女神の微笑み、旅人に花
楸 茉夕
序
「おばけ――――――!!」
泣き声混じりの子どもの悲鳴が聞こえて少女ははっと顔を上げた。針仕事を放り出し、何事かと部屋を出る。子どもたちは裏庭で遊んでいたはずだ。
裏庭には台所にある勝手口から出られる。向かう途中で、ばたばたと子どもたちが駆けてきた。
「いやだああああ! こわいいいい!」
「セルカねえちゃあああああん!」
「おばけ! おばけ出た!」
セルカと呼ばれた少女は、泣きそうな子や既に大泣きしている幼子を抱きとめた。大袈裟に頷いて見せる。
「大丈夫、おばけなんてセルカねえちゃんが追っ払ってやるわ。どこに出たの?」
「外の入り口んとこ! 裏庭の!」
「ねえちゃん一人じゃあぶないよおおお」
セルカは頷き、子どもたちを見回した。
「平気、平気。セルカねえちゃんは強いんだから。みんなは隠れててね」
台所へ向かい、窓から外を
(子どもたちに見つかって逃げたのかしら?)
首を捻りながら勝手口から出てみると、「おばけ」はすぐに見つかった。窓からは死角になる場所にいたらしい。
見知らぬ男がふらふらと頼りない足取りで裏庭を横切っていく。彼の上半身を、伸ばし放しという風情の長い黒髪が覆っているので、子どもたちには幽霊か魔物に思えたのだろう。
セルカは用心のために勝手口の脇に立てかけてあった
「クレフ先生、お仕事はいいんですか?」
尋ねれば、クレフはセルカからやんわりと箒を取り上げて微笑んだ。
「大丈夫ですよ。おばけが出たと、子どもたちが知らせてくれましてね。あの人でしょうか?」
「多分。わたしが出たときから、あの人しかいませんでしたから」
「私には、おばけではなく、とても疲れた若い男の人に見えるのですが」
「わたしもです」
箒を片手に歩き出したクレフと並んでセルカも男に近付く。
男は、畑の脇に生えている野薔薇の前で立ち止まった。そして、力尽きたように両膝をつく。
「大丈夫ですか? どこか具合でも」
クレフの言葉を遮るように、突然、野薔薇の株が蒸発した―――蒸発したように、セルカには見えた。
「……え?」
思わず足を止め、ぽかんと野薔薇を見る。たった今まで青々と茂り、沢山の蕾が開花を待つばかりだった野薔薇は、茶色く変色して無残に枯れてしまっていた。
(な……何、今の……)
事態を飲み込めないままクレフを見上げると、彼も目を見開いて薔薇を凝視している。その手から箒が離れて倒れ、からんと乾いた音を立てた。その音で我に返ったか、クレフは目を瞬いてから
「どうしました。体調が悪いのですか」
膝をついて尋ねるクレフがあまりにも無防備で、セルカは箒を手に駆け寄った。
「先生! 待ってください、変な人かも……」
「ですが、具合が悪そうです」
油断しているところに襲いかかってきたらと、セルカは箒の柄を両手で握り締めた。それに反応したわけでもなかろうが、項垂れていた男が億劫そうに顔を上げる。
黒髪の下から現れた顔は驚くほど整っていた。年の頃は二十代後半くらいだろうか、クレフよりも幾つか年上に見える。
しかし、セルカは青年の彫刻もかくやという見た目よりも、衰弱している様子なのが気にかかる。肌は青白く、褐色の双眸にも力がない。
青年は乾いた唇を微かに動かした。
「……君たちは、ここの人……?」
クレフは彼へ顔を向けて首肯する。
「ええ、そうです」
「そうか……すまない。お腹が空いていて」
「お腹が、ですか」
繰り返してくすりと笑い、クレフは小首をかしげる。
「私はクレフ・リートスと言います。あなたは?」
「アルドワーズ」
「……アルドワーズ」
思わずといったふうにクレフが復唱し、アルドワーズと名乗った青年は不思議そうな顔になった。
「何か……?」
「いいえ。具合が悪いのでないならよかった。……アルドワーズ、さん。立てますか」
アルドワーズは首肯し、クレフの手を借りて立ち上がった。セルカは止めようかどうしようか迷い、箒を無意味に上げ下げする。それに気付いたらしいクレフがかぶりを振った。
「セルカ、箒の片付けはあとでいいですよ」
「いえ、その……大丈夫なんですか」
セルカが警戒を隠さず視線でアルドワーズを指すと、彼はのろのろと口を開いた。
「お金がなくて、ここ一月くらい殆ど水しか飲んでないんだ。さすがに空腹で
空腹と枯れた野薔薇が繋がらず、セルカはとうとう声を上げた。
「腹ぺこと薔薇と、なんの関係があるのよ!」
「まあまあ、セルカ」
クレフは苦笑いを浮かべえセルカを制し、裏口を示してアルドワーズに言う。
「とりあえず中へ。おもてなしはできませんが、簡単な食事でしたらお出しできますよ」
「……いいのか?」
「ええ、どうぞ」
「あ、ちょっ……」
セルカが止める間もなく、クレフはアルドワーズを支えて裏口へ向かう。
枯れた薔薇の前にアルドワーズの持ち物らしき鞄が放置されていたので、仕方なく拾い上げてセルカは二人を追った。
裏庭は、腰高の垣根こそあるが、誰でも出入りができる。建物も、廃教会を再利用したものなので、通りかかったアルドワーズが助けを求めて入り込み、野薔薇の前で動けなくなったと考えられないこともない―――薔薇が突然枯れた理由はわからないままだが。
(……まあ、怪しい素振りを見せたら警吏を呼べばいいわよね。ふらふらみたいだし、先生とわたしで取り押さえられるでしょ)
何者にも分け隔てなく接するのはクレフのいいところの一つだが、本当に誰にでも優しいのが困りものだ。自分がしっかりしなければと、セルカは怪しい青年の背中を睨んだ。
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