第8話 あざらしマヌカと母の愛

 屋敷中に敷かれているのは、快適な腹はね素材の絨毯じゅうだんだ。そこを進むこと数十分。ぜーはーぜーと激しい呼吸と共に、肩が上下し始めた。実際には肩などあってないようなものなので、呼吸にあわせて全身の毛が右から左、左から右に流れている。


「人化できるようになる前に、飛べるようになりたいのできゅよ」


 いかに楽するかを考えているうちに、お母さまの部屋に着いていた。

 この数日で気が付いたのだけれど、屋敷のいくつかの部屋には犬猫用みたいな小扉がある。ステータス画面いわく、「あかんぼ扉」というらしい。解説はいらないだろう。名前のとおりだ。

 とはいえ、さすがに一人でくぐるのは初めてだ。脱走の前科がある私には、ここ数日お母様かピングルがつきっきりだったからなぁ。


「よっこいしょ」


 くるりとまわって、尻尾から扉をくぐる。頭から突撃して踏まれでもしたら大変だ。

 ちなみに今日私が出歩けているのは、ヴァルタ先生が「結界をはっておけば接触した際すぐに気が付けるであろうし、今のマヌカの魔力では出られぬようにしておくかのう」と魔力干渉の結界をはってくれたおかげだ。

 まぁ……その時「にっこり」ではなく「にやり」と私を見下ろしていたので、絶対裏があるとは思うんだけどね。実に腹黒子ぎつねである。が、わかりやすい腹黒は嫌いじゃない。


「あら、マヌカったら。一人で来たの?」

「あい、おかあさまにあいにきたでっきゅ」


 感心された気がして、元気よく右手をあげる。

 私の両脇を抱えて抱き上げてくれたお母さまは、嬉しさよりもちょっと呆れているように見えた。こつんとあわせられた額。


「嬉しいけれど、おてんばはほどほどにね? ではないわよね。一人にしてごめんなさい」


 なっなんだろう。赤ん坊としてここは怒られているのだと反省するべきなんだろうけれど、すごくむず痒くってだね! きゅうっと首を肩の毛に埋めるしかなかった。


「ミルクはさっき飲んだばかりよね。じゃあ、お母様とお昼寝しましょうか」


 ふかふかのソファーに腰かけたお母さま。仰向けのお腹をぽんぽんと撫でられ、一瞬にして落ちそうになる。


――びっびびーのびー!――


 途端、ステータス画面から強烈なアラームが鳴り響いた! 自分で仕掛けておきながら、心臓が止まるかと思ったよ! あかごあざらしの心臓はデリケートなのだよ!

 はぁはぁとむきかけた白目から、黒目をしっかりと元に戻す。

 実は、ステータス画面に私の意識レベルが急に下がった時、つまり、とんとんやぽんぽんの動きをスキャンした場合には、アラームが鳴るように設定しておいたのだ。でも、もうちょっとアラームの音量を下げておこう。再度転生しかねない。アラーム転生になりかねない。


「わたし、おかあさまとおねんねもしたいできゅけど、さきにききたいことがあるのできゅ!」

「あら、なにかしら?」


 お母様の口癖は「あら」みたいだ。頬に手のひらを当てて首を傾げる姿は、すごくヒロインっぽい。お母様ってば、あざらしの時の真っ白な毛並みそのものの肌色に、氷に光が流れたベイビーブルー色の長くてふんわりとした髪をしている。瞳は甘いストロベリー色。

 なのに、私がお父さまの胸毛に慄いている中「お母様ね、お父様のあのふわさらな胸毛もふげの包容力にすっかりほれ込んでしまったのよ」とおっしゃった姿を鮮明に思い出せる。頬を染めて恥じらう姿はとても子持ちには見えないっていうか、十代の少女のようだ。

 かくいう私は、もしかして私もそういう基準で恋人を選ぶことになるのかと、ちょっと白目になりかけている。もふもふはしたいけど、決して恋愛の基準にしたいわけではない。


「マヌカちゃーん。眠たすぎて、白目になっちゃっているのかしら」


 今も思い出し白目になりかけていたらしい。これは私自身の癖なのか生態なのか。

 しっかりしろ、自分。きりっとモードに切り替えだ。私のやる気スイッチは頑張れる子である。


「マヌカは、おもしろ顔から可愛い顔に戻ったりと表情豊かな子ね。将来が楽しみだわ」

「マヌカはおかあさまみたいになりたいできゅ」


 それだよ。面白い子よりもお母様のような少女漫画の正統派ヒロインになりたい! が、すぐに諦めた。どこの世界にすぐ白目になったり、歯ぎしぎしする正統派ヒロインがいるだろうか。いやいない。

 お父さまの胸毛については、人間でいうところの筋肉みたいなものだからさっぴいておくよ。


「まぁ、マヌカったら。お母様より何倍も素敵なもふざらしになれるわよ。だって、お父様の血をひいているんだもん」


 言った傍から、お母様のもふ愛がさく裂した(ただしお父様に限る)。なに、もふざらしって。私はお母様みたいな美女になりたいと申しましたのに。もうあざらしですらないよ、お母様。

 それはお父様みたいな胸毛をはやすことになるという死の宣告だろうか。せめて、あざらし形態の時に限って欲しいものだ。


「おかあさま! おねむのまえに、おしえてほしいのできゅ」


 お母様の膝から前のテーブルに飛び移る。テーブルは白い大理石っぽい素材だ。かけられている厚めのレーステーブルクロスのおかげで、冷たくはなかった。


「あらあら、嬉しいわ。マヌカってば、一人でお勉強し始めちゃうんですもの」


 勉強とはいっても、まずはこの世界を知るために絵本を読む程度だ。

 え? どうやってページをめくっているかって? それはもちろん、両頬から生えているひげを駆使している。これ、柔らかいかと思いきや意外にしっかりとしているのだ。めくる時にちょっと体をひねって、うまいことページに滑り込ませた後にぴょいっと跳ね上げる。この華麗な技は、前世の運動神経の名残だろうか。


「あかちゃんなのに、おかしいできゅよね……」


 自分的には誇らしい特技ではあるが、親から見たら結構気味が悪いのかもしれない。

 当のひげがしょぼんと下がってしまう。が、頭に乗ってきたのは優しい重さだった。お父様の高速もふもふと違い、お母様のもふ撫ではゆっくりと優しい。毛を撫でるだけではなく、その下にある肌にも触れてくれるみたいでうっとりしてしまう。うとうとしかけて、はっと頭を振った。


「お母様としてはべったりと甘えてくれたら嬉しいけれど、頑張るマヌカも好きよ? ただ、一緒にお勉強できたらもっといいなぁって」

「おかあさま」


 ぴょんとしっぽで勢いをつけ、お母様の胸に抱き着く。掴むことはできないので、ずりっと落ちる。けれど、すぐさまお母様が抱きとめてくれた。


「あのね、おべんきょうじゃないのできゅけど。まーとるお兄ちゃんの好きな木の実、おしえてほしいのできゅよ」

「マートル君が好きな木の実?」


 首を傾げたお母さまだが、合点が言ったように「あら、おませさん」と微笑んだ。目が三日月型である。


 …………。

 ……え、いやいや! おかあさま! 私が普通のハープシール族の赤ん坊とは違うとはいえ、中身が元二十代OLとはいえね! っていうか、元二十代OLだからこそ、赤ちゃん犬にフォーリンラブしないよ! ショタじじいなヴァルタ先生ならともかくって、いうか、問題はそこじゃない、落ち着け私!

 内心でごろごろ高速回転でのたうち回るが、必死に全身の筋肉を固くする。そう、ぐっと色々を堪える。心の中の私は満身創痍まんしんそういだ。


「おませさんてどーいう意味できゅか?」


 演技臭くても良い。私は可愛く見えるよう、小首を傾げてみた。顔周りの毛が心なしか湿っていく。しなーっと、毛先が下に向いていく気がしてならない。


「さすがのマヌカもこっちにはまだ鈍いのね、うふふ。大丈夫。ハープシール族なら、あと二・三年したら初恋するのは普通よ?」


 うふふじゃないよ、お母様。

 大丈夫ないよ。ちょっとメタ的な事情の色が見えはじめたので、さっさと話題を変えてしまおう。


「わたし、まーとる兄ちゃんと仲良くなりたいのできゅ。ヴァルタ先生のお手伝いするってなって、お兄ちゃんにきらわれちゃったみたいできゅから」

「それで、好きな木の実なのね。でも、ピンポイントに木の実なのはどうして?」


 お母様ってば、天然と思いきや結構ぶっこんでくる。


「えーっと、さっきよんだ絵本においしそーな木の実あったできゅ」

「『子リス、炎の木の実料理対決の末に』ね。絵本に影響されちゃうお年頃だものね」


 それです。他の絵本よりタイトルが気になって、お父様に読んでもらったやつだ。末にどうしたんだと。

 お父様がいちいち子リスボイスを再現しようとしたので、笑いをこらえる方が大変だった。痺れるような低音ボイスからの子リスは腹がよじれて、ねじ切れるかと思った。

 そのおかげで今とっさにタイトルが浮かんだんだけど。お父様、グッジョブ!


「マートル君と会うのは何度目かだし、いつもお菓子を美味しそうに食べてくれるけれど――木の実が食べたいというのは聞いたことがないかしら」

「そーできゅか」


 全身の力が抜けていく。自分の意志とか関係なく、きゅうぅんなんて子犬のしょぼけた時みたいな鳴き声があがっていた。

 シークレットモードを解除して、具体的な木の実名を知る方法を探した方が早いだろうか。


「マヌカ」


 お母様の静かだけれどしっかりとした呼びかけで、解除方法の模索に走りかけた意識が引き上げられた。ついでに、顔もあがった。

 見上げた先にいるお母様は、とても優しい眼差しを向けていた。


「マートル君に直接聞いてみたら?」

「……どーせ、おしえてくれないできゅよ」


 つい、やさぐれた声が出てしまった。はっとなり、言い訳しようと俯きかけが顔をあげる。が、自分の力よりも強い力で、主に頬が引き上げられた。っていうが、かなりほっぺをもみもみされてるんだけど!

 おお怒られているんだろうか、これは。潰れる瞳を必死にあける。


「だいじょーぶ、だいじょうぶ」


 視線の先にいたお母さまに、ほとんど黒目な目が一気に湿っていく。ぼろぼろと零れる雫に気が付き、驚いて、さらに鼻先が濡れていく。鼻がじめじめだ。


「だいじょーぶ?」


 一瞬、記憶の奥にあるだれかと姿が重なった。あれは前世の母親だったのだろうか。あるいは、いつかの美鳥いもうとだっただろうか。


「どうして、だいじょーぶ? だって、まぬか、かってにあきらめている」


 そうだ。私はいつだって、そうだった。勝手に考えて、勝手に諦めて。


「だって、マヌカはだいじょーぶだもの」


 ともかく、たった一言で全身を包まれた気がした。なにがではなく、なにもかもが大丈夫だって抱きしめて貰えた気がした。実際は、ぽんぽんと頭を撫でられただけなのに。


「大事なのはマヌカが誰を大切に想って、その人のためを想って行動するかよね?」


 今度は、ぎゅうっと抱きしめられた。あったかい。寒い雪世界が熱いと思うくらいには、あたたかい。

 何を考えるより先に、すりっとお母様の肌に頬を擦り付けていた。抱きしめ返すにはあまりに足りない手を必死に伸ばす。お母様のふわふわの髪が、ふんわりと掌を包み込んでくれる。


「あい」


 ぐしっと、垂れた鼻水を吸い上げる。それでも垂れる鼻水は、お母様がちーんとごく柔ティッシュでかんでくれた。

出るもん出たらすっきりしたよ! ぐっと平たい手を握る。


「必要なのは愛でしゅね!! おかーさま、みんながだいすきショートケーキでしよ!」


 なんでさ! と突っ込んでくれる人はいなかった。ので、あえて自分で突っ込んでおく。

 リサーチはしないのかと。ここはむしろ、相手の要望をリサーチだろ。

 これも赤子の脳ゆえだと、自分ながらに仏顔にならざるを得なかった。


◆ ◇ ◆ ◇ ◆


「本当にこれでいいの?」

「あい! 愛は自分で運ぶことに意味があると、書いてあったでしゅ!」


 きりっと決め顔だ。私の背中には大きな箱がひもで括りつけられている。

 が、この時点で誰もが気が付けていない盲点が悲劇を誘った。うん、まぁ、あざらしだからね。まぁ、跳ねるよね。

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