一章 2

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 アルドワーズが通されたのは、寝台と箪笥、書き物机と椅子があるだけの質素な部屋だった。あまり広くはないが掃除が行き届いて寝具も清潔そうだ。

「滞在している間はここを自由に使ってください」

 まるでアルドワーズが逗留するような言い方が気になったが、それを指摘する前にクレフは話を進めてしまう。

「私の部屋は左隣です。セルカと子ども部屋は、台所と中庭を挟んで向こう側に」

 奥向きの廊下は回廊になっていて、中央は狭い中庭になっている。礼拝堂と反対側に台所や洗い場などが固まっているのだと、クレフは宙に四角を描きながら説明してくれたが、アルドワーズには今ひとつ飲み込めなかった。どうせ子ども部屋などには行かないだろうからと、頷くだけで聞き流す。

 鞄を床に下ろして振り返ると、クレフが後ろ手に扉を閉めた。

「セルカのことを悪く思わないでくださいね。突然のお客さんに驚いてしまったのでしょう。根は優しくていい子なんです」

「悪くなんて思わないよ。今まで会った人たちに比べれば優しすぎるくらいだ」

 笑顔よりも、奇異を見る目、恐怖や敵意、場合によっては害意や憎悪の込められた視線の方がアルドワーズには馴染み深い。

「いきなり家に招き入れられて、食事までご馳走して貰ったのは初めてだな。俺を庇ってくれても、クレフに―――クレフ先生に得はないのに」

 言い直すと、クレフは僅かに眉を上げてから柔らかく笑んだ。

「クレフでいいですよ。私も、あなたをアルと呼んでも?」

「構わない」

「ありがとうございます。では、アル。得がないと言いましたが、この孤児院にいる大人の男は私だけなのでね、手が回らないことが色々あるんです。たとえば、大きな家具の移動とか、雨漏りの修理とか。それらを手伝って貰おうという魂胆なのかも知れませんよ」

「それくらいやるよ、世話になるんだから。それだけじゃ宿代にも足らないだろ」

「ここは宿ではありませんから」

 何を言っても動じないクレフに、アルドワーズは首をかしげた。

「……信用してくれるのはありがたいけど、無条件にってのはちょっと不気味だ。俺は君の知り合いでもなんでもないのに」

「率直ですね」

 クレフはおかしそうに笑ったが、すぐにそれを消して彼は静かに言う。

「私には、あなたの言うことが嘘や妄想でないと、わかるだけです。知っている、と言った方が近いのかな」

 その根拠を問う前に、クレフはどこからともなく小振りのナイフを取り出した。

「どれくらい要ります?」

「何が?」

「血です」

 なんでもないことのように返されて、アルドワーズは絶句した。クレフは平然と続ける。

「吸い取ることができるのなら、分け与えることもできるでしょう。野薔薇を元に戻して貰うことはできませんか? フロルティア祭が近いので、あれがないと困るのです。私が体調を崩さない範囲でしかあげられませんけど、それで足りるのなら血を差し上げます」

 アルドワーズは、まるで料理のお裾分けのように、己の血をやると言う男をまじまじと見る。淡い金髪が傾いた陽光を反射して、すみれの瞳は真っ直ぐにアルドワーズに向けられている。何度見ても彼の表情からは、戯れや悪ふざけなどは読み取れなかった。

「……君には、俺を助ける義理も理由もないと思うんだ」

「義理や理由が必要ならば、個人的な事情です。私の。―――他に理由が必要であれば、繰り返しになりますが、フロルティア祭に野薔薇が必要だからとお答えします。ご存知かも知れませんが、聖女フロルティアの象徴は、白薔薇ですから。生憎この孤児院には、十分な花飾りを買う余裕がないんですよ」

 事情とやらを明かすつもりはなさそうなので、アルドワーズは追求するのをやめた。

「血は要らないよ。……化け物にはなりたくない」

 独白のつもりで低く付け加えると、クレフは一瞬、虚を突かれたような顔をして、申し訳なさそうに顔を伏せた。

「……すみません。出過ぎた真似を」

「いいや。気持ちだけ貰う。ありがとう」

 礼を告げれば、クレフは小さくかぶりを振る。事情があろうとも親切心で申し出てくれたのだろうから、謝ることはないのにとアルドワーズは続けた。

「食事をさせて貰ったし、一晩休めばあの薔薇を元に戻すことくらいはできると思う」

「そうですか……伝説は所詮伝説ですね」

「完全に的外れってこともないと思う」

「そうなのですか?」

 首をかしげるクレフに、アルドワーズは説明する。

「俺たちは、人間の血を飲まなくても、きちんと食事を摂れば死にはしない。けど、逆も言えるから」

「逆というと、食事をせずとも血を飲めば生きられると?」

「ああ。しかも、普通に食事をしてても一定の周期で物凄い『飢え』がくる。中毒性の強い嗜好品みたいなものだな、人の血は」

「なるほど、麻薬のような」

「そこまでたちが悪くはないけど。禁断症状みたいなのはないし。でも、『飢え』てる間は大体十日前後、何を食べてもずっと空腹感が消えないな。一日中食べ続けられるくらい。で、人間の血を飲めば治まるらしい。だから、我慢できなくなって人を襲った同族が、『吸血鬼』呼ばわりされるようになったんじゃないか? そういう連中は、飢饉ききんが起きても生き残るしな」

 生命の維持には必要がないのに、食べ物だけではどうしても埋まらない「飢え」を感じる度、アルドワーズは自分が人間ではあり得ないことを思い知らされる。誰かは「裏の胃袋」と呼んでいたなと、ぼやけた記憶を思い返した。

(血を吸う鬼、か)

 その言葉はアルドワーズには馴染みがないが、存外、的を射ているような気がする。

「生き残るのが悪いことのようですね」

「人間にとっては悪いんじゃないか」

「去年は豊作でしたし、あなたは今、お腹を空かせてはいません」

 だから自分に関わらない方がいいのではないかと言外に含めたつもりだったのだが、やはりクレフは動じない。何故そこまで言うのかわからず、アルドワーズはとうとう眉をひそめた。

「君はなんで魔物の弁護をするんだ?」

「魔物の弁護ではありません。あなたのです」

「俺が、セルカや子どもたちを襲うかも知れなくても?」

「ご飯を食べれば大丈夫なのでしょう? ―――私にはどうしても、あなたが『悪い魔物』には思えないんですよ」

 静かだが強く言い切られてアルドワーズは口を噤んだ。言葉を探して目を伏せる。

 化け物にはなりたくないというのは本心だ。けれど、血を貰うことができれば、ここのところ続いている不調がすべて回復するだろうということは、血を口にした覚えはなくとも直感的にわかる。

(忘れてるだけかも……だから怖いんだ)

 己の記憶に自信が持てず、過去に人間を襲って生き血を啜ったことがないとは言い切れない。けれど、だからこそ、己の意思で血を求めては本物の化け物になってしまうような気がする。

 伏せた目を上げてクレフを見ると、彼は耐え難い苦痛をこらえるような表情をしていた。しかしそれは刹那のことで、瞬き一つの後には穏やかさが戻っている。

「アルは、同族を探しているのでしたね」

 がらっと話題が変わって戸惑ったが、アルドワーズは首肯した。クレフは、ほんの一瞬、躊躇ためらいを見せる。

「ちなみに、その……、種族の名は?」

「知らない。……大きなくくりで見たら人間なんだろうけど、小さな括りだと全然違う生き物なんだと思う。アマガエルとヤドクガエルみたいな。そもそも、種族の名前があるのかどうか……俺の他にいるのかどうかすらも怪しいな。いや、少なくとも俺の親はいるはずだけど、生きてるのかはわからない」

 気がついたときには一人だった。身元を証明するような持ち物は何一つなく、頼みの綱になるはずの記憶はおぼろで、そのせいで彷徨さまよっていると言っても過言ではない。

 時の流れはどんな生き物にも等しく訪れ、忘れたくないこと、忘れてはいけないことすらも徐々に摩耗し、風化していってしまう。

「同族に会った覚えがない。だから、ずっと捜してる。会えば身元がわかるかも知れないから。……って言っても、適当にふらふらしてるだけだけど。もしかすると、吸血鬼の伝説を追って行けば見つかるのかもな」

 クレフは否定も肯定もせず、柔らかく笑んだ。

「ここに来る前は、どちらに?」

「んー……いろんなとこ回ったから、どこにいたってのはない。単純に方角の話なら東の方から。最後に覚えてる地名は、コンティア」

「コンティアでしたら、東からではなく北からだと思うのですが……ここは、地方で言うなら、大陸東方沿岸部。ランツェ国西端ウルス領、町の名前はクレーエです。城下町への街道沿いにある宿場町ですよ」

「うん。さっぱりだ」

 地図のような、俯瞰した大陸の形は思い浮かべることができるが、場所がどこなのかは具体的な地名を聞いても判然としない。考えてみれば随分長い間、自分のいる場所を正確に把握しようと考えたことがなかった。

「次の目的地が決まるまで、ここにいてくださっていいですからね」

 先ほどと同じことを―――どうしてそこまでしてくれるのか尋ねそうになったが、どうせ同じ答えが返ってくるだろうと思って口には出さず、アルドワーズは素直に一言告げた。

「ありがとう」

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