049 歌姫 ルイシーナ・マテオス
「あ~~~~怠い。本当に怠いわ。大体、何で私がこんなことをしなくちゃならないのよ?」
「今更そんなこと言い出さないで下さいよ」
「私、天下の歌姫なのよ? 歌のレッスンをして、演技を磨き、おべっかを使って成り上がって来たのに……それも今夜で全部パーよ」
「最初からわかりきってた事じゃないですか」
「あんたみたいな薄情な人間じゃないのよ私は。努力してきた時間だけ、それなりに思い入れだってあるんだから」
「それでも、やるのでしょう?」
「……やる。やるわよ。だからこうしてグチグチ未練を吐き出してるんじゃない。あんた本当に使えない、察しなさいよそれくらい!」
開演前の最後の休憩時間。
付き人である男『ヴァロフ』は楽屋のソファに寝転び、着替え終わってからずっと愚痴を溢し続けている1人の女を見て苦笑した。
渦を巻くようにまとめ上げた金髪に真紅の瞳。
病的なまでに白い肌を持つ彼女が身に纏っているのは、光に照らされ美しい光沢を放つ綺羅びやかな真紅のドレス。
所々に施された金の意匠がシンプルなドレスに高貴な印象を持たせている反面、彼女の豊満な胸を見せつけるかのように胸元が大きく開いたそのデザインは彼女の妖艶さを際立たせていた。
女の名はルイシーナ・マテオス。
今宵のオペラの主演であり歌姫の異名を持つオペラ歌手だ。
彼女の生まれは『黒曜の剣』の研究施設、その培養液の中だ。
実験体として確保された女性冒険者。実験段階の魔人化技術に適合できなかったその女性は、偶然にも一人の赤子を宿していた。
その赤子は適合失敗によりほぼ肉塊となった母親の中ですくすくと育ち、研究者たちも初めての出来事に慎重に慎重を重ね、寝る間も惜しんで赤子の生誕を見守った。
そんな特異な状況から生まれてきたルイシーナは生まれながらにして魔人化技術への適合率が高く、『黒曜の剣』においても最初期に魔人化に成功した。
魔物の中でも特に高い知性と能力を持つ
それに目をつけた『黒曜の剣』首領は彼女の美貌と才覚を最大限に利用できるオペラ歌手に仕立て上げ、国家の上流階級への接触とコネクション作りを任務として与えた。
「ルイシーナが吸血種の魔人として得た力。『血霧』による強制的な眷属化能力により、今や各分野のエリート層は傀儡も同然。後は現行騎士団の権威を失墜させて――」
「そこに私達が魔人化技術を傀儡を通して売り込んで、内部から軍権を握って国家を掌握する……だっけ? それさえ終われば私はもうお役御免、眷属達の状態を維持し続けれは後は好きに暮らして良いんでしょ?」
「――と、私は聞いていますが」
「どこまで本気なんだか。まぁ良いわ、私もいい加減に親ヅラする研究所のキモい連中とお別れしたいし。最後と思えばやる気も湧かせるわ」
「湧いてくるのではないのですね」
「怠いし働きたくないもの。無理矢理モチベーションあげようとしてるんだから野暮なツッコミしないでよ」
彼女の幼少期は研究所で検査と実験の繰り返しであった。
身体能力から知性のみならず、様々な毒物や五感に対する拷問じみた反応調査。
体内に取り込まれた薬品は合法・非合法問わずに多種多様で、生まれてからそれしか知らなかった彼女はただ日常のこととしてそれを受け入れていた。
そして幼少期を過ぎ、その美貌と才覚が証明されてからはオペラ歌手としての生活と魔人の力を使った調略に人生を注ぐこととなった。
突如として放り出された社会生活の中で培っていて当然の『常識』を周囲の人間を観察することで学び取り、寝る間も惜しんでオペラ歌手としてのレッスン・自身の美貌を磨くことに心血を注いだ。
そしてその裏で身に着けた演技力を巧みに操ることで国の重鎮に近づき、魔人の力で傀儡へと変貌させていく。
ただ、言われるがままにそうしてきた。
その時の彼女にはそれしか無く、それしか知らなかったからだ。
しかし、オペラ歌手として多種多様な人々と関わっていく内に彼女は生きる道がたった一つしかなかった自分に疑問を覚え始めた。
それは歌手としての名声が上がることに比例するかのように肥大化していき、何時の日か知らず識らずの内に『自由』を求める心を育んでいた。
だからといって生まれも育ちも闇組織である彼女がそう簡単に足を洗うことが出来るはずもない。
彼女はそれをよく理解していたし、だからこそ考えもなく喚き散らすような真似はしなかった。
故に彼女は望んだ。
自らの『自由』を組織への奉仕という義務に対する正当な権利として。
最初は小さな私物の購入から始め、段階を踏んで外出権利や監視の付かない自由時間の獲得をしていった。
その『自由』与えられる限りにおいて彼女は組織の仕事に対し勤勉に励み、与えられた『自由』をこれまでの鬱憤を晴らすかのように謳歌していった。
こうして公私の分別が生まれたことでルイシーナ・マテオスは『やることはやるが、基本的には怠惰で面倒くさがり』という人格を形成したのである。
「で~も~~~、ああぁぁぁぁ~! めんどぅくさぁい……あぁ~でもやんなきゃ~うぁ~っ!」
彼女の望み、その最終的な目標地点は『監視はあれどほぼ完全な自由生活』である。
完全な足抜けは妥協するにせよ、品の無い視線と共に舌舐めずりをしてくる中年や、夢にまで染み込んでいる薬品の臭いとは無縁の生活を送ることが彼女にとっての理想である。
そのために今夜、彼女は『血霧』の力でオペラハウスに集った要人たちを互いに殺し合わせる。
騒動に気が付くであろう騎士団をも巻き込み、傀儡を通じて騒動で起きた被害の責任全てを彼らに押し付け権威を失墜させる。
それが『歌姫』としての最後の舞台であり、『只人』に至るために乗り越えねばならない試練だった。
「……ん」
呻き、喚き、うだうだ不満を垂れ流して、やっとルイシーナはソファから立ち上がる。
もはや何も言うことはない、言いたいことは全て吐き出した。
そこまでしてやっと得られるフラットな状態こそが、彼女にとって最大のパフォーマンスを発揮できる状態だった。
その状態を彼女自身が理解しているからこそ、彼女は恨み辛みに未練を取り繕わずに吐き出し続けるようにしている。
それは付き人のヴァロフも理解しており、この手のやり取りは二人にとって日常茶飯事であった。
「失礼しますよ」
立ち上がったルイシーナにヴァロフは自然に近づき、手慣れた様子で部屋に常備されている小箒でドレスに絡んだホコリや毛を払い始める。
ルイシーナも慣れた様子で手を水平に開き、ヴァロフがゴミを払いやすいように身体を動かさずにボンヤリと視線を飛ばす。
彼女はそのままヴァロフが仕事を終えるまで、微動だにしなかった。
「はい、終わり。完璧です」
「ありがとう。は~~~~…………まぁ、歌うか」
最後に一つ、大きなため息を吐くとルイシーナは楽屋の扉へと歩き出した。
ヴァロフは本当に面倒な性格をしているなと内心思いつつその背を苦笑と共に見送りながら、その笑みの下で衣服を破り割いたルイシーナの姿を夢想し、乾いた唇を舌で濡らした。
「あ、そう言えばヴァロフ。貴方も確か魔人化したのよね?」
ルイシーナがドアノブに手をかけながらふと思い出したかのようにヴァロフへと振り返って声をかけてきた。
対してヴァロフは急な問いに目をぱちくりとさせながら、反射的に返答した。
「え? まぁハイ。甲殻種の魔物に適合したので」
「そう。なら丁度いいわ、前々から気になってたことがあるの」
ルイシーナは踵を返してヴァロフの前に立つ。
すると突然、ルイシーナは彼の着るワイシャツの胸元を引きちぎり、その鍛え上げられた胸部に絹のように白く細い指先を這わせ始める。
「なに、を?」
「良いからそのままで居なさい」
ヴァロフはルイシーナの意図が分からず疑問を呈した。
しかし彼女はその質問に答えることもせず、ただ優しくヴァロフの胸部を撫で続ける。
言われるがままのヴァロフは段々と意識が薄れはじめ、その心地よさに全身の力が抜け始める。
もはや骨格の構造がそうなっているから立ち続けられていると言えるレベルに脱力した彼は、今やルイシーナが指先で軽く押しただけでも倒れかねないほどだった。
「質問に答えなさい」
ルイシーナの声が溶けて、響く。
今のヴァロフにその声に抗うすべはなく、ただ無言で頷くばかり。
室内に蔓延した赤い霧を認識することさえも出来ていなかった。
「貴方、前々から私のことを襲うつもりだったでしょ?」
「あぁ」
「どういうつもりよ」
「あの女は俺が育てたも同然だ……俺が仕事を与え、プロデュースしてきた……俺の、俺の女だ」
「ふん。親が親なら子も子ということね。金と暴力で女を作ってきた奴って、どうしてこうも同じ様な連中ばかりなのかしら」
ルイシーナの指が沈み込む。ヴァロフの皮膚が――甲殻種の魔人として強化された外骨格が――ヒビ割れていく。
程なくして押し砕かれた胸部から取り出されたのは拳大の肉塊、ヴァロフの心臓だった。
「虫の中には胴体を千切られても暫く生きるものも居るけれど、流石に貴方は心臓を抜かれれば死ぬのね」
血溜まりに崩れ落ちたヴァロフを見下し、ルイシーナはそう呟いた。
前々から自分に向けられていた獲物を見るかのような視線は只々不愉快であり、隙があればこちらを襲う算段を立てているのだろうという察しはついていた。
自分が隙を見せるならばきっとこの大一番だろう。
ヴァロフもそれをわかっていたからこそ、普段は見せなかった『舌舐めずり』を無意識の内に行っていた。
魔人として、人智を超えた聴力を有しているルイシーナにとってそれを聞き取るのは容易なことであり、それが彼に対する見切りをつけた瞬間だった。
「貴方には仕事上色々助けられたけれど、それも今夜までだし。悩みのタネはなるべく清算しておいた方がスッキリするわよね。貴方、本当に気持ち悪くて目障りだったわ」
ルイシーナはやや上機嫌な顔でそう語ると、手にしたヴァロフの心臓を床に投げ捨てた。
そして楽屋に備え付けられていたタオルで血に濡れた手を拭い、近場にあったスタンドミラーを横目に見て「あっ」と呟いた。
「やばっ、変色してるじゃない」
ルイシーナは鏡に写った自分の姿を見て、ドレスの袖口がヴァロフの血により鮮やかな赤色から鉛のような茶色へと変色していることに気がついた。
よく見れば、ドレスの足元にも血が跳ねているのも見える。床に投げ捨てた心臓の血が跳ね付いたのだろうか。
「最後まで苛立たせる男ね貴方は!」
ヴァロフの死骸を蹴り飛ばし、ルイシーナは慌てて楽屋にある予備のドレスに着替え始める。
1人での着替えは思っていた以上に面倒で、彼女は手伝いもせず床に転がるヴァロフの死骸に何度も悪態をつき続けた。
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