ショタと約束


「ナハト、ナハト。ナハト……ナハト」


 心底嬉しそうに笑みを浮かべながら、彼は何度も名前を繰り返す。欲しいものを手に入れた子供の顔だった。大人びた色のない、無垢な顔。しっぽもピンと空を向いている。喜んでくれると分かるので、その耳としっぽは大変よろしい。あと可愛い。

 こんな嬉しそうな顔なら、ずっと眺めていられる。そう思いながら、そっと自分の手の甲に指を這わせた。


(あの熱は、何だったんだろう)


 冷静に考えると、わけが分からない。あの手の甲の熱は、ナハトの身体に吸収されていったようにも感じた。魂を縛りつけるとは、もしかして私が思うよりもよっぽど思い意味を持っているのかもしれない、とは思う。

 まあいいか。思考を切り替える。考えてもしょうがないことは、考えない。シスターに教わった処世術だ。生きていくのに本当に必要なことなんてほとんどないんだから、と言った彼女を私は信じている。繊細そうな見た目の割に大雑把なお人なのだ、彼女は。


「ナハトは、これからどうするつもりですか?」


 問うと、彼は不思議そうに首を捻った。唐突すぎたか。でも、……多分ここ、私がいた世界じゃないしなぁ。何も分からない私には、ナハトに頼るより他にできることはない。やだ、年上の威厳が足りない。

 少し考えたあと、ナハトは真っ直ぐに私を見上げる。


「とにかく、大きい街に向かうかな。レイのことを知っている人を探したい」


 浮かれていた様子を微塵も見せない理知的な表情で、彼はそう言った。……あれ、もしかして。


「……あ、そういえば、私の方の事情を言ってませんでしたね!」


 ぽん、と手を打って声を上げる。ナハトは変な顔をしていたが、私は特に気にしないことにした。

 私のことを知っている人がいるはずない。だって、私が知っているものがないんだから。自明の理。


「事情、って……。聞いてもいいのか?」

「はい、むしろ聞かないとわけが分からないと思います」


 聞いてもわけ分かんないだろうけどね。私が一番分かってないんだし。どこか躊躇うような苦い顔をしたナハトは、私に聞いてもいいのか、と問うた。こっちは、躊躇うことなく首肯する。


「私、この世界の人間じゃないんですよ」

「はぁ? ………………ああ。……いや、なるほど」


 一瞬、何言ってんだこいつ、みたいな顔をされた。しかし、ナハトはすぐに得心がいったように頷く。理解が早い。賢い。


「……常識がないのは、こことは違う常識に囲まれていたから、か」


 ちょっと受け入れるのが早すぎませんかねぇ。トントン拍子どころじゃない話の進みように、私の方が混乱する。


「信じてくれるんですか?」

「オレは、レイが言うことならどんなに荒唐無稽でも信じるよ」


 今度は、私が顔を顰める番だった。ほぼ初対面だっていうのに、そんなことを言っていいのか。請われるままに変な儀式をしてしまった私の言うことじゃないだろうけど。……本当に、私に言えることじゃないな。でもショタコンがショタの望みを叶えるのはただの生理現象だから。

 私の表情の変化を見て、ナハトは困ったように微笑む。目を覚ましてから何度も見ている表情だ。


「……アンタが、オレのことを受け入れてくれたから。オレだってアンタを受け入れたい。それだけのことだよ」


 ショタを受け入れるのは当然のことなのに。そう考えた自分の方が間違っているって、本当はよく知っている。

 一度小さく息を吐いてから、目を閉じた。


「私、何も分からないんです。あなたが迫害を受けていたことも、頭で理解はできても、ちゃんと分かっているわけではない」

「分かってる」


 呆れたような、でもひどく穏やかな声が耳をくすぐった。ナハトは優しい。優しいから、心臓がひどく苦しくなる。


「ナハトが、人間にしか見えないんです。人間がほとんどいないって言われても、私が生きてきた世界では人間以外にこんな生き物はいないから」

「そっか、アンタがいた世界は、そうなんだな」


 手に触れる柔らかな体温。それに縋るように、握り締めた。


「――疑わないの?」

「信じるよ」


 明朗な声だ。何一つとして揺らぐもののない、確かな意志を吐き出すように。彼は、当然のように私を信じてくれた。だったら、私は。


「ナハト、お願いがあるんです」

「何?」


 目を開けた。柔らかな微笑みが、私に向けられている。あっ、好き。真剣な空気とは剥離した内心に自分でもどうかと思う。でも好き。聞いて。

 あどけなさを残したショタの大人びた微笑みとかこの瞬間を切り取って絵画にしたためようとしても美しさが表現しきれなくて筆を折るやつ〜。好き。


「レイ?」

「すみません考えごとしてました。えっと、お願いというのは……」


 冷静になって考えると、とんでもなく身勝手なことじゃないかなこれ。大丈夫? とか思いつつ、口を開く。


「私と、ずっと一緒にいてくれませんか」


 ……違う。これじゃあプロポーズだ。私は頭を抱えた。もっと相応しい言い方があったはずだと、訂正するために口を開き。


「――言われなくても、そのつもりだよ」

「はぇ!?」


 奇声を上げてしまった。なんて、え? 今なんて? そのつもりだって、え? もしかしてこれって死に瀕した私が見てる都合のいいだけの夢だったりする?!


「なんで驚いてるんだ……。名付けの儀が何だったのか、言っただろ」


 聞きました。魂を縛りつける、とか。所有物になるとか。……ああなるほど、つまり。

 私と彼は、一緒にいる『確かな理由』があるのか。

 離れる理由がなくて、一緒にいる理由がある。

 それは、なんて。


「まあ、だからと言ってずっと側にいる必要もない、けどさ。オレは、……少なくともオレは、レイといっしょにいるつもりだ」


 手を、強く握り締められる。ともすれば痛いくらいの強さに、私はいっそ安堵した。

 身勝手だ。分かってる。私の勝手な願いのために、未来ある子供を巻き込んでいいはずがない。知ってる。……それでも、望んでくれた。


「わ、たし。……常識がないから、迷惑かけるかもしれません」

「いいよ。オレだって、たくさん迷惑かけるんだから」


 ナハトは笑っている。

 ……ナハトが、笑っている。なら、それでいい。


「……一緒にいてほしいのは、打算です。一人では生きていけないから、ナハトに縋っている、そんは醜いだけの打算。それでもいいんですか」

「オレこそ、レイの側にいようとしてるのは、死なないためなんだけどさ」

「それは、私が望んだことだからいいんです」

「じゃあ、アンタのそれだって、オレが望んだことだ」


 ふ、と軽く吐息の漏れる音。夜の闇よりもなお深い黒が、私を見つめていた。不意に、笑みの質が変わる。例えようのない色をしたそれは、ひどく陰鬱ながらも、ただ美しかった。


「それにさ、逆に言わせてもらうと。――レイが嫌がっても、離れるつもりなんてさらさらないんだよ、オレには」


 手が、頬に伸びる。私よりもほんの少し低い体温が、右側の頬に触れた。


「オレは死ねない。死にたくない。泥水を啜って雑草を噛んで同胞の血肉を喰らってでも、生き延びなければならない。そして、レイの隣にいることができれば、それが叶う」


 ナハトは、優しい子だ。いい子だ。黙っていれば、私はきっとその事実に気付かず……あるいは直視せずに流していたはずなのに。彼は語る。私の隣にいたい理由は、決して私への好意でも何でもないのだと。ただ自分の願いのためでしかないのだと。

 それが、嬉しい。

 理由がある。私には価値がある。彼が隣にいてくれるための、言い訳がある。

 ショタの約に立てるなら本望。だから、彼にとって私が価値ある存在ならば、何よりなんだ。


「だから、可愛い所有物の我が儘だと思って、侍ることを許してくれないか?」


 首を傾げ、彼が私に問う。そこでようやく空気のおかしさに気がついた。遅い。……あれ? これってそういう話だったっけ? 私が私のために離れないでいてほしいって我が儘を言ってたんじゃないっけ? あれ?


「……侍る、とか。そういう言い方は嫌です」

「じゃあ、レイが望む形で」

「なら、家族……いや、なんでもないです気にしないで! とりあえずまずはお友達から始めるのが鉄則ですよね!」


 私のお口ってば、セキュリティがばがばすぎぃ……! ショタ相手だからしかたないけど、今のは言っちゃだめなやつだった。天涯孤独の身の上としては、本気で望んだらそうなっちゃうんですけどね! 駄目だね! 馬鹿だね!!

 とにかく、気にしないように言い含める。だいたいほら、私の家族は神父様とシスターと協会に住んでる子供たちだから。わぁい大家族だぁ! よって、寂しくも悲しくもないからほんとほんと。


 ……その家族には、きっと、もう二度と会えないのだとしても。


(お前はもうちょっとだけでいいから、自分のことを好きになってくれ)


 ふとした瞬間に思い出すのは。頭を撫でる、不器用な手。少し煙草の匂いがする、手触りのいい神父服。戸惑うように合わせられた瞳は、月光のような金色だったこと。

 出会いの日を、生涯忘れることはないだろう。シスター、神父様。みんな。私を愛してくれたすべて。……喪われたのは、私の方だから、嘆いてはいけない。


「何の鉄則かは分からないけどさ」

「はい、ごめんなさい!」

「いや、謝らなくていい」


 この短い間に見慣れてしまった苦笑を零し、彼は口を開く。


「……家族みたいになれたらいいとは。オレも思ってるよ」


 急に。

 心臓が、軋むみたいに大きな音を立てた。いつもの、ショタに対するときめきとか。それとは質の違う。恋や愛とも異なる。言うならばそう。いつか、遠くなってしまった日に。と罵る男と赤く染まる――。


「ナハト」


 名前を呼んだ。これは、駄目だ。縋っている。希っている。乞い、願っている。自分よりもずっと小さい存在に、私は何を望んでいるのか。私はお姉さんだからちゃんと強くないといけないのに守ってあげないと駄目なのに。……私が救われたいなんて望んでは、いけないのに。


「……ずっと、私の、隣にいてくれますか。あなたの生に私が必要なくなってもずっと」

「レイが、許してくれるなら」


 だけど。この手がどれだけ血に汚れていても。どれだけ私が罪深くても。そこに確かな理由があるのならば。私はそれだけで。


「嘘だったら、泣きますよ」

「泣くなよ、オレより大人だろ」

「大人も泣きますよ。知らないんですか?」

「……知ってるけど」

「じゃあ、約束。ずっと一緒にいてくださいね」


 頬に触れていた手を握る。


「こっちこそ、レイがオレの側からいなくなったら、死ぬしかないんだから――」


 強く、強く、離さないように。握り締める。


「見捨てないでくれよ、ご主人様」

「だけどそうやって傅くのは止めてください心が死にますから!!」

「レイは反応が楽しいよな……」


 ショタが私を見て楽しい思いになるなら何よりだけどご主人様扱いは本当に止めてほしい心が死ぬ。



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