四章 2
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今日の買い物は、クレフが街に用事があるからと申し出てくれた。一通りの家事を終えてぽかりと時間が空き、今からイベリスを訪ねようか考えながら廊下を歩いていると、エルネスと行き合ってセルカは首をかしげた。エルネスはようやく病から回復し、今日から仕事に行っている。こんなに早く帰るはずはない。
「あら? お帰りなさい。早かったのね、エルネス」
「あ、ああ……、病み上がりだから早く帰っていいって、店長が」
エルネスの様子は気まずげで、きっと店長は病み上がりを気遣ってくれたのではないのだろう。心配させまいとしているのに胸が痛み、セルカは気付かないふりをして務めて明るい声で返した。
「そう、よかったわね。お茶飲む? 淹れてあげる」
親切のつもりだったのだが、エルネスは渋いものでも口に含んだような顔になった。
「……なんか、セルカ
「失、礼、ね。ついでよ、ついで。要らないならいいわ、わたしのだけ淹れるから」
「嘘、嘘です。俺も飲みたい」
「まったく、最初から素直に言いなさいよね」
「なんか静かだね。みんなは?」
「話を逸らさない。まったく」
セルカはエルネスの腕を軽く叩く。
「小さい子たちはユーリエと部屋でお絵描きしてるわ。アルはどっかに出掛けてて、クレフ先生は買い物……」
言葉の途中でガラスの割れる音が聞こえてセルカは振り返った。エルネスも眉を顰める。
「……なんだ、今の」
「表の方で何か割れたみたいだったけど……礼拝堂かしら」
音の方向から礼拝堂へ当たりをつけて行ってみれば、入り口脇の窓が割れている。破片と一緒に、拳大に紙を丸めたものが落ちていて、セルカはそれを拾い上げた。開いてみると中身は大きな石で、紙には「死ね化け物」と殴り書きしてあった。
「―――…」
紙を握り潰し、セルカは外へ飛び出した。
「セルカ姉!」
「誰!? 文句があるなら直接言いにきなさいよ!」
「危ないって、中入ろう」
「何が危ないの、わたしたちは隠れなきゃいけないことは何もしてないじゃない」
「そうだけど、でも」
途中で口を噤んだエルネスが瞠目して、なんだろうと振り返ったセルカは息を飲んだ。
「エレナさん……ミリアちゃん」
門柱の傍に立っている二人は喪服を纏っていた。血の気がなく幽霊のようなエレナと、今にも泣き出しそうなミリアに、以前の明るく笑っていた面影はない。
「お姉ちゃん、帰ろう? ね?」
縋り付くミリアを押しのけ、エレナがよろめくように数歩進む。赤子はまだ生まれていないらしく、お腹が大きい。会わなかったのは半月足らずなのに頬がげっそりと痩け、充血した双眸だけがぎらついて、セルカは
「いるんでしょ、病魔。出しなさいよ」
「お姉ちゃんってば!」
「早く出して、話があるの」
「……ここに病魔はいません」
セルカが首を左右に振ると、エレナはかっと目を見開いた。激昂して声を上げる。
「ここにいるって聞いたのよ! 出しなさいよ!」
「いいえ、病魔なんて……」
「返して、あの人を返して! 今まで病気したことないのが自慢だったのに、病気で死ぬはずないじゃない! 病魔のせいに決まってる! 早く連れてきて!」
「病魔なんていません」
「嘘つき! もうばれてるんだから! 匿ってるんでしょう、恥知らず! 裏切り者!」
一方的に罵られて、セルカの中で何かが弾けた。無意識に胸の前で握り合わせていた両手を解き、振り下ろす。
「わたしたちは何も裏切ってない! 誰かに恥じなきゃいけないようなことは何一つしてないわ!」
「……っ」
言葉を詰まらせたエレナは見開いた瞳でセルカを凝視し、青ざめた唇を引き結ぶ。
「大声出してごめんなさい。……ご主人のことは、お悔やみを申し上げます」
セルカが頭を下げると、エレナはくしゃりと顔を歪めて両手で覆った。細い嗚咽を漏らして震える肩を、ミリアが抱く。
「お姉ちゃん、帰ろうよ……あんまり無茶すると、お腹の赤ちゃんまで……」
ミリアの語尾は涙に滲んだ。エレナが微かに頷き、姉妹は支え合うように離れていく。
角を曲がる手前で振り返ったミリアと目が合った。逸らしては駄目だとセルカは立ち尽くしたまま見つめる。泣き出す寸前の顔をしたミリアは俯いて去って行った。二人の姿が見えなくなって、セルカも顔を伏せる。
(……どうして、こんな)
フロルティア祭の控え室で、エレナは幸せそうに夫のことを話し、ミリアはいつか「花の娘」をやりたいと楽しげに語っていた。ほんの少し前のことなのに、今日の二人はまるで別人のようだった。エレナはセルカに、何も悪いことをしていないのだから堂々としていればいいと言ってくれたのに。
ルフィニアのせいで、とセルカは両手を握り締めた。近しい人を病で亡くしたときに、その原因―――病魔の存在を吹き込まれたら、やり場のない感情が病魔に向かうのは当然だ。失ってしまった相手がかけがえのない存在であればあるほど、悲しみは怒りや憎しみ、恨みへと容易に変わる。
(許せない……)
ルフィニアは、誰かを大切に思う気持ちを利用し、踏みにじる。人を人とも思わない所業に、怒りで震えが走る。できることならば今すぐルフィニアを町から叩き出してやりたい。
「セルカ姉……」
エルネスに心配そうに呼ばれて、セルカは無理矢理笑みを作って振り返った。唇の前に人差し指を立ててみせる。
「大丈夫。今の、みんなには内緒にね。さ、お茶にしましょ」
礼拝堂に戻り、扉を閉めたところでエルネスが口を開いた。
「……あのさ」
「何?」
「俺、セルカ姉が言い返してくれて、ちょっと嬉しかった……かも」
躊躇いがちにぼそぼそと言うエルネスの髪を、セルカは衝動的に両手で掻き回した。
エルネス気遣ってくれるのが嬉しく、凍えていた気持ちが
「うわ、痛て、何すんだよ、やめろよ」
エルネスの一言でやや気分が浮上して、我ながら単純だと思いながらセルカは台所へ向かった。
まだ小さい子どもたちはともかく、エルネスやユーリエは少なからず言葉にできないものを抱えているだろう。早くなんとかしなければならない。まずはイベリスに話すことからだと、決意を新たにする。
「みんなもお茶飲むかしら? エルネス、悪いけど訊いてきて……あ」
言いながらお湯を沸かそうと薬缶を取り上げ、持ち上がったのは薬缶の持ち手だけで、セルカとエルネスは顔を見合わせた。
「あーあ、遂にとれちゃった。薬缶って、これしかないわよね」
「俺はこれ以外の薬缶見たことない」
「んー、仕方ないわね。お鍋で……いや、買ってくるわ。毎日使うものね」
「なんなら行ってくるけど」
「わたしが行く。エルネスは病み上がりを心配されたんだから、休んでて」
エルネスは無言で目を瞬くと、そうだったとばかりに頭を掻いた。忘れていたなと、セルカは苦笑する。
「暇だったらユーリエを手伝ったげてね」
「行ってらっしゃい。気をつけて」
エルネスに見送られ、セルカは予備の財布を持って出掛けた。ついでにイベリスのところへ行こうと思う。
(明日なんて悠長なこと言ってる場合じゃないわ。できるだけ早くルフィニアをなんとかしないと)
相変わらず通りに人は少なく、閉まっている店が目立つ。金物屋が開いているよう祈りながら歩いていると、背後から慌ただしい足音が近付いてきて、数人がセルカを抜き去っていった。それだけならば急ぐ用事でもあるのだろうと気に留めないのだが、今度は向かう方向から逆に走ってくる人々がいる。
(……何かしら?)
街の中心に近付くにつれ人の数は増える。セルカに向かってくる人々は皆一様に怯えた様子で、追い抜いていく人々は殺気立っており、さすがにおかしいと思ったセルカは向かってきた女性を呼び止めた。
「あの、すみません。何かあったんですか?」
「出たのよ、病魔! 広場に!」
「……は?」
「あなたも逃げた方がいいわよ!」
言うが早いか、女性は走って行ってしまった。それをぽかんと見送り、我に返ったセルカは広場の方向を振り返る。アルドワーズではない、そんなはずはないと頭で打ち消しながら、裏腹にセルカは走り出していた。
(アルは病魔じゃないもの、きっと別人よ。そう、本物の病魔が出たのかも)
広場には既に人だかりができていて、中央にある記念碑を中心に半円に広がっている。セルカの身長では人垣の向こうに何があるのかわからない。
「娘を返して!」
「ちくしょう、おまえのせいで!」
「くたばれ化け物!」
「―――…てください!」
人々の怒号に半ばかき消されていたが、クレフの制止する声が聞こえて息を飲んだ。ではやはり、囲まれているのはアルドワーズなのだ。しかも、クレフも一緒にいる。
「ちょっと……すみません、通して……!」
セルカは
「やめてください、お願いです。この人は病魔などではありません!」
「どいてくれ先生!」
「病気は全部そいつのせいなんだろ!」
クレフの訴えに返るのは怒号ばかりだ。クレフは何度もかぶりを振った。
「違います。流行している病は、誰のせいでもありません」
「邪魔しないで! 先生は騙されてるのよ!」
「まさか、あいつも仲間なのか?」
「そうだ……孤児院からは病人が出てないって聞いたぞ」
「シスターの言う通りだったんだわ!」
「違います。お願いですから―――つっ」
誰かが投げた小石が額に当たり、クレフが言葉を途切れさせる。それを皮切りに、次々と石や木切れが飛び始めた。雨
「やめて! やめてください!
頬に何かが強く当たってセルカはよろめいた。両腕で顔を庇いながらクレフたちの許へ走る。
「セルカ!? どうしてここに」
「先生たちこそ!」
クレフの額には血が滲んでいた。手を伸ばして拭おうとしたが、両肩を掴まれて彼の背後に押し遣られる。
「裏側に回ってお逃げなさい。早く」
「嫌です! 先生とアルも……」
群衆の中にルフィニアの姿を見付け、セルカは瞠目して言葉を途切れさせた。片手で口元を覆い、この騒ぎに衝撃を受けているような顔をしているが、その双眸が氷のように冷静で、一切動揺していないことが窺える。
(全部、あの人の仕業ね……!)
広場にはルフィニアを頼って連日人が集まっている。そこへアルドワーズが通りかかり、彼が病魔だと主張するシスターが人々を煽ったとしたらと想像し、セルカは唇を引き結んだ。彼女を引っ張り出さなければと踏み出そうとしたとき、
「邪魔だ」
呟いたアルドワーズが無造作にクレフの
「がっ……」
「せ……先生! 大丈夫ですか!」
セルカは呻いて
「何するの、アル!?」
アルドワーズを見上げてセルカは声を上げるが、二人の様子など目に入っていない様子で、アルドワーズは肩を揺らして笑い始めた。
「ふふ……ははは……ははははは」
アルドワーズの異様さに、群衆に戸惑ったような動揺が走る。
「な、なんだこいつ」
「気が触れたのか……?」
「ははははは! はーっはははははは!」
どこか狂気じみた忍び笑いは、徐々に音量を増して哄笑になった。
「いいだろう。貴様らの望むとおり、病魔になってやろう!」
人々が戸惑ったようにざわめく。その中に調子の外れた笑声が響いた。
「ははははは! おまえも! おまえも! おまえも! 一人残らず死ぬ! 病で苦しみながら死ぬ! この町は全滅だ!」
別人のようになってしまったアルドワーズを、セルカは呆然と見た。
「アル……何を言って……」
「こんなに集まって、不用心にもほどがあるだろう。それとも頭が足りないのか? 俺を病魔と呼びながら、近付くと死病を貰うとは考えつかなかったのか。
アルドワーズは凄絶な笑みを浮かべる。
広場はつい先程までの騒ぎが嘘だったかのように凍り付いた。刹那の静寂を縫うようにルフィニアが進み出る。
「遂に正体を現しましたね、病魔!」
このときを待っていたとでも言うように、シスターの声は場違いに明るく響き渡った。セルカは拳を握り締める。
「よくも、そんなこと……あなたが―――」
声を上げようとした途中でアルドワーズに胸倉を掴まれ、乱暴に引き上げられた。突然のことに驚いて見開いた目を、暗褐色の瞳が正面から覗き込んでくる。
「な……アル……」
「おまえ、さっきから煩い。ちょっと眠れ」
何をするのだ、ふざけるなと怒鳴り返したかったのだが、唐突に抗いがたい眠気に襲われ、セルカは目を閉じた。
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