四章 4-2

「巻き込みたくありませんでしたから。……無駄でしたけれど」

 ぼそりと付け加えたクレフは、セルカへ視線を戻して首をかしげた。

「あの日、何故セルカは町に出てきたのですか? 出掛ける予定はないと言っていませんでしたか」

「薬缶が壊れちゃったんです。予備もありませんから、買ってこようと思って」

「ああ……あれですか。取っ手がとれていましたね」

「随分前から大事に使ってましたから、わたしに先生の一大事を知らせてくれたのかも」

 冗談めかして言えば、クレフは困ったような笑みを浮かべた。

「それは、是非セルカを守る方にはたらいてほしかったですね」

「いいんです、わたしにとってはとてもいい薬缶です。……こんなことがあったなんてあとで知らされるほうが、ずっとずっと嫌ですもん」

「すみません」

 やんわりと頭を撫でられて、セルカは首を左右に振る。

「んもう。子ども扱いしないでください」

 むくれて見せれば、クレフは子どもをあやすような表情になった。やはり、クレフにとって自分はまだまだ子どもで、ただの庇護対象なのだと思い知らされ、セルカは零れそうになるため息を飲み込んだ。

「もう少し、我が儘を言ってもいいですか?」

「なんですか?」

「ミハイルさんのこと、教えてください。どんな人だったのか……」

 クレフは束の間の沈黙の後に頷き、語り出した。

「ロウ……ミハイルは私よりも五つ上の神父でして、若手どうしということでよく組まされました。勤勉で努力家、真面目でとても優しい人で……絶対に分け隔てをしないんです。富める者も貧しい者も、強者も弱者も、魔物ですらも、主の御前では等しく一個の命だと……彼以上に神父に相応しい人を、私は知りません」

 懐かしそうに目を細めてから、クレフは苦笑めいた表情になる。

「昔の私は、剣の腕が同輩よりも少々秀でているのを鼻にかけた、生意気で我が儘で思慮の足りない、目上の人間にも平気で楯突く、更にそういう自分が格好いいと思っている、どうしようもないクソガキでした。特別扱いを当然だと、神に選ばれたとすら思っているような、底抜けの馬鹿です」

 クレフの語る、昔の彼自身が全く想像できず、セルカは目を瞬いた。

「……先生が、ですか?」

「ええ。退魔士には幾つかの適性が必要で、なり手が少ないんですよ。ですので、叱ってくれる大人がいなくて。ミハイルに会うまでは」

 できることなら、当時の自分を殴り倒したいと、クレフは言う。

「模範のような神父と、全部お膳立てされた箱庭で思い上がったクソガキですからね。最初は喧嘩ばかりでしたが、ミハイルは辛抱強く、私を人にしてくれました。あのまま大人になっていたら、ルフィニアよりも酷いことを平気でするような人間になっていたでしょう」

「そんな……先生が、そんなこと」

「しますよ、大いに。あのクソガキは、疫病を封じ込めるためだと、町ごと焼き払っても不思議ではない」

 冗談めかして言い、クレフは淡く笑む。

「ですから、今の私はミハイルのおかげなんです。……本当に、どれだけ感謝しても足りない」

 ミハイルは、クレフとルフィニアを止められなかったこと、アルドワーズを死なせてしまったことをとても悔やんでいた。

「ミハイルが死んだのは、十年前のアルの件があってから、三月後のことでした。北方教会の一番高い塔から飛び降りたのです。―――実際は、ルフィニアに突き落とされたのでしょうね……遺書は発見されませんでしたから」

 ルフィニアが流した噂により、フェーブルの町の緊張は暴動寸前にまで高まっていた。身の危険を感じたクレフは、アルドワーズを殺める決断をする。

 それに反対して他の解決策を探し続け、人々との対話を諦めなかったのがミハイルだった。彼は最後までアルドワーズを庇い、なんとかして人々の誤解を解こうとしていた。

「もちろん、ミハイルにはなんの責任もありません。病魔を殺せと迫る町の人々が怖くなった私が勝手に、アルを殺めたのですから。それでも何度も謝られましたよ。君に手を汚させてしまった、すまない、と……」

 悲しげに息をつくクレフの瞳は、ここではないどこかを見ている。柔らかい菫の双眸には当時の光景が映っているのかも知れない。

「先生は何も悪くないじゃないですか。悪いのはルフィニアです」

「彼女のしたことは許せませんが……私もまた、許されません」

「どうしてですか? クレフ先生は……」

「私は、ルフィニアがロウを殺したと知って、ほっとしてしまった。安心してしまったんです、自分のせいではなかったと。……そんなことはないのに」

 自分がアルドワーズを手に掛けなければ、ミハイルはああまで思い悩むことはなかった。ルフィニアにつけ込まれるような隙を作ることはなかったと、クレフは語った。私が逃げなければ、と独白のように呟く声は掠れていて、後悔の深さを物語っているようだった。

「思えばこの十年、私はずっと楽になりたい一心で生きてきたのかも知れません。罪の重さに耐えきれずに逃げて……でもロウを追う勇気もなくて、ただ楽になりたかった……」

 まるで自分など死んでしまえばよかったとでも言うようなクレフの手を、セルカは身を乗り出して掴んだ。どうしてこの優しい人が、ここまで苦しまなければならないのかと思う。

「わたしは、クレフ先生に助けて貰いました。先生がいなかったら、わたしは十年前、顔も知らない親戚一族を恨んで呪って死んでいました」

「セルカはそんな子じゃありませんよ」

「わたしがそんな子じゃないとしたら、先生にそういうふうに育てて貰ったからです」

 クレフは僅かに目を見開いた。反駁がくる前にセルカは続ける。

「わたしだけじゃなく、ここの子はみんな先生に救われました。今わたしたちがここにいるのは、クレフ先生のおかげなんです。みんな、先生に感謝していて、大好きで……だから、お願いです。クレフ先生を否定しないでください」

 クレフは束の間無言でセルカを見つめたが、やがて泣きそうに顔を歪めるとセルカを引き寄せて抱き締めた。

「!?」

「―――…」

 耳元で囁かれた言葉は、低すぎてセルカには聞き取れなかった。

「ありがとう。セルカに話して良かった」

 クレフの腕に中にいたのが長かったのか短かったのかわからないが、セルカが動けないうちにクレフは身体を離した。そして、透明な微笑みを浮かべる。一拍置いて状況を理解したセルカは、一気に耳まで熱くなるのを感じながら頭を下げた。

「こ、こちらこそ!」

 クレフが声を立てて笑い、ますます恥ずかしくなってセルカは立ち上がる。

「長々とすみません。そろそろ休んでください。あんな大怪我したんですから、一日二日じゃ治りませんよ」

「傷はアルに治して貰いました」

「体調の話です。夕ご飯はお持ちしますから、寝ててください」

「……では、今日は甘えます」

「ええ、そうしてください。退屈だからって本を読んだり、お仕事したりしちゃ駄目ですよ」

 釘を刺し、セルカはクレフの部屋を出た。思い出したように早鐘を打つ心臓を落ち着かせるために、片手を胸に当てる。

(……いや。いやいやいやいや、これは、そう、他意はないはず。家族的な何かよ、うん。そうに決まってる)

 深く考えないことにして、少々早いが洗濯物を取り込もうとセルカは裏庭に向かった。

「クレフとの話は終わったのか?」

「ええ、終わっ……」

 アルドワーズに声をかけられて振り返ったセルカは、ぎょっと目を剥いた。

「ど……どうしたのよその頭!」

「邪魔だから切ろうかなって」

「切ろうかなって、じゃないわよ!」

 腰まで届くほど長かったアルドワーズの黒髪は、肩の上で無残に切り落とされていた。あまりこだわりはないらしく、本人はいたって淡々としている。

「うん、自分でやろうってのは無茶だと思った」

「もう……言ってくれれば切ったげるのに」

「セルカが?」

「小さい子たちの散髪はわたしがしてるのよ。だから慣れてるわ」

「そうか。じゃあ頼む」

「ええ、いいわよ。……って言うかあなた、出歩いて大丈夫なわけ?」

 大怪我したのはアルドワーズも同じだ。しかも、彼の傷は比喩でも誇張でもなく致命傷だった。いくら治るのが早いとはいえ、あれだけ血を流してただで済むはずがない。

 しかし、当の本人は平気な顔で胸元を―――傷があったであろう場所を撫でる。

「もうなんともない。言っただろ、頭を潰されるまで俺は死なない」

「そういうことじゃなくて。今日くらいは大人しくしてなさいよ、傷は塞がっても出血はなかったことにできないって言ったのアルでしょ。あとで、お薬湯とご飯持っていくから。そのときに髪も整えてあげる」

 アルドワーズは迷うような素振りを見せたが、やがて頷いた。

「わかった。……すまなかったな」

「何が?」

 謝られる理由が思いつかず、セルカは首をかしげる。するとアルドワーズは複雑そうな顔になった。

「いや……いろいろ。眠らせたり、攫ったり、嘘ついたり」

 言われて一連の諸々を思い出し、そうだったとセルカは顔を顰めた。狂言だと知るまで胸が潰れるような思いをしたが、一日経って、全員無事だったのだからもういいと思えるようになった。第一、セルカもアルドワーズを殺しかけたのだ。

「……わたしも、ごめんなさい」

「何が?」

 同じように首をかしげるアルドワーズに、セルカは笑んで見せる。

「みんな無事だったからいいわ。悪いと思ってるなら、ちゃんと休んで身体を治して。部屋で大人しくしててね」

「あ、そうだセルカ」

 踵を返しかけたセルカは呼び止められて足を止めた。

「さっき、町長が来たんだ」

「イベリスさんが? 何の用だったの?」

「謝られたよ。病魔扱いして悪かったって。セルカかクレフと話したかったみたいだけど、二人とも取り込み中だって言ったら、また日を改めるそうだ。伝言を頼まれた」

「なんて?」

「ルフィニアが出て行ったって」

 もたらされた報せにセルカは息を飲んだ。

 イベリスは謝罪かたがた挨拶にきたのだそうだ。ルフィニアがすべて白状し、アルドワーズの疑いは晴れたという。喋るだけ喋り、イベリスたちが呆然としている間に荷物を纏めて逃げるように町を出て行ってしまったらしい。

「何よそれ。イベリスさんよりもルフィニアがアルに謝るべきだわ! 人を殺そうとしといて、自分が死にそうになったらさっさと逃げるなんて」

「んー……俺は別に。それより、ルフィニアはもうシスターできないんじゃないか。あの分だと、余罪が山ほどありそうだ」

「そっか、アルの暗示ね?」

「ああ。嘘を封じて、これまでのことを全部話すように」

 広場でアルドワーズがセルカを眠らせたように、霊廟で彼はルフィニアの目を覗き込んでいた。視線を合わせてかける暗示なのかも知れない。

「じゃあもう教会にも帰れないかも知れないわね。今までの悪事全部喋っちゃうんでしょ。アルの暗示って、どれくらいで切れるの?」

「さあ? 個人差があるだろうからなんとも。本当に洗い浚い喋るなんて、ちょっと暗示が効き過ぎた感じだな。一生解けないかも」

 それならそれでいいとでも言うように、アルドワーズは首を竦めた。セルカも、そのほうがむしろルフィニアのためではないかとすら思う。嘘で塗り固め、他人をおとしいれ、時には殺めてまで聖女になるだなんて、絶対に間違っている。今でも聖人と崇められている人々の中に、そうなろうとしてなった人は一人もいないだろう。

「それと」

「他にもあるの?」

 聞き返すセルカに、アルドワーズは微かに悪戯めいた笑みを浮かべて声を潜めた。耳元で囁く。

「余計なお世話かも知れないけど、クレフはもう二、三押しで落ちると思うぞ」

「……な」

「それじゃ、今日は大人しくしてるよ」

 言い置いてアルドワーズは廊下を歩いて行った。残されたセルカは無意味に口をぱくぱくと動かしてから、頭の先まで血を上らせた。両手で頬を挟んで、逃げるように小走りで台所へ向かう。

(いきなりなんなのよ、もう! あとで丸刈りにしてやろうかしら)

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