日傘の下
KEN
日傘の下
私の日傘は、未来を映す。
例えば朝に日傘をさして、その内側に雨雲が映っていたとする。すると夕方には必ず大雨が降るのだ。逆も然り。天気予報も顔負けの未来予知のおかげで、私はここ何年も雨に困った事がない。
この日傘を買った時の事は忘れもしない。客が入っているのかもわからない、路地裏の小さな雑貨店。その片隅にひっそり立てかけられた一本の傘に、私はすっかり心を奪われた。
宇宙を思わせる深い濃紺の傘地、小さな白い花が流れ星のように表面を踊るデザイン、いぶし銀色で唐草模様のような装飾を施された石突と手元。その全てが私を魅了した。
店の主人は痩せ気味の中年女性で、私が日傘を手に取り見入っているさまをじっと眺めていた。声をかけてはこなかった。ただ、その眼はどことなく憂いの感情を帯びているように見えた。
「あの、これを買いたいのですけれど、良いですか?」
実は売り物ではなかったのかと不安になった私は、確認のために尋ねた。すると彼女はゆっくり目を瞬かせ、頷いた。
「……えぇ、勿論。その為に店頭に並べているものですから」
彼女の表情はかたい。単に無愛想と言うには違和感がある。けれどもその違和感の正体がわからない。結局、ただ機嫌が悪いだけなのだろうと私は思う事にした。
「この日傘を下さい」
「わかりました。では、それを頂けますか」
そう言って彼女が指差したのは、取れかけていた袖口のボタンだった。気付いていなかった私は驚いたが、それ以上に彼女の言葉が理解出来なかった。
「これですか?」
何の変哲もないちゃちなボタン。それをよく見えるように彼女の前に差し出し、私は念を押す。
「ええ、それが良いんです」
「はぁ、こんな物で宜しければ差し上げますよ」
私は丁寧にボタンをもぎ、彼女の手の上に乗せた。彼女はそれを黙って受け取った。
「それで、お代は?」
「これだけで充分です」
彼女はすっと目を閉じた。眠りに入ったようなその表情に、私はそれ以上話しかける気にはなれなかった。何より、とても良い掘り出し物を見つけたという高揚感が、私を帰路へと急がせていた。
「どうぞ、お気をつけて」
店を出る時、背後から彼女のか細い声が聞こえた気がした。
***
ある日私は、有給休暇を利用して旅に出た。勿論、あの日傘で天気を確認しているので、雨の心配はない。
前から行きたかったその地は、崖上からの海の眺めが評判だった。仕事の小さな失敗をくよくよしていた私は、海を眺めて気分転換をはかろうとその観光地を訪れたのだ。
特に眺めが良いという観光スポットを歩いていると、何故か崖のそばなのに安全柵の途切れた場所がある事に気付いた。特に深く考えなかった私は、危なくないから柵がないのだろうとしか思わなかった。柵の向こう側に行ったら、もしかしたらもっと良い景色が拝めるかもしれない。私は柵の向こうに踏み込むことにした。
崖のふちまで寄ると、海は更に優大に広がっていた。崖下を覗く気にはなれなかったけれど、遠くに見える船や波しぶきの小ささが、世界の広大さを、そして自分のちっぽけさを痛感させた。仕事の悩みなんてどうでも良くなっていた。
ふと傘を見上げると、そこにも煌めく海があった。青々と頭上に浮かぶ海。そんなものを見られる日が来るなんて。この傘が空以外のものを映すなんて思わなかった。なんて綺麗な空の海。
私は日傘の海をもっとよく見る為に、傘を上へかざした。すると突然、びゅうと強い風が吹き抜けた。傘を飛ばされまいと、私は手元を強く握る。けれども傘は海側へと傾き、手から転げ落ちそうになった。
「待って!」
踏み出した足が崖の先端にかかる。そして、私は足を滑らせた。
***
「はぁ、また戻ってきてしまった」
店の前に横たわる一本の傘を拾い上げ、店主の女はひとりごちる。開いてみると、裏側には傘を買い求める見知らぬ女性の姿が映っていた。
「一体、何人殺せば気が済むんだい。あんたは」
神棚に供えられた小さなボタンを一瞥し、女は傘を売り場の片隅に置いた。
日傘の下 KEN @KEN_pooh
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