二章 1-2


 短剣を机に置いてアルドワーズの背後に回り、セルカは髪を解きにかかる。

「懐かれたわね」

「そうかな?」

「そうよ。怖いと思ってる人の髪を弄りたいなんて思わないでしょ」

「セルカとクレフが普通に接してくれるからだろ。二人が信頼されてるから、子どもたちも警戒しないでくれる」

「それだけじゃないわ。子どもってさといんだから」

 無論、周囲の大人の影響はあるだろうが、子どもの本能的な直感は侮れない。特に、危険を察知する能力は大人を遙かにしのぐ。

「それとね、いくら子どもたちがねだっても、断っていいのよ?」

「髪の毛を弄られるくらいなら実害はないから、別にいいよ」

「あんまり甘い顔してると、今度は切ったげるって鋏持ち出されて丸刈りにされるわよ」

「……それは困る」

「でしょ? 駄目なことは駄目って言って。子どもたちのためにもね」

「わかった」

 返事をしながら、アルドワーズは小さく笑った。そして、世間話の延長のように言う。

「クレフは、北にいたのか?」

「北って、なんの?」

「教会」

 短く答えてから、さすがに言葉足らずだと思ったのか、セルカがよほど怪訝そうな顔をしてしまったのか、アルドワーズは説明してくれる。

「大陸中央部のシルズ地方にアサーティ教の総本山があって、そこから見て北、南、西にそれぞれ大教会がある。通称、三方教会だ」

「それは知ってるけど」

 アサーティ教は広く信奉されているので、信者でないセルカも多少の知識はある。東に大教会がないのは、太陽神であるアサーティが生まれた方角だから、という理屈だったはずだ。

「聖印は共通だが、総本山と三方教会にはそれぞれ特有の文様がある。武具や道具に刻まれて、どこの教会所属かってのを表すための。短剣、クレフから貰ったんだろ? 柄の聖印は削られてるけど、鞘の文様が北のものだ」

 セルカはアルドワーズの髪を解く手を止め、短剣を取り上げた。確かにアルドワーズの言う通り、短剣の鍔の中央には大きな傷が付いている。しかしこれはセルカがこの短剣をクレフに貰ったときからのもので、あまり気にしたことはなかった。

「大抵は教典に出てくる動物とか植物とかが模られてる。北は、鳩と葡萄」

「この細工にそういう意味があったの……詳しいのね、アル。わたし、総本山と三方教会にそれぞれ文様があるのも、それがなんなのかも知らなかったわ。ただの飾りだと思ってた」

「よっぽど熱心な信者じゃなきゃそんなもんだろ」

「アルだって敬虔けいけんな信者には見えないわよ」

「俺は……、長いこと流れているから」

 そんなものだろうかと思い、セルカは短剣を机に戻した。髪を解くのを再開する。

「クレフは教会の人間なんだな」

「ええ、昔はそうだったみたい。今は違うって」

「教会にいたときは何をやってたんだ?」

「さあ……知らない。神父さまか何かじゃないの? 先生、昔の話はあんまりしたがならないから」

 幼いセルカはクレフのことを知りたかったので、根掘り葉掘り尋ねたが、そのたびに上手くはぐらかされた。セルカも長じるにつれ、クレフは覚えていないのではなく話したくないのだと言うことがわかってきて、いつしか訊くことはなくなった。ゆえに、今に至るまでクレフの過去は謎のままだ。

 会話が途切れたが、手持ち無沙汰なのか、アルドワーズが再び口を開いた。

「立ち入ったことを訊いてもいいか」

「何?」

「傷痕、どうしたんだ?」

 セルカは再び手を止めた。今日何度目か頬が熱くなるのを感じつつ、ぐいとアルドワーズの髪を引っ張る。

「痛い」

「見てないなんて言って、結構しっかり見てたんじゃないのよ」

「いや、そんなにしっかり見たわけじゃない。ちらっと、うっすら、ぼんやり」

 妙な弁解がおかしくて、セルカは吹き出した。先程の短剣はよほど痛かったらしい。

「昔……ちょっとね。なかなか消えないの」

 セルカの左肩から胸にかけて、古い傷痕が残っている。もう十年も前のものだが、少し薄くなっただけだ。もしかすると、一生消えることはないのかも知れない。

「痛まないのか?」

「今はなんともないわ。小さい頃のだもの」

「小さい頃にそんな大きな怪我、命に関わるんじゃないか」

「ええ、一時は危なかったみたい。……わたしは運が良かったの。クレフ先生に助けて貰えたんだもの」

 努めて普段通りに返しながら、思い出してしまってセルカは唇を引き結んだ。

 十年前、セルカは両親を立て続けに亡くした。両親が経営していた農場は、表向きセルカが継ぐことになったが、当然ながら幼児に経営能力などなく、遺産や農地、土地屋敷は、使用人やどこからか湧いて出た自称親戚に全てとられてしまった。両親に子はセルカしかおらず、若かったので後継者が決まっていなかったのも悪い方へはたらいた。

 血縁からセルカの引き取り手は現れなかったどころか、将来的に相続の正当性を主張されることを懸念してか、命まで狙われた。

 大怪我を負って死にかけていたところを、たまたま通りかかったクレフが助けてくれたのだ。

「クレフ先生に見付けて貰えなかったら……、わたしは今ここにいないわ」

 これは大袈裟ではなくそう思う。それだけの傷だった。

 そして、セルカがクレフに救われたのは、命だけではない。

 心優しいクレフは、泣いている子どもを放っておけなかったのだろう。セルカの面倒を見るために留まってくれて、神父も管理する人間もおらずに殆ど廃墟と化していた教会は修繕され、いつの間にか弟や妹が増えていた。

 自分と会わなければ、クレフは教会を辞めることも、こんな田舎に留まることもなかったのではとの考えは消えない。しかし、クレフに後悔していないか尋ねる勇気は出ないままだ。悔やんでいると言われるのが怖い。

(……ううん、先生はそんな人じゃないわ)

 落ち込みかけたセルカは意識して思考を断ち切った。

 最後の一房を解き終えたセルカは、ぽんとアルドワーズの肩を叩き、明るい声を作って言う。

「はい、全部解けたわよ」

「ありがとう。助かった」

 自由になった頭を振り、アルドワーズは立ち上がった。手櫛で髪を纏めながら振り返る。

「台所の掃除は終わったのか?」

「ええ。わたしも礼拝堂を手伝うわね。終わったら一休みしましょ。イベリスさん……町長さんに美味しそうなお茶を貰ったの」

「ああ。お嬢さんって呼ばれてたな」

 セルカは驚いてアルドワーズを見上げた。

「……やだ、聞いてたの? どこで?」

「孤児院の敷地内ならどこにいても大体は聞こえる。耳がいいんだ」

「どんな耳してるのよ。忘れてちょうだい」

 町には、未だにセルカを「お嬢さん」と呼ぶ者がいる。イベリスもその中の一人だ。やめて欲しくて毎回伝えているのだが、なかなか改めてくれない。セルカの両親に恩があるのだ、だからセルカをおろそかにはできないというのが彼らの言い分なのだが、そんなことを言われても、というのがセルカの正直な気持ちだ。

 両親は生前、学校や診療所などに多額の援助をしていたため、町の人々は総じてセルカに同情的だった。おかげでセルカは町を追い出されずに済み、農場は人手に渡ってしまったが、使用人も親族もいつの間にか消えていた。それまで町に存在しなかった孤児院を開いたクレフの力も大きい。

「さ、早く大掃除終わらせてお茶にしましょう」

「ああ」

 部屋を出ると、クレフと鉢合わせた。

「おや、こちらでしたか」

「あれ、先生。町長さん帰ったんですか?」

「いいえ、まだです。セルカ、そのイベリスさんがお話しがあるとのことなんですけど、今、少し時間はありますか」

 話とはなんだろうと戸惑いつつ頷けば、クレフは応接間の方を示した。

「ではこちらへ」

「はい」

「俺は礼拝堂の掃除に戻る」

「ええ、お願いします。―――アル、礼拝堂はこちらからのほうが近いですよ」

「……うん」

 アルドワーズは素直にクレフに従い、示された方向へ歩いて行った。また迷子になるのではと心配になりつつ、セルカはクレフについていく。

 部屋に入ると、イベリスが腰を浮かせて会釈をした。

「ああ、どうもお嬢さん」

 またお嬢さんと呼ばれて、セルカは訂正するのを諦めた。ここまでくると、わざとというよりは無意識なのかも知れない。

「お話しがあるって聞きましたけど……」

 セルカとクレフが座るのを待ち、イベリスは口を開いた。

「急な話で申し訳ないのですが、セルカお嬢さんに『花の娘』をやっていただきたいのです」

「は?」

「花の娘」

「いえ、今の『は』はそうではなくて」

 祭の始まりに聖女フロルティアへ花冠はなかんむりを捧げる役で、若い未婚の女性が勤めるのが「花の娘」だ。「花の娘」が一人、それを補佐する十歳前後の少女「花の子」が数人、町の住民の中から選ばれる。綺麗な衣装を着られるのと、「花の娘」は花冠を、「花の子」たちは花綱を持って行進するのとで、この国の女の子であれば誰もが一度は憧れる。

「今年の『花の娘』はイベリスさんの娘さんに決まりましたよね?」

「そうなんですが、実は、うちのアベリアが今朝から熱を出しておりましてな」

「え……熱だなんて、大丈夫ですか?」

 セルカが瞠目して言うと、心配するなと言うふうにイベリスは片手を振った。

「おそらく風邪でしょう。安静にしておりますので大事はありませんよ」

「お大事になさってください」

「ありがとうございます。様子を見て、回復すればと思っていたのですが、やはり駄目のようでして。明日の『花の娘』役は辞退させて貰うことにしたのです。『花の娘』が病だというのは縁起が悪いですからな」

「そうですか……残念ですね」

「それで、あまり公にせずに代理のかたをと思いまして。私にはお嬢さんしか心当たりがないのですよ」

 それは嘘だろうとセルカは思う。仮にも町長という立場にありながら、未婚の女性の心当たりがセルカ一人のはずがない。選出方法は知らないが、有名人や名士に近しい少女が選ばれるのは暗黙の了解である。現に、今年は町長の娘だ。

(なんでわたしなのかしら……あんまり目立ちたくないのに)

 「花の娘」と「花の子」は当然、見物の人々からは注目を浴びる。想像しただけで緊張しそうになって、セルカはかぶりを振った。両親が死んだときの悶着を思うと、自分はあまり人々の前に出ない方がいい気がするのだ。

「お話はありがたいですけど、わたしには分不相応……」

「いいじゃないですか、セルカ。年に一度のことですし、穴を開けるわけにもいきません」

 思わぬ方向から勧められ、驚いてクレフを見る。

「先生まで、何言ってるんですか!」

「役者として舞台に上がれと言われているわけでもなし。セルカも言ってたじゃないですか、大きくなったら『花の娘』になりたいと」

「そりゃ、この国の女の子ならみんな憧れますよ。……イベリスさん、どうしてわたしに直接言ってくださらなかったんですか」

 軽く睨めば、イベリスは恐縮した様子で禿頭を撫でた。

「お嬢さんは遠慮なさると思いまして、先にクレフ先生に。お願いします。もうすぐ打ち合わせが始まってしまうんですよ」

 外堀から埋めにきたらしい。

「そんなこと言われても……女の子は他に沢山いますし、公にしたくないなら、そう頼めば騒ぐ人はいないと思います」

「今から過去の記録を引っ張り出して、まだ『花の娘』をやっていない女の子を捜すのはちょっと……時間的にも厳しいんですよ」

「私からもお願いです、セルカ。あなたが『花の娘』をやれば、子どもたちも喜ぶでしょうし」

 クレフへ視線を戻すと、彼は小首をかしげてにこりと微笑む。これは絶対に折れない顔だとセルカは肩を落とした。

(……先生はお見通しなのよね、きっと)

 目立たない方がいい、衆目にさらされない方がいいというのは、セルカが頭で考えたことだ。そういった諸々に目を瞑れば―――瞑っていいのならば、文字通り降って湧いた「花の娘」役に飛びついていただろう。セルカも幼い頃、フロルティア祭で「花の娘」や「花の子」を見て、自分も大きくなったらと夢見たことがある。

 そしてクレフは、セルカが本当に嫌がることを無理強いすることはない。しばし無言で考えて、セルカは頷いた。

「……わかりました、取り敢えず打ち合わせに行って話を聞いてきます」

 イベリスはぱっと顔を上げ、嬉しそうに手を擦り合わせた。

「いやあ助かります、ありがとうございます。では、早速ですが集会所へご同行願えますか」

「はい。……行ってきます、先生」

 セルカの胸中を知ってか知らずか、クレフはにこにこと頷く。

「行ってらっしゃい。明日を楽しみにしていますね」

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