屈従より生まれしカイネウス

「公開立ち稽古?」

 怪訝な顔をする薄川に枯木が「おう」と頷いた。

「つっても、一般の客が来るわけじゃねーけどな。キミドリの広報だかなんだかのおエラいさんと、演劇系メディアがウチの内情を視察しにくる。ま、取材と宣伝だな」

 七月――依頼していた楽曲も無事完成し、『フラ泥』の稽古も本格化してきた。薄川もアルバイトのシフトを大幅に減らし、できる限り練習に参加していた。

「あーなるほど、そういうのですか。ここもそういうのやるんだ」

「いや、俺の知ってる限りじゃ初めてだな」

 枯木は首にかけていたタオルで額の汗を拭い、休憩所の壁に掲示された告知を見上げた。

「マーケティング、つうやつなんだろうな。大手じゃあ普通なんだろうが、どうも調子狂うぜ」

「うーん……」

 薄川が難しい顔になる。

「どうした?」

「いえ、今気づいたんですけど、これってキャストにインタビューしたりするんですかね」

「そりゃ少しくらいはするんじゃねえか?」

「大丈夫だと思うんですけど……今回のキャストって、新人のコ多いじゃないですか? それも、ちょっと問題のあるようなのが何人も……」

「……あー」

 この二ヶ月のことを思い出し、枯木も頭を抱えた。

 サボり魔の吾風。協調性がない真鉄と伊櫃。普通にレッスンしていても神経をすり減らすような連中が揃っているのに、そこに外部の人間が来たらどうなるか? 考えるだに恐ろしい。

「まあ……そこらへんは亜理愛も考えてるだろうが……いざとなりゃあきっと、斎波がなんとかしてくれるだろ」

「斎波さんが?」

 訝しむ薄川。

「あいつはこういう、“外”への対応がめっぽう上手いからな。取材連中もペーペーよりは斎波に注目してるはずだ。いい囮になってくれるだろ」

 つーかよ、と枯木は薄川を見る。

「他人事みてえに言ってるけど、おめーもメインキャストの一人だろ。俺とかの大したことねえチョイ役とは違ってよ。まだ若いんだから、キミドリやメディアに顔売っとけば今後のためになるんじゃねえか?」

「……あははー」

 枯木の言葉に、薄川はどういうわけか笑いなから目を逸らした。

「なんだよアハハって。どういう反応だよ」

「いやー、あたしはそういうの、別にいいかなって……」

「よかあねえだろ。今後のことかかかってんだぞ」

 薄川の顔にはあからさまに『めんどくさい』という言葉が浮かんでいる。後輩に舐められるのは慣れっ子だが、まあ面白くはない。

「まああれだよ、おめーももうちょっと“当事者意識”ってやつを持っとけよ。体力があるうちに色んなことやっとかないと、後で面倒だぜ」

「なんかそれって体験談っぽいですねー」

「うるせーよ」

 ……こいつもこいつで、なかなか一筋縄じゃいかねえな。

 枯木が怒ったような素振りをすると、薄川はけらけら笑ったようなフリをした。




 薄川の危惧はしかし幸いにも杞憂に終わった。公開稽古は平日の日中に行われることになり、まだ夏季休暇が始まっていない学生――伊櫃と真鉄は授業に専念するように言い渡された。

(吾風も来ないだろう)

 というのが団員の大半の見解だった。何しろオーディションに合格しておきなから、稽古にほとんど出ていないような参加態度である。代表・亜理愛は早くも降板を考えているという噂がまことしやかに囁かれているほどだ。そんな調子で、まさかこの日に限って自主的に来ることはあるまいと誰もが踏んでいた。

 にもかかわらず。

「なー、取材って受けたら、金もらえるかなー。ワイロとかくれるかなー」

 当日しれっとごく当たり前のように来ている吾風に、誰もが驚愕と困惑を感じた。

 なんでいるんだよ、お前。

「もらえません。取材料その他は劇団で受け取っていますから、直接団員には渡されません。給料に上乗せしておきますから、期日まで待ってください」

「えー」

「ユウちゃんはいっつもお金目当てねえ。取材料なんて悪いこと、どこの誰が吹き込んだのかしら」

 代表の説明に口を尖らせる吾風に、葉原は呆れてため息をついた。

「あれ、今日はユウジくんいるの? よかった、そろそろワルテールが出るところやりたかったんだよね」

 ちょっと予定とは違っちゃうけど、と乾は背後を振り向いた。

「別に構わないよね?」

「はい。そちらの都合のいいように進めてください」

 と、応えたのは――『キミドリプロダクション』の看板を背負ってやってきた若い男だった。

「申し遅れました。キミドリプロダクション広報部の小角緑おづのみどりです」

 名刺を差し出しながら、男――小角は折り目正しく頭を下げた。

「キミドリから来たミドリくんかあ」

「はは、よく言われます。いっそ、“オヅノキミドリ”って名前にできたらいいんですけれど」

 『如才ない』という言葉が似合う立ち回りだ、と斎波は思う。

 年齢は本当に若い。おそらく、斎波と変わらないくらいだ。にもかかわらず、大企業の名を背負って単独で来ているのだから、かなりのエリートで、かつ実績も多く出しているのだろう。

「あれ? じゃあ、オーディションのときに来てたサカグチさんは?」

「阪口は、別件の仕事が入ってしまって……以降の仕事は私が担当することになりましたので、よろしくお願いします」

「うん。よろしくねえ」

「よろしくお願いします。それで、今日の段取りのことですが」

 亜理愛と小角が話し始める。その様子を眺めていた斎波の袖を、宍上が引いた。

「斎波さん」

「あ、ああ? どうした、宍上君」

 振り向いたが、視線を合わせられない――あの日、宍上に暴言を吐いてしまって以来、彼に対してどう接するべきかわからなくなっていた。お互いに謝っているのだから、表面上は終了しているのだが……斎波の心中は未だ片づいていないのだ。

 私はいつまで、何にこだわっているんだ。

 自分が悪いことはわかりきっているのに、どうして腹がむずむずとおさまらないのか。しっかりと反省し、忠告には真摯に耳を傾け、言動に気をつける、とやるべきことは明確であるのに。

 胸に渦巻く正体不明のものを隅に追いやり、斎波は笑顔を作る。宍上はどことなく不安げな顔をしていた。

「あの人のことなんですけど……」

「うん? 小角さんがどうかしたのか?」

 件の小角は亜理愛達とにこやかに話している。

「僕がキミドリにいた頃、彼と何度か話したことがあるんですけど。なんて言ったらいいのか……あの人、“怖い”んです」

「怖い?」

 見たところ、普通の好青年だが。

「直接的に何かするわけじゃないし、悪いことを考えているふうでもないんですけど……すみません、本当に、どう言えばいいのか自分でもわからなくて」

 宍上はらしくもなく奥歯に物が挟まったような言い方をする。

「とにかく、あの人には気をつけてください。あんまり、不用意に近寄らないほうがいい人だと思うんです」

「……わかった」

「信用してくれるんですか?」

 意外そうな顔をする宍上に、斎波はもう一度ああ、と頷いた。

 言い分は不可解ではあったが、宍上が何もなしにこんなことを言う人間ではないということは充分わかっている。それに、この間のこともある。どういう理由であれ、彼が心からしてくれる忠告をこれ以上無碍むげにはしたくない。

「注意はしておくよ。接する機会はさほどないだろうし、大したことはないと思うが」

「そうだといいんですが……」

 なおも不安げな顔をしている宍上に斎波は「大丈夫だ」と笑いかけた。

「私は丈夫なことだけが取り柄だからな。ちょっとやそっとじゃ傷つきはしない」

「……そう、ですね」

「二人とも、こっちに来てくれるかしら」

 話が終わったのか、亜理愛が斎波達に声をかけた。

「今日はこれから一時まで全体稽古。一時間休憩したら、二時から二人は取材を受けてもらいます」

「インタビューがあるんですか?」

「ネット記事に載せる用なので、五十文字程度の短いコメントになりますね」

 小角が答える。亜理愛は少し眉根を寄せて斎波のほうを見た。

「内容については後で私がチェックします。宍上君は慣れているでしょうし、斎波君も大丈夫だとは思うけれど」

「……失言にならないよう、気をつけます」

 取材を受けたことはまったくと言っていいほどない。前座長時代はキャストに取材を受けさせない方針だったし、他所で仕事をしているときも注目されたことはなかった。変なことを言ってしまわないか我ながら心配で、真面目な顔でそう答えると、小角が軽く笑った。

「そんなに緊張しないでください。おかしな質問をするわけじゃないんですから」

「はあ……」

 一言のコメント程度なら、別に心配する必要もないか。なおも不安そうにしている宍上に引きずられたのか、斎波も肩の力を抜くことはできなかった。




 全体稽古と言っても学生組がいないので、真鉄演じるルチオなど欠席のキャストのシーンは飛ばして行われた。

 脇役もアンサンブルも新顔が多い今回、どんな動きになるか少し心配だったが、目立ったトラブルもなく一幕の半ばまで来ることができた。

「じゃあ、次はワルテールが初めて登場するシーンね」

「うぇ〜」

 乾の指示に、床に座り込んでいた吾風がだるそうに立ち上がる。そう、問題は彼だ。

「ねーカントクさん、おれ眠いんだけどあとでじゃだめ?」

「だーめ。きみのところ全然やれてないから早く詰めちゃいたいんだよ。寝るのは全部終わってからね」

 まるで駄々っ子をなだめるような会話のあと、ふらふらと吾風が稽古場の中央まで歩いてくる。その場に待機していた斎波に、吾風はだらしなく口元を緩めて笑った。

「よろしくぅ」

「……よろしくお願いします」

 彼の態度には正直、苛立ちを超えて怒りすら感じてきたが、少なくとも今はその感情を露わにできない。ぐっと飲み込み、頭を下げる。

「……あー」

「どうした……どうしたんですか」

「台本、忘れちゃった。どこやるんだったっけ?」

 なんでこんな男が二十五年も生きていられたのだろうか。

「ここです。リュシアンを待っていたアデルが扉を開けると、ワルテールが出てくる」

「おー」

 自分の台本を貸す。既におおよその台詞は覚えているので問題はない。むしろ、台本を忘れてくるような人間がまともに演技ができるのかが心配だった。

「準備できた? じゃあ、アデルが扉を開けるところからね。はい、スタート」

 頭を切り替え、演技に入る――二人で店を開くために、リュシアンは身辺整理のため実家に戻っているところだ。自分アデルは引っ越し作業をしながらリュシアンの帰りを待っているところだが、これからの生活に対する不安やリュシアンがそばにいないことに心細さを感じていた。そこに呼び鈴が鳴る。

「『やあ、随分早かったじゃあないか。用事はすっかり済んだかね?』」

 見栄っ張りのアデルは、本当なら文字通り抱きついてしまいたいところを取り繕って紳士ぶる。小走りで乱れてしまったタイを治しながら扉を開けるのだ。しかし、そこに立っていたのは――


「『いいや、まだだね』」


 水を一滴も飲んだことがないような、ざらつき、ひび割れた低い声。泥にまみれた靴が、アデルの屋敷を踏みにじるかのように足を踏み出す。

 薄い唇から垣間見える黄ばんだ乱杭歯。悪徳高利貸し・ワルテールは隻眼の視界にアデルを捉え、にんまりと笑う――

(……いや、彼は吾風ユウジだ)

 稽古だということを忘れてしまいそうな気迫。衣装もメイクもなく、彼はただ台本通りに動いて喋っているだけだ。なのに、今の一瞬、斎波は彼を“ワルテール”だと認識していた。

 表現力――あるいは“説得力”と言うべきか。自称・未経験者であるはずの彼は、観る者に自分の役柄を認めさせる能力がずば抜けているのだ。

 オーディションの時もそうだった。事前に渡されていた台本の台詞をろくに覚えもせず、読みながら、つっかえつっかえで演っていたというのに、彼は間違いなく“ワルテール”になっていた。普段のだらしない生活態度を見るか、恐ろしいばかりの演技能力を取るか――少なくとも今回は後者だったようだ。

 理不尽だ、と思う。未経験というのが嘘なのか、あるいは本当に天賦の才能があるゆえなのかは斎波にもわからない。しかし、普段はほかの団員のモチベーションにすら関わるほどだらだらとした姿で、これだけの能力があるというのは……少なくとも練習には真面目に取り組んでいた伊櫃が可哀想にすら思う。

 ともかく、今は稽古だ。自分が感じた戸惑いをアデルの仮面に被せ、斎波は演技を続けた。

「『君らの用件はわかっている。僕の父フェリクスの負債の件……でしょう、そうだね?』」

 ぞっとする風貌の見知らぬ男――突然の闖入者に恐怖するのも束の間、聡明なアデルは彼の正体が父母を苦しめ、そして今なお自分を悩ませている借金取りだとすぐに察する。動揺も怯えも涼やかなポーカーフェイスに隠し、平静を装って対応する。

「『あン、何取り繕ってんだ、プティ? さっきまで恋人に逃げられたような顔してたくせによ』」

「っ……!?」

 台本にある台詞じゃない――アドリブ!?

「『仔犬みたいに尻尾をぶんぶん振って、いったいどこの誰を待ってたんだ? なあ、ママもパパも死んじまったちっちゃなベベちゃん?』」



「え? 今の、台本と違いますよね?」

 借りた台本と稽古の様子を見比べ、困惑する小角。その隣で見守っていた亜理愛も顔を青ざめさせた。

(どうして、こんなタイミングで――)

 単に台詞を忘れたからごまかしているふうではない。ならば、どういう意図なのか。

 これが本番ならば、観客へのアピールや共演者のミスに対するフォローなのかと納得できる。しかし、初めて出た稽古でいきなりアドリブなどはっきり言ってどうかしている。場を混乱させてしまうだけだ。

 いくら吾風が不真面目でふしだらな性格なとはいえ、無闇にこんなことをするだろうか。あるいはキミドリプロへのアピールのつもりか。どちらにせよ、無意味に考えなしのことをするようなら、彼を起用し続けるわけにはいかない。亜理愛は乾に視線を送った。

 しかし。

「いや、このまま続けさせよう」

「乾さん……!?」

 難しい顔をしながらもそう言う乾に、亜理愛は悲鳴じみた声を上げた。

「彼だってふざけてやってるんじゃないと思う。少なくともあれは、“ワルテール”の言葉だよ。――ああそっか、決められた台詞を無視してみんなをびっくりさせるなんて、いかにも仕草だよね」

「でも、今は稽古中ですよ!?」

 それも今日に限って外部の人間が見ているのだ。衆人環視の中で目も当てられない暴走をされたら冗談では済まない。

「大丈夫だよ。斎波くんは、まだアデルのままだ」

 と、乾は斎波を指す。確かに彼は凛々しくも虚勢を張ったアデルの演技を保ち続けている。彼は、この事態にどう対応するつもりなのだろう?

「不測の事態なんて本番でも起きるんだから、このくらいで焦っちゃだめだよ。それに、相手はあの斎波くんだ。彼ならこのくらい、ピンチでもなんでもないはずさ。シーンが終わるまでは大人しく見守ろう」

 そんなふうになだめられ、元々乾には頭が上がらない亜理愛は黙るしかなかった。

(大丈夫、なのよね?)

 演技を続行している斎波を祈るように見つめる。台本から大きくぶれた筋を、つつがなく終了させてくれると信じて。



 ――まずいな。

 ここは斎波アデル吾風ワルテール二人きりのシーンだ。当然、次の場面転換まで他のキャストは登場せず、助け舟は期待できない。吾風か何を考えているかわからない以上、事態を収拾できるのは自分だけだ。

 しかし――いったいどうする。

 本来の流れは、借金をするためにアデルは工面した金を渡す。だが、ワルテールは悪辣だ。待たされた分の利子が膨れ上がっている、こんなものではちっとも足りないとうそぶき、アデルに更なる支払いを求める。これ以上は払えないと懇願するアデルを嘲笑い、「金が作れないなら体でも売ればいい」と言ってワルテールはアデルに屈辱的な暴行を加え――

 ……いや。これまで意識しないよう努めてきたが、ここに来て触れないわけにはいくまい。アデルがワルテールから受けた行為は、“暴行”などという迂遠な表現ではなくはっきりと“性暴力”だと明言されている。

 それこそがこの物語の肝なのだ。美しさを誇りに抱いていたアデルは、卑劣漢によって身体を穢され、借金の為に男でありながら身売りをする境遇に落とされた。自分が生き地獄を味わう一方で、大切な友人であるはずのリュシアンが天使のように無垢であり続けることに妬んでしまう――さすがに舞台上であからさまに強姦の描写はできないが、アデルという人間を語る上で“性”は欠かせない要素なのである。

 なぜだ。

 なぜ、自分がアデルを演じることになったのだろう――台本を与えられてから、斎波はずっと考え続けていた。

 アデルが慰み者にされ、娼婦のように身売りをする羽目になったのは、彼が女性と並んでも遜色のない美貌を持っていたからなのだろう。……だが、斎波にはそんな美しさはない。まして、自分の身を幾度となく穢された経験も、それをひた隠しにしながらも生きていこうと足掻いたことも。

 ……理解できなくとも、演じるしかない。アデル役を与えられ、託された以上は。

 ワルテールに陵辱され、屈辱と恐怖に泣き震えながらリュシアンの帰りを待つ――このシーンを完成させなければ、この物語は成り立たなくなってしまう。

「『どうして僕の客のことを気にかけるのかな、ムッシュー・ワルテール? まさか、他人に聞かれたらまずい商談をする気で?』」

 まずはワルテールの気をアデルの態度から逸らさなければ。ワルテールの人となりはまだわからないが、見た目からして友人を紹介したくなるような人物ではない。どうせ金さえ払ってしまえばこれっきりの付き合いだ。余計なことを知られる前に、さっさと用を済ませてしまおう――このときのアデルはそんなふうに考えているはずだ。

「『君の手を借りねばならないような人間が、悠長に茶会を開いていられると? ……さっさと済ませてしまおうじゃないか、ムッシュー』」

 不安を見せたらつけ入れられる。あくまで対等であるように振る舞う。

 君の好きなようにはさせないぞ、吾風。

「『冷たいなあ? こっちは心配してやってるのによ』」

 吾風――ワルテールは肩をすくめ、ずかずかと距離を詰めてくる。こちらのほうが背が高いはずなのに、奇妙な迫力を感じる。

「『親父とお袋が仲良くおっ死んで、さぞ苦労しているだろうってなあ。しかしひでぇ親もいたもんだ、てめえで作った負債を全部ガキに投げてとっとと死に逃げなんてな』」

 挑発的な物言いに、にやにやと下卑た笑み。アデルを怒らせようとしているのか? いや、こちらをムキにさせて更なる弱みを握ろうという魂胆か。

「『てめえも殊勝なこった。てめえが作ったわけでもねえ借りを、わざわざ返そうとしてくれンだろ? 荷物まとめて夜逃げでもすりゃあいいものを』」

 ワルテールが顔を覗きこんでくる。顔にかかる吐息に、あるはずのない酒臭さやそこに混じる妙な薬の臭いを感じ、斎波は顔をしかめた。

「『逃げるなんて恥ずべきこと、僕は絶対にしない。後を継いだ以上、先代の負債もすべて清算するのが、責任というものだ』」

 そうだ――遺されたものは、受け継がなくてはならない。担うべき責任を放棄することなど、あってはならない。


「わかってねえな。てめえは別に、何も頼まれちゃあいねえだろ」


「ッ!」

 ワルテールの言葉として、アデルに向けられたはずのそれに、斎波はなぜかひどく動揺した。

 ――何も頼まれていない? ああ、そうかもしれない。けれど――あの人は、先生は、そう望んでいたはずだ。

 言わせるな、この先を。何も知らない人間に、勝手なことを語らせるな。

「『――くどいッ!』」

 この激昂きもちが本当にアデルのものなのか確信が持てないまま、斎波は札束を吾風に投げつけた。

「『君の仕事は薄汚い金貸しだろうッ! 余計な詮索をする暇があるなら、さっさと帰って金を数えていればいい!』」

 これで良いはずだ。金を手にした以上、吾風も流れを無視したアドリブは続けていられまい。吾風にアイコンタクトを送る。吾風は――にやにや笑いで札束の枚数を教えている。

「『お父ちゃんは、せがれに金勘定のやりかたも教えずにおっ死んだらしいな?』」

「『な――!?』」

 よし――流れが戻った!

「『そりゃあ奴に貸した船の値段だ! あれから何年経ったと思ってる、え? 返済待ちの利息分、手間賃、それと坊がああだこうだ理屈付けてお預けされた分も合わせてみろ、たったの三千フランで済むはずあるかよ!』」

「『そ、んな…………! 無理だ、払えない!』」

「『無理もなにも払うものは払ってもらう。なァに三千フランが作れたブルジョワ様だ、これくらい簡単だろう?』」

「『とんでもない……屋敷を手放したんだぞ? 売れるものは皆売って、それでようやくこれだけ作ったのに……!』」

 あとは、このままワルテールがアデルに悪魔の誘いをかけるところまでいけばシーン終了だ。家まで売ってしまった以上、アデルに最早金策はない。

「『だったら、てめえのお友達に頼ったらどうだ?』」

「え……?」

 ――またアドリブを!?

 なぜだ、何を考えている!? こんなもの、既に稽古の体裁を成していない。どうして吾風は、無意味なやり取りを続けようとするのだ。

「『何を、言って――』」

「『そろそろ盛りのつく年頃だもんなあ? 金をすっかり返しちまったら、囲い込んだ女と魂胆だったんだろ。え? てめえのお待ちかねのマシェリに頭を下げりゃいい。波止場でも行って稼いでこいってなあ!』」

 今の吾風は、ワルテールそのものなのか。

 斎波はふいに気づいた。

 演技ではなく、ワルテールに成りきってしまっている――だからひょっとすると、アドリブをしているという自覚もないのかもしれない。

 ワルテールとして見たまま、考えたままに行動しているのだ。

 最初いやにアデルの待ち人を気にしていたのは、そこに金の匂いを感じ取っていたからだ。アデルのリュシアンへの態度は、友人に対するものよりは恋人へのそれに近い。初めからふっかける気でいたワルテールにとってはアデルの恋人の存在はまさに鴨ネギだ。

 そして、きっとはアデルに身を売らせようとは思ってはいまい。

 がいるならそちらで事足りるのだろうし、何より――斎波の見た目は、女のように美しくも、性欲を抱かせるようなものでもないからだ。

 どうすればいい。

 ここでワルテールに負け、リュシアンを差し出すわけにはいかない。しかし、ワルテールが自発的に心変わりしてくれるはずもない。なんとかして、なんとしても、ワルテールに『アデルに“価値”がある』と思わせなければ。

「『や、やめてくれ……』」

 演技をせずとも、身体が自然と震えていた。リアルタイムで感じている恐怖、屈辱、嫌悪をそのまま『アデル』に出力する。

「『彼は関係ない……何も知らないんだ……』」

「『彼ェ? てめえ、“そっち”かァ?』」

 ワルテールが下卑た笑みを浮かべる。

「『新しい“パパ”が見つかったかよ。初心ウブなツラでやりやがる』」

 下品な言葉を言ってげらげらと笑うワルテールの前に、斎波はひざまずいてこうべを垂れた。

「『これは僕だけの問題だ。彼を巻き込みたくない。頼む……』」

「『なら――どうする? 払うんだろう? 絞り出してすかんぴんで、いったいどうする?』」

 アデルなら、きっとこうするはずだ。

 リュシアンに苦しみを味わわせるくらいならば、自分がそれを背負う――そう歌った彼なら、なけなしのプライドをも捨ててリュシアンを守ろうとするはず。

 それが、どれほど耐え難くおぞましい方法であったとしても。

 斎波は這いつくばったまま、吾風ワルテールの足に縋りつき――自らの頬を擦り付けた。いぶかしむ顔になるワルテールを、媚びた笑みを作って見上げる。

「『なんでも……どんなことでも、します。だから……』」

 急に初空のことを思い出した。

 誰かに自分の身体を、尊厳を明け渡して、無残に踏みにじられるのを待つことがこれほどまでに苦しいことならば――彼女はいったい、どんな気持ちで生きているのだろう。

 彼女もリュシアンのような心の支えがあったのだろうか? それとも――何もないままに苦しみの中を生き続けているのか。

 ならば、彼女にとってこの劇団は地獄ではないか。

「『……へえ』」

 ワルテールは面白そうに笑い、斎波の顔に手を伸ばした。顎を指で引き上げると、しゃがれた声で囁く。

「『どうするんだ? やってみろ』」

「『――――』」

 斎波アデルはゆっくりと立ち上がり、ワルテールの顔に唇を近づけた。




 小角は重なった二人のシルエットを呆然と見つめ、しばらくしてシーンが終わったことに気づいて慌てて拍手をした。

「……凄い! 斎波さんも……吾風さん、でしたっけ? ワルテール役の人も……これ、全部アドリブなんですか!?」

「うん、そうだねえ」

 ほっとしたように言う乾の横で亜理愛も安堵のため息をついた。

 ともかく、無事に終わらせることができた。

「斎波さんのアドリブの対応力も凄いし……吾風さん、あの演技力! 本物のやばい人なんじゃないかって、オレちょっとビビっちゃいましたよ! ひどいなあ、あんなに凄い役者隠してるなんて」

「最近来た子だからねえ。まだキミドリさんにはあげられないよ」

 興奮したようにまくし立てる小角のところに、普段通りにだらだらした姿に戻った吾風がやってきた。

「なー、おれちょ〜頑張っただろー? お金いっぱいちょーだいね」

「吾風君」

 頭痛がしてきたのを我慢しながら、小角の前に立ち吾風を見据えた。

「どうしてアドリブをしたの?」

「アドリブ?」

「……台本の台詞を無視して進めてたでしょう。何か理由があるの?」

 斎波が上手く切り返せたからいいものを、吾風のしたことはアドリブの域を越えている。もう少しで、物語が破綻するところだったのだ。

「だって、おれはこうだなーって思ったから」

「……なんですって?」

「あいつごついしおっきいし、全然ムラムラしねーしさ。台本作った人に言っといてよ。この話へンだよって」

 ……通じない。

 まるで宇宙人と話しているようだ、とへらへら笑う吾風に思う。確かに演技力は申し分ない。だが、このまま彼を起用し続けて良いのだろうか。

「うんうん、それがきみのワルテールなんだね。でも、台本通りにやってくれなくちゃあだめだよ」

「えー、なんでー」

「台本通りにやらないと、話がめちゃくちゃになっちゃうから。みんながみんな、斎波くんみたいに頑張れないんだから。みんなと合わせられないんなら、きみにやめてもらうしかなくなっちゃう。お給料もナシ」

「うぇえー」

 吾風の相手を乾に任せ、亜理愛は斎波のところへ向かう。最悪の事態を食い止めた英雄は、疲れたのかぐったりした様子で立ちすくんでいる。顔色がひどく青い。

「斎波君」

「ああ、亜理愛……」

 斎波は何か口にしかけ、はっとしたように口を閉ざす。その様子に、亜理愛もかけようとした言葉を忘れてしまった。

「……大丈夫? 疲れてるみたいだけれど」

 ごまかすようにそう言うと、斎波は小さく「ああ」と頷いた。

「少し、休ませてくれないか。今すぐには、稽古を続けられそうにない」

「乾さんや他のキャストに伝えておくわ。三十分くらいで良い?」

 斎波は首肯し、ゆらりと出口へ向かう。その後ろ姿がいやに小さく儚げに見えることに、亜理愛は胸騒ぎを覚えた。

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