四章 3-3

 彼の背後にはルフィニアが立っていて、右手には赤黒く汚れた短剣を握り、両手も同じ色に染まっている。

 倒れたクレフの左脇腹から暗い染みが広がって、あっという間に床にまで溢れる。

「先生……先生! クレフ先生!」

 セルカは両膝をついてクレフの傷を押さえた。意識こそあるようだがクレフの呼吸は浅く速く、流れ出る血は止まらない。

「先生、しっかり……きゃっ!」

 襟元を掴まれて引き倒され、セルカは小さく悲鳴を上げた。目の前を緋色の刃が過ぎり、息を飲む。クレフが引っ張ってくれなかったら、喉元を切られていたかも知れない。

「まだそんな元気がおありとは。さすがですわ、リートス様。愚かで優しいリートス様」

 歌うような口調で言うシスターを見上げ、セルカは叫ぶ。

「どうして!? どうして先生を!」

「静かになさい。はしたないと何度言えばわかるのかしら」

「あなたの思うとおりになったじゃない! それなのに……!」

「目撃者は消さなければ」

「……え?」

 ルフィニアはにっこりと笑みを浮かべた。あまりのことに言葉を返せないセルカを余所に続ける。

「大切な娘を病魔に攫われ、リートス様は奪還に向かいましたわ。けれど刺し違えてしまいましたの。憐れ、娘も病魔に殺されたあとでした。わたくしは病魔に止めを刺して、町を救いますのよ」

 血染めの短剣を手に微笑むシスターが理解できず、セルカは恐怖すら感じつつゆるゆるとかぶりを振った。人を刺しておきながら笑っていられるのが信じられない。

「ど……どうしてそんなことが思いつけるの? 本物の悪魔はあなただわ!」

「言葉に気を付けなさい。あなたの前にいるのは、聖女になる人間でしてよ」

 芝居がかった仕草で両手を広げ、ルフィニアは愉快で堪らないといったふうに喉の奥で笑う。その表情がセルカには魔物のそれに見えた。

「まあ、ここで死んでしまうかたには関係ありませんわね」

 世間話でもしているかのように言って、ルフィニアは笑んだまま短剣を振り上げる。クレフだけは守らなければとセルカは両腕を広げた。しかし、服の裾を引っ張られる。

「先生?」

「愚か……で、優しい……だと」

 掠れ声で言い、クレフは力なく咳き込んだ。薄く開いた唇から朱色が散る。

「駄目です、先生! 喋らないで!」

「まさ、か……ミハイルを……殺し……」

 ルフィニアが手を止めた。クレフを見下ろして笑みを深くする。

「誤解ですわ。ふふふ、わたくしはあのかたの背中を軽く押しただけ」

「貴様……!」

「ご安心くださいませ、ミハイル神父にはすぐに会えますわ。よろしくお伝えくださいね」

 再び振り上げられたルフィニアの短剣を、背後から誰かが掴んだ。

「そこまでだ」

 降ってきた声はよく知ったもの、セルカは目を見張る。ルフィニアも笑顔を凍り付かせ、身体ごと振り返る。

「な……何故……」

「ったく、死体を刺すかよ。死ぬほど痛かったぞ」

 いとも簡単にルフィニアから短剣を取り上げたアルドワーズは、空いている方の手で胸元をさすった。彼の上半身は、服の元の色がわからないくらいに血を吸ってしまっている。

「セルカの言う通り、悪魔みたいな女だな。発想がもう駄目だろ、人として」

「あ……あ……」

 勝ち誇ったような笑顔から一転、真っ青になったルフィニアはよろめくようにアルドワーズから離れた。

「何故、動いて……確かに、心臓を……」

 短剣を弄びながら、アルドワーズが唇の端をつり上げる。

「本物の化け物を見るのは初めてか? あんたが化け物にしようとした相手は、あんたが思ってた以上の化け物だったってわけだ。残念だったなあ」

「ひっ……」

 アルドワーズが短剣を向けると、更に後退あとずさったルフィニアは足をもつれさせて尻餅をついた。アルドワーズは無造作に彼女に近付き、目線を合わせるようにしゃがむ。そして、目の前に血で汚れた短剣を翳す。

「他人を殺そうとしたんだから、自分も殺される覚悟はあるよな」

「い、いや……こないで……殺さないで」

「今のあんたと同じように命乞いした人間を、何人殺してきた? 聖女になりたいだなんて、どうしようもない目的のために」

「いや……いや、いや! お願い、殺さないで、殺さないで! 死にたくない! 殺さないで!」

 手足をばたつかせながら必死の形相で叫ぶルフィニアを束の間見つめ、アルドワーズは大きなため息をついた。ルフィニアの喉元に短剣を突き付け、恐怖に見開かれた瞳を覗き込むようにして言う。

「いいだろう、今回だけ見逃してやる」

「ひ……」

「ただし、たった今からおまえは嘘がつけなくなる。過去にいつわったことも全部喋ってしまう。いいか? これから先、一度でも嘘をついたら今度こそ殺すからな。よく覚えておけよ」

 蒼白になったルフィニアは壊れた人形のようにがくがくと頷いた。アルドワーズは霊廟の出入り口を指差す。

「じゃあまず、今すぐ役場に行って、町長たちに洗い浚いぶちまけてこい。逃げるなよ。化け物から逃げられると思うな。―――行け」

 ルフィニアは情けない悲鳴を上げ、転がるように霊廟を出て行った。短剣を放り投げて、戻ってきたアルドワーズがセルカの傍らに膝をつく。彼の様子は、血まみれで倒れていたとは思えないほど普段どおりで、セルカは半ば呆然とアルドワーズを見た。

「アル……」

「話は後だ。まずはクレフを」

 問おうとしたセルカを制し、アルドワーズはクレフの傷の上に片手を置いた。そして、眉を顰めてセルカを見る。

「悪い、ちょっと血をくれ」

「え?」

 いいとも否とも答える前に、顔を寄せたアルドワーズがセルカの頬から何かをめとった。ぴりっとした痛みが生じて、傷を―――血を嘗められたのだと察する。

「な……」

 すぐに離れたアルドワーズの双眸は、いつもの暗褐色ではなく、血のような深紅に変わっていた。

 状況が飲み込めず、左の頬を押さえて硬直しているセルカを余所に、彼は俯き加減に顔を伏せて目を閉じた。そのまま二呼吸、クレフに触れている掌がぼんやりと光り出した。やがてクレフの呼吸が少しずつ穏やかになる。

「ん……」

 微かに呻いてクレフは身動みじろぎをした。手を退けたアルドワーズが心配そうに覗き込む。

「痛むか?」

「いいえ……」

「まだ動くな。傷を塞いだだけだ」

「……十分です」

「駄目だって。出血はなかったことにできないんだから」

 止められたのにも構わず、クレフは起き上がってしまった。アルドワーズは仕方なさそうにその背を支える。クレフの頬にも唇にも血の気がなく、セルカは思わず彼の手を取った。氷のように冷たいそれを、両手で包んで温める。

「せん、せい……」

「すみません、セルカ。辛い思いをさせてしまいましたね」

 セルカはかぶりを振った。頭を撫でられて、じわりと目の前が滲む。それを誤魔化すために俯き、クレフの手を強く握った。握り返してくれるのが堪らなく嬉しい。―――永遠に失ってしまうかと思った。

「アルも。……あなたは、化け物になりたくないと言っていたのに」

「俺の矜恃よりクレフの命が大事だろ」

「……ありがとう。傷は大丈夫ですか?」

「もう治った。それより、自分の心配しろよ」

「ええ、驚きました。まさか刺されるとは。セルカは、怪我はありませんか?」

 今声を出すと一緒に涙も出てきそうで、セルカは唇を結んだまま何度も頷いた。クレフも頷いて小さく笑う。

「よかった。まったく、アルがセルカを連れ去ったときはどうしようかと思いましたよ」

「仕方ないだろ。セルカを殴るわけにはいかないし、あのままだと俺の仲間だって思われるだろうし、シスターを張り倒しそうな顔してたし」

「それはそうですが、眠らせるだけでよかったのでは? 傍目には面妖な術をかけられたように見えます」

「悪役ってのは、お姫様を攫うものなんだろ?」

「一体何を参考にしたんですか、あなたは。セルカに万が一のことがあったら、簀巻すまきにして西の大河に流すところでしたよ」

「……案外武闘派なんだな君は」

「これでも昔は訓練を積みましたからね。教会を離れてからは怠けてばかりで、随分なまってしまっていますが」

「鈍ってさっきの動きかよ……怖い怖い」

「そう、もう一つ。私の血ではいけませんでしたか? セルカのではなく」

「クレフの傷を治すのに、俺を介すとはいえクレフ自身の血を使うのはどうかと思って。てか、それくらいいだろ。過保護すぎやしないか、先生」

「心外ですね。過保護とはまた違うでしょう」

 二人のやり取りを聞いているうちに涙も引っ込み、セルカは彼らを交互に見た。

「あの……まさか、もしかして、今日の騒ぎって……実は全部、狂言……?」

 問えば、クレフは芝居がかった仕草で額を押さえた。

「ああ、いけません。血を流しすぎたせいでしょうか、くらくらしてきました」

 クレフは話す気がなさそうなので、セルカはアルドワーズを睨む。すると彼も額を押さえて目を逸らした。

「俺も刺された傷が……」

「アルが刺されたのは胸でしょうが!」

 声を上げ、しかし二人が命に関わるような大怪我をしたのは間違いなので、セルカは矛先を引っ込めた。

「わかりました、帰って休みましょう。元気になったら全部話して貰いますからね」

 クレフは困ったように眉を下げる。

「目下の問題は、この格好でどうやって子どもたちに異変を気付かれずにやり過ごすかということですね」

 二人とも、比喩ではなく血塗れである。彼らの姿を見た子どもたちが泣き叫び、孤児院中が大騒ぎになるのが目に浮かぶようで、セルカは頭を抱えた。

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