第3話 剣志隊の事務屋

 剣志隊の隊士といえば、入隊の考査を受け、お眼鏡にかなった者になるが、中には武芸ではなく、それ以外の芸で働いている者もいる。

 京本房江(キョウモト フサエ)。二十一歳。

 町中の巡察や争闘が目的ではなく、書類仕事や、物資の調達を行うことを主とする。事務方と呼ばれている。

 もっとも、剣志隊の仕事柄、襲撃されることも多々あるため、武芸に覚えが無ければ事務方として入隊はできない。房江についても、剣道による考査を受けている。房江自身、あくまで剣法者として入隊を希望した。

 実際、腕は良い。伍長はおろか、副隊長の柚希と竹刀でやりあっても、劣りはしない。京本家は何人もの著名な剣客を輩出している、いわゆる名家であった。女である房江もたっぷりと武芸を仕込まれており、その腕はそこら浮浪の者に負けるようなものではない。

 そんな房江がなぜ事務方を務めているかというと、他に務められる者がいない、というのが最も大きな理由であった。

「京本、斬り合って着物が破けた。新しいのを用意しておいてくれ」

「悪いが、午後からの巡察のために、弁当を買っておいてくれないか」

「昨日、市中巡察の折に浮浪の士を三人斬った。身元は警察から届くだろうから、白兵隊への報告書を頼む」

「房江、新人が三人入った。うち二人は女だ。新しい刀を用意してくれ。あてがついたら、三人に選ばせる」

 こんな具合に、日々仕事が舞い込んでくるのである。

 そんな中でも、房江は陽気に仕事を受け入れてくれる。

「は~いっ。この京本房江にお任せあれ~」

 隊内の事務仕事を一手に引き受けて、なお処理できるのは、房江の能力の高さによる。最近になって、部下の者が二人ほどつけられたが、房江がいなければ剣志隊そのものが成り立たない、という状態は変わっていない。

 そんな忙しい日々を送る房江であったが、悩みが一つあった。

 剣志隊は二十二までの者が務める。その後は白兵隊へ入隊し、軍人となるのがならわしである。例外は隊長の初芽のみであり、彼女にしても一度白兵隊に入隊したのち、後進の教育のために剣志隊に戻ったという経歴である。

 房江は今年で二十二歳になり、来年には白兵隊の入隊試験を受けることになる。

「京本さんがいなくなったら、剣志隊はどうなるんだ」

 房江の部下である青橋孝之(アオバシ タカユキ)はしきりに心配している。一生懸命に働いてはいるが、房江の働きには遠く及ばない。愛想が悪いということで、上からの評価は悪い。

「房江さんが白兵隊に行っちゃったら、私たち二人で事務方をこなすのは無理です……」

 同じく房江の部下である西紀麻美(ニシキ アサミ)も心配している。というよりは、絶望している、と言った方が正しい。来年からの自分たちの仕事を想像して、想像しきれず、ただ落ち込んでいた。

 房江の悩みも同じであった。

(こんな状態で剣志隊を離れるなんて……)

 ただただ、心配なのであった。

 その日、房江は入隊予定の新人三人のための刀の手配を行った。

 2805年時に日本刀を生産する鍛冶がどのくらいいるかというと、少ないわけではなく、むしろ戦国時代の世ほどの数はいた。この時代、刀は護身のための道具であり、敵を殺傷するための武器である。必要とする者も多かった。また、闘争に使えば損じることも多い。そのため、大きい町には必ず刀を売る店があるし、そこへ刀を卸す問屋がおり、そして問屋へ出荷する刀鍛冶がいるという仕組みである。

 生産地も、古来の場所とほぼ変わらない。生産のために必要な地理的な要因を満たそうとすれば、戦国時代と似通うのは自然であろう。剣志隊が用意する日本刀は、主に旧神奈川県から仕入れる。そこは、鎌倉時代に「相州伝」と呼ばれた刀の産地である。その相州伝を確立した五郎入道正宗は有名である。彼の作った刀は、鎌倉時代から年月を経てなお名刀と呼ばれる名物である。旧神奈川県は、刀の歴史において重要な地であった。

 しかし、剣志隊の隊費では、名刀と呼べるものは購入できないし、そもそも新人に持たせる刀としてふさわしくない。しかし、なまくらを持たせては、争闘に及んだ時に刀が理由で命を落とすこともある。

 結果として、業物でなくとも、上出来とされる刀を購入する。

 その刀が上出来であるかどうかというのは、刀を卸す問屋が決める。が、言い値で買うほど剣志隊はお人好しではない。

 房江は、刀の目利きができるため、剣志隊で刀を購入する時はほとんど呼ばれる。他に目利きができる者というと、隊長武井初芽、副隊長糸無柚希の他、伍長と呼ばれる平隊士の一つ格上を務める大津義樹(オオツ ヨシキ)くらいであった。隊長も副隊長も伍長も隊務で忙しいことがほとんどであったため、自然、刀を買うのは房江の仕事となる。

 房江は、大学の講義を途中で切り上げると、午後二時には剣志隊の武道館に着いていた。刀問屋がその時間に来るからである。

 部下である青橋と麻美も、同じく高校の授業を早退して武道館に来ていた。無論、目利きを期待されているのではなく、その勉強のためである。

「とは言っても、ちゃんとできるようになるのかなぁ」

 青橋も、剣志隊の隊士として十分な剣の腕がある。しかし、斬り合いよりは事務仕事の方が好きらしく、今の仕事には熱心であった。

 刀問屋が来る間も読書に勤しんでいるのが、麻美。読んでいるのは「日本刀読本」という本だった。刀問屋が来るまでの間に少しでも知識を入れておこうという魂胆であろう。

 刀問屋は、約束通りに午後二時に来た。荷車に百本ほどは刀を積んでいた。房江は問屋に頼んで、全て武道館に運んでもらった。

 問屋は、武藤利助(ムトウ リスケ)といった。ずいぶんと時代がかった名である。この時代、商人はなぜかそういった古びた名をつける傾向にあるらしい。武藤は剣志隊だけでなく、白兵隊にも刀を卸す商人だった。東京国内だけでなく、他国にも顔が利く。それでいて、東京国に対して尽くすという気持ちであるので、剣志隊は重用している。金さえ出せば何者にでも売る、というような男ではなかった。

 武藤は武道館の床に半紙を並べ、その上に刀を並べていった。刀と言っても、拵えが無いため、むき出しの刃である。それが百本も並んでいる風景は、なかなか壮観だった。青橋と麻美も、ほぅと感心している。

「武藤さん、上作は何本ですか?」

 房江の問いに、武藤は朗らかに答えた。

「上作は七本。あとは下作ですわ。それを買われるかは、お金次第」

「上作のお勧めは?」

 武藤は、一番左に置いた刀を指差した。

「神奈川の、早良入道(サワラ ニュウドウ)って鍛冶が打った刀がお勧めだね。評判はそれほでもないが、よく切れる」

「あと二本、お勧めは」

「その右に置いてある柄石太夫(ガライシ ダユウ)が打った刀。無銘だが、上作だ。その右に置いてあるのが三番目のお勧めで、作者不明だが、いい刃をしている」

 左から三本が、お勧めだというわけである。

「てことは、一番右が、一番駄目な刀ってこと?」

「そういうことですわ」

 なるほど、右に向かっていくと、どんどん刃が粗末になっていく。刃紋はいやしく、切っ先は鈍く、地肉は汚い。研いだところで、すぐに刃こぼれし、何合か斬り結んだところで簡単に折れてしまいそうである。

 それでも、最後の一本まで房江は確認した。

 確認したところで、目に止まる一振りがあった。右から七本目である。

「これは、いくら?」

 へっ、と武藤が確認した。

 値を告げると、安い。小学生のお年玉を十人分ほどを集めた程度だった。

「手に取ってみてもいいですか?」

「もちろん」

 刃に触れないように、房江は慎重に刃を手に取った。

 いい重みである。手入れは悪くない。が、長い間研ぎにも出されていなかったらしく、刃が少々丸くなっている。

 銘は、切られている。しかし、所有者はその銘を嫌ったらしい。溶けた金属か何かで銘を埋めていた。それが、この刀の品位を落ちるところまで落としていた。

 房江の直感に訴えるものがあった。

「この刀を、武藤さんの言い値の二倍で買うわ」

「それは豪奢な話ですな」

「その代わり、上作三本の値段を落としてくれますか」

 それを聞いて、武藤は、がははと高く笑った。

「京本様は、本当に商売上手ですなぁ。ええ、それでいいですよ」

「ありがと。今すぐ、新人を連れてくるから、拵えと鍔を選ばせる」

「はいはい」

 やがて、新人隊士の羽場紗江(ハネバ サエ)、黒井聡(クロイ サトシ)、棚網圭子(タナアミ ケイコ)がやって来た(この三人も、房江たちと同様に学校を途中で切り上げ武道館で待機していた)。刀のことを十分に知っているのは紗江だけだったようで、黒井と圭子は武藤から説明を受けながら拵えと鍔を選んだ。紗江は最初から考えていたようで、武藤の説明を受けずして希望を述べた。

 房江は、拵えと共に選んだ刀四本を研ぎに出させた。数日すれば剣志隊に届けられるだろう。

「京本さん、なんであんな刀まで買ったんですか?」

 青橋が首をひねっている。なるほど、刀について何も知らなければ、決して選ばない刀であろう。

「房江さんのことだから、掘り出しものだったんじゃないの」

 言う麻美は、なんとなくそう思っているだけである。刀の本を読んではいるものの、まるで分かっていない。

 房江にとっても、確信があったわけではない。

「まあ、良いものだったら隊へ献上するわ。はずれなら、私が私費で買い取って、打ち直して包丁にでもするわ。台所で天寿を全うできるなら、ただ朽ちるだけより、あの刀にとってもいいでしょう」

 打ち直す、という言葉に青橋と麻美が目を丸くしている。

「京本さん、そんなこともできるんですか?」

「素人芸だけどね。少しだけ」

 名家で育つと違うんですねぇ、と麻美が感心している。

 ところで、古びた刀の件で、武藤と房江には不幸なことがあった。

 武藤は店に戻ると、早速馴染みの研ぎ屋へ行ったが、その男が遠出をしていて留守であった。刀を買ったのが剣志隊ではなく先がそこらの好事家であれば、馴染みの研ぎ師が帰って来るまで何日か待っていただろう。しかし、商売の相手が剣志隊となると話も変わる。研ぎのために待たせるというわけにはいかなかった。武藤は、今までに何度か使ったことがある別の研ぎ屋を訪ねた。

 そのの研ぎ屋というのは、武藤と同じく、商売根性よりは、仁義を大事にする男だった。だからこそ、武藤の馴染みでいられる。

 その別の研ぎ屋は、残念ながらそうではなかった。武藤も出来れば使いたくない、というような研ぎ屋であった。研ぎの腕は武藤の知り合いより少し落ちる程度ではあったが、心根が良くない。研ぎ屋でなければ、付き合いなんて絶対にしないと武藤が思っているような男である。

 不義理であった。商売根性が張っている、とも言う。

 この研ぎ屋が古びた刀を研ぎ終えたところ、銘を埋めていた金属を丁寧に削り、取った。すると、見えなかった銘が姿を現した。その銘とは、麻美が読んでいる日本刀読本にも書かれているようなものであった。

 この不義理な研ぎ屋は、きちんと注文された刀を武藤へ渡した。これも、どこぞの好事家の持ってきた安物であれば、折ったとかなんとか言って着服していたであろう。相手が剣志隊では、嘘を告げて着服したことが露見すれば、首が飛ぶ。文字通りに。素直に渡す他ない。

 しかし、その古びていた刀のことを他人に漏らした。

 目の色を変えたのは、その事を聞いた浮浪の者たちだった。

 噂として、静かに町へと広まっていった。

 刀の注文を終えてから七日後、房江は武藤との約束通りに午後四時には武道館へ入った。

 訪ねてきた武藤は、四振りの刀を持ってきた。

 房江は三人の新人の刀を検めた。なるほど、綺麗に仕上がっている。

「でも、研ぎは普段より落ちているようね。別の研ぎ屋を使ったの?」

 武藤は、馴染みの研ぎ屋が留守をしていたことを話した。

「それは、仕方ないわね。でも、値段はまけてもらうわよ」

「ああ、そうしてくれ。私としても、申し訳ない気持ちなんだ」

 そして、問題の刀。

 鞘は鉄で、蝋色。鍔は真円にかごめの透かしが入っている。房江の注文通りである。

 ゆっくりと抜いた。

 二尺三寸。

 その刃を見た時に、房江の背筋が粟立った。

 切っ先は大きく、刃紋は互の目乱れ。地金は分厚い。平地に銀の筋がある。

 ごくりと房江が唾を飲み込んだ。

 武藤はすっかり驚いた後だったので、にこにこするだけだ。

 房江は、銘を見たいと思った。が、研ぎ師でもない者が柄を抜くと、元に戻せなくなる可能性がある。

 房江は刀を鞘に収めた。

「武藤さんは、この刀の銘は見た?」

「見た。見事なものだったさ」

「この刀、もしかして、清麿ですか?」

 くくっ、と武藤が喉の奥で笑った。

「ご名答さ。お嬢さん」

 源清麿。

 名工である。

 没年、1855年。江戸時代後期に活躍した。この時代は2805年であるので、ほぼ十世紀前ということになる。

 刀を使えば損じていき、最後には切れなくなる。2000年時には実用品ではなく美術品となり、最適な保存そのため、この時代において十世紀も前の刀が残っているのは、驚異としか言えない。

 これは、斬れる。緩い出来のものであれば、鉄でも斬れる。

「あんな値段で良かったの?」

「もちろんさ。この私が、正しい値をつけられなかったのが理由だからね」

 それでは、と房江はありがたく頂戴した。

「しかし、私は幸運でしたね。あなたに高値をつけられず、こんな刀を見つけられるとは」

「ありゃあ、曇ってた。脂肪が巻いてて、ろくに手入れもしていないような刀だった。だが、下作と言えるほどみすぼらしくもないから、きちんと錆びがつかないようには保存されていた。そんな調子で、一千年以上も折れずに残っているところを見定めたんだから、お前さんの眼力には恐れ入るね」

「たまたまですよ」

 武藤は代金を房江から受け取りながら、

「なあ、あんた。剣客はやめて、私の所で働かないかい?」

「それ、本気」

「ああ、本気だとも」

 房江も、少しだけ本気で考えた。

 しかし、答えはすぐに出た。剣志隊を出るのが悩みなのであって、白兵隊に入りたくないというわけではない。つまり、刀の問屋に就職しても房江の心配の種は無くならないということになる。

「機会があったら、ということにします」

「それは、残念」

 房江は武藤に約束の代金を支払った。

 その後夜を待つと、しばらくして隊長の初芽が武道館に現れた。彼女には隊長としての隊務がある。

 房江は、清麿二尺三寸を手に、隊長室に入った。

 中では、今日も初芽がつまらなそうな顔をして、何やら書類と格闘していた。きっと、この間の浮浪の士、鈴本を志位が斬った件の報告書だろうとにらんだ。会計や隊士の入出に関する書類は事務方である房江の仕事なのだが、そうした争闘に関する報告書は隊長がまとめるのが常であった。より、機密に近いからであろう。

 初芽は書類から顔を上げると、房江がなにやら刀を持っているのに気付いた。

「やあ、房江。どうした。刀自慢にでも来たのか?」

「そんなことはないの。報告よ」

 二人は旧知の仲である。初芽が剣志隊に入隊し、その後十五で白兵隊に籍を移すまでは房江と共に剣志隊の隊士として働いていた。死線も何度かくぐったという仲であった。

 二人が大阪国の七人もの間諜と遭遇し、廃屋で追い詰められたということがあった。その時初芽、房江は共に十四歳。間諜はいずれも手練れで、わずか十四歳の二人の手に余った。切り結んでは退き、やがて廃屋へ逃げ込むしかなかったのだ。時刻は夕方だった。

 外には間諜たちの気配。無策に廃屋へ押し込めば、いくら相手が年端もいかぬ少女剣客だとしても、思わぬ反撃を食うかもしれぬ。そう判断した間諜たちは、突撃する瞬間を見計らっていた。

 それは初芽と房江も同様。ただ外に出ただけでは、あっという間に押し包まれて斬られてしまう。夜を待つべきだ、というのが二人の考えだった。必要なのは、生きて武道館に戻ることである。斬るべき相手を見る必要が無いのだから、明かりは不要。だから夜を待つべきだ。

 間諜と二人の考えは一致していた。だから、間諜からすれば、二人をなんとかして廃屋から追い立てることができれば良いのだ、と。火をつけることにした。

 より早く、二人は廃屋から飛び出た。誰のものでもない家に間諜たちが火をつけるであろうことは、二人には予想できたからだ。待てば、窮する。だから飛び出た。

 まさか夜になるより前に、そして火をつけるより前に少女剣客達が七人もの男を相手に、飛び出てくるとは思っていなかったのだ。完全に虚をつかれた。

 二人は全力で走り抜け、武道館へ生きて戻った。その後、間諜のことは二人から当時の剣志隊隊長を経て白兵隊へと通報された。すぐさま兵が動員され、間諜七人は捕殺された。手柄として、初音と房江には金一封が送られた。

 これは余談。

 房江はにやにやと笑いながら、刀をゆっくりと抜いた。

 遠目から見ても、初芽はその刀が古刀であることを見抜いた。

「げっ。それ、なによ。なんでそんな刀を、あんたが持ってんの。またどこかの古道具屋で見つけてきたの?」

 房江に対して初芽はどこまでも気安い。同期、という気持ちもあるが、それよりは友情が強いであろう。

 ただし、気安い態度をとるのは、二人きりの時だけだった。初芽は剣隊士隊長、房江は来年に白兵隊入隊をする事務方の隊士である。二人の立場を比べると、とても対等とは言えない。だから、気安い態度を取ることができるのは、他の人間がいない時くらいなものだった。

「新人のために三振り見繕った時、これがまじってたの。隊費で買ったから、私のものではないわ。よかったら、使って」

 はは、と初芽が笑った。「私は、今使っているのを愛用しているから、他のを使う気にはならないな。刀箪笥に仕舞うにももったいない刀だ。房江が使いなよ」

 半ば、そのつもりだったので、房江は喜んだ。隊長のお墨付きであれば、問題はないだろう。

 帰宅する際は、麻美と一緒になった。

 麻美は、隊から支給されている刀を帯びている。房江の見立てで選んだもので、無銘ではあるが、上作である。

 房江は源清麿と、自分の差料である二尺三寸一分を帯びた。房江の元々の差料は、この時代より二百年ほど前に打たれた刀で、三代目田路純太(タジ ジュンタ)という刀工の作である。細身で反り浅く、重花丁子の刃紋が美しい。

 この時代では、江戸時代に書かれた「懐宝剣尺」という書物による刀工別の切れ味の分類名をそのままならい、刀を評価している。三代目田路純太作の刀は、業物。上作より上である。「田」という銘を切るため、彼の一族の刀は「田んぼ文字」や「でん」などと呼ばれることがある。まだ初芽が剣志隊の平隊士だった頃から愛用している刀で、切れ味は凄まじい。一度、鉢金を身につけた浪士の頭を、房江が鉢金ごと割ったことがある。それほどに斬れる。

 だが、房江が手にするより前は、誰もこの刀のことに気づかず、剣志隊の刀箪笥に予備の刀として保存されていた。それを房江が当時の隊長の許可を得て差料とした。のちに研ぎに出された際に三代目田路純太の作と判明、隊士達が驚いた。房江としては、逆に「なぜ誰も気付かなかった」という気持ちだった。

 通常であれば、大小は利き腕の反対側に差すのが通例である。刀は利き腕で扱うものだからだ。右利きであれば左に刀。それが通例。しかし房江は左右に差す。

「片側にだけ差すと、歩き辛いでしょ」というのが言い分であった。実は違う。房江は二刀を使い、左右で刀を握るのだ。これは後述する。

 麻美の自宅は八丁堀にある。剣志隊の武道館は築地本願寺の隣にあるため、ほぼまっすぐ北上すれば着く。房江の自宅は、八丁堀を通り過ぎ更に北に行く神田であった。

 日が落ちた町の中を、二人が歩く。

 麻美は普段から和装で、今も袴を着ている。少女剣士といういでたちで、房江が見るとついつい微笑んでしまう。房江は洋装で、上は質素な白のオープンシャツ、下は膝を覆う丈の絹製のスカート。ただし、剣による戦闘の発生を考慮して、少し深めのスリットが入っている。そんな二人が刀を帯びて歩いている。

 あと少しで八丁堀というところで、ふと房江が足を止めた。視線を感じたのである。

「誰でしょうか」

 麻美は房江の直感を疑っていない。しかし、姿が見えず、また誰かに尾行されるような覚えもない。いや、剣志隊である以上、どこかの誰かに命を狙われているとしても不思議ではないので、呑気に構えているわけでもない。

 房江は、自分たちの歩いてきた道をじっと睨んでいる。

 誰もいない。飲み屋の赤提灯が点々と灯っているのが見えるだけだ。

 異常が見当たらないため、二人は再び歩き始めた。

「麻美は、このまままっすぐ自宅に帰る?」

「はい。特に予定はないです」

「家に戻る前に、何かお母さんに頼まれているという買い物もないわね」

「はい」

「それでいいわ。今日は外出を控えて。学校に行く時も刀は必ず持って行くこと」

 隊士の中には、世間体を気にして学校には刀を持って行かず、武道館に行く前に一度自宅に寄って刀を身につける、という者もいる。剣志隊の役割を考えると、房江からは用心が足りないように見える。

 麻美が家の戸を開けるところを見送ってから、房江は再び帰路に着いた。

 神田より手前、旧総武本線の新日本橋駅あたりに着いた時、房江は再び視線を感じた。

 その者に害意があることをうっすらと感じる。

 房江はまっすぐには自宅へ向かわず、途中で東に折れて馬喰横山へ向かった。わざと人の通りが少ない脇道を選んだ。

 家々の隙間の細い路地で止まると、房江は煙草を手にとって火をつけた。彼女は吸わない。こうして道の途中で時間を潰す演技をするために持ち歩いている。

 しかし、視線の主は襲って来ない。

 今日は、その気はないということか。

 房江は神田に向かい、帰宅した。就寝するまで、尾行者のことが頭にあった。何か、剣志隊に対して企みを持つ者がいる。何も起きなければいいが。

 が、房江の考えは悪い形で実現した。

 その晩に、剣志隊の隊士が一人斬られた。房江が帰宅した約一時間後である。

 斬られた隊士の名は、浜口芳樹(ハマグチ ヨシキ)。二十二歳。腕は立つ。右肩、右腕に刺突による傷が二か所、死因となったのは喉への刺突の一撃だった。

 遺骸からは、浜口の持っていた刀が消えていた。

 剣志隊の隊士たちに、すぐに伝令が飛んだ。刀の携帯命令、及び、下手人が見つかるまでは二人一組で巡察を毎日行うこと。

 隊士たちは各々学校を終えると武道館へ直行し、巡察を行った。こういう時は、隊長の初芽も例外ではない。隊士総出で巡察を行う。いつもの場合、たいていは巡察中に警官隊から通報が入り、その情報もとに目標を追跡し発見、のちに捕縛、が通例だった。

 が隊長初芽の思惑が外れた。

 浜口が斬られてから二日後に、またもや剣隊士の隊士が斬られた。遠山法子、十六歳。去年に入隊したばかりの隊士だった。胸に深い刺突の傷があったが、致命傷は首への刺突。浜口と同じやり口だったため、下手人は同じと見られた。

 浜口の時と同じように、刀が無くなっている。

 その翌日に、警官隊二人が斬られた。一人が背後から心臓を突かれ、もう一人が振り返ったところを首に一突き。どちらも即死だったろう。警官隊は、拳銃は所持していない。弾が貴重品過ぎるため、銃器を持つ者は非常に限られる。代わりに日本刀を所持していたが、それが無くなっていた。

 下手人の目的は、刀狩りと思われた。既に剣志隊二人、警官隊二人で計四振りを手に入れたことになる。

 ただし、短い期間で殺り過ぎた。警官隊を殺した際に、そのすぐ近くにいた魚屋の主人に目撃され、下手人はそのことに気づいていなかった。

 魚屋の主人の話によれば、その者が警官隊を殺したのは日が沈んだ少し後らしい。まだ暗がりになる前であったため、はっきりと顔を見ていた。

 下手人にとって不幸なことは、その魚屋は学生の頃に絵を勉強しており、特に肖像画を専門としていたことだった。魚屋は剣志隊の要望に応えて、似顔絵を描いた。どころか、それは全身が描かれていた。

 それは、六十に手が届きそうなほどの男だった。伸ばした髪を首の後ろでまとめていている。目つきは柔らかで、とても人を斬殺できそうもないように見えるが、人は見た目によらないということだろう。

 服は、和装。大小を帯びている。一流の使い手か。あるいは、ただ剣客に憧れているだけか。似顔絵だけでは分からなかった。

 この似顔絵はコピー機で複写され、剣志隊と警官隊に配られた。

 剣志隊は事件後に知ることになるが、この男は吉井和正と言い、この時は半ば盗賊、半ば辻斬りであった。

 元は、「黒旗隊」と名乗っていた犯罪者の一員である。国家転覆を狙い、東京国を乗っ取ろうと考えていた。総員十五名と少数であり、目ぼしい武器は小刀が数本という有様だった。腕に覚えがある、というのが自称であったが、どの男もボクシング部にいただの、地元で有名な悪がきであったのだのと、国家を転覆できるような力を持っているとは言い難かった。

 だが、気概だけはそれなりであったらしい。構成員の年齢は、下が十五歳から、上は五十七歳までの、全員男。吉井は、最年長であり、彼らの長であった。

 それがある日、警官隊の捜査を受け、吉井を除いた全員が捕縛された。捕り物の際に乱闘騒ぎがあったが、ボクシング部も有名な悪がきも、警官隊を振り切って逃げるということはできなかったらしい。

 吉井だけは、刀を帯びており、その場で警官隊に手傷を負わせて逃走した。手配は出ていたが、警官隊もまさか吉井が辻斬りをしているとは思わなかったらしい。剣志隊から回ってきた人相書きのコピーを見て驚いていた。

 吉井は東京国で流行っている成鳥念流(セイチョウネンリュウ)の仮目録を得ているという腕前だった。別段、腕が良いというわけではない。が、元は東京国の軍人で、諜報部に所属していた。いわゆるスパイで、偵察及び暗殺技術に秀でている。夜な夜な、道を行く人を斬るというのは、吉井が得意としているところだった。

 彼は任務中の怪我を理由に五十五歳の時に退役した。その後の隠居暮らしには納得できなかったか、あるいは、諜報員をしている時に東京国への不満を募らせていたか。理由は誰にも話していなかったので今もって不明だが、彼は黒旗隊を組織し、犯罪活動を始めることとなる。

 彼は、黒旗隊の連中が捕まったのは、武器が無かったためだと判じていた。何か戦うための武器さえあれば、ボクシング部や悪がきでも警官隊と戦うことが出来たであろう、と。

 だから、刀を集めた。人を斬ってまで刀を集めた始めたものだから、こうして人目を集めることとなった。年のせいで耄碌していたのか、やけっぱちだったのか、その心中は本人にしか分からないだろう。

 しかし、彼は刀を求めた。

 房江が研ぎに出した、源清麿。市中では、剣志隊の事務方がど偉い刀を手に入れた、という噂で持ちきりだった。売れば大金になると言う者もいたし、そういった刀は戦いではなく美術館や博物館に収めるべきだという識者もいた。

 古刀であれば、さぞかし鋭い切れ味であろう。吉井はそう想像した。

 だから、それを求めた。

 房江は、人相書きを渡されると、吉井の顔をじっと見つめた。ああ、人を殺しているな、と感じた。自分たちと同じ軍人の匂いをかぎ取っている。会えば、斬り合うことになるだろうと直感した。

 夜になると、事務方である青橋か麻美のどちらかを捕まえて巡察に出た。巡察の相方に事務方を選んだのは、せめて一人は自分の手の届く範囲に置くためである。腕の程は分からないが、相手は辻斬りである。知らぬ間に自分の後輩が斬られるというのは避けたかった。

 見つからないまま、隊士の死から二日が過ぎた。

 この間に、新たな被害者は出ていない。自分の人相が出回っているのに感づいたか。

 三日目、房江は麻美を連れて巡察に出た。

 その日の房江と麻美の持ち分は月島と決まった。築地本願寺からそう遠くない所にある勝鬨橋を渡り、月島の清澄通りを歩いた。この辺りもまた、築地と同じく歓楽街となっている。ただ、築地から離れた分だけ、陰湿な空気がした。客の層も一段低く、日雇いの肉体労働者が多かった。乞食も少なくない。

 清澄通りは人通りが多く、視線も多い。が、房江は先日のような視線を感じた。粘っこい視線である。より正確には、この日も帯びている源清麿に注がれている気さえする。

「麻美。背後に気を付けて。誰かが近づいてきたら、教えて。ただし、そいつには気取られないようにね」

 そう言われて、麻美は背筋が縮こまる思いだった。だが、麻美も剣志隊の隊士である。無様に首を左右に巡らすようなことはしなかった。

 二人は清澄通りを北東に向かった。やがて豊洲運河にかかる相生橋の西岸に着いた。橋の途中に中の島公園が見える。二人は一度も足を止めることなく橋へと歩みを進めた。

 粘つくような視線は、より一層強くなった。振り返れば、そこには大小を帯びた吉井の姿が見える。

 しかし、この橋で仕掛けるつもりは無さそうだ、と房江は感じた。橋であれば、逃げ場は川に飛び込むしかない。襲うのであれば絶好ではあるが、逆に自分の逃げ道も無いことになる。剣志隊を相手に、逃げ道が無いことを避けたか。あるいは、あくまで不意打ち狙いであり、こう見晴らしが良い所での襲撃は避けたのか。

 だが、房江は足を止めた。彼女の場合、相手を逃がさないためである。

「空を見て、麻美」

 言われて、麻美は空を見上げた。殺気は麻美も嫌というほど感じている。こんなだだっ広い橋の真ん中で足を止めるなど気が気でなかったが、言われた通りに空を見上げた。

 綺麗な夜空だった。2000年時と比べると、夜の街には明かりというものがまるでない。その時なら、マンションや街灯や高層ビルや行き交う車のライトの光に殺され、見える星といえば一等星くらいなものだが、今は小さな星の光まで見える。

「綺麗ですね、房江さん」

 麻美がそう小さく呟いた時には、吉井は走り始めたのだった。

 吉井は、房江たちとの距離を三十間ほど(約55メートル)を保って尾行していた。吉井は、音を立てないように走り方を工夫をしている。諜報員の時に体得した技術であった。さらに、靴を脱いで靴下だけになることで、音はほとんどしない。なのに、全速力で走ることができるのだった。

 しかし、斬撃の際の踏み込みだけは無音というわけにはいかなかった。吉井は、五間まで近づいたところで刀を抜き、踏み込んだ。ここまで来れば手加減は無用。夜のしじまを引き裂くように、どん、と踏み込み、突いた。

 狙いは房江だった。吉井から見て、こちらの方が手練れだという判断である。

 しかし、房江も、そして、麻美も、踏み込みの音と同時に振り返り、その時には刀を抜いていた。

 房江は吉井の突きをかわすなり、雅ッ、と鍔と吉井の刀の鍔にぶつけて押し合った。それも一瞬で、吉井は後ろに飛びずさった。

「応援を呼んできて、麻美」

 油断なく構えながら房江が言うが、麻美には合点がいかない。二対一の方が良いではないか。

 しかし、房江は迷う麻美に繰り返した。

「行きなさい!」

 普段はあまり怒鳴る女ではなかったから、麻美は心底恐怖した。刀を鞘に収めると、即座に走り去って行った。

「意外だな。一対一での決闘がお好みなのか。それとも、さっきの娘が応援を呼ぶまでの間、時間を稼ぐという肚積もりかね、剣志隊事務方、京本房江殿」

 吉井は冷静である。

 頭に鉢金、服は上下ともジャージ。ただ、ジャージには月明かりをきらきらと照り返す何かが織り込まれている。防刃であると房江は見てとった。この分だと、足には鉄製の具足、腕には同じく鉄製の手甲を身につけているであろう。重装である。

「私の名前まで知ってるんですね」

「源清麿を研ぎに出したということで、噂になっている。恨みは無いが、その刀と命を頂く」

「もし、私が刀を差しだしたら、命は助けてくれるのですか?」

「剣志隊に、そういう事をする隊士がいるとは思えない」

 くすりと房江は小さく笑った。

「そうですね」

 吉井は刀を下段に構えた。

 房江は構えない。右手に清麿を持ったまま、緊張することなく全身を弛緩させている。

 手を抜いているわけでもなく、相手を侮っているわけでもなく、これが房江の構え方なのだと吉井は即座に感じ取った。

 房江は幼児だった頃から剣術として新陰流を習わされている。愛洲久忠(アイス タダヒサ)が興した陰流を祖とする、古流剣術である。上泉信綱(カミイズミ ノブツナ)が大成し、その後も数多の剣士たちが新陰流から新しい流派を起こしたとされる。偉大なる剣術であった。

 この時代において、新陰流を当時のまま伝承しているのは、房江の家、京本家の他には無いとも言われる。巷では、「京本新陰流」と呼ばれていた。

 房江は、京本家の十七代目当主京本忠志(キョウモト タダシ)の長女であった。房江が門弟から婿養子を取らなければ、それまでの間は房江が当主となる予定であった。房江には、それほどの腕がある。既に免許皆伝。

 吉井は容易に仕掛けられない。小手調べで迂闊に斬りかかれば、返り討ちになるだろうと思っている。かといって、時間を浪費するわけにはいかないことも分かっている。麻美が呼んできた応援が吉井を囲めば、確実に討ち取られる。

 吉井は、左籠手に隙を作ると、じわりじわりと間合いを詰めた。

 狙い通りに、房江がすくい上げるような切り上げてきた。それを後ろに下がることで避ける。同時に刀を八相に構え、切っ先を真っ直ぐに房江に向けた。

 しかし、突かない。

 左手を右の袖の中に走らせると、中から小刀を投げつけた。

 刺突は吉井の得意技である。しかし、同時に投擲術にも秀でていた。弾丸が貴重であるこの時代において、飛び道具といえば弓の類と何かを投げつけるしかない。

 斬り死にした者達の刺突の傷のうち、浅いものについてはこの投擲術で負わせたものであった。

 その小刀が房江の首に突き刺さるより前に、房江は刀で小刀を打ち払った。続いて吉井が突きを繰り出す。小刀に応じてしまった房江に、その突きを避けることはできない。吉井は勝ったと思ったろう。

 吉井の右手が刀を握ったまま宙を飛んだ。

 房江は左手一本で田路純太の二尺三寸一分を抜き、振るっていた。

 続いて、右手に持っていた源清麿の二尺三寸を振るうと、吉井の額を割っていた。刃は額の骨に吸い込まれるように食い込んだ。小刀を放った時に勝利を確信した吉井は、勝ち誇ったままの表情で死んだ。

 ど、と倒れると、房江は返り血を浴びないように飛び退いた。

 房江本人は今の技を「鋏(ハサミ)」と呼ぶ。新陰流では二刀を使う術があるが、この技は房江が独自に編み出したものだった。斬り合いのさなかに左手一本で鯉口を切り、そのまま抜き打ちに斬りつけるように工夫をしている。右と左で挟むように斬るところが、「鋏」。しかし、この技は相手に知られることで有効性が大分落ちる。

 麻美を応援に行かせた一番の理由は、これであった。

 房江が二刀を使うということを知っているのは、家族を除くと、剣志隊の隊長、武井初芽だけである。

 今回も、誰にも見られることはなかった。

「父に怒られずに済みそうね」

 房江の父は、熱心な剣術者であり、京本新陰流の技術が無駄に広まることを懸念している。この「鋏」は、墓まで持っていく必要がありそうだった。

 ところで、吉井を斃したことで、房江のここ数日の悩みが再び頭をもたげていた。

 こんな風に剣志隊の隊士として働くことができるのも、来年までだ。

 吉井の件が片付いた後、房江は隊長の初芽に呼ばれた。

 隊長室に入ると、初芽は吉井に関する最後の報告書に目を通していた。

「やあ、房江。わざわざすまんね」

 房江は隊長室に置いてある応接用のソファにどっしり腰を下ろした。

「それで、用事は?」

 初芽は、報告書の束をぽんぽんと叩いて、

「吉井だが、なかなかの悪だった。剣志隊の隊士を二人、警官隊を二人も殺ったんだからな。それを、一人であっさりと斬ったお前さんの評価が、白兵隊にも届いた」

「それは嬉しい話ね。お給金が上がるのかしら」

 ふふ、と初芽が笑う。初芽は、吉報を告げる時は悪戯のように笑うのだ。

「房江を剣志隊の剣術指南役に就けるよう、お達しが来た。私も異論は無い。という事で、お前さんには剣志隊の隊士たちに剣の稽古をつけてもらう。来年からも、ずっとだ」

「ずっと」

 ほぅ、と房江は安堵の溜息をついた。

 これでもう、剣志隊を去るという心配をすることは無くなったらしい。両肩に乗っていた責任がするりと足元に落ちて、そのまま溶けてなくなっていく気分となった。

「でも、事務方の仕事はどうするの? 剣の稽古をつけてたら、今より時間が無くなるじゃない」

「もちろん、事務仕事はそのまま続けてもらう。房江にとっても、本望だろ?」

 言うまでもなく、本望であった。

 この日より、房江は事務方兼剣術指南役となった。

 二十二になっても剣志隊の隊士を務める二人目の人間となったのである。

 これで、このところ心配していたことは、すっぱり無くなったことになった。

 ただ、新たな心配が、この時に生まれている。

 京本新陰流と京本家の跡継ぎとして、房江は婿をどこかでもらってこなくてはならない。ただ、現時点でその候補は全く無かった。剣の腕も立って、しかも自分が結婚したいという条件を満たす男性が現れるのか。それはいつのことか。

 暗澹たる気持ちにはなったが、しかし、「まあ、どうにかなるだろう」と房江は決めつけることにした。

 白兵隊への移籍の問題も自然に解決したのである。跡取りの問題も、どうにかなるに違いない。

 そう決めつけて、房江は剣術指南役として麻美や青橋に稽古をつけてやるかと思い、道場に向かった。

 2805年の六月の、よく晴れた日のことであった。

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