第1話 別れ

快晴の空の真上に太陽が位置づこうという時間。風は、春の香りを漂わせながら、静かに透き通るように吹いていく。さわさわ、と草木が揺れ、外で寝れば、それはもうぐっすりと眠ってしまうだろう。


「……むぅ、本当に行くのだな」


 そんな中、軍服を着た紅栖乃木織羽くすのきおりはは、不満そうに頬を膨らませていた。彼女は今、屋敷一階にあるベランダの椅子に座ってお茶をしている。テーブルを挟んで反対側の席には、メイド服を着た鳴渡薫子めいどかおるが座っていた。


「はい、お嬢様」


 織羽の先ほどの質問に対し、短く肯定の意を示した。

 薫子は、背筋をぴーんと伸ばし、良い姿勢のまま座り続けている。腰が痛くならないのだろうか。


「おい、薫子。何回も言っているだろう。俺を呼ぶときは、お嬢様と呼ぶなと!」

「いえいえ、滅相もございません、お嬢様」

「うがー! 絶対面白がっているだろ!?」


 織羽は、男口調で叫んだ。


「お嬢様こそ、その男口調をお止めになられた方がよろしいかと」

「いいじゃねえか、かんけーないだろ」

「ならば私がお嬢様と呼んでもかんけーありませんよね?」


 図星、とばかりに冷や汗をかいて何も言えない織羽。その傍らで立っていたメイド服を着た天上彩花あまがみさいかが、クスクスと口に手を当てながら微笑した。

 三人が現在いる場所は、紅栖乃木家が所有するひとつ──織羽に与えられたお屋敷にいた。薫子、彩花は、その屋敷のメイドであった。


 メイド長、天上彩花。


 特別メイド長、鳴渡薫子。


 この二人の長とその他数十名のメイドたちが、織羽の身の回りのお世話を行っている。

 メイド長の仕事は、メイドの指揮や指導、織羽の付き人だ。織羽が生まれてきてから今までメイド長をしているらしい。一体何歳なのやら。見た目は、二十歳前後にしか見えない。

 そして、特別メイド長の仕事は、主に織羽のボディーガードだ。外でのお食事や行事でのボディーガード。メイド長には、従えるメイドがいるが、特別メイド長にはいない。薫子ひとりなのだ。


「なあ、薫子。行ってしまうのか?」


 行ってしまう、ということはつまり、薫子がこの屋敷を出ていくということだ。なぜそのような話になったかといえば、たんに薫子の家の都合であった。

 薫子の家族は、現在母親のみ。父親は、薫子が小学六年生の頃に、仕事に行く最中、電車の事故で亡くなったのだ。その当時、母親も仕事をしていたので生活には困らなかった。しかし、中学一年になろうかという春の日、母親が病気になり入院。癌だった。母親の収入しかお金が入ってこなかったため、その日を境に薫子は、バイト探しをし始めた。その最中、ひとりの少女が黒い服と覆面を被った五人組の男らしき人物たちに誘拐されているところを目撃。すぐに警察を呼び、薫子はその少女を助けるべく、誘拐犯たちに襲いかかった。結果は、薫子の圧勝。薫子の父親は、とある武術の弟子で薫子自身も小学一年生から弟子入りしたのだ。そのため、並みの人ならば瞬殺できるほどに強くなってしまった。(薫子曰く、女の子らしくないから嫌、とのことだったが、師匠に怒られたため諦めた。)そのとき助けた少女が織羽だったのだ。お礼をしたいと言われた薫子は、ならば雇ってほしい、と言ったのだった。

 そんなわけで何故か、特別メイド長となった薫子は、中学を度々休みながら不自由なく過ごしていた。しかし、中学二年の冬、治ったはずの母親の癌が再発。当病院では治療は行えないと、とある大学病院に移転することとなり、薫子はそれについていくことにした。高校は、決めていたところを断念し、その大学病院がある街の高校を受験することになった。受けた高校の偏差値は、元々決めていた高校よりも高かったが、薫子の学力ならば容易いことだった。結果は合格。この春から通うことが決まった。


「すみません、お嬢様。こればかりは、どうしても変えることはできないのです」

「おまえが謝る理由などない。少々距離はあるが、会えなくなるわけではないからな。今日の夜に出るといったな」

「はい。……でも、大丈夫でしょうか」

「なにがだ?」

「いやあの、私がいないと、誘拐されたりしますよ?」

「心外な」


 何故か織羽は、事件に捲き込まれやすい体質のようで、今まで何十回危ない目にあってきたのかわからないくらいである。薫子がいなければ、今頃死んでいたかもしれないのだ。


「大人を舐めるでない」

「大人、ですか……確かに大人ではありますが」

「何か言いたげな感じだな」


 織羽が大人。それはつまり、彼女が成人しているということだ。現在の年齢は、ちょうど二十歳。薫子よりも歳上だ。


「……大人、ですね」

「どこ見て言った!?」


 織羽は、胸がデカイ。今にも軍服がはち切れそうなくらいぱっつんぱっつんになっている。少し動くだけで微動する。けしからんおっぱいである。


「メイド長も胸大きいですよね」


 急に話を振られた彩花は、にこりと笑って言った。


「メイド服が似合うのは、胸が大きい人ですから」

「関係ないでしょう」

「あるだろう。現に薫子も胸大きいし、他のメイドだって、平均より大きいぞ」

「お嬢様からすれば、ちっぱいです」

「考えたことなかった。てか、ねみー」

「寝ないでくださいよ、起こすのに疲れますから。メイド長が」

「お昼寝を起こす担当は、薫子さんですよ」

「押し付けないでください。でもまあ、私も眠いです」


 織羽と薫子は両名とも、一日中眠い。眠くない日がないのだ。


「さて、そろそろ昼食のお時間です、お嬢様」

「ああ、行くか。あ、薫子も一緒に食べるのだぞ」


 織羽は、立ちながら言った。


「いえ、そういうわけにはいきません」

「おう、そう言うと思った。ならば、メイド全員も一緒にどうだ、メイド長?」

「お嬢様に言われては、断ることはできません。薫子さん、よろしいですね?」

「はい……」


 このお嬢様には逆らえない、そう薫子は思った。





 夜になり、メイドたちは、明日の朝食の仕込みやらなんやらを行っていた。その場には、彩花と薫子の姿はない。織羽の部屋にいるのだ。


「さて、薫子。もうじきここを発たなくてはならない。名残惜しいか」

「いえ、ぜんぜん」


 ポカーン、と音がしたような気がした。現に織羽は、ポカーンとしている。


「嘘です。真に受けないでください」


 冗談で言ったようだが、織羽は信じたようだった。織羽には、冗談が通じないのだ。彩花は、クスクスと微笑する。堪えようとしているのだろうが、堪えられていない。そこまで面白かっただろうか、と薫子は首を傾げた。


「おっと、忘れてた。リビングに行くぞ」


 そう言って織羽は、先頭に立ち、ずかずかとリビングに向かった。薫子がリビングに着くと、織羽は壁に設置された大きなパネルを操作していた。そのパネルは、テレビ電話であった。基本このテレビ電話にかけてくるのは、織羽の両親と兄だけだ。

 紅栖乃木家の現ご当主、紅栖乃木玄霧は、主に電子技術の開発を行っている会社(クスノキ社)を経営している。社長である玄霧は現在、日本にある本社を離れ、アメリカに構えた支社のところに妻(織羽の母親)の鞠といるのであった。日本の本社には、息子(織羽の兄)である啓介を社長代理としておいている。(副社長の荒垣明(本歳三十二歳)は、ぎっくり腰のため入院中)

 啓介は、会社で用事がなければ頻繁に来れるが、海外にいる両親はそうもいかなく、だけどどうしても顔が見たいと、このテレビ電話をつけたのだ。


「お、でたでた。こんばんは、母さん、父さん」


 画面に男と女が映る。玄霧と鞠である。どちらも見た目は若いが(というか、二十歳くらいにしか見えない)、歳はすでに四十半ばだ。啓介と織羽を産んだのは、結構若いときなのだろう。


「やあ、織羽。彩ちゃんと薫ちゃんも元気そうだね」

「あなた、やっぱり啓ちゃんのお嫁さん候補にお二人を入れましょうよ」


 などと冗談を言う鞠。それに対して、彩花と薫子は顔を引き攣らせた。話すときはいつもこうなのだが、慣れない。

 気を取り直して、二人はお辞儀をした。


「お元気そうで何よりです」

「あら、彩ちゃん。あなたも元気そうね。薫ちゃんも元気そうで安心したわ」

「二ヶ月ぶりだからね、久しぶりに顔を見た感じだよ。さてと、薫ちゃん。今晩出るんだね」


 玄霧が話をきりだした。はい、と答えると、織羽の名前を呼んだ。それが合図だったのか、織羽はひとつの四角い段ボールをテーブルに置いた。


「何ですか、これは」

「うん、これはね、ヘッドギアっていうものなんだ」

「あのヘッドギアですか」


 ヘッドギア。ヴァーチャルゲームをするためのゲーム機である。ヘッドギアが発売されたのは、去年の夏。それからとあるゲームが話題となっていた。


「ヘッドギアを作ったのが僕の会社だっていうことは知っているね?」


 玄霧の会社では、色々なことをしている。そのひとつがヴァーチャルであった。これまでのヴァーチャルといえば、ゴーグル型の意識拡張型ヴァーチャルに近いものだった。現実で体を動かさなければ、ヴァーチャル内で動けない。それを何とかしようとしたのだ。その結果完成したのが、ヘッドギアである。

 このヘッドギアを被ることにより、意識をヴァーチャルの世界に移し、現実世界では眠っている状態にできる。ヴァーチャルから現実世界に戻るための方法は二つ。一つは、ヴァーチャル内でログアウトすること。二つは、現実世界で強制的に電源をオフにすることだ。脱水症状や空腹状態など体に異常が起きた場合、告知されるため安全である。


「ヘッドギアを出したときに、それと同時に僕の友人がやっているゲーム会社のヴァーチャルゲームを出したんだ。それも知っていると思うけど、是非君にもやってもらいたくてね」


 そういうことでしたか、と薫子は言った。彼が言ったことは本当なのだろう。だかしかし、ひとつだけいっていないことがある。それは、織羽がお願いした、ということだ。織羽は、彩花とヴァーチャルゲームをやっている。前々から、一緒にやろうと誘われたが、彩花が一緒にやる以上、現実世界で私が守っていなくてはと言って断っていたのだ。


「貰ってくれるかな」

「旦那様の好意であるならば。ありがとうございます」

「ゲームデータはヘッドギアに入っているから、ソフトは買わなくていいよ。ああ、鞠ちゃんも何かあったんじゃなかったっけ」

「そうよ。薫ちゃん、私からプレゼント」


 織羽がまたもや何かを持ってくる。今度は、ヘッドギアが入っていた段ボールよりも大きい。織羽はそれをテーブルに置く。どうやら、銀色の大きなアタッシュケースのようだ。


「その中にね、メイド服が二十着──違ったわ、十着入ってるの」


 今、二十着っていわなかったかな? と薫子は思ったが口には出さなかった。というか、十着でも多い。


「私からは、メイド服をあげる。使ってね」


 何に使えと言うのか。それは着れと言っているようには思えなかった。何か、別の意味があるのか。薫子は考えたが、すぐにやめた。何故ならば、普通に着ればいいのだから。


「あとそうだ。突然だけど、薫ちゃんが借りたマンションの部屋、売ったから」


 本当に突然、爆弾発言をした。

 汗がだぶだぶと流れていきそうな雰囲気の薫子を見て、慌てたように言った。


「あ、ああ、大丈夫、そうじゃなくて。君が通う高校の近くに僕が買った家があるんだ。そこを使ってほしくて。全然行かないからどうかなって」

「そ、それなら良かったです……。はい、使わせていただきます」


 心臓に悪いと薫子は思った。今にも心臓が飛び出そうだった。


「父さん、薫子が死んじゃうところだったぞ。いきなり、売ったと言えばそうなるだろうに」

「それは僕が悪かったよ。お、もうそろっとでたほうがいいかな。今までありがとう。君がいなければ、織羽はいなかっただろう。本当にありがとう」

「いえ、私は何も」

「謙遜する必要はないわよ。あなたは、メイド中のメイドと言っていいほどよ」

「それは言い過ぎでは」

「言い過ぎじゃないよ。君は、自己評価が低すぎる。もう少し過大評価してみたらどうだい?」


 そうします、と薫子は言った。

 玄霧と鞠との電話を終えたあと、薫子はメイド服のまま屋敷をでた。駅まで彩花が送ってくれるそうで、織羽もついてきた。メイドたちには、薫子が屋敷を出ていくことを知らせていない。あえてだ。これは、薫子が決めたこと。また会えるだろう、そのときのは立派なメイドになっているだろう、と思いながら、屋敷が遠ざかるのを見ていた。

 車が走る中、薫子と織羽は、何故かじゃんけんをしていた。なにゆえ。


「暇だから」


 それが理由だった。いや、何を話せばいいかわからなかったからじゃんけんをし始めたのだ。


「お嬢様」


 薫子が織羽を呼ぶ。なんだ、と織羽は返した。


「ゲーム内でいつても会えます」

「うん」

「現実世界でも会おうと思えば会えなくはない距離です」

「うん」

「それに、どのみちこちらに来る予定なのでしょう?」

「うん」

「電話もできますし、泣く必要はないのですよ」

「むにゃぁぁぁ……」

「猫ですか」

「いいえ違います。ゾンビです」

「……急に話に割り込んできましたね、彩花さん」


 薫子は、仕事のとき以外ではメイド長のことを彩花さんと呼ぶ。織羽のことはお嬢様であるが。


「それは何でだ」


 その問いに、よくわりません、と返した。


「しっくりきますけど、それが理由ですかね」


 車は、夜道を走り続けた。





 駅のホームで、織羽は薫子に飛び付いた───のを薫子は交わした。でちょーんと床に倒れた織羽は、ガバッと起き上がると諦めず再度飛び付いた──結果は同じ。

 それを繰り返していたら、新幹線がご到着したために薫子はすぐさま乗り込み、飛び付きを回避した。


「では、お嬢様、彩花さん、お世話になりました。また会いましょう」

「ええ、今度、お食事にでも誘います」

「そうですね、彩花さんと二人で行きたいですね」

「まて、俺は!? ま、いいけどさ。そだ、春休みは個人でレベル上げして、春休み後に一緒にやろう」

「ゲームの話ですね。わかりました」


 織羽と彩花は、ベータテスターではなく、第一陣のプレイヤーである。ベータテスターよりもレベルは低いが、結構なレベルになっているだろう。春休み開始からは、第二陣が入ってくる。薫子はそのグループだ。


「そろそろです、お嬢様。ひとつだけいいでしょうか」

「なんだ? 行きたくなくなったか?」

「いえ、そうではなく……もし、もしも私が、またお嬢様の下でメイドをやりたいと言ったら、雇ってくださいますでしょうか」

「当たり前だ」


 織羽はきっぱりと言った。それがお前の定めだとでも言うかのように。


「ありがとうございます」


 その言葉が合図だったのか、扉が閉まった。動き出す。薫子は織羽たち二人に、織羽と彩花は薫子に手を振り続けた。薫子はオーム、織羽たちは新幹線が見えなくなるまで。


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