第2話 この恋を叶えるために、剣士に

◆2話


 この恋を叶えるために、剣士に


 恋をする。

 全員というわけではないが、たいていの人間はする。

 男もすれば、女もする。

 形は人それぞれで、幼い頃から一緒にいたら恋人になっていたとか、一緒に同じ目標に向かっていたらそのまま人生になっていたとか。

 棚網圭子(タナアミ ケイコ)の場合も、決して珍しい恋ではなかった。

 小学校の六年生の夏、友達と一緒にかき氷を食べに駄菓子屋に行った時だった。その店は老翁が店先に出ているのどかな雰囲気だった。放課後には、近所の子どもが集まるような、そんないい店だった。

 だが、当時の圭子は知らないことだったが、その老翁は金を溜めこんでいるという噂があった。質素な生活を崩さないというのが理由だったのか、既に鬼籍に入っている妻が良家の出だったからか、そういう話が近所では話題にあがっていたのだった。

 その話題を真に受けた輩がいた。

 その輩というのは、仕事を失ってこの先どうしたら良いかと悩む中年の男だった。その男は安い刀をどこぞで手に入れると、駄菓子屋に乗り込んだ。

 圭子と老翁は怯えるばかりで、その男が鼻息を荒くして店の中を物色しているのをただ見ているだけだった。

 そこへ、少年が店の中に入ってきた。彼もかき氷を食べに来たのだろう。右手に百円玉を二枚持っていた。

 左手には竹刀と、道着が入っているらしい袋を持っていた。

 すわ、警察が来たかと男が店先に出た。

 少年は、小学六年生の圭子よりはずっと肝が据わっていた。表情は固いが、体は落ち着いて青眼に構えていた。

 勝負にはならなかった。いくら真剣とはいっても、男は素人であり、少年は懸命に稽古を続けている剣道少年であった。

 少年が男をこてんぱんにのした後、警察がやって来て男を連行していった。

「ふぅ、死ぬかと思ったなぁ」

 少年は当初の予定通り二百円のかき氷を買うと、美味しそうに食べ始めた。

 圭子は、チョコバーを買って、もう友達と一緒に遊びに出てもよかった。

 でも、圭子はその少年から顔を離せなかった。

 友達が腕を引くまで、圭子はじっと少年を見ていた。

 少年はかき氷を食べている間、竹刀をその辺の柱に立てかけ、道着の入った袋は地面に置いていた。

 その袋には、「志位健市(シイ ケンイチ)」と名前が書いてあった。


 圭子(タナアミ ケイコ)は、どちらかというと親の愛が過剰な環境で育った。また、女の子にとって必要だと思われるものは全て与えられてきたため、世の女の子の理想を仕込まれて育ってきた、とも言える。

 圭子の両親は、圭子に剣術を習わせようとは思っていなかった。大抵の親は、自分の子どもに剣術を習わせるというのに、珍しい部類であったと言える。圭子が小学生の頃はバドミントンが好きで、中学校に進学してもそのままバドミントン部に入るものだと両親は思っていた。

 が、圭子は中学校に進むと剣道部を選んだ。この時代、剣道部に入ることは、将来は軍人になることを希望している、といってよい。

 稽古の両親はひどく狼狽した。父親は薬学の研究家で、国有企業で主に感染症に関する治療薬の研究をしている。母親は専業主婦ではあるが、実家が農家を営んでいるため、その手伝いをしていた。父親筋、母親筋、共に軍人はいないため、圭子が育っていく過程で血なまぐさい話題が出ることはなかったし、極めて穏やかな家庭環境であった。

 それなのに圭子が剣道部に入りたいと聞いた時に、両親はそれを止めようとした。危険だ、生傷が絶えない、そんなことをしなくても軍人になりたい子はたくさんいる、など。どうして、お前が剣道部に?

 圭子は頑として聞かなかった。既に心に決めていたようだった。

 圭子のために注文した剣道着が家に届いた時、母親は人知れず泣いていたし、父親も難しい顔をしていた。

 当の圭子は、喜んでいた。

 これで、私も剣志隊を目指すことができる。

 ……だが、そんなに簡単な話ではなかった。

 学校にもよるが、剣道部というと、その他の部に比べて最初から職業訓練所の意味合いが強い。その上、小学校か、あるいはそれよりも前から剣道を学んできた子と比べると、中学校から剣道を始めるというのはいささか遅いという感が否めない。

 しかし圭子は真面目だった。練習は欠かさず参加したし、家に帰っても竹刀の素振りを毎日続けた。

 才はあったし、努力も実ったらしい。中学一年の終わりの頃、剣道部内での試合で先輩たちをも倒し、一位を取った。しかし、同じ頃に行われた東京国内の中学生剣道大会においては、準決勝で敗退した(なお、こういった剣道の大会は男子の部と女子の部に分かれておらず、男女関係なく試合が行われる。実際の闘争においては、男も女も関係ない、という思想からである。中学生では、女性の方が成長期を迎えるのが早いのと、まだ男女の体格差が大きくないため、優勝者は女性の方がやや多い)。

 中学二年に進学し、年が十三歳になった時、圭子は剣道部顧問の教師に相談した。

「剣志隊へ入隊希望を出したいのですが、先生の紹介状を頂けないでしょうか」

 教師は喜んで紹介状を書いた。

 剣志隊の入隊考査にはいくつかの条件があるが、その一つが師匠の紹介状を用意することだった。道場に通っていない者は、通っている学校の教師を師匠とすることが多い。

 ただ、剣志隊への入隊は難しい。希望者が多いのだ。教師が気楽な気持ちで紹介状を書いたのは、もし圭子が入隊することができるようなことになれば、自慢の種が生まれる、くらいに考えていたのであろう。

 よって、この教師は圭子が剣志隊に入れるとは、この時には全く思っていない。

 剣志隊の入隊希望は随時受け入れている。ただし、考査が行われるのは二か月に一回と、希望者が一定数に達した時だけであった。

 圭子が入隊希望書を提出したのは、この前の入隊考査が行われた直後であったため、次の考査が行われるまでは最長で二ヶ月はかかる。

 圭子は、この間に剣道の練習の他に、勉強に時間に充てた。

 剣志隊の考査は二種ある。武芸による考査と、筆記試験による考査である。武芸による考査は言うに及ばず、筆記試験の難度も高いと評判だった。これは、ただの乱暴者の加入を防ぐのが理由である。また、いずれ軍人になるということを前提にした場合、これもやはり武芸の腕だけでは足りない。

 筆記試験の考査による試験に備えるため、圭子は書店に行くと、中学二年向けの「剣志隊筆記試験対策問題集」を購入した。資本主義経済の中では、いつだって需要があれば漏れなく供給される。

 やがて考査の期日が決まり、圭子の家に受験票が届いた。圭子はさらに剣の特訓と筆記試験の勉強に熱を入れ続けて、準備を進めた。少しばかり両親の顔が暗くなっているのには気づいていたが、しかし、圭子の目的のためには、立ち止まるわけにはいかなかった。


 二か月後の六月二十二日の午前九時、考査が始まった。

 中学二年の圭子が受験する筆記試験の科目は、国語、数学、科学、社会の他、英語、保健体育。また、武芸一般の知識を問う筆記試験があるが、これは通常の中学校では行われない科目である。

 午前から始まる筆記試験は昼食の休憩を挟み、午後四時まで行われた。

 続いて、武芸による考査。

 受験者たちは剣志隊の道場に集められた。

 剣志隊の道場は、古びた木造である。広さはおよそ百五十畳で、広々としている。床板の軋みはするものの、弱さは感じられない。圭子は、道場のあちこちに歴史の重みが降り積もっているように感じられた。

 武芸による考査は、剣道の防具をつけた上での剣道の試合により行われる。相手は、応募者の中から三名が選ばれた。更に、入隊の見込みがある者は剣志隊の隊士との試合を組まれる。

 もっとも、中には剣ではなく、棒、槍、鎖鎌、剣による二刀流、といった武器によって考査を受ける者がいる時もある。非常に珍しい例だったが、今回の受験者にそのような者はいないようだった。

 圭子は、普段の剣道部で使用している防具を身につけ、他の受験者と同様に道場に並んで正座した。

 審判は、剣志隊の隊士である。大間崎謙太(オオマサキ ケンタ)という男で、年齢は十七で、身長が百九十センチもある大男であった。平隊士ではなく伍長であるため、隊士の中では格上である。圭子から見ても、そのたたずまいだけで、かなりの腕であることが想像できた。

 武芸の考査が始まった。

 圭子は、他の受験者たちの剣技に目を見張った。自分など、まだまだ未熟とは思っていたが、それすら考えが足りないことを知った。

 いずれの受験者も、すぐにでも戦地へ出ることが出来そうなほどの腕前のように見えた。これはもっとも、圭子の性格による所かもしれない。元来、自分に自信がない少女なのだった。

 今回の受験に集まった者は、数えて三十一人。これは普段よりは少ないが、それが合格率の上昇とは繋がらない。お眼鏡に叶う者が一人もいなければ、受験者が少なかろうが多かろうが、全員失格となる。

 七番目に、圭子の出番が来た。

「赤、棚網圭子。白、飯塚義仁(イイヅカ ヨシヒト)。それぞれ前へ」

「はいっ」

 圭子は元気よく返事をしたが、飯塚は小さく頷いただけだった。

 呼ばれた二人がまえに出ると、蹲踞に入った。

 相手の面鉄の奥の目が光っているように見えて、圭子は自分の背筋が震えるのを感じた。しかし、頭の中は震えていない。

 大丈夫。いつものようにやれる。これは、武者震いだ。圭子は自分にそう言い聞かせる。

 二人が立ち、竹刀を構える。相手の飯塚は上段。上段の構えは攻撃的で、守りが弱くなる代わりに打ち下ろしは早い。自分よりも段が上の者や目上の者にこの構えをすると無礼とされている。

 舐められているな、と圭子は思った。思った時には、飯塚は素早く踏み込み、斬り下ろした。実際、飯田は相手が自分より年若い女ということで、甘く見ていた。

 その先端が圭子の面を取るより前に、圭子の竹刀が飯塚の籠手を強く打った。飯田は竹刀を取り落したりはしなかったが、打たれた腕がぶんと振れて、打ち下ろした竹刀が強く道場の床を弾いた。

 しかし、一本の宣言はない。打ち込みが浅いという判断だろう。

 圭子は素早く後ろに飛び退いて仕切り直した。

 今の一撃で、飯田の頭には血が昇ったと見ている。

 果たして、飯田は再び上段に構えた。構えて、すぐに斬り下ろした。先ほどより更に雑になっていた。

 圭子は、飯田の籠手を打った。さっきと全く同じ剣筋だった。時間を巻き戻して同じ事を繰り返したかのように、飯田の竹刀が地面を打った。

 一本の宣言がないのも、全く同じ。

 飯田の目の奥が燃えている。

 その怒りに油を注ぐ。

 両者が再び所定の位置に戻り、審判の「始め」の声と同時に圭子は、上段に構えた。

 上段の構えを、自分より段位の高い者を相手に行うのは無礼とされる。

 飯田の頭の中が真っ赤に染まった。同じく上段に構えると、渾身の力で打ち下ろした。今までで一番雑ではあるものの、早い。

 しかし、圭子の上段の構えは一瞬だけだった。飯田が怒りに任せて上段に構えた時には、胴を打って右に飛んでいた。

「一本」

 審判が赤旗をあげた。

 飯田は打ち下ろそうとした竹刀を宙に浮かせたまま、しばし呆然としていた。自分の負けが信じられなかったのだろう。


 剣道における圭子の方針。それは、相手の竹刀に触れないことであった。

 剣志隊となったあかつきには、剣を振るう時は真剣を手にすることになる。相手も当然真剣だ。

 鎖帷子でも着こまない限り、真剣が触れることは斬られることを意味する。たとえ自分の剣が相手を仕留めることができたとしても、斬られてしまえば傷を負うことになる。たとえ有効な打突を相手に与えたとしても、下手をすれば、相討ちになる可能性すらある。だから、圭子は相手の竹刀を自分に触れさせない。

 剣道部には、それを臆病と罵った先輩もいた。しかし、圭子はその考えを貫いている。

 受験者たちの対戦が一巡し、二巡目が始まった。全員が全員の対戦を一度見ているので、二巡目からは剣の腕だけでなく、洞察力や記憶力、分析力も試される。

 圭子の相手は、坂田という男だった。十八歳。坂田は、圭子を策略家だと思っている。だから、坂田は圭子に考える間も無く仕留めようと考えている。

 ……圭子は、坂田という男をそのように評価した。

 審判の「はじめ」の声と同時に坂田は右足を踏み込んだ。圭子は面を打つ飯田を相手に籠手で翻弄した。決めの一手は胴であった。舐めた相手が打つ上段に対し中段か下段を狙っている。

 坂田は籠手を狙った。たとえ圭子が籠手を狙おうとも、体格に勝る自分であれば、同じ籠手でも自分の竹刀の方が早く打てる。

 坂田がそう思っているであろうことを、圭子は読んでいた。

 剣道における最速の一撃は、突きである。

 坂田の籠手が圭子に届くよりも早く、圭子の竹刀の先端が突き垂に刺さった。のみならず、圭子はすばやく竹刀を引き、坂田の籠手を抑えた。

「一本」

 坂田の竹刀は、圭子の体のどこにも触れていない。

 敗れた坂田は、俯いて肩を震わせていた。読んだつもりが逆に読まれていたということを、本気で悔しがっているのであろう。

 圭子の三巡目は、同じ女性であった。名は、羽場紗江(ハネバ サエ)。年は圭子より一つ年上の十四。

 強者であった。一巡目の試合では相手が竹刀を振るうよりも早く面を決め、二巡目では打った面を途中で籠手へ切り替えるという技を披露した。自分よりも腕は上であろうと思った。

「大間崎さん」

 道場の入り口から、間延びした声がした。本人は気を使ったかもしれないが、これから試合をするというには、少々ふさわしくない声音だった。

「審判、変わりますよ」

 隊士の志位健市(シイ ケンイチ)であった。大間崎は「頼む」と言うと手に持っていた受験者の名簿を志位に渡して道場を出て行った。大間崎はこの後、隊士と共に巡察に出る予定であった。

「じゃあ、続きを始めるよ。ええと、赤、羽場紗江。白、棚網圭子。前へ」

 呼ばれて、二人は道場の中心へと進んだ。紗江は落ち着いたもので、前へ出る動きもしなやかであった。

 ところで、圭子の様子が、それ以前と変わってしまっていた。

 緊張している。

 それは、審判が志位に変わったからであろう。

 普段であれば、目の前の紗江を仔細に観察しているであろう目が、今は床と志位の間を細かく往復している。

 とても試合に臨める心情ではなかった。

 しかし、試合をするのに、言い換えれば、剣を交わすのに心情を整えるまで待ってくれる者などいない。

「では、はじめ」

 審判の合図とともに、圭子が「はっ」と顔を上げた。

 あげた時には、紗江が踏み込んでいた。

 面への鋭い一撃。しかし、挨拶がわりでもあった。紗江には、圭子の気が試合から逸れていることは分かっていたが、それでも簡単に一本を取ることができる相手とは思っていない。

 その通り、圭子は咄嗟に竹刀の鍔元で受け止めると、そのまま鍔迫り合った。

 紗江は、面金の奥からじっと圭子のことを見つめている。剣客者の目だった。どうすれば相手を斬ることができるか、考えている目だった。

 おおぉ、と圭子は吠えて強引に紗江の竹刀を払って後ろに飛びずさった。

 紗江は深追いはしない。中段に構えると、切っ先で圭子の喉元を指して止まる。ひどく落ち着いていて、傲りや功名心など一切見当たらない。

 一方、圭子はそれどころではなかった。

 まだたいした切り結びもしていないのに、圭子の心臓が短距離走を全力で走り終えた時のように早鐘を打っている。

 きちんと意識は前の前の紗江に集中している。なのに、そのうちの一割ほどはどうしても志位を意識してしまっているのだ。

 紗江は小さく溜息をついた。これまで、と思った。

 どん、と道場の床を強く踏み込んだ。途端に、圭子の意識の十割が無理やりにそちらを向かされる。気を張っていなかったものだったから、構えが緩んだ。

 緩んだ隙に、紗江は籠手を狙った。圭子はギリギリ、体をねじって避けた。そこまでだった。

 紗江は踏み込んだ足に力をこめて、更に前へと弾け飛んだ。

 逆胴を抜き打って、残心。

「一本。それまで」

 圭子は唇を噛んで、竹刀を下げた。

 自分が情けない、と思った。

 受験者の全員に三巡目が行き渡ったところで、審判の志位は名簿を見ながら思案している。鉛筆の先端を舐めながら、なにごとかを名簿に書きつけると、

「それでは、この後の選抜者を決めるので、しばらくこのままお待ちください」

 そう言って、道場を出た。

 実は、これらの試合を、隊長である初芽と、副隊長である柚希が、隣室の隠し部屋から見ている。

 この隠し部屋は、有事の際に逃げ込むための部屋でもあったが、受験者の試合の様子を見るためにも使われる。広さは十畳ほどで、そこまで多い人数を収容できることはできないので、有事の際にこの部屋を使うことができる者は限られるであろう。

 そこへは道場の中から入ることもできるが、隠し部屋と呼んでいるものの入り口を部外者にさらすわけにはいかない。志位は道場を出てからぐるりと回り、誰も見ていないことを確認してから、裏口の引戸を開けた。

 志位は自分と大間崎のメモ書きを記した名簿を初芽に渡した。

「まあ、そんな所だろうな」

 初芽は名簿を柚希にも見せる。柚希にも異論は無いようで、かぶりを縦に振った。

「では、選抜戦は羽場紗江、黒井聡(クロイ サトシ)、棚網圭子の三人で」

「分かりました。組手は、全員とも俺で大丈夫ですか?」

「いや、棚網の相手は柚希にさせる」

 柚希は「分かりました」と言って席を立つが、志位にはその真意が分からない。

「一人だけですか? 別に三人を相手にしても大丈夫ですけど」

 初芽は冷たい目で志位を睨む。柚希が、それ以上深追いするな、と志位に目で伝えようとするが、鈍い志位には伝わらない。

「本当に分からないのか?」

「すみません、分かりません。棚網が相手でも、俺は負けないと思いますけど」

 初芽は嘆息すると、柚希に、

「お前が全員の相手をしてやれ。志位には、今から私がここで説明をする」

「……承知しました」

 ばか、と柚希の目が志位を責めているが、志位には分からない。

 つまるところ、棚網圭子はどこかで志位を見知っており、ありていにいえば、恋慕を抱いているということであった。初見の初芽と柚希にはそれが分かったが、当の恋慕の相手である志位にはまるで分かっていないあたり、圭子には同情できるかもしれない。

 が、柚希は十七歳の女子高生である以前に、剣隊士の副隊長であり、剣客だった。

 圭子について見るべきは、修羅場でも、恋慕といった私情を無視して行動できるか、であった。

 柚希は一度更衣室に行き剣道着に着替えると、道場に入った。

 選抜者は羽場、黒井、棚網の三名であることを告げ、落選したものを家に帰した。

 残った三人は剣道着を着たまま、正座で待っていた。

「今から組手を行う。相手は、私、糸無柚希が務める。審判も私が行うので、そのつもりで」

 一人だけ、紗江が柚希の名を聞いてぴくりと反応した。柚希は自分を副隊長と名乗らなかったが、紗江は知っているのかもしれない。

 一人ずつ柚希と試合を行ったが、いずれも柚希の一本で終わった。最初の相手が黒井聡であったが、緊張していたのか初太刀を打つよりも前に柚希の迅速な面で一本。次の紗江は、果敢にも打ち込んだが、柚希は危なげなくあしらうと、胴に一本。

 次に圭子との試合を行うというところで、柚希は黒井と紗江を帰した。

 圭子は面金の奥の目をぱちくりとさせていた。なぜ二人を帰す必要がある?

「棚網圭子。試合前に聞いておきたいことがある」

「はい」

 圭子は正座したまま、はっきりと返事をした。

「剣志隊に入った後は、東京国のために身を捧げることとなる。浮浪の者や東京国に仇なす者と争闘に入れば、命を落とすかもしれん。それでも構わないか?」

「はい。その覚悟はできています」

「私人としての棚網圭子は、入隊後もそのまま棚網圭子であるが、公人としての棚網圭子は、中学生であると同時に剣志隊の隊士となる。それで良いか?」

「はい。それが、私の望む道です」

 ふむ、と柚希もうなずいだ。この後の問いは、少々柚希には気が重い。柚希は、色恋について経験が豊富ではない。絶無と言ってよい。

「お前は、志位豊喜と面識があるのか?」

 圭子が、目に見えてうろたえた。そして、言い淀んだ。それまでの問いには流暢に返答していただけに、その無言が目立った。

「……あります」

「率直に聞こう。たとえ志位が斬られるような状況でも、お前が生き残るべき時には、逃げなければならない。できるか?」

 圭子は、膝の上で固く結んでいた拳を、さらに固くした。頭の中で咀嚼し、噛み砕かなければ返答できない内容であった。

 柚希は、促すことはしなかった。

 この問答も、試験の一部である。

 おそらく、一分に近い沈黙があった。しかし、圭子は答えた。

「逃げられます」

「よし。面を取れ」

 圭子は言われた通り面を取った。久しぶりに外気に触れた肌が冷えていく。

 柚希も面を取った。

 互いに素顔で向かい合う。

「最後の問いだ」

「はい」

「ここまでの質問でお前も承知しただろうが、私はお前が志位に対して恋愛感情を持っていることを察している。その事自体には何ら問題はない。だが、それが公務の妨げになり、仲間である剣志隊の隊士たちや、市井の人々が危機に陥るかもしれない。私はそれを許さない。

 もし大きな問題に発展した時には、お前には投獄や切腹といった罰を下す。それでも構わないな」

「はい」

 圭子はまっすぐに柚希の目を見たまま、言葉を継いだ。

「そのようなことには、私が決してさせません。なったとしても、私の命をもって償い、他の人の命で支払うようなことはさせません。その後に私がまだ生き延びていたら、ふさわしい罰を、どうか」

 柚希は満足そうに笑みを浮かべた。普段はあまり笑う女ではない。こういった、覚悟ある者の決意を聞いて、柚希は安心したようだった。

「分かった。信じよう。面を着けて、試合だ」

 柚希と圭子は、立ち会った。

 心情の奥まで確認させられた圭子は、心の中は晴れやかだった。

 晴れやかなまま、一本を取られた。柚希の鮮やかな面の一本だった。

 数日して、受験者たちの自宅に合否の手紙が届いた。家がなく、宿や寺を住処としている者にも、きちんと手紙が届いた。

 圭子がその手紙を見たのは、梅雨も始まった六月十日であった。

 試験を終えた数日は何をしても気持ちがそぞろになっていたが、さらに数日すると「きっと落ちている」と思うことができた。すぐに剣道部の稽古もそれまでのようにできるようになったし、学校の勉強も再開できた。

 だから、普段通りの生活を取り戻した直後に合否の手紙が届けられた時に、圭子は再び慌てるはめになった。

 その日は学校の格技室が柔道部に割り当てられていた。普段であれば学校の周りを走って体力作りをするところであったが、梅雨が始まっていてそれもできなかった。

 圭子は傘を指して家に戻った。

 帰宅すると、母親が心配そうな顔をして、「剣志隊から手紙が届いてるわよ」

 どうやら、その手紙は朝に届いたらしく、父親も仕事を早く切り上げて帰宅していた。

 手紙は開封していない。が、父親も母親も、早く開けてくれと目で訴えている。

 本当は、自分の部屋で開けたいと思っていた。しかし、剣客集団に一人娘が入隊するかもしれないという手紙を、両親の前で開かないというのも、親不孝にも思えた。

 圭子は手紙を開封した。

 その中には、「入隊を許可する」という語と共に、その手続きをする日付やら書類やらについて記載があった。

 父親も母親も、暗い表情をしていた。

 それにつられて、圭子も暗くなってしまった。

「どうしても、行くのかい?」

 母親の問いに、圭子は首肯した。

「どうして、そんな所に行くんだ? お前でなくても良いのに」

 父親の問いに、もっともだ、と圭子は心中で思った。

 しかし、それでも圭子は剣志隊に入らなくてはならないと思った。

 恋慕の相手が剣志隊の隊士なのであれば、そこへ入らなくてはならないと思った。

 剣道を始めたのも、それが理由だ。

 今の自分のことはよく分かっているつもりである。十三の小娘で、手段としてはあまりに世間知らずとも言われるだろう。

 しかし、自分から諦めたり忘れたりするのは嫌だった。

 それに、市井の人のために働けるのなら、それでも良いだろうと思っていた。

 剣志隊の隊士となった圭子は、剣道部の稽古よりも武道館にいることが多くなった。他の隊士は剣道部の部員よりも腕が良く、稽古をするにしてもここの方が良いと思ったからだった。

 その日、最後まで武道館で稽古をしていたのは圭子だった。最後の一人は、施錠をして道場を後にする決まりである。

 圭子は剣道着のまま窓の戸締りを全て終わらせると、道場を出ようとした。

 そこへ、道場に入る者がいた。

 志位であった。

「ありゃ、棚網か。もうあがるの? どうせなら、最後に一回、手合せしてみる?」

 新人隊士に対する優しさだろう。また、試験の日に志位は初芽から全て聞かされている。

 他の隊士と隔たりなく行動せよ。

 圭子の行動に恋慕によるおかしなことがあれば、お前が是正せよ。

 先輩隊士として、まだ未熟な隊士である圭子に色々と教えようという心積もりだった。

 だが、圭子は断と否定した。

「いえ、今日はもうあがるところです。志位先輩に一つ言っておきますが、どうか軽々しく私に声をかけないで頂きたい。私は、軽薄な男が嫌いです」

 圭子は、泣きたくなるような気持ちだった。だが、副隊長の柚希からは、「恋慕を隊士としてのお前に持ち込むな」という風に言われた。柚希からあんな風に言われているのだから、志位にも何らかの形で伝わっている可能性が高い。

 この初恋を諦める気はない。だが、剣志隊の隊士としては、この気持ちとは決別する必要がある。

 とすると、この恋心はどこで出せば良いものか。

(失敗だった、かも……)

 圭子は目をぎゅっとつぶると、走って道場から去って行った。

 道場から去る圭子を、志位は目を丸くして見送った。

(全然聞いていた話と違うじゃん)

 とすれば、特に志位が何か心遣いをする必要は無さそうだった。

 この後、志位は隊長の部屋を訪れ、「棚網が自分を好いてるって話、どうやら隊長の見立て違いのようですぜ」と述べた。

 その後、正座をさせられ小一時間ほど説教を受けたが、それもこの男がまだ人の心を読み切れぬのが原因であろう。


 約半年前、圭子はまだ中学一年生だった。

 冬。

 剣道部の仲間たちと、東京国内の剣道大会に来ていた。

 部の仲間たちはいずれも敗退し、残るは圭子だけであった。

 勝てば決勝戦、という試合を控え、圭子は会場の外で気を落ち着かせていた。

 しかし、胸の動悸は収まらない。前の試合でも、なんとか一本を取れたものの、そんな幸運は続きそうもない。自分は、次の試合で負けてしまうだろう、とぼんやり思っていた。

 空を見上げれば、雪でもちらつきそうな、暗い色の雲が立ち込めていた。

 勝ちたい。

 そうして、あの時駄菓子屋で自分たちと店主の老翁を助けてくれた少年のように、強くなりたい。

 会いたかった。

「あれ、君って、あれだよね。棚網さんだよね」

 後ろから声をかけられて、びくりと背中が跳ね上がった。これでは剣客失格である。出来るだけ平静を装って振り返った。

 青年がいた。冬なのに、Tシャツにデニムのジャンパー、ジーンズという薄手の格好だった。短髪をワックスで逆立てていた。爽やかで人懐っこい笑顔をしていた。

 異様なのが、その腰に日本刀を提げていることだった。ベルトに鞘を止める部品を備えていて、直接鞘とベルトを連結させていた。

「君、さっきの試合に出てたよね? あれは綺麗な胴打ちだった」

「は、はい……」

「なかなか良かったよ。うん。中学生離れしてるね。まあ、こんな大会の準決勝に出れるようなら、みんな中学生離れしてるよね」

「そうですね……」

 青年は気さくに話しかけてくるが、圭子はそれどころではない。

 この青年は、おそらく。

「あの、あなたも出場しているんですか?」

 違うだろう、と思っていたが、この場を凌ぐにはちょうどいい質問に思えた。

 青年は笑顔で顔を左右に振った。

「後輩が出場していてね、見に来たんだ。本当は仕事の途中だけど、そこは隊長には内緒で」

「隊長って……」

「俺、剣志隊の隊士なんだ」

 得意そうな顔。

 記憶が刺激される。

 思い出そうとするまでもなく、圭子の頭には記憶は、あの夏の日にあった少年のことを思い返していた。

「志位さん、ですか……?」

 きょとん、と青年が目を丸くしている。

「なんで、俺の名前知ってるの?」

 それは、と言いかけた時、遠くから圭子を呼ぶ声がした。

 圭子と同じ、剣道部の部員だった。もうすぐ試合が始まるよ、と呼んでいる。

「私……行かなきゃ」

「うん。頑張っておいで」

 青年はひらひらと手を振って圭子を見送った。

 この後の試合で、圭子は負けた。決して悪い試合ではなかったが、相手の方が腕が良かったのだった。

 しかし、圭子は晴れ晴れとしていた。

 自分の恋を、この後にどうすればよいかが決まったからだった。

 剣志隊に入る。

 そうすれば、あの青年とまた会えるはずだ、と。

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