一章 3

 3


 翌日。

「セルカおねえちゃん、これでいい?」

 レティシアの手元を覗き込み、クッキー生地が、崩れた人間かねじれた星のようなものを形作っているのを見て、セルカは頷いた。

「うん、いい感じ。もうちょっとだけ平たく作ってくれる? 分厚いと火が通りにくいから」

「ねえちゃん、おれのは?」

「僕のも!」

 腕を引かれ、セルカは両手を挙げた。

「はいはい、順番にね。ホルンもアリエスも、いいと思うわよ。馬と鳥かしら」

「……魚だけど」

「……犬だよ」

「あ、ああ、うんうん、そうね、魚と犬。可愛いわ、どんどん作って」

 孤児院の子どもたちは、総出でクッキーを焼いていた。フロルティア祭の準備はシナモンクッキーを食べながら行うという風習があるのだ。祭の前の数日間は特に忙しくなるので、日持ちのするクッキーを焼いて食事代わりにしたという言い伝えに基づく。

 かまどの方からエルネスの声がかかった。

「セルカねえ、天火の準備できた」

「じゃあ天板に乗ってるのから焼いちゃって。あああ、メルー、そっちは危ないから駄目」

 天火が気になるのか、エルネスに近付くメリアーナをセルカは慌てて引き戻した。抱き上げると、メリアーナは身体をよじる。

「やー、メルーもやるの!」

「あとで。あとで一緒にやろうね」

「やーだー! メルーもー!」

 声を上げるメリアーナの目の前に、ユーリエが成形されたクッキー生地をかざして見せた。

「メルー、熊さんだよ。猫さんもいるよー」

「くまさん? ねこさん?」

 メリアーナの興味が逸れたのを見て、セルカはすかさずクッキーを褒める。

「わあ、とっても可愛い。ユーリエは器用ね。メルー、教えて貰ったら?」

「うん! やる!」

 メリアーナに見えないように、セルカとユーリエは無言で拳を合わせた。今のうちに片付けてしまおうと、セルカは腕まくりをし直す。

 テーブルには、毎回のことだが、器具や粉が散乱している。勿体ないので使えそうな粉は回収し、台布巾でテーブルを拭き、洗い物を纏めて流しに運んだところで、勝手口から工具箱を小脇に抱えたアルドワーズが入ってきた。長い髪は後頭部で至極適当に括られている。長い髪を邪魔そうにしているのを見かねて、セルカが以前使っていた髪紐を貸したのだ。今のセルカは髪を肩につかないくらいにしているので、髪紐は使わない。

 アルドワーズに気付いた子どもたちが全員動きを止め、彼に注目した。無理もないとセルカは思うが、仕事が進まないので注意を引くためにぱんぱんと手を叩く。

「はいはい、みんな手が止まってるわよ」

 子どもたちはちらちらとアルドワーズの様子を伺いながらも作業に戻った。

 全員、アルドワーズとは昨日のうちに顔を合わせている。人を泊めることは滅多にないので、好奇心旺盛な子どもたちは次々に質問をしたが、アルドワーズは良くも悪くも誤魔化さずに、わからない覚えていないと答えた。それは嘘ではなかったのだろうが、子どもたちに不信感を植え付けるには十分だった。

 セルカとてアルドワーズを完全に信用したわけではない。しかし、自分が彼を不必要に警戒していたら小さな子たちもならってしまうと考え、努めて軽い調子で声をかけた。

「アル、外で何やってたの? 今は暇?」

 アルドワーズは子どもたちの様子を気にしたふうでもなく、セルカを見た。

「柵の修理が終わったとこだ。手は空いてる」

「なら、洗い物手伝ってくれない?」

「わかった」

 アルドワーズは頷いて工具箱を隅に下ろした。腕捲りをしながら流しへ向かう。そちらは任せてセルカがテーブルへ向き直ると、アルドワーズを凝視していた子どもたちはぱっと顔を伏せた。その様子がおかしくて笑いながら言う。

「さあ、みんな慌てなくていいから急いでね。お教室が始まる前に焼き上げて小分けにしないと」

 週に一度、クレフは学校に行けない子どもたちを礼拝堂に集めて、読み書きなどを教える教室を開いている。フロルティア祭の前は、教室の子どもたちにもクッキーを配るのだ。

「エルネス! つまみ食いしたら夕飯抜き」

 ぎくりと動きを止めたエルネスは、クッキーを天板に戻して片手を振る。

「やだな、つまみ食いじゃなくて味見だって」

「味見はあとで、みんなでするの。そっちのお皿で冷ましておいて」

 セルカが大皿を指差したところで、昼の鐘が聞こえてきた。町の中央広場に鐘楼があり、朝、昼、晩を知らせる鐘が鳴る。

 じきに子どもたちが集まり出すだろう。とりあえずできた分のクッキーを分けてしまおうかと考えていると、ユーリエの声が聞こえた。

「まだ食べちゃ駄目!」

 取り上げられた生地を追ってメリアーナが立ち上がる。

「ねこさん、メルーの!」

「焼かないと食べられないのよ、メルー」

「だーめー! メルーのー!」

 ユーリエから生地を取り戻そうと、目一杯身体を伸ばしたメリアーナの足下が揺らいだ。踏み台代わりに乗っていた椅子がかしぎ、テーブルにぶつかった拍子に皿が落ちて砕ける。そこへ足場を失ったメリアーナが投げ出された。

「危ない!」

 咄嗟に伸ばしたセルカの両手は空を切った。落ちる、と息を詰めた瞬間、

「……っと。気を付けて」

 床すれすれでアルドワーズがメリアーナを受け止めた。床に下ろされたメリアーナは火が付いたように泣き出す。セルカは安堵の息をつき、しゃがんでメリアーナを抱き締めた。

「大丈夫。大丈夫よ、メルー。びっくりしただけよね。どこも痛くないでしょう?」

 一番先に我に返ったらしいエルネスが、ぱっと身を翻した。

「俺、ほうき持ってくる」

「お願い。―――ありがとう、アル」

「どういたしまして」

 セルカに素っ気なく返し、アルドワーズは食堂を出て行った。セルカは立ちすくんでいる子どもたちに、下がるように手で示す。

「破片は危ないから触らないでね。ライヤ、レティシア、焼けたクッキーを礼拝堂に運んでくれるかしら。アリエスとホルンは、いつもの端布はぎれを持ってきて。四人でクッキーを小分けにしてくれる?」

 無言でこくこくと頷くと、四人は連れ立って出て行った。青ざめたユーリエが泣きそうな顔でセルカを見上げている。

「ご、ごめんなさい……あたしが無理に取り上げたりしたから……」

「ユーリエのせいじゃないわ、メルーを止めてくれてありがとう。焼かないのを食べちゃって、お腹が痛くなったら可哀想なのはメルーだもの」

 微笑み返すと、ユーリエは少しだけ表情を和らげた。箒を片手にエルネスが戻ってくる。

「セルカ姉、俺とユーリエで片付けるよ」

「ええ、お願いしてもいい? 怪我しないよう気を付けてね」

 割れた皿の片付けは二人に任せることにして、セルカは泣き続けるメリアーナを抱き上げて台所を出た。あやしながら廊下を歩いているうちに、泣き疲れたのか、メリアーナはことんと眠ってしまった。きちんと寝かせた方がいいだろうと子ども部屋に向かう。

(怪我がなくて良かった……)

 先程まで大泣きしていたのが嘘のように、メリアーナはすやすやと眠っている。その寝顔を見て、セルカは胸を撫で下ろした。アルドワーズが間に合わず、破片の上に落ちていたらと考えると、恐ろしくてたまらない。

 起こさないように子ども部屋を出て戻る途中、言い争うような声が聞こえてセルカは足を止めた。珍しく、クレフが大声を出している。

「―――…ですか! 腕……血が……!」

 もしやとセルカは声のする方へ向かった。クレフの部屋の前に、目を吊り上げたクレフと、どこか途方に暮れたような顔をしているアルドワーズが立っている。その右腕が真っ赤に染まっていて、セルカは目を見開いた。

「アル! その腕!」

 思わず声を上げると、二人が同時にセルカを振り返る。アルドワーズは袖を肘まで捲っており、セルカはアルドワーズに洗い物を押しつけたことを後悔した。メリアーナを受け止めたときに皿の破片が刺さったに違いない。

 クレフが不思議そうに首をかしげる。

「どうしました、セルカ」

「す、すみません突然。アルの怪我は、メルーを庇ってくれたからなんです」

「メルーを? 一体何があったんですか」

「それが……」

 セルカは食堂で起きたことを掻い摘んで話した。クレフは困ったように眉を寄せる。

「そうならそうと、言ってくだされば……何故話してくれなかったんですか、アル」

「理由なんて意味がない。怪我の原因は俺の不注意だ」

 クレフは悲しげな表情でかぶりを振る。

「次からは理由を教えてください。私は聞きますから」

「うん……?」

 わかっていない顔で目を瞬くアルドワーズへ、クレフは軽く頭を下げた。

「メルーを助けてくださって、ありがとうございます。怒鳴ってすみませんでした」

「そんなのいいよ。すぐ治るし」

「そういう問題ではありません。座ってください、手当をします」

 クレフは扉を開けて言うが、アルドワーズはかぶりを振る。

「だから、すぐ治る……」

「い、い、か、ら、入ってお座りなさい」

 柔らかな表情はそのままに凄味だけを増したクレフに気圧されるように、アルドワーズは示された椅子に座った。血を拭う物を持ってきた方がいいだろうと、セルカは身をひるがえす。

 廊下を戻る途中でエルネスと鉢合わせた。

「セルカ姉、クレフ先生知らない?」

「お部屋にいたけど、何か用?」

「もう子ども集まってるから、呼んだ方がいいかと思ってさ」

「あら、もう? わかったわ、呼んでくるからエルネスは礼拝堂に行ってて」

「先生は俺が。セルカ姉が礼拝堂に……」

 途端に逃げ腰になるエルネスの両肩を掴み、セルカはにっこりと笑んで見せた。彼の身体を反転させ、背中を押しながら言う。

「逃げようったってそうはいかないわよ」

「苦手なんだよ、いっぱい子どもがいるの。知ってるだろ」

「ここで育ったくせに何言ってるのよ。こういうのは慣れよ、慣れ」

「身内は別だって。あ、残りのクッキー焼いといたから」

「ありがと。先生が行くまでよろしくね。絵本でも読んであげて」

「ええー。俺、読み気かせ下手くそだもん。やっぱりセルカ姉が行って絵本読んで、俺が先生を……」

「だーめーよ。大丈夫、エルネスも読むの上手いから。昨夜もわたしの代わりにみんなに読んであげてくれたでしょ」

「だから、身内相手とそうじゃないのとは別だってば。わーかった、行くから押すなよ」

 不承不承、礼拝堂へ引き返すエルネスを見送り、セルカは台所へ向かう。割れた皿は既に片付けられて、流しに中途半端になった洗い物だけが残っていた。あとで続きをすることにして、小さな桶に水を汲み、綺麗な手拭いを浸してクレフの部屋へ戻る。

「先生、もう子どもたちが集まってるみたいです。手当を代わりますから、行ってください」

 クレフは少々迷う素振りを見せたが、器具を置いて立ち上がった。

「では、すみませんがお願いします」

 彼と入れ替わりに椅子に座り、セルカは絞った布をそっとアルドワーズの腕に当てた。

「大丈夫? 滲みない?」

「平気だ」

 固まりかけた血を拭って布をどけると、無傷の皮膚が現れた。

「……ん?」

 布をすすいで拭うのを何度か繰り返し、綺麗になったアルドワーズの前腕には、殆ど傷がなかった。小さな傷は残っているが、これだけで前腕が血まみれになるほど出血するとは思えない。おそらくクレフが抜いたのであろう、机の端に置かれている皿の破片からしても、この程度の傷で済むはずがない。

「傷は……?」

 アルドワーズは答えず、残った傷から何かを摘み上げた。それを破片の上に落とす。目で追えば、かつんと小さな音がした。再び腕に視線を戻すと、傷が全部消えている。

「異物があると塞がらないんだ」

(……そんな、まさか)

 彼が花を枯らすのを見ても、妄想の強い、ただの人だと思っていた―――思い込もうとしていた。しかし、傷の治りが異様に早いのを目の当たりにして、眼前にいる青年がにわかに不気味な存在に思えてくる。

 彼は、本当に違う生き物なのだ。

「あとは自分でできるから、クレフのところに行くといい」

 我に返ったセルカははっと顔を上げ、目が合ったアルドワーズが淡く笑んで、急いで表情を改めた。きっと、否、間違いなく、顔に出てしまっていた。

「あ……ご、ごめ……」

「謝ることはない。違うものを気味悪がるのは当然だ」

 アルドワーズの言い方に諦念めいたものを感じて、セルカは己を棚に上げ、奇妙な憤りを覚える。

 彼は今まで沢山の人間に拒絶され、心ない扱いをされてきたのだろう。セルカも最初は怪しい人物だと思ったし、泊めることには反対だった。

 傷の治りが早いのを、正直不気味だと思う。けれどアルドワーズは、己の腕を傷だらけにしてメリアーナを助けてくれた。

「……ちょっとびっくりしただけよ」

 言い訳のように呟いて、赤く染まってしまった袖を指差す。

「それ脱いで。洗濯しなきゃ」

「今は手持ちの服これしかないんだけど」

「ええ? じゃあ、先生の貸して貰いましょ」

 アルドワーズの方が少々背が高いようだが、着られないことはないだろう。セルカは箪笥たんすから適当に服を引っ張り出してアルドワーズに渡した。

「いいのか? クレフのものを勝手に」

「服がない人に服を貸したことを怒る人じゃないわよ。気になるなら礼拝堂に行って訊いてみるといいわ。洗濯物は洗い場にね」

「……わかった」

 頷くアルドワーズを置いて、セルカはクレフの部屋を出た。桶と手拭いを片付けて、教室の手伝いをしに行かないといけない。

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