で稽古をしようとする者もいないため、道場は施錠がされていると紗江は聞いている。学校の授業を終えて、武道館に来た学生が、事務方の誰かから鍵を借りて開ける、というのが通例だった。紗江はまだ一番乗りになったことはない。
開き戸は、中からはサムターンを回せば簡単に開錠できるが、当然、外からは鍵が必要となる。もし、道場に攻め込まれ、逃げるとなればこの裏口からとなるだろう。
それで、なぜ伊勢はこの裏口を熱心に眺めていた?
武道館は、剣志隊の拠点となる築地本願寺の本館や宿舎とは繋がっておらず、離れになっている。もし仮に、この武道館の鍵を密かに破り、武道館の中に入ることができたとしても、剣志隊にとって重要な書類なんぞが見つかるはずもない。侵入したところで、汗の臭いが染みついた防具や、使い込まれた竹刀くらいしかないのだ。
だが、伊勢がこの開き戸を熱心に見ていたという事は変わらない。
その日から、紗江の伊勢を見る目が変わってしまった。
放課後、勉強を教えてもらいながら、伊勢の身振り手振りを観察してしまう。
大学で発電の勉強をしているというその腕には、必要と思えないほどの筋肉がついている。手のひらを盗み見ると、指の付け根にタコがあるように見える。竹刀ダコに見えなくもない。
また、普段は犬も殺せないような柔らかい目をしているのに、ふと鋭く自分を観察しているようにも見える。気のせいかもしれない。だが、紗江には、自分が観察されているようにも見えるのだ。
その日は社会の宿題をこなしながら、しかし紗江の思考は勉強の方を向いていない。
仮に、伊勢が何者かの間者で、自分から剣志隊の情報を得る、もしくは何者かの暗殺を考えているのであれば、誰の差し金か。
紗江は、剣志隊の事務方である西紀麻美(ニシキマミ)に相談した。
伊勢を自分に家庭教師として推薦したのは、紗江の担任教師である大元源吾である。
彼の周辺調査を依頼した。
剣志隊には、事務方の他に、探索方がいる。剣の腕は剣志隊の隊士として人後に落ちない腕の持ち主だったが、その能力はもっぱら、捜査に特化している。彼らもまた、剣志隊での務めを終えたら、白兵隊の諜報部に入る予定の連中だった。
紗江からの依頼は麻美を経由し、白井信孝(シライ ノブタカ)という隊士が受け持った。二十歳で、心合流の心得があり、懐剣術を得意としていた。調査の際には刀を帯びず、一般人として深く捜査を行うという算段である。狭い廊下や部屋の中で斬り合いとなれば、懐剣術で戦う。
捜査が進んでいる中でも、紗江は伊勢の授業を受けていた。だが、今までほどには、勉強に集中は出来なかった。一度疑ってしまうと、伊勢の行動がどこまでも怪しく見えてしまう。
所作の一つ一つが、洗練され過ぎている。大学で発電の勉強に費やしている時間は、ごく僅かなのではないかと思えてしまった。
「どうしたんだい、羽場さん。最近、身が入らないみたいだね」
「はい」
だからといっても、正直に答えるわけにはいかない。
勉強中、常に伊勢は紗江の近くにいるわけだが、紗江は自分の持ってきている日本刀の置いてある位置を常に気にするようになった。
見る限り、伊勢は刀剣の類を持っているように見えない。銃を持っている気配もない。もし、自分を殺そうとするのであれば、素手か。とすると、柔術、拳法? いずれにせよ、体格差もあり、男女の差も考えると、自分の手に刀が無ければ、戦闘になれば絶対に勝てない。
緊張を強いられているのだ。勉強に身が入るわけが無かった。
数日した朝、羽場の学級に変化が会った。
朝、学級の出欠を取るはずの担任が、時間になっても教室に現れない。誰かが職員室に行くべきかという話が出た時、別のクラスの担任である鈴井麗子(スズイ レイコ)が現れた。
「大元先生ですが、本日は学校にまだ来られていません。代わりに私が出欠を取ります」
名簿を見ながらクラスメイトの名前を一人ずつ読み上げるのを聞きながら、紗江はぼんやりと理解した。
大元は、やはり何者かと繋がっていた。剣志隊に捕縛されるか、もしくは何者かに殺されたのだろう。
紗江の予想は当たっていた。
紗江が剣志隊の武道館に着くと、すぐに事務方の京本房江(キョウモト フサエ)に声をかけられた。
「あなたの学校の大元先生、教職以外も随分と勤勉だったわ」
「何か、悪い人と関わっていたんですか?」
「関わっていたどころじゃない、悪い人そのものよ。生まれは、岩手国。あっちで、何人もの軍人を斬ってて、指名手配を受けている。身分を偽って他国へ出奔というのはよく聞く話だけど、まさか教師になれるだなんてね。よっぽど、腕のいい口利き屋の世話になったようね」
「政治犯ですか?」
房江は薄く笑って、首を振った。
「殺し屋よ。金をもらって、用心の暗殺を請け負う。けっこうな腕のようね」
「それで……、斬ったんですか?」
隊士の、誰かが。
「いいえ。捕縛したわ。あまり口は堅くないみたい。既に、今受けている仕事の話を白状している」
ここで、房江は笑みを消した。真面目な目、あるいは、冷たい目になった。
「狙いは、剣志隊隊長、武井初芽。既に報酬の半額を前金で受け取っている。古い映画みたいな話だわ」
「あの……伊勢先生は、何か関わりがありますか?」
「彼は、助手だったわ。既に捕縛命令が出てる。いずれ、捕まるでしょう」
「私も、向かった方がいいですか?」
「平気よ。もう、警官隊が動いている。逃げるのは、無理だわ」
紗江は、伊勢のことを考えた。
家庭教師としては優秀で、教え方は上手かった。
その彼が、もうじき捕まる。
刑務所に行くことになるだろう。罪状が悪ければ、断首ということもある。
もう、彼に勉強を教えてもらうということはない。
それが、少し残念であった。
房江と別れた後、紗江は武道館で稽古をすることにした。だが、間の悪いことに、誰もいなかった。誰かがいれば、手合せができたのに。
誰もいなければ、防具をつけて竹刀を振るという気分にもなれなかった。
持っていた日本刀を抜く。
早良入道の二尺二寸一分。竹刀よりも少し重い。支給されてからまだ少ししか経っていないが、柄に巻いた布が掌によく馴染んでいる。
上段に構え、振り下ろした。
刃が空気を裂く感触が、掌にじわりと広がる。
出来るだけ何も考えないようにすると、何度も何度も刀を振り下ろした。
次第に息が上がり、額に汗が浮いてくる。
目の前に設定した仮想敵にめがけ、顔、肩、胸、と何度も刀を振り下ろした。
何も考えないようにしているのに、嫌でも浮かんでくる。
伊勢。
鋭敏になった紗江の聴覚が、何かをとらえた。刀を振る手を止めると、武道館の開き戸に目を向けた。確かに、その戸の外に誰かがいる。急ぎ足で歩いているように思える。
だん、と開き戸が乱暴に開かれた。
現れたのは伊勢だった。
伊勢は、開き戸を勢いよく占めると、鍵を閉めた。これで武道館は密室である。
伊勢はいつもの洋装ではなかった。洒落た模様の小紋を着て、右手に日本刀を持っている。しかし、乱闘があったらしい、顔に強烈な打撃を受けたのか、右頬が青黒く腫れている。また、右胸を刀で突かれたのか、右側の脇から腰にかけて小紋が真っ赤に染まっていた。
「やあ、羽場さん」
伊勢は笑顔を浮かべようとした。だが、思ったようには笑えなかったらしい。顔が細かく震えていた。
「隊長の武井さんは、ここではなかったか。隊士が少ない日は、道場に顔を出すって聞いたんだけどね」
「今日は来ていませんね。ずっと、私一人です」
「本館にいるかな」
「さあ」
距離は、三間ほど。
伊勢が今から道場を出ようとするには、再び鍵を開けて、開き戸を横に開かなければならない。戸を開ききって外を出るまでには二秒はかかる。そこから走りだそうとしても、全速力までには五歩は必要だろう。
紗江の運動能力ならば、それまでに斬りつけることができる。
その事を、紗江も、そして伊勢も瞬時に悟った。
この武道館を出るには、相手を殺さねばならぬ。
伊勢は刀を抜くと、右手一本で構えた。鞘を捨て、左手で右胸を押さえる。もう、そうしなければならないほどの深い傷なのだろう。
紗江は刀を下段に構え、動かない。
待っていれば、そのままゆっくり死ぬだけだと感じたのだろう。伊勢は、半ば走るように紗江へ殺到した。構えも甘い、姿勢は固い。しかし、殺気だけは本物だ。
血走った目で紗江を射抜いたまま、刀を振るう。
手傷を負った者になど負けるはずはないとたかをくくっていた紗江は、その一撃で考えを改めた。
片手だというのに、恐ろしいほどの速さ。
空を裂く音すら聞こえないほどの速度の斬撃を、紗江は後ろに飛び退くほどでなんとか避けた。
避けたが、伊勢は紗江を待たせない。
飛び退いた足が地に着くよりも早く、伊勢の二撃目。空中にいるのでは、避けることすらできない。
紗江は、出来うる限りの力で柄を握りしめ、歯を食いしばり、両腕に最大の力を込めて、伊勢の斬撃を止めた。
それは、断じて、鉄で鉄を受け止める音ではない。ぼぐっ、という肉体的な音が紗江の中でした。
背中の筋肉が激しく痛んだ。僧帽筋を痛めたらしい。刀で伊勢の斬撃を受け止めただけなのにだ。持っている刀が折れていないのが信じられない。いや、既に内部には亀裂が入っていて、次の一撃を繰り出すより前に折れてしまったとしても不思議ではない。
宙に浮いていた紗江の足の裏が、乱暴に地面へ叩きつけられた。
伊勢は、すぐさま刀を振り上げるが、紗江は前へ飛んだ。逆胴狙いで抜き打つ。伊勢はそれを鍔元で防ぐが、切っ先が伊勢の腹を浅く切り裂いた。
そのような傷よりも、どこかで突かれたらしい胸の方が深手なのだろう。伊勢は意にも介さなかった。獣のような目をしたまま、ふぅふぅと肩で息をしている。もう、あの優しくて穏やかな伊勢には戻れないのだな、と紗江はぼんやり思った。きっと、自分を斬り殺したとしても、戻れない。そのまま初芽を探しに行き、そして返り討ちに遭うだろう。
だが、紗江の方にも余裕はない。背中の痛みは酷い。筋肉が断裂したか、もしくはどこかの骨が折れたか。
紗江は、伊勢の剣の腕は大したものではないと判じている。しかし、力が強い。男女差を引いても、圧倒的だ。細い体は、贅肉を極限まで落とし、強く刀を振るうために作ったものだろう。
示現流に近い、と紗江は思った。2000年時には鹿児島、古くは薩摩藩の御流儀と呼ばれた剣術である。髪の毛一本分でも、敵より早く刀を打ち下ろせ、という鋭さ重視の剛剣である。
まともに切り結べば、たとえ手負いだとしても、伊勢は十分に自分を斬り得る。
紗江は大きく息を吸った。
集中、集中、集中。
見据えた敵のみに全てを集中し、今は役に立たぬ知覚を消す。
一秒か、一分か、経った時間は分からない。いつの間にか、紗江の感覚から音が消えた。匂いも消える。味も消える。触覚は、刀を握る手のみで、服の感触が消える。
色が少なくなる。図書室で見かけた、古びた写真のように白黒になる。
その頃には、無駄な雑念は一切無くなっている。
残っているのは、「斬る」ことだけ。
決して力んではいない。自然な動きで、かつ、最速。紗江の両足が、静かに体を伊勢へと運ぶ。
それを待つ伊勢ではない。
獣じみた声で叫ぶと、右手一本で刀を振り上げる。紗江が近づくのであれば、突っ込む必要もない。十分に紗江が近づいてから、猛烈に間合いを侵略した。
再び、強烈な面打ちを浴びせかけた。
紗江の意識は、夢想の域にあった。
しかし、意識は僅かに残っている。あるいは、紗江は自覚的に、意識を残しているのか。
伊勢の刀を見て、今度は遅い、とぼんやり思った。
紗江の素早い籠手打ちが、伊勢の右手首を切断した。刀を取り落した伊勢は、右胸を押さえていた左手を紗江へ伸ばす。伊勢の腕力であれば、紗江の首を掴めば数秒と立たず意識を刈り取るだろう。もしかしたら、首の骨を折ることができるかもしれない。
押さえるものがなくなった伊勢の右胸から、血が噴き出す。
今までに、伊勢はどれだけの人の命を奪ってきたのか。
そんなもの、知りたくもない。
これから、自分はどれだけの人の命を奪うのか。
そんなことも、紗江は知りたいとは思わなかったのだった。
紗江には既に感覚が戻っていた。集中できていたのは、籠手打ちをする直前までだった。しかし、勝負は既に決している。
紗江は手元で刀を反転させると、柄で伊勢の右手を払う。両腕を大きく開いた伊勢の右胸には、確かに刺突による傷があった。
そんなことすら、どうでも良かった。即座に刀を元に戻すと、いつものように、美しい斬線を描いて伊勢に面打ちを浴びせた。
早良入道の二尺二寸一分が、伊勢の顔を割った。即死であったろう。
しかし、早良入道も最期を迎えた。伊勢の命を絶った直後、半ばから折れた。
一人だけになった道場に、折れた切っ先が床に落ちた音だけが残った。
斃れた伊勢の死骸を見下ろし、紗江は「あぁ」と息を吐いた。
感情は、何も起きては来ない。
何も、思うところがない。
その日も、紗江は放課後の教室に残り、勉強をしていた。もう家庭教師はいない。
だが、どうやら家で勉強するよりも、教室でした方が覚えが良いことは分かった。場所は大事だ。今後も、勉強はできるだけ教室でしようと思う。
日が大分傾いた頃、そろそろ家に帰ろうかと思った時に、曜子が教室に現れた。
「あれ、紗江。今日もお勉強?」
「うん」
「でも、一人だね。最近、あの家庭教師の先生が来ないけど、どうしたの?」
どう答えようか悩んだが、まさか本当のことを言うわけにはいかないと思った。自分が斬り殺したなどと。
「大学の勉強が忙しくなったみたいで、家庭教師は先週で終わりになったの」
「そうなんだ。ちょっとだけ、残念だなぁ」
曜子は胸に片手を当てて、眉を下げた。
「なにが、残念なの?」
「私、ちょっとだけ、あの人のことが好きになりそうだったから」
「そう……」
言わなくて良かった、と心から思う。
「私、今から剣志隊の道場に行くけど、曜子は?」
「私も、途中まで一緒に帰るよ。もう、日が落ちちゃうからね」
二人は、すっかり赤く染まった陽を背に浴びながら、下校した。
曜子と途中の道で別れると、紗江は歩く速度を上げて道場へと向かった。
まだ、新しい刀を支給されていない。父に、剣志隊の入隊考査に合格した時に買ってもらった、ごく小さい懐剣が一振りあるだけだ。
今、この時に、誰かに襲われるようなことがあれば、おそらく斬られる。勝てない。
だから、紗江は足早に剣志隊の宿舎へと急ぐのだった。
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