ショタに名付け


 視線を動かすと、後ろの方に森があるのがわかった。そして、その森がひどく異様な雰囲気を醸し出していることも。今立っている場所は日が当たっていて明るいのに、まるで境界線を引いたかのように森だけが昏い。

 悍ましい、と思った。自分がさっきまでいたはずのその場所に、本能が忌避感を覚えている。あの森は、確かに墓場だったのだろう。


 呆然としていた彼は、程なくして正気を取り戻したようだった。まだ困惑したような瞳で私を見上げ、呟く。猫耳が様子を伺うようにピンと真っ直ぐになっていた。可愛い。


「……アンタ、願ったのか?」

「少しだけ、二人でここから出たいなー、って」


 本当に出られるとは思わなかった。というか、どういう原理でここに出たのだろう。女神様の力? なにそれ、全く分からない。もっと私にも分かるように説明してよ役目でしょ。


「そうか、……純血ってすごいんだな」

「わかってたわけではないんですか?」

「流石に一瞬で出られるとは思ってなかった」


 私も思ってなかった。


「……そうか、オレは、もう自由なのか」


 思わずこぼれたような口ぶりで、そんな言葉が聞こえてきた。視線をそちらに向けると、どこか虚ろな表情が目に入る。迷子の子供のような顔だった。


「よかったですね」


 口をついて出たのは、思ってもいない言葉だった。私は彼が何を望んでいたのか、私に何を求めていたのか、全く何も分かってはいない。でも、森から出たいだけではないことは、なんとなく察せられた。

 でも、あの森に居続けたいはずもないだろうし。だったらこれで良かったのだろう。ね? そういうことにしとこ。


「アンタ、さ」

「うん? なんですか」

「いや。――名前、聞いてもいいか」

「鈴(れい)です。あなたは?」


 彼は目を見開いた。そして、苦笑を零す。


「……そうか、アンタは、何も分かってないんだよな」


 それは、どこか安堵をにじませた声だった。よく分からないけれど、私が無知であることで彼が安心するなら嬉しい。ショタはこの世の宝だからね。


「オレには、名前なんてないよ」

「え。えっ? ………えっ!?」


 三段活用で驚いてしまった。私の驚愕に、彼は落ち着いた様子で返す。


「個を区別する呼び方はあるんだけどな。一定以上の濃さで人間の血を持つ者にしか、名付けの儀は行えないんだ。……だから、ない」

「私には名前があるって確信していたみたいなんですけど」

「アンタは人間だからな。自分で適当に決めた呼び名ですら、女神に認められたものになる」


 なるほど、よく分からない。そう思っているのが分かったのだろう、彼はどこか生ぬるい笑顔で締める。


「……つまり、アンタは勝手に名乗れるけど、オレは人間に名付けを行ってもらわないと名乗れないんだ」


 わぁ、分かりやすい。だけど、だんだん私の扱いが幼い子供に対するそれになっているような気がしなくもない。……まあいいや。ショタにされる扱いなら何でも受け入れよう。そんな私は自他共に認めるショタコンである。

 しっかし、……何? 人間がレッドデータブックに載ってるレベルなのに人間にしか名付けられないって、厳しくないかな。みんな適当な渾名で呼び合ってるの? 面白すぎでしょ。


「ちなみに、あなたはどう呼ばれていたんですか?」

「――秘密」


 人差し指を口元にあて、彼は密やかに微笑んだ。ショタらしくない、大人びた表情に心臓が大きく音を立てる。やだ……好き。


「呼び方がなくて不便だったら、アンタが……いや。レイ様がつけてくれよ」 

「れ、鈴様!!? ――駄目です無理です。鈴様なんて恐れ多い! 鈴って呼んでください。呼び捨てで、是非とも呼び捨てで! お願いします!」

「わ、分かった。……レイ」


 私の勢いに若干引きながらも、彼は受け入れてくれた。よかったよかった。ショタは崇めるものだからね、私が上に立つなんてとんでもない。

 って、反射的に返してしまったけれど、よくよく考えると大変なことを言われなかったか。


「……私が、つけるんですか?」

「不便だったら、って言っただろ。オレに強要するつもりはない。……レイの意思に任せるよ」


 やはり、苦笑気味に彼は言った。なんだかなぁ。ショタにはもっと、太陽みたいな笑顔を浮かべていてほしい。彼の性格がそういうものとは離れているとしても、私個人としては……子供は、心の底から笑うべきだと思う。

 子供は宝だ。未来だ。可能性だ。……希望、だ。だから、愛さなければならない。愛されなければいけない。私みたいになっては、いけないのだ。


「レイ? どうかした?」

「……名前、ほしいんですか?」


 彼は、少し虚をつかれたような顔をした。そして、ふっと、儚い笑みを浮かべる。


「……ほしいよ」


 その笑みが、どこかの誰かに重なった。欲しがることを恐れて、願いが叶わないことに慣れて、世界を諦めた。誰かの。……鏡の中にいた、小さな少女の。


「じゃあ、考えますね」

「いいのか?」

「その代わり、お願いがあるんです。交換条件」

「……なんだ?」


 彼の声が固くなる。表情も強張った。警戒しているのだろう。それを正しく認識しながら、笑顔を作る。


「盛大に喜んでください」

「――は?」


 心底理解できないという顔で、彼は声を上げた。だろうね。


「私に名前を貰えて、嬉しいって思ってください。……変なことを言ってるなんて、分かっているんです。だけど」


 私はなおも言い募る。彼は、ショタだけれど、それだけじゃなくて。森の中で寝こけていた私を起こしてくれて、いろいろ教えてくれて、……それで。

 彼は、優しい子だ。だから、幸せでないといけないと思う。それだけだ。それだけの理由で、私は彼に名前をつける。

 ……重いな、と思った。私の感覚では、名前をつけるのは親の役目だ。名付け親なんて言葉もあるのだ、無関係なはずの私に軽率にできることじゃない。

 だけど、私は。私に優しさをくれた彼に、報いることができるなら。


「……私、あなたに、笑ってほしい」


 口説いてるのか、みたいな台詞だ。自分の言葉ながら、もう駄目だと思った。彼は私を不審に思っただろう。まあ、そうだよね。私は結局、自分の恩人にさえ何も返せない人間の屑でしか――。


「レイ、アンタ、何も分かってないんだよな」


 何度も言われた言葉。それが、今までとは違う響きを持っている気がして、思考を止めた。


「……名付けの儀の意味も。オレが何も教えずに、アンタに何を強いようとしているのかも。……分かってないんだよな」


 彼は、笑っている。嘲るように。蔑むように。世界全部を憎んでいるような、膿んだ目で。


「だから、そんなことが言える」


 白い手が、私の頬に触れた。表情とは裏腹に、ひどく優しい手つきで。触れた一瞬、彼はどこか泣きそうに顔を歪めた。見間違いかと思うほどの一瞬だったけれど、ショタの表情を私が見間違えるはずがない。

 彼は、何を抱えているのだろう。どうすれば、私は彼を心から笑わせてあげられるのだろう。何も思い浮かばない。……やっぱり、私じゃ駄目か。


「レイ」

「なんですか?」

「……オレ、アンタに何も返せない」


 低く落とされたそれは、懺悔でもするような声色だった。目を見開いて彼を見る。


「返してほしいと思うほど、私は何もしていませんよ」

「神官以外が行う名付けの儀は、名前をつけるだけのものじゃないんだ」


 そんな気がしていた。でも、私は私なりに覚悟を決めていたつもりだから。それでも。


「……名をつけることによって魂を縛りつけ、隷属させる。オレは、アンタに黙って、アンタの所有物になろうとしていた」


 それは予想していなかった。慌てて首を横に振る。彼が私の所有物になるなんてそんな、天使に対する冒涜でしょ。


「それは駄目です!」

「レイならそう言うと思って、黙っていたんだ」


 卑怯だろ。そう呟いて、彼は目を伏せる。いや、確かにデメリットを告げずに契約を迫るのは詐欺だけど! ショタになら騙されていいっていうか本望っていうか。でも私が上の立場とか許せないし……! ああ頭が回らない! とにかく憂い顔も麗し――いやそんなこと考えてる場合じゃないよ馬鹿!! 私が馬鹿!!

 混乱がひどい。


「な、んで。なんであなたはそんなことをしようと思ったんですか? 私なんかの所有物になろうだなんて」


 混乱したまま、頭に思い浮かんだ疑問を口にする。


「オレは、黒い髪と黒い目を持っている、獣だから。……そうすることでしか、生きられない」

「どうして!?」

「……かつて、女神に反逆した一族は、黒髪黒目だった」


 だからなんだ、と。そう言いそうになったのを堪え、彼の言葉を待つ。彼は顔を上げて、冷たく笑った。


「オレの、先祖だ。……呪われているんだよ、オレは。黒い色を持つ者は。この世界で唯一、魔力を持つことが許されないオレたちは」

「呪われて、いる?」

「そうだ。普通は近寄ろうとしないし穢らわしいものだと遠ざけるし、恐れる。……だから、ずっと、人里離れた森の奥で、ひっそりと暮らしていたのに」


 絶望。それだけが、彼の瞳に映っている。きっと、私のことなんて見ていないのだろう。彼の見つめる先には、変えられない過去だけがある。


「滅べ、ってさ。罪深い血は絶えるべきだって、奴等が村に来て、すべてを奪って行った。みんなあの森に入れられたんだ。人間の血が濃い奴らだけが知っている、断罪の魔術で、あの森に!」


 叫ぶ声は、悲痛に震えていた。後悔か、悔恨か。彼が抱く感情が、私には分からない。ただ、森の中に彼しかいなかったこと。彼が、他の誰かについて言及しなかったことから、どうしようもない現実だけが理解できた。


「みんな、死んでしまった」


 慰める言葉は、思い浮かばない。何もかもを喪ったことなんて、私にはないのだから。いや、よく考えたら今現在の私は元々の世界のすべてを喪ったのかもしれないけれど。私は私の人生に納得してるし……。

 彼の悲しみは、私には理解できない。

 途方のない断絶が、目の前にあった。手を伸ばそうとして、自分の手のひらの便りなさに愕然とする。無理だ。私には、無理、だ。


「なんでオレだけが生きているのか、何度も何度も考えた。死のうと思ったことだって何度もある。だけど、みんなが言ったんだ。生きろって、死ぬなって、……忘れるなって。だからオレは、死ぬわけにはいかない」


 利用されてくれるか。そう問う声が、耳奥でこだました。そうか。そういうことか。私が彼に名前をつけたら、彼は私の所有物になる。そうすれば、生きていける。死なない。彼の願いがそれなら、私は。


「レイ、オレはさ。……生きなきゃいけないんだ。最後の血族として、彼等のことを遺さないと」

「ナハト、とかどうです?」


 彼の言葉を遮って、告げる。彼は面食らったような顔をして口を閉ざした。辛いことをこれ以上話してもらうのは、心が痛い。

 治りきっていない傷跡を抉って血を滴らせているような彼が、もう見ていられなかった。子供が自分の心を傷つける様子なんて、見たくなかった。私が彼の願いを受け入れればいいだけの話だ。だから。


「夜、って意味です。あなたの髪と眼は、月のない夜のように綺麗な闇の色をしているから。……気に入らなければ、考えますけれど」


 かつてかっこいい単語を調べていた記憶を探り、考えたのだ。いやぁ、中二病が役立つときもあるんだね! ……古傷も痛むけれどね! うぅ……、シスターにノートが見つかったときは地獄だったよ。神父様にまで読まれた時は思わずノートを破り捨ててしまったっけ。素手で。火事場の馬鹿力である。


「……オレの、名前?」


 彼は、呆然とした声で呟いた。やっぱり気に入らなかったかな。いや、そもそも、ここが外国語圏の名前を用いているとは限らない。日本語名のほうがよかった? 一般的な名前の例を聞いておくべきだった……。私ってば迂闊。


「はい。あの、気に入らなければ……」

「いいの、か? レイ、は……。オレのご主人様にはなりたくないんだろ」

「絶対嫌ですね。本当に無理。地獄が如き解釈違い。見えてる地雷を自ら踏み抜いた愚かさに心臓止まりそう。もはや吐きそうです」

「そこまで言うか」

「そこまでなんですよ」


 力強く肯定する。私はショタコンだ。ショタコンとは、ショタの奴隷であり下僕である。っていうかショタが神。もしくは天使。だから、私はショタを常に崇拝し崇敬し崇め奉ることを信条としているのだ。

 ショタのご主人様になるとかもう、私の在り方に反するってレベルじゃない。精神に負荷がかかって吐血しそう。もう死にたい。死にそう。無理。心が死ぬ。しんどい。解釈違い地雷です。

 ……だけど。そんなことよりも、大事なのは。


「だったら、」

「でも、あなたがそれを望むなら、私は叶えたい」


 彼が、息を呑んだ。理解できないものを見る目で、私のことを凝視している。まあ、私の生態が理解されないのはいつものことだ。気にしない気にしない。シスターだって、鈴さんの言動は度し難いですねぇふふふ、って言ってたもの。神父様だって、鈴は子供達のことになるとトチ狂ってるなって言ってたし。


「……変わってる、な。レイは」

「よく言われます」


 彼は、呆れたような苦笑を零したあと、私の手に触れた。硝子細工に触れるような、繊細な手付きで。彼はそのまま跪き、私の手を額に当てる。なんとなく、なすがままになっていた。多分だけど、名付けの儀には必要なことなんだろう。分かんないけど。


「名前を呼んでくれ」

「――え?」

「レイがくれた、オレの名を」


 懇願じみた色の声と共に、彼の額に当てられた手の甲が少し光った。その場所が熱を持ったように、じんじんする。嫌な熱ではない。むしろ、こう……心地良い? ほら、お灸みたいな感じ。お灸やったことないけど。


「……ナハト」


 視線だけで私を見上げる瞳は、透明な夜を宝石に閉じ込めたような美しい闇の色だ。私にとっては。少なくとも、私にとっては――百億の宝石よりも価値のある宝玉だ。ああ、美しい。

 私なんかにできることがあるなら、何でもするよ。

 私なんかの言葉で笑ってくれるなら、道化でも何でもいいよ。


「なあ、レイ。オレは何も持ってない。オレには何もない。この命の他に、オレに捧げられるものは何もない」

「……何も捧げる必要はありません。私は、あなたから何も奪いたくないのです」


 やっぱり、少し呆れたみたいに。ナハトは軽く微笑んで、ことりと首を傾げた。……えっ。何その仕草可愛いもう一回やって言い値で払うから。


「そう言うなよ。いらないって言われても押し付けるつもりだけど、あんまり拒絶されると寂しいだろ」

「いや、だって、えぇえ……? 主従関係ってだけで吐きそうなのでもう少し手加減していただけますか? むしろ私が跪いて靴でも舐めたい気分だっていうのに」

「止めてくれ。頼むから止めてくれ」

「はい止めます」

「……レイのこと分かってきた気がする」


 苦笑して、ナハトは私の手を一際強く握り締めた。空気が変わる。彼が纏っていた雰囲気が一変する。


「――この命と、未来と、心。オレが……ナハトと名付けられたこの矮小な存在が今持っているすべてを、お前に捧げるから」


 さては相当に強情だな、この子。私もなんとなくナハトのことが分かってきた気がする。はぁ〜意志が強いショタって素敵。もう何をしても愛しい。


 そんな馬鹿げた思考の裏側で。ただ、祈るような声だ、とも思った。祈り。教会で何度となく聞いた声色のはずなのに、決定的に異なる点がある。


「これからの時間を、共にいさせてくれ」


 それは、彼がきっと、神様なんて信じていない点だ。


「うん」


 あっ、考え事してたせいで口調を間違えた。ステイステイ。私の口がステイ。相手はショタだぞ……? タメ口利いていい存在じゃないぞ。もっと平伏して下僕みたいな口調で話せ。


「……こちらこそ、よろしくお願いします。ナハト」


 内心の気持ち悪さを微塵も出さないように気を付けながら、私は微笑んだ。ナハトも笑う。

 ああ、その笑顔だけでいい。彼が私に捧げるものは、それだけでいい。


 だけど、もうそれは口にしないまま。ただ、笑みを深めるだけに留めておいた。

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