気づかれざるヘラクレスの了見
「どーもお。ワルテール役の吾風ユウジでーす」
へらへらと、緊張感のない顔と寝ぼけたような声でそんなことを言われ、斎波はしばし言葉を失った。
六月第四土曜日。今日は先々週実施されたオーディションの合格者が集められ、割り振られた役の発表、そして台本が渡された。
つまり、病欠などによる降板でもない限り、ここに集まった人達とこれから力を合わせて舞台を作り上げていくわけだが……感慨にふけるには、目の前の光景は衝撃的すぎた。
「本当に、君がワルテール役なのか」
彼のオーディションを見た斎波にもまったく信じられなかった。あの吾風が? オーディションの時だけ別人と入れ替わっていたんじゃないかと、今でも疑わずにいられない。
「うん、おれ合格したの。いえーい」
返す言葉が思いつかず、視線を逸らす。すると、伊櫃が物凄い表情で吾風をにらんでいるのに気がついた。確か、彼もワルテールのオーディションを受けていたのだったか。この場にいるということは、彼もなんらかの役をもらえたのだろうが……。
なんにしろ、彼も実力や適性を認められて台本を渡されているのだ。不満や不安は一旦仕舞っておいて、“チームメイト”として良好な関係を築けるよう努めなければ。
「……まあ、その、なんだ。合格おめでとう。良い舞台が作れるよう、一緒に頑張っていこう」
「んー、ちょっと待って」
と、吾風は口をひん曲げる。
「なんだ?」
「おれ、二十五歳。お前より年上。タメ語だめー」
「…………」
マジか? こいつが、二つ上?
「おいおい。年上にタメ口が駄目ってなら、おめーにも俺らへの態度を改めてもらわなくちゃだろ」
「あ、枯木、ちーちゃん」
「『ちーちゃん』じゃなくて『地広さん』にしなさい。お友達じゃないのよ?」
枯木と葉原がやってくる。枯木はリュシアンの知り合いの警官役、葉原は主に娼婦を演じるアンサンブルの一人だ。
「ろくにレッスンもやらねえくせに合格しちまってよ。どうすんだ、これから大変だぜ?」
「ワルテールって ワイルドでクールな“ワル”みたいだものねえ。歌もダンスもバシッとかっこよく決まるように、これからいっぱいレッスンしなきゃよ?」
「うぇえ、やだなー」
胸に湧いた不安が消しきれないのを感じて、斎波は吾風から距離をおいた。……本当に彼で大丈夫なのだろうか? 亜理愛達の判断を疑いたくはないのだが。
(……やれやれ)
かぶりを振って辺りを見回す。そういえば、もう一人の注目株はどうしているだろう? 探してみると、彼は大勢に囲まれていた。
「君、真鉄君っていうんだね! これからよろしく!」
「歌、すごく上手だった! どこで習ったの!?」
「顔可愛いー! 絶対舞台映えするよ〜!」
「……」
ルチオ役に任命された真鉄静は、台本を持ったまま仏頂面で黙り込んでいた。
彼のパフォーマンスは今回のオーディションで最も話題となっていた。しかし――彼の合格はきっと真鉄本人もありえないと思っていただろう。彼の仏頂面は、だからこの結果に納得できない不満、怒りによるものなのか。
口さがない者達は「キミドリプロからの圧力によるものだ」などと陰口を叩いている。見映えが良く、歌唱力もある真鉄を後々スカウトするために便宜を図っているのだと。当然、本人の耳にも入っているだろうから愉快ではいられまい。あんな方法をとった彼の自業自得だとしても、そんなケチをつけられるとは予想していなかったはずだ。
それでも。
「少しは喜んだらどうなんだ、真鉄君」
そう話しかけずにはいられなかった。真鉄をとり囲んでいた女性団員達が驚いて一歩後ずさりする。
「さ、斎波さん……」
「納得がいかない結果だというのはわかる。だが、どうあれ君の実力が認められたんだ。それは喜びこそすれ、拒絶するようなことじゃあない。そうでなければ、合格できなかった他の参加者に失礼だ」
彼のプライドが決して低くないことは、付き合いの浅い斎波にもわかる。自分の実力を厳しく見定め、自己評価することは演劇に限らずあらゆる場面で必要だ。しかし……それで他者評価を受け入れないのは本末転倒だろう。何より他人を侮辱していると捉えられかねない。
「……ふん」
真鉄はため息に似た息をもらした。
「所詮は俺以下の実力しか持たん奴らのことを、どうして俺が気にしてやらねばならんのだ」
「な――き、君」
絶句した斎波に、真鉄はさらに続ける。
「俺は呆れていただけだ。どうやらこの劇団にはろくに役者を見る目のないトップとろくに実力のない大根どもしかいないらしい」
真鉄の口から飛び出した暴言に、斎波も周りの女性団員達も驚愕していた。真鉄は彼らにひどく冷たい視線をやると、もう一度ふん、と鼻を鳴らす。
「グズばかりが集まる三流劇団か。なら、俺が何を演じようとまるで影響はないのだろうよ」
「ちょ、ちょっと真鉄君……」
「貴様らも精々、キミドリプロのコネ目当てなんだろう? さもなくば『可愛い子』と遊びたいだけの阿呆どもか。俺に構うな、グズと遊んでいる暇などない」
「な、何よっ!?」
困惑が広がり、苛立ちへと変化していく。凍りつくように低い声、害虫を見るような眼差し……おおよそ“仲間”に向けるような態度ではなかった。しかしこの少年は平気で、あからさまな悪意を持ってそれを行使していた。
何を考えているんだ、こいつは。
「……真鉄君」
「なんだ。俺の物言いが気に食わんか」
駄目だ。怒ってはいけない。彼が何を考えているにしろ、ここで感情的に怒鳴ったら事態はますます悪化する。冷静に、論理的に説得をしなければ。
「まさか貴様は、この程度の劇団のために怒るのか?」
「ッ――――」
「あ、あ、あの!」
すんでのところで怒りを飲み込めたのは、真鉄と自分との間に割って入った少女のおかげだった。
「……初空君」
「や、やめましょう、真鉄君。コネとか、実力とか、よくわからないけど……今って喧嘩するような時じゃないですよね? みんな喜んでて、これから頑張ろうってときに、そうやって気分悪くさせるようなこと、言っちゃ駄目だと思います」
たどたどしく、つっかえつっかえで真鉄に語りかける初空に、斎波の頭は急速に冷えていく。そしてそれは冷静さをもたらすと同時に――ある種の恐怖も与えた。
どうして、君がここにいる?
「委員長気取りか? 偽善者め」
「ぎ、偽善者でもなんでもいいですけど……真鉄君のほうがずっと悪いこと、してるじゃないですか。貴方だってわかってるんでしょう? や、やめてください!」
半泣きになりながら言い返す初空の姿は、周囲からは健気でいじらしく見えたことだろう。……しかし、斎波にはそうは思えなかった。他人の心配などしている余裕があるのか? だって君は、あの時。
彼女が当然のようにここにいるという事実が、彼女に対して何も出来なかった――何もしなかった斎波の良心を酷く苛んだ。
「どうしたんですか? 何かあったんですか」
他の仕事で遅れていた宍上が姿を現した。真鉄と斎波と初空、その周囲に広がる不穏な空気に気づいたらしく端正な顔をしかめる。
「……何か、トラブルでも?」
「ふん。なんでもない」
宍上を見た真鉄は不愉快そうな顔をすると初空を押しのけ出口に向かった。
「どこへ行くんですか?」
「もうくだらん形式は終わっただろう。練習がないのなら帰るだけだ」
真鉄は振り向きざまに辺り一帯に敵意を帯びた視線を向けると、すたすたとそのまま去って行った。彼を呼び止めようとする者は、いなかった。
「…………いったいなんなんだよお、あいつぅ!?」
硬直を破ったのは伊櫃の声だった。なんなんだ……まったくその通りだ。斎波はどうしていいかわからないまま初空を見た。びくっと、彼女の肩が跳ねる。
「あっ……」
「あ、ああいや……さっきは、真鉄君を止めてくれてありがとう」
なんにせよ、まずは礼だ。初空がいなければ、自分でも何をしていたかわからない。初空はその言葉に困ったように目を泳がせ、曖昧に頭を下げた。
「あの、その……どうも……」
「な、なあ君……」
なんと言葉をかけたものか悩んでいると、初空はもう一度頭を下げてそそくさと斎波から離れていった。……自分と話していたくはない、か。考えてみれば当然だ。彼女が何を思っているにしろ、あの日のことが良い思い出になるわけがない。
「はあ……」
「斎波さん」
ため息をもらしていると、宍上が傍らにやってきた。
「大丈夫ですか? 顔色、良くないですよ」
「ああ……あの子のことだ」
初空の方を指すと、宍上はああ、と神妙そうな顔になる。
「彼女も、オーディションを受けていたんですね」
「私も知らなかった。……酷い目に遭っただろうに、まだ役者を続ける気でいたとは」
すぐに退団すると思っていたし、役者業を続けること自体嫌になっていたとしてもおかしくない。彼女はいったい、どの役を演じるのだろうか?
「それだけ、演劇への熱意が強いんでしょうね。こういう問題でそんなこと言ったらまずいのかもしれないですけど……僕は立派だと思います、彼女」
普通に考えればそうなのだろうか。しかし、斎波の胸には釈然としないものが残る。彼女が何をされたのか、誰が何をやったのかわからない以上、彼女を放っておいていいとは思えない。
「彼女……初空さんは」
「彼女自身の問題です。離れて見守るしかありませんよ」
斎波の言葉を遮るように言う宍上。それはそうなのだ。そんなこと斎波もよくわかっている。……それで割り切れるなら、未だに悩んでいるわけがない。
「今は、自分達のことを考えましょう」
苦虫を噛み潰したような顔で黙り込む斎波に、宍上は薄く微笑む。
「ほら、今日はせっかくの立ち稽古なんですから……“色男”のアデルがそんな顔していたら始まりませんよ」
「……ああ、そうだな」
切り替えなければ。今は、目の前のことに集中しなければ。先程のことで膨れ上がった感情をまとめて箱に押し込み、斎波は笑顔を作った。
「頑張ろう、“リュシアン”」
「うん、“アデル”」
「それじゃあとりあえず、二幕の頭のところからやって行こっかー」
乾の気の抜けるような声が稽古場に響く。斎波はもう一度手元の台本に目を通した。
二幕の冒頭――アデルとリュシアンの経営するブティックが軌道に乗り出した頃だ。心から気を許せる友と力を合わせて店をやりくりすることに二人は喜び、情熱を感じていた。しかし一方で、リュシアンには秘密の“副業”をしているアデルは、働き詰めの毎日で少しずつ心身を疲弊させていく……。
「まずは君達の思うままにやってみて。ここはこうしたほうが良いかなー、って思ったらその都度言っていくから。藍条くんも、気になるところはどんどん言っていってね」
「は、はい」
乾の隣に立つ藍条が緊張した面持ちで頷く。脚本担当とはいえ、彼は演劇に関しては素人同然のはずだが、乾に気に入られたのかここのところ同席していることが多い。
「心配することないです! ちょっとくらい変なこと言っちゃってもワタシ達がカバーしますので!」
「次美ちゃんはお口にチャックつけてくれてるほうが助かるかなあ」
「ホワイ!?」
「始めてちょうだい」
額を押さえながら亜理愛が言った。すうっと、宍上が息を吸う。
「――『メルシィ、ボン・ジョルネ! またな! ありがとう!』」
宍上演じるリュシアンははつらつとした青年だ。
宍上はもっぱら映画やドラマが専門の俳優だったから、慣れない舞台演劇で上手く演じられるか少し心配していたが、それは杞憂に終わった。感情が二階席の観客にも伝わるような大きな動き、しかしわざとらしすぎない。発声もしっかりしている。
――リュシアンって、ゴールデンレトリバーみたいな子ですよね。
以前宍上と話したとき、彼はそんなことを言っていた。
――人懐っこくて、誰にでも笑顔で楽しく……郵便配達であちこち走り回っていたから、きっと体力もある。普通にしてても力が有り余って、嬉しいとぴょんぴょん跳ねたりするんです。
宍上の言葉を思い出すと、なるほど今の宍上の演技はにこやかな顔の大型犬を連想させた。最初に読み合わせをしたときも感じたが、宍上は自分が感じ、作り上げたイメージを他人に伝えるのが上手いのだろう。
「『アディ。古着を繕い直してくれって、これだけ預かってるんだけど……』」
古着を見せる仕草をしながら、足や目線を落ち着きなさげにしている。ここのところアデルが働きすぎているのを心配していて、さりとて仕事を放っておくわけにもいかない、というジレンマだ。リュシアンという青年は、おおらかな性格に見えて仕事には真面目なのだろう。
――凄いな。
宍上の演技に見入りかけていた自分に気づき、斎波は慌てて気を引き締める。以前共演したときより、さらに上手になっている。元々柔和で優しげな自分の顔立ちを生かし、リュシアンの可愛らしい、無垢なイメージを表現している。
自分も頑張らなければ。
「『君はいわゆる出稼ぎの身なのだし、慣れない生活で疲れているだろう。あとのことは僕がしておくから――』」
アデルは――とても不器用な男なのだ。
一人っ子で、仕事に打ち込む両親となかなか触れ合えなかったという事情も関係しているのだろう。何事につけ独りで頑張ってきたから、いざ“頼れる友人”ができてもどこまで頼っていいのかもわからない――あんまり無理をさせては、またリュシアンが倒れてしまうかもしれない。彼に強いてしまうくらいなら、少しくらい自分でやってしまおう――そう考えているのだ。彼に隠し事をしてしまっている負い目もある。
斎波にも共感できる。人付き合いに慣れていない人間というのは、気の使い方にも慣れていないものなのだ。これはそう……初めての恋人ができたとき、距離感をなかなか掴めなかったあの感覚に似ているはずだ。
「『なに、すぐに済むとも。ある程度かたがついたら、僕も休むから心配しないで』」
「うーん、待って」
と、乾が手を挙げてストップをかけた。
「なんでしょうか?」
「宍上くんは良い感じだね。ちょっとかわい子ぶりっ子しすぎかな? ってところがあるからそこはもうちょっと削って、もっと朗らかネアカな感じでね」
「わかりました」
「で、斎波くんなんだけど……」
乾は少し困ったような、眉尻を下げた笑顔で斎波を見た。まずい。乾さんがこんな顔をすると、大体いつも難しい注文がつけられるのだ。
「斎波くんのアデルね、ちょっと強いね」
「強い、ですか」
「雄々しいっていうか、男らしすぎるっていうか……あれ、こういう言い方ってナントカハラスメントになったりしちゃう?」
視線を向けられた亜理愛はなんとも言えない顔で肩をすくめた。音無が代わりに答える。
「斎波サンに悪意がないことが伝わっているのならノープロブレムかと!」
「そっかあ。まあ、なんというかね。アデルはもっとこう、か弱いっていうかさ。怒られそうな言い方すると『女の子みたいな子』だとおもうんだよね」
ね、藍条くん――と乾は藍条に振る。
「えっ? あ、はい……若干語弊があるかもしれませんが、概ねその通りかと」
「女の子……ですか」
確かに、リュシアンといるときのアデルはなんというか、甘えん坊で嫉妬深く、男らしいとはいえない性格に感じる。しかし、“女の子”ときたか。
「多分、女の人のほうが共感するタイプだと思うんだよね、アデルくん。もちろん、身体も心もれっきとした男の子なんだけどさ。だから、斎波くんには男でありなから女であり、性別というものを超越した美しさを表現してほしいなって思うんだ」
やはり、難しい注文だ。
“美しさ”とはなんだろう。今まで意識したことのない表現だ。筋肉質で男性的な容姿の斎波には優美さとか華麗さとかを求められることがなかった。観客に自分を美しく見せる、という理屈は理解できるのだが。
おまけに“女性らしく”とは。初めての恋人にふられて以来、ろくに女っ気がない斎波にはまったく縁がないものだ。役者である以上、任された役は全力で演じなければならないが、いったいどうしたものか。
「……アデルは自信家だと、私は思います」
藍条が口を開いた。
「それも、こと自分の美貌に関しては、きっと『そこらの女には負けない』という自信を持っている。アデルの女性らしさというのは、だから性意識からではなく、自分の美貌に対する自信から表れてくるのだと思います」
「“男らしくない”容姿を誇っているからこそ、“女らしい”仕草に躊躇がない、ということですね! 羨ましいばかりのプライドですッ!」
容姿への絶対的自信……わかるような、わからないような。斎波は自分の容姿にコンプレックスを抱いているわけではないが、さすがに他人に自慢ができるようなものとまでは思えない。
「まだ本番まで充分な猶予があります」
困惑する斎波に亜理愛が言った。
「斎波君は今後、役のイメージを掴んで役作りに励んでちょうだい。今日はアデル・リュシアンの掛け合いを優先しましょう」
「そうだね」
頷く乾。
「ちょっと難しいかもしれないけど、頑張ってね、斎波くん。きみならきっと、素敵なアデルを演じられるって信じてるから」
「…………はい」
そうだ。できるだろうか、などと弱気なことを考えている場合ではない。
「お疲れ様でした」
「ああ……お疲れ」
主役二人のシーンをひと通りやった後、その日の稽古は終わった。いつもより疲れを感じるのは、最近筋トレをやっていないからだろうか? ロッカールームのベンチに座り込んでいると、宍上が隣に座ってきた。
「これ、良かったら」
「ありがとう」
冷たいコーヒーを渡される。そろそろ暑さが本格化してきたこの時期、冷えた缶は何よりありがたい。顔に当てて冷やしてからプルタブを開けた。
「やっぱり、悩んでるんですか? アデルのこと」
ピーチジュースを傾ける宍上に訊ねられ、斎波は苦笑する。
「……ばれたか」
「あんまり斎波さんのイメージとは合わない役ですもんね。すぐに掴めないのは仕方ないと思います」
そういえば宍上は、これまで色んな役をやってきたはずだ。スター俳優はとかく様々な仕事を回されるもの。斎波と共演したドラマでの高校生探偵や、少女漫画原作映画のちょっとキザなイケメン、冴えないオタク少年に、果ては快楽のために人を傷つける猟奇殺人鬼。あらゆる役を演じてきた宍上は、こういうときにどうしていただろう。
「僕のやり方、ですか? うーん、あんまり参考になるとは思えないですけど……」
「ダメ元で頼む。今は猫の手でも借りたい気分だ」
実のところ、斎波の悩みはアデルの“女性性”だけではなかった。
最初は仲睦まじかったアデルとリュシアンだが、すれ違いの末にアデルはリュシアンを裏切ってしまう。リュシアンの初恋相手を奪うことから始まり、その女性が妊娠してしまったと見るや二人で稼いだ金を持ち出しリュシアンを置いて夜逃げしてしまう。アデルも追い詰められていたとはいえ、リュシアンに対してあまりに酷い仕打ちである。
元は心から愛していた友を、最早一緒にはいられないくらいに憎んでしまう。可愛さ余って憎さ百倍――なんて使い古された言葉があるが、斎波には理解しがたいことだった。嫉妬してしまったのはわかる。自分の身のやましさで、相手を正視できなくなってしまった、というのもまあ理解できる。しかしそれがどうして、相手を傷つけるほうに向かってしまったのか……他の道はなかったのかと、考えてしまうのだ。
「秘密を打ち明ければいい、とは言えない。けれど、あまりに滑稽じゃないか。結局、リュシアンに対して腹を割り切れなかったから失敗ばかりしているのに。知らない間に色々思われて嫌われて、リュシアンもいい迷惑じゃないのか」
宍上に話してみて、気づく。自分はアデルの行動が理解できないのではなく、理不尽で受け入れがたいと感じているのだ。
「役を演じるうえで、役のすべてを理解する必要はないと、僕は思います」
少し考えてから宍上が言った。
「『フラ泥』はそうじゃないですけど、脚本か矛盾だらけで破綻してて、自分の役も支離滅裂な言動で、何を考えているのかわからないってこと、結構ありますから」
「そういうときはどうしてるんだ?」
「原作つきの話でしたら原作を読んだり、企画書を見せてもらったり、脚本を書いた人に話を聞いたり……なんとかして、“そのキャラクターをどう見せたいのか”を見つけるようにしています。結局、最終的にその役の人間性を判断するのは、観ている人達ですから。観客の人が満足してくれる演技ができればいいかなって」
宍上の演技は観客目線、観客本位のものなのだろう。舞台一筋で生きてきた斎波には馴染みのない考え方だ。長年TVや映画の“映像”という媒体で戦ってきたからこその発想なのか。
「どう見せたいのか、か……」
「斎波さんは、いつもどんな風に演じてるんですか?」
ピーチジュースを飲み干した宍上が訊ね返してくる。
「私か? 私は……役の考えていることがわかったら、自分の身に当てはめているかな。大切な人を失う、というシーンがあれば、身内が亡くなったときのことを思い出す。食べ物にありつけず今にも飢え死にそう、という場面なら、実際に断食してみる、といった感じだ」
「メソッド演技、というやつですね」
自分の演じる役の心情に近づき、理解するために役と同じ状況を作ったり、脳内シミュレーションで追体験をする、といったリアリティ重視の演技法である。斎波の場合、意図してリアリティを出そうとしているわけではないのだが。
「私に演劇を教えてくれた人に言われたんだ。『
「我慢……されてるんですか?」
宍上は首を傾げた。
「ああ、いや、なんというか……生活していると、色々と溜まってくるだろう? 不満とか、愚痴とか.……八つ当たりをしてしまわないように怒りをこらえたり、相手に失礼にならないように、笑いそうになるのを飲み込んだり。なかなか発散できないのが、こう、胸のここらへんに溜まってくる」
自分の胸を指しながら説明すると、宍上はなぜだかひどく悲しそうな顔をした。
「……君は、違うのか」
「斎波さんは、どうしてそんなに我慢されてるんですか?」
「どうして、って」
缶コーヒーの表面に浮かんだ結露が水滴となって、ぽとり、と床に垂れ落ちた。
「そんなの当たり前だろう? 誰もが思うままに、感情のままに行動したら、秩序というものがなくなってしまう。みんなが少しずつ“自分”を抑えて、譲歩して、それで社会が成り立つんじゃないか。我慢ができないというのは、単なるわがままだ」
だってそういうものだろう。わがままを言うのは良いことじゃない。自制は、忍耐は、正しいことではないのか。
「それで、自分が苦しくなっても、ですか」
「え――」
なんでそんなに、つらそうな顔をしているんだ。
「だって斎波さん、時々すごく苦しそうな顔してる。それって、色んなことを我慢して飲み込んでるからじゃあないんですか。そんなことしたって、誰も斎波さんに感謝したりしないのに。周りのために、自分が苦しさを請け負い続けるのが、本当に正しいことなんですか」
どうして、そんなことを言うんだ。
苦しいわけないだろう。正しいことをしているのだから。正しくないわけないだろう。誰も彼もが自由という名の傲慢を享受するわけにはいかないのだから。だって、そうじゃないのなら。
私はずっと間違っていたと、君は言うのか。
「勝手なことを、言わないでくれるか」
「斎波さん……」
「苦しいか苦しくないかは私自身が判断する。君からどう見えるかは知らないが、他人に世話を焼いてもらうほど私は子供じゃない。それとも、君は、」
自分のほうが正しいと言いたいのか。
重苦しい沈黙が降りてきた。すぐ隣にいる宍上は、今どんな顔をしているのか。確かめるのが怖くて、斎波はしばらく下を向いていた。
「……すまない」
間違っているな、と思った。
「君は心配してくれていた。それなのに、こんな言い方をするべきではなかった。気分を害しただろう。本当にすまなかった」
理性はそう判断した。しかし――顔を上げることはできなかった。胸に溜まったものが、今日の出来事をすべて詰めた箱が、逆流して口から飛び出してしまいそうだった。
ああ、駄目だ。何をやっているんだ、いったい。心優しい宍上君を、腹の立つ言葉をかけられたからというだけで感情のはけ口にしようとするなんて。何が正しさだ、こんなもの――
「いいえ、こちらこそすみませんでした」
と、宍上が頭を下げるのが視界の端に見えた。
「斎波さんの気持ちを考えず、一方的なことを言ってしまいました。本当に……ごめんなさい」
「宍上君」
彼を謝らせてしまった。なんだかひどく悪いことをしてしまったような気分になり、斎波は目をつぶる。
「すみません、これから約束があるので、先に失礼させていただきます。今日はありがとうございました。また明日も、よろしくお願いします」
「宍上君――」
立ち上がる気配に、慌てて顔を上げた。しかし彼の後ろ姿に、言わんとしていた言葉はすべて消えてしまった。宍上が訝しんで振り向く前に、咄嗟に適当なことを口走る。
「……また、明日」
「ええ。では」
ロッカーの開く音。衣擦れの音。ロッカーが閉じる音。足音。扉が開き、閉じる音。缶が倒れて転がる音――そして斎波は自分が缶コーヒーを取り落としてしまったことに気づいて立ち上がる。黒いシミが、泥のように床に広がっている。斎波は何をするでもなく、呆然とそれを見つめていた。
ごめんなさい、か。
あの時、彼はどんな顔をしていたのだろう。やはり、いつもの天使のような微笑みを浮かべていたのだろうか。
不思議と、アデルの
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