一章 1

一章


 1


 台所兼食堂で、三人はテーブルを囲んでいた。

 勝手口に固まって様子を伺っていたらしい子どもたちは、外で遊んできなさいとクレフが追い出してしまった。

 空腹だというのは本当だったようで、アルドワーズは出した食事をあっという間に平らげてしまった。スープ皿の底に張り付いたキャベツの切れ端まで丁寧に口に運んでから、スプーンを置いて一礼する。

「ごちそうさまでした」

 それを受け、クレフも律儀に礼を返す。

「お粗末様でした」

 お腹が満たされて落ち着いたらしいアルドワーズは、お茶を啜りながら二人を見比べて小首をかしげた。

「夫婦?」

 短く問われてセルカはお茶を吹き出しそうになった。クレフがかぶりを振る。

「違います。私はこの孤児院の者で、セルカは元々ここの子でしたが、今は私を手伝って子どもたちのお世話をしてくれています」

 一欠片の動揺もなく否定され、複雑になりながらもセルカは大きく頷いた。尋ねたくせにさほど関心はなかったようで、アルドワーズはそれ以上追求せずにお茶を飲んでいる。

「孤児院なのか。てっきり教会かと」

「元は教会ですからね。今は教会としては機能していませんけれど」

 クレフの言葉を聞きながら、セルカは改めて向かいに座る謎の男を観察した。

 腰まで届く長い黒髪に、暗褐色の瞳。青白い顔には、食事を摂ったおかげか、やや血色が戻っている。纏う旅装はくたびれているが、気を遣っているのか不潔そうには見えない。

「このあたりの教会で一番近いのは……」

 教会の場所を教えようとしたクレフを、アルドワーズはかぶりを振って止めた。

「いや、教会に行こうとしたわけじゃない。ここに来たのは、綺麗な薔薇があったから」

 まだ言うかとセルカは顔を顰める。

「薔薇が綺麗だから入ってきたの? お腹空いて倒れそうなのに? 随分余裕があるのね。お花でお腹は膨らまないでしょ」

「そうでもない。俺は薔薇が一番美味しいと思う」

「……まあ、食用花もあると言えばあるけど。うちの野薔薇は食べられないやつよ」

「食べるんじゃなくて吸い取るんだ」

「吸い取るって、何をよ。ふざけないで真面目に答えて」

「ふざけてなんかない」

「腹ぺこで行き倒れ寸前なのに、薔薇が綺麗だって人ん家に入り込むなんて、あるわけないでしょ! あげく吸い取る? 何を! どこから!」

 思わず詰問口調になるセルカを、クレフが苦笑いで宥める。

「落ち着いてください、セルカ。野薔薇のことだけを訊くからわけがわからなくなるのでしょう。順を追って話を聞きましょう」

「……わかりました」

 クレフがそう言うならと、セルカは不承不承ながら口を閉じた。するとクレフにぽんと頭を撫でられて、嬉しいような、むず痒いような、言い様のない気分になる。

(わたし、もう十六なのに)

 唇を尖らせているセルカには気付いていない様子で、クレフはアルドワーズに尋ねた。

「アルドワーズさんは、旅をしているのですか?」

「……旅、なのかな」

「家を離れ、流れているなら旅なのでは?」

「家もないんだけど」

「放浪してどれくらいです?」

「さあ……結構前から」

「ちなみに、年はおいくつですか?」

「年……?」

 セルカは呆れて息をついた。

「自分が旅に出たのがいつかも、年も忘れちゃったの? 念のために訊くけど、記憶喪失ではないのよね」

「うん? ……うん。ちゃんと覚えてる。昔のことがちょっと曖昧なだけで」

「昔のことを忘れるくらい長く生きてるようには見えないわよ。―――どうして旅に出たの?」

「一応、同族を探してるつもりではある」

「同族?」

 言い回しがひっかかって聞き返したのには応えず、アルドワーズは話を変えた。

「さっきも言ったけど、お金がないんだ。だから、食事のお礼も薔薇の弁償もできない」

 クレフは首を左右に振る。

「お礼なんて要りません。野薔薇も、気にしないでください」

「でも、俺が枯らしたのに」

「やっぱりそこに戻るのね。空腹で薔薇を枯らすなんて、吸血鬼じゃあるまいし」

 セルカが顔をしかめると、アルドワーズは初めて聞いたとでも言いたげに目を瞬いた。

「キュウケ、ツキ?」

「切る場所が違うわよ。吸血鬼、知らないの?」

 吸血鬼は架空の魔物だが、物語の題材によく用いられる。セルカも小さい頃に絵本で読んだ。人間の血を吸いにくる魔物がいるなんて、当時は眠れなくなるくらい怖かったが、実在しないと知った今となっては、怯えるようなことはない。

「吸血鬼とは、伝説上の魔物の一種で、その名の通り人の血を吸う不死身の化け物です。物語の悪役としてよく出てきますね。薔薇の花から精気を吸い取れる、陽の光に弱い、聖水や聖印を恐れる、銀を嫌う、などの特徴があります。不死身と言われるとおり、首を落とされたり胴を真っ二つにされたりするくらいでは死なないというのが通説ですね。殺すには、頭部もしくは心臓を粉々に破壊するしか手段がないそうです」

 クレフの説明を黙って聞いていたアルドワーズは、事実だけを述べるように淡々と語る。

「俺は、陽の光にあたっても平気だし、聖水なんかも怖くないし、銀も嫌いじゃない」

「まあ……、聖水や聖印が効くというのは、教会の権威のための後付けでしょうから」

「でも、人の血が力になるのはそうだ。それと、精気を吸い取れるのは薔薇だけじゃなく、花ならなんでも。俺が美味しいと思うのは薔薇だけど。枯らしてしまって悪かった」

 もっともらしく言われてうそ寒いものを感じ、打ち消すためにセルカは笑い飛ばそうとした。吸血鬼など現実にいるはずがない。

「た……たまにいるのよね、人外に憧れるのが度を超しちゃって、自分もそうなんだって思い込んじゃう人」

「セルカ、失礼ですよ」

「でも先生、吸血鬼なんて信じるのは、うちの子の中でもメルーくらいですよ」

 今年三歳になった女の子を引き合いに出すと、クレフは困ったような笑みを浮かべる。

「野薔薇はどう説明します?」

「えっと……何か、変な薬でもいたんじゃ? 植物をあっという間に枯らしてしまうような。うん、きっとそうですよ」

 行きずりの旅人が何故そんなことを、というのは置いておいて、セルカが一人で頷いていると、クレフはアルドワーズに尋ねた。

「アルドワーズさん。花ならなんでも、と言いましたね」

 首肯するアルドワーズを見て立ち上がり、クレフは勝手口から出て行った。すぐに戻ってきたその手には、畑に半ば自生しているカミツレの花がある。

「どうぞ」

 僅かに躊躇ってから、アルドワーズはクレフからカミツレを受け取った。束の間それを見つめて握り締める。刹那、空気が漏れるような音を立ててカミツレが枯れ、セルカは目を見開いた。―――今、アルドワーズには薬などを仕込む暇も素振りもなかった。

(……嘘でしょ?)

 吸血鬼という魔物は、昔の想像力豊かな作家の創作で、実在しないものだ。しかし、目の前で野薔薇は枯れた。カミツレも。

 物語の中だけの存在だと思っていたものが、急に現実味を帯び、セルカは身震いした。思い出したように忍び寄る怯えには、気付かないふりをする。

 アルドワーズはからからに乾いたカミツレをテーブルに落とした。

「こういうことはできるけど、なんだっけ……吸血鬼? ではない。血が食事ってわけじゃないし、好んで飲もうとは思わない」

 乾いたカミツレを拾い上げながら、クレフが尋ねる。

「道中、花はなかったのですか?」

「あったけど、あんまり足しにならなくて。どうにも、俺が花だと思わないと吸い取れないんだ。で、綺麗だと思うものほど美味しい」

「なるほど、そこは主観に基づくのですか」

 得体の知れないものへの恐怖よりも好奇心が勝り、セルカも問うてみた。

「……お腹減っても血は吸わないの?」

「吸わないってば。大体、吸うってどういうことだ。蚊じゃあるまいし」

 蚊をたとえに出されて複雑になりながら、セルカは絵本の一場面を思い出しながら話す。

「こう、鋭い牙で首筋にがぶりと」

「大抵の動物は首の血管を切ったら死んでしまうだろ。首筋に噛み付くなんて危ないじゃないか」

「そりゃ、吸血鬼は血を吸って殺したり、しもべにしたりするんだもの」

「僕なんて要らないよ。自分だけで手一杯なのに」

 心底迷惑そうに言うアルドワーズへ、それ以上何も言えず、セルカは口を噤んだ。それを待っていたように、クレフが問う。

「ところで話は変わりますが、アルドワーズさん。今日の宿が決まっていないなら、ここに泊まっていきませんか」

 何を言い出すのかと、セルカはぎょっとクレフを見た。クレフは微笑む。

「情けは人のためならずですよ、セルカ」

「そうですけど、でも……」

「どうですか、アルドワーズさん」

 問われたアルドワーズは、戸惑った様子でセルカとクレフを交互に見た。

「彼女は、いやがってるようだけど……」

「ええ、わたしは反対です、先生。小さな子もいますし」

「では、私の部屋の隣に泊まって貰いましょう。セルカの部屋とは反対側ですし、子ども部屋からも遠いですから」

 にこにこと言っているが、こうなってしまったクレフは絶対に折れないことをセルカは知っている。

(もう……変なところで頑固なんだから)

 嘆息で小さな抵抗を表してセルカは頷いた。

「わかりました。夕食は十人分ですね」

「ありがとう、セルカ」

 再び頭を撫でられて、セルカは頬を膨らませた。笑顔のクレフは立ち上がる。

「では、部屋へ案内します。こちらへどうぞ、アルドワーズさん」

 アルドワーズはまだ迷っているようだったが、やがて思い切ったように席を立った。

「……すまない。助かる」

「いいえ、お気になさらず」

 クレフはアルドワーズを連れて台所を出て行った。一人残されたセルカは気を取り直して食器を洗いにかかる。

 流し台の上にとられた窓からは裏庭が―――枯れた野薔薇が見えて、セルカは眉を下げた。もうすぐで満開を迎えるはずだったのにと残念に思う。白い花が咲き揃うと、それは見事なのだ。

(どうしよう……お祭り)

 花の乙女フロルティア祭は三日後に迫っている。「花の乙女」の二つ名を持つ聖女フロルティアの象徴は白薔薇で、祭には白い花飾りを使うのだ。町を挙げての祭りなので、この時期はどこの店でも白い花飾りを売っているが、それを買う余裕が孤児院にはない。

 ため息が出そうになってセルカはかぶりを振った。

(だめだめ、今のなし。あと三日あるもの、どうにかする方法を見付ければいいのよ)

 くよくよ悩むより身体を動かせというのがセルカの信条である。頭を抱えている時間があるなら一枚でも多く皿を洗った方が生産的だ。

(そう、あの自称吸血鬼に摘んできて貰うとか。無料ただで泊める以上、働いて貰わないとね。働かざる者食うべからず、よ)

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