見出される幼アキレウス
「演劇は自分の人生だ」というのはあまりに使い古された言い回しだが、しかし斎波はそれ以外に人生を語る言葉を持っていない。
子供の頃、自覚している限りは“良い子”であったと思う。
父親のいない家庭だったが、世間で思われている程には自分が不幸だと考えたことはなかった。仕事に打ち込む母と、自分を厳しく躾け、温かく育ててくれた祖父母。そんな家族を子供ながらに素晴らしい人達だと思い、自分もそれに恥じぬように真面目でまめな“正しい子供”であろうとしていた。
母は仕事で忙しいから、授業参観に来られないのは仕方がない。祖父母がその分色んなことをしてくれるし、たまの休日には埋め合わせをしようと遊園地や動物園に連れて行ってくれる。だから、わがままを言ってはいけない。勉強も体育も頑張って、母と祖父母が喜んでくれるような子供でいよう――。
だから――最初にわがままを言ったのは、多分あのときが初めてだった。
小学三年生の時だったか。地元の公民館で児童向けの演劇が上演されることになった。祖父母は熱心に町内会やPTAに参加していたから、斎波もごく当然にその演劇を観に行った。
題目は『グスコーブドリの伝記』。よくは知らないが、なんとかという有名な文豪が書いた童話らしい。
しかし、斎波達児童が通されたのは大ホールの観客席ではなく、鏡張りの壁に囲まれたスタジオだった。
「今日は君達にグスコーブドリをやってもらう」
“劇団のおじさん”が発した言葉の意味が誰も理解できず、半数はそのまま家に帰った。自分達は劇を観に来たはずなのに、このおじさんは何を言ってるんだろう。戸惑っていたのは斎波も一緒だったが、「勝手に帰るのは良いことじゃない」という判断で残っていただけだ。
「やるって言っても、やり方なんてわかりません。僕達は劇なんてやったことないです」
「じゃあ、今日“やり方”を覚えていけばいい。やり方がわかればできるんだろう? ……できないか?」
なんだか酷くむっとする言い方だったのを覚えている。
グスコーブドリは貧しい農民の子だ。
元々は一家で慎ましく暮らしていたが、冷害(ってなんだろう、とそのときは意味がよくわかっていなかった)によって食っていけなくなり、一家は離散。ブドリは仕事を転々とし、やがて火山局で働くようになる。そしてまたもや冷害の危機が訪れ、ブドリは火山を噴火させて気候を温暖化させることを思いつく。
「火山を噴火させるのは文字通り命懸けだ。ブドリは噴火の実行役に名乗り出て、火山のふもとに残る。噴火が起きて、あたりに溶岩やマグマが流れ出したら……どうなるかわかるな?」
「ブドリは死んでしまったんですか? 自分が死んでしまう仕事をやったんですか。どうして」
他の子供もそっちのけで、ずっと“おじさん”に疑問点をぶつけていた。当時の斎波にとって、ブドリの行動は不可解そのものだった。
「なんでだと思う? それを君が考えるんだ」
「わかりません。僕にはブドリの気持ちは理解できません」
「じゃあ――こうしようか。
「想像してみてくれ。ブドリにとって、日照りや冷害は何より許しがたい仇だ。どうして? 天気が悪いのが長く続くと作物――つまり食べる物が育たない。それも自分達のところだけじゃない、村中、周りみんながそうなるんだ。どれだけお腹が空いたって、誰も食べ物を分けてはくれない。
「――そうだな、君の家はお父さんとお母さん、どっちが働いてる?
「そう、お母さん。
「君のお母さんは、君を食べさせるために一生懸命働いているんだな。……もしもお母さんが帰ってこなくなったらどうする?
「だって仕方ないんだ、どれだけ頑張って働いても、食べる物はちっとも手に入らない。だけど、家に帰ったらお腹を空かせている子供がいる。なんとかして食べさせてあげなくちゃ可哀想だ。自分もお腹がペコペコなのに、なんとか食べ物を手に入れようとして出かけて、そして――それっきりだ。
「うん、君はひとりぼっちだ。どれだけ良い子にして待っていようと」
「――わあああああああああああっ!」
気がつくと叫んでいた――どうしてかは、今になっても上手く説明できない。
“おじさん”が語ることがひどくてあんまりで、いてもたってもいられなかったのは確かだ。だが、その時斎波は何を思っていただろう? ひどい話をする“おじさん”への怒りか、母がいなくなったことを想像しての悲しみか、あるいはひとりきりになったことを考えて感じた恐ろしさか。
ただ、そんな風に大声で思いっきり叫んだのは、それが初めてだったと思う。
「君は今、グスコーブドリになった」
大声を上げた斎波に対し、“おじさん”は満足そうに笑っていた。
「嫌だろう。腹が立っただろう。悔しいだろう――ブドリもそんな気持ちだったんだ。そして、そんな思いをしたのはブドリだけじゃない。
“おじさん”の言うように全部が理解できたわけではなかった。しかし、グスコーブドリのことはぐんと身近に感じられた。同時に――自分の中にこんな
「君の中には箱がある」
“おじさん”は斎波の顔を真正面から見た。斎波の顔が映った瞳は、なんだか宇宙みたいな色をしていた。
「君は、そこになんでも仕舞いこんでいるんだ。嫌なことも、つらい気持ちも、良い子でいるには邪魔なものすべてを箱に入れて蓋をしている。そうだな?」
「おじさん、僕のこと知ってるんですか」
「眼を見ればわかるさ。君みたいな眼をした人を、私は何人も見てきた」
そう言って、“おじさん”は、ウインクをしてみせた。
「だけど、箱の中は窮屈だろう。箱に入っているのは君自身の一部なんだから。箱がいっぱいになる前に中身を整理しないと、いつか君が潰れてしまう」
「整理するって、どうやって」
「さっきみたいにすればいい」
さっき――グスコーブドリの気持ちになったときのことか。
「君には使えない気持ちも、他の誰かになりきればいくらでも使える。演技だよ。役者になれば、君の箱はがらくた入れじゃなく強力な武器庫になる」
今思うと、あれはワークショップのようなものだったのだろう。
児童劇の公演として受けた仕事を、土壇場になって児童向けの演劇教室に変えたのだ。当然契約を破ってしまっているわけで、斎波の祖父母を始めとした保護者達からの苦情は尋常ではなかったらしい。あの後、劇団の人達が参加していた子供達の家を一件一件回って謝っているのを見かけた。
それが、
当時の志島団長の行動は非難されて当然だった。しかし……あのときあの場で彼と出会わなければ、斎波は今役者をやってはいなかっただろう。
中身がいっぱいに詰まった箱を抱えて、どうにもならなくなっていたかもしれない。
役者になれば――演技をしている間は、良い子でいなくてもいいのだろうか? 怒ったり泣いたり、悪いこともできる? 我慢した色々なものを、引っ張り出してもいいというのなら――
「僕、演技の勉強がしたいです。どうしたらいいですか?」
「じゃあ、一年待ってくれるか」
志島団長が言うには、来年子供を対象にした演劇教室を正式に開設するらしい。一年も待たねばならないのか、と斎波はやきもきした。
「君もお母さんやら誰やら説得しなければならないんだ、大変だぞ? 子供が『役者になりたい』って言い出して、ハイ頑張ってって送り出してくれる親はそういない。私は教室――志島塾を開くための場所を探す。君は保護者を説得する。お互い上手くいったら、君に演技を教えてあげよう」
そして斎波は公民館から帰るなり、家にいた母と祖父母に告げた。
生まれて初めてのわがままを言った。
「僕は役者になりたいです。演技の勉強をさせてください」
当然、その場でOKの返事はもらえなかった。徒競走で一位を取ったり、テストで十回連続満点を取ったりして、ほとんど一年がかりで家族を説得し、斎波は約束通り志島塾へ入会した。始めは渋々だった母達も、斎波が熱心に学び、学校の勉強も決しておろそかにしないのを見て何も言わなくなった。
「
志島先生に師事し、役者になるため色んなことを学んだ。色々な誰かを演じるたび、自分で仕舞い込んだまま忘れていた気持ちを思い出した。知らない自分に出会い、どんどん自分が進化していく感覚。斎波は夢中になって演劇の世界にのめり込んだ。
「君は立派な役者になるだろうな。うちの大黒柱になってみんなを支えられるくらい」
「本当ですか? じゃあ、僕もいつか皆さんと同じ舞台に立てるんですか? ――先生と、同じ舞台に」
ブルートループの公演は観れる限り幾度となく見た。志島先生や、他の団員達がスポットライトを浴びて輝く姿は何より格好良く見えた。斎波少年がそれに憧れ、自分もそうなりたいと思うのはごく自然な流れだった。
僕も先生のように誰より強くてかっこいい役者になりたい。
「ああ。私と君で、最高の舞台を作ろう」
志島先生と交わした二度目の約束――しかし、それが果たされる日は永遠に来なかった。
「――……ああ」
目が覚めた斎波は小学生ではなく二十三歳の青年だった。
付けっ放しのテレビからBGMが流れてくる。そうか、昨夜DVDを観ながらそのまま寝てしまったのか。床に寝たせいですっかり冷えて固まった身体を動かし、DVDを取り出してテレビを消す。
『遊園街のサンドリヨン』。十年前、まだ志島先生がご健在だった頃のブルートループの作品だ。
人類が滅んだ後の地球、遊園地の中にたった一人残されたお姫様型のロボットを巡り、惑星探査に来た宇宙人がてんやわんやの大騒ぎを繰り広げる……SFハートフルコメディ、といったところか。見るたびに元気を貰える明るく温かな作品で、昨夜もそれを期待して見ていたのだが……まさか“寝落ち”してしまうほど自分が疲れていようとは。斎波は小さくため息をついた。
志島先生はその公演を最後に、二度と舞台に上かることはなかった。
公演の直後に心臓の病変が発覚し、役者業の継続を断念。治療の傍ら、団長として劇団の運営を続けていたが……今から二年前に容態が急変、帰らぬ人となった。
斎波が初めて舞台に上がったのは十四歳、先生が引退した後のことだ。病に倒れた先生と共演したい、などと子供じみたわがままを言うわけにはいかない。せめて、自分を育ててくれた先生に恥じぬよう、清く正しく優秀な役者となるべく努力してきたつもりだ。
だが。
「先生。今の僕は、正しくやれているでしょうか」
口にしてみて、あまりに馬鹿げた感傷だと思う。もうこの世にいない人に何を語ろうと、何も返ってくるはずがない。都合の良い幻想に都合の良い答えを期待する、愚かな自問自答だ。
仕舞ってしまおう。この感情が、いつか必要となるときまで。
日時を確認し、身支度を整える。六月の第二土曜日。今日と明日日曜日の二日間にかけて、劇団ブルートループでは団内オーディションが行われる。既にアデル役が決まっている斎波の出る幕はないのだが、かといって休むわけにはいかない。いずれ共演する役者達がどんな面々になるか、しっかりと把握しておかねば。
たとえ、志島先生が遺したブルートループを穢す真似をした輩がその中に混じっているのかもしれなくても。
ミュージカル『五十フランの泥』の未決定キャストをオーディションで選出する、というお達しが出たのが二週間前。
通例通り指名されるものだと思っていた団員達はこの決定に驚き、湧いた――何せ久々の大舞台。あの宍上紅蓮が出演するという話題性もあり注目度も高まっている。“宍上効果”で入団者が増えたこともあり、一時は応募受付に長蛇の列が形成された。
「でも、なんで今更オーディションなんてやるのかしらねえ」
「あん?」
葉原と枯木は稽古場をオーディション会場としてセッティングしながら雑談する。そろそろ人手が増えた今、古参の二人がやらなくてもいいのだろうが、染みついた習慣はなかなか直すことができない。
「まあ、実力がよくわかんねえ新入りが増えたからじゃねえのか。いくら亜理愛の独裁だろうと、顔なじみばっか使うのは印象悪いだろ。かといって、適当に指名ってわけにもいかねえし」
「だって、どれもこれも全部キミドリプロの差し金なんでしょう? 衣装やら
元は芸能界で活動していた葉原にとって、“芸能事務所の介入”という案件にはどうしてもきな臭さを感じてしまうものだった。
舞台演劇は映画やテレビドラマとは違いどうしても間口が狭くなり、コストパフォーマンスも決して良いとは言えない。それを、所属していた俳優が出演するからといってほとんどスポンサーと言ってもいいくらいにあれやこれやと世話を焼いてくれるのは、それなりの下心があるからではないのか。なのに、今のところこちらに得があるばかりで、キミドリプロ側は全然利益を得ていない。
「歌もダンスも三番手くらいのアイドルとか、顔は良いけどイマイチパッとしない俳優とか、そういう扱いに困るタレントとかをねじ込んできたりはしないのかしら」
「……もしかしておめー、キミドリに恨みでもあんのか?」
「ないけど」
“芸能事務所”が嫌いなだけである。
「そういうのはウチの代表サンが上手いこと交渉してくれたんじゃねえのか? いくら出資してもらおうと、上演するのも責任を取るのもウチになるんだろうしな」
「結構頑張ってたみたいだよ、そこは。譲歩しちゃうと劇団そのものが乗っ取られかねないからねえ」
「うおっ」
いつのまにか隣に立っていた乾に枯木は思わず飛びのく。
「あ、ごめんね。ぼく気配を消して人の隣に立つの好きだから」
「いやこえーよ。ホラー映画じゃないんすよ」
「乾さんが審査するんですか?」
葉原の問いに「うん」と乾。
「亜理愛ちゃんと一緒にね。あと、審査には関わらないけどキミドリさんが見に来るみたいだよ」
「やっぱり来るんですか?」
「宍上くんがこっちに来ちゃったから、あっちも色々大変みたいだからね。有望そうな子がいたら今のうちにツバつけとこって思ってるんじゃないかな」
つまり、スカウトを狙っているのか。宍上クラスの穴を埋められるような大型新人はそうそう出てこないとは思うが……。
「きみ達もオーディション出るんでしょう? 頑張ってね、応援はしないけど見守ってるから」
「そこは応援してくださいよ……」
今回行われるオーディションは大雑把に分けて二種類ある。
まず、簡単な台本を渡されその場で演じるという形式の通常のオーディションだ。これで志望者の素質を見て、『リュシアンの幼馴染の貧民達』や『ブティックの女性客』、あるいは各場面のアンサンブルといった脇役の配役が決められる。
そして、特定の役に対して行われるオーディション。『リュシアンの弟』や『アデルを追い詰める借金取り』といった準主役級の役はこれで決まる。重要なシーンも多く、専用のナンバーも用意されるとにかく目立つ役柄だ。スカウトの話の真偽はともかく、合格者は間違いなく今後注目されるだろう。
そして、伊櫃築也も当然“名有り”の役を狙うべくオーディションに応募していたのだった。
(少しでも女社長サンの目に止まれば)
キミドリプロからスカウトを受けよう、などと分不相応な考えはない。だが、今回は目立つ絶好のチャンスだ。たとえ合格できなくとも、今のうちに代表に顔を覚えてもらえば今後のためになるだろう。
応募したのは『アデルを追い詰める借金取り』――“ワルテール”役だ。元はアデルの父が作った借金を、ああだこうだと利子を膨らませてしつこくアデルにつきまとう。アデルが屈辱的な仕事に手を染めるきっかけとなる悪役である。
ワルテール役のオーディションは明日だ。今日は伊櫃の出番はない。だが、オーディションは見学自由、どんな奴が受けに来ているのか確認しておきたかった。
とりわけ今日の午前中に行われる『リュシアンの弟』ルチオ役のオーディションは。
「なーなー」
「うわっ!?」
と、意気揚々とオーディション会場に向かっていた伊櫃は急に袖を引かれて危うくつんのめりかける。
「なんだよ馬鹿っ! いきなり危ないなっ!」
「えへへ、ごめんー」
振り向いた先でへらへらと笑っていたのは
この吾風、ある意味では伊櫃以上の“問題児”だった。
まず、レッスンに来ない。ずぶの素人を名乗って入ってきたくせに、まともにレッスンに顔を出そうとしない。ごく稀に現れたかと思えば、ごろりと横になってぐうぐう寝る始末。叩き起こしても「おれ練習嫌い」と言っては逃げ回る。吾風ユウジは入団一ヶ月で早くも劇団の鼻つまみ者になっていた。
伊櫃も例に洩れず吾風のことを疎ましがっていた。いつもはナマケモノみたいにところ構わず寝てるくせに、今日に限っていったいなんなんだ――そんな風ににらみつけても、吾風はへらへら笑っている。
そして吾風はへらへら笑いのままとんでもないことを言い出した。
「なー、“ワルテール”のオーディションって、ここでやんの?」
「は? ……お前、オーディション出るの!?」
「うん」
伊櫃は絶句する。こいつは何を言っているんだ? 自分で意味がわかってるのか? まともに練習もしないくせに、オーディション?
「役をもらえたらお金いっぱいもらえるんだろ? おれ、お金欲しいの」
「は……はあああああ!?」
信じられない。目の前の男が宇宙人のように見える。ふざけているとか舐めているとか、そんなレベルじゃない。信じられないほどの馬鹿か、あるいは想像もつかないほど頭がおかしいのだろう。こともあろうに、金目当てでオーディションを受ける奴がどこにいるというのだ。バイトの面接か何かと勘違いしているのか?
「……今日じゃない、明日! お前、受けるオーディションの日程もまともに覚えてないのかよ!」
やっとのことでそう言うと、吾風は「おー」ととぼけた声を出す。こんなメチャクチャな奴と一緒にオーディションを受けなければならないのか、と伊櫃はめまいを覚えた。
「わかったらさっさとどっか行け! オーディション会場で寝たら役どころかクビにされるぞ!」
「うぇーい」
吾風はふらふらと明後日の方向へ歩いていく。伊櫃は大きなため息をつき、気を取り直して会場に入った。
“ルチオ”はクライマックスで最も活躍する役柄だ。
リュシアンの生意気でリアリストな弟として登場し、お人好しの兄に噛みつきながらも弟妹を思い遣る家族思いの少年だ。後半では落ちぶれたアデルの前に学生運動の参加者として現れる。無情な現実を変えようと奔走するが、運命に抗うことは出来ず凶弾に倒れる――この作品を象徴するようなシーンを演じることになる、重要な役どころである。
しかし、伊櫃が気にしているのはルチオそのものではなく――オーディションに応募しているらしいある男のほうだった。
「あらっ、伊櫃くんも見にきたの?」
「……はい」
見学者の列に混じると、こちらに気づいた葉原が手を振ってくる。フレンドリーに接されるとやりづらい。
「ルチオ役、やっぱり凄い人気……ですね」
「影の主役って感じの役だものね。その分、審査も厳しくなると思うけど……」
参加者の中に見慣れた顔を探す。……やはり、いる。
「あいつ……本当に受ける気なんだ」
「ああ、真鉄くんね」
いつものパーカー姿、少女のようにも見える整った顔には緊張のためか普段よりも多く眉間のシワが刻まれている。もちろん吾風のような悪ふざけではなく、真剣にオーディションに臨んでいるのだろう。
「凄かったわよ、オーディションのお知らせが出たとき真っ先に代表の部屋行って。入団もしてないし未成年だから駄目って突っぱねられても一歩も引かないし。わざわざご両親や学校に承諾書まで書いてもらってずっとごね続けて、ついに代表が折れたのよ」
その時の大騒動は伊櫃もよく知っている。しまいには代表の事務室の前に座り込み、代表に「うん」と言わせるまでテコでも動こうとしなかったのだ。それ以来他の団員から奇異の目で見られているが、真鉄は気にせず練習に参加していた。
「でも、あいつだってドシロウトでしょ? 入ったばっかで受かるわけないのに」
「どうかしらねえ。あの子も結構前からいるから、門前の小僧なんとやら、で上手くやるかもしれないわ」
ずっと裏方手伝いや雑用ばかりで何を習うというのか。伊櫃は内心鼻で笑いながらも真鉄を注視していた。
「二十七番、真鉄
「はい」
審査員席に座る代表志島亜理愛に呼ばれ、真鉄が前に出る。
ルチオ役オーディションで審査されるのは序盤、ルチオが弟妹達のために盗みを働いたことを兄リュシアンに咎められる場面だ。リュシアンに叱られるも、「こうでもしないと腹が膨れない、間違っているのは世の中のほうだ」と訴えるくだりを演じる。台詞は短いが、ルチオの人間性を表現する場面だ。
「『兄貴はいつもそうだ、綺麗ごとばかり――俺たちは死にそうだ、飢えて、メシ欲しさに――!』」
真鉄は――歌った。
確か、『フラ泥』で使われる曲はナンバーも劇伴も七月になるまでは上がってこないという話だったはずだ。ついこの間まで半分部外者だった真鉄が未完成の曲を入手できたとは思えない。……ならば、自分で作ったのか?
いや。今はそんなことどうだっていい。問題は彼の歌声だ。台本に書かれた台詞とはまったく違う、しかししっかりと流れをなぞりながらルチオの心情を歌いあげる真鉄の歌声は。
「……きれいな声」
ぽつりと葉原が呟いた。
いつも機嫌が悪そうな低い声しか聞かないから、真鉄がこんなに高い声を出せるなんて知らなかった――声変わり前後の少年の微妙な声を、無理なファルセットではなく安定した裏声で出している。
「『貴族どもを見ろ! 山程のメシを、ろくに食わずに投げ捨てる――おれたちが食いきれないほどの量! 何が真っ当だ――!』」
自棄になって兄に八つ当たりしているだけの怒声――それをがなり声にせず、抑揚だけで表現している。独学か、きちんと専門家からのレッスンを受けたのか、いずれにしろ素人の発声ではない。
やっていることは審査員の気を引くパフォーマンスでしかないのだ。なのに――誰も彼から目を離すことができなかった。伴奏も振り付けもない荒削りな歌唱が終わるまでじっと彼の声に耳を傾けていた。それは、歌う彼の姿があまりに切実で、悲愴にすら見えたからか。
「――あははははっ!」
歌が終わると、審査員席に座っていた乾が
「あはははは……あれ? ここ笑いどころじゃなかった? ごめんごめん」
「……真鉄君。今の歌、自分で作ったの?」
咳払いしてから亜理愛が言う。頷く真鉄。
「はい」
「ソー・グッドな歌でしたッ! バーット、アナタのやり方はルール違反、ノー・グッドです! オーディションに来たのに台本通りにしないなんて、入社式に紋付袴で来るようなものですよ!」
「音無さんの言う通りです。あなたの熱意は伝わりましたが、最低限のレギュレーションは守るように」
「……はい」
審査員にたしなめられ、真鉄はうつむく。しかし、落ちこんでいる様子はない。力を使い果たしたから、疲れているだけのように見えた。
「しかし真鉄サン、ごっつええ歌でしたッ! あとでその歌、録音させてくださいッ! モーニングコールにしますので」
「あはははは、次美ちゃん、退場ー」
「ノーッ!?」
「真鉄君、貴方の持ち時間は終了です。結果は後日伝えるから、一旦退場して」
「...…わかりました」
真鉄は驚くほど素直に会場から去っていった。彼の姿が消えた後、ギャラリーが思い出したようにざわめき始める。葉原も驚嘆と呆れが混じったため息をつい
「歌、上手だったけれど、あんなことするなんて……真鉄くん、受かるかしらねえ」
問うような独り言。しかし、傍らの伊櫃からの返事はない。
「……伊櫃くん?」
伊櫃は――会場を飛び出し真鉄のあとを追いかけていた。
「――おいっ、お前!」
呼びかけに振り向いた真鉄は、疲れが残るもののいつものふてぶてしい顔だ。
「なんだ、やかましい」
「お前、なんであんなことしたんだよ!? あんなむちゃくちゃして、合格できると思ってるのか!?」
どれだけ歌が上手かろうと、ルール違反はルール違反だ。十中八九落とされるに決まっている。こいつはそんなこともわからないほど考えなしの奴だったのか?
「合格など、どうでもいい」
「なっ……!?」
「今回がちょうどいい機会だったというだけだ。俺がある程度歌える、“使える奴”だと知らしめるのにな」
「どういう意味だよ……」
まさか――『役を得るため』ではなく『審査されるため』にオーディションを受けたというのか。今回のチャンスを捨ててでも、後々の布石として――先日の入団騒ぎで、真鉄に対する注目は集まっていた。その上今回の“歌”で、ますます真鉄は評判になるだろう。
注目を受けている人間は、それだけで強い。それは伊櫃もよく知っていた。
「……全部、計算づくか……!」
「自分の立ち位置を計算して動くのは、役者として当たり前のことだ。……貴様はどうする。他人を気にして、こんなところで油を売っていていいのか」
真鉄の値踏みするような目。挑発しているのか、軽蔑しているのか。どちらにしろ我慢ならない。伊櫃は吠えた。
「うるさいッ! ぼくはお前みたいなインチキなやり方しないッ! 正々堂々演技して、お前に吠え面かかせてやるからな!」
「ふん」
真鉄は笑うように鼻を鳴らし、再び歩き出した。
「……くそっ」
伊櫃はしばらく立ち尽くし、あの夜以来再び湧いてきた悔しさが鎮まるのを待った。
「きゃっ、ごめんなさい!」
「うおっ。ああ、いや、こっちも悪かった」
午後からのオーディションに備え、休憩室で台本を読んでいた枯木は、足先に蹴つまずいてきた女によって意識を引き戻された。女の顔はよく見慣れたものだった。
「初空じゃねえか。お前もオーディション出るのか?」
初空が持っていた台本を指差すと、初空は恥ずかしそうに台本を抱きながら「はい」と答えた。
「受かる自信はないんですけど、受けてみたくて……」
「へえ、まあいいんじゃねえか? 受けてみるのも勉強になるだろ」
とは言うものの、初空は合格しないだろうと枯木は考えていた。
実力も経験も全然足りていない――おまけに極度の人見知りだ。あがってしまって台詞もまともに言えないだろうと思っていた。
「役の希望はあんのか?」
「はい。“リュシアン”君の妹の“マルグリット”ちゃんをやりたいなって。まだ子供なのに、波止場で娼婦をやってる子です」
「はあん……」
いやに機嫌が良く、にこにこ笑っている。何か嬉しいことがあったのだろうか?
「原作を読んだときから、ずっと気になってたんです。不幸な境遇で、つらい仕事をしながら頑張ってる……なんだかすごく共感するっていうか、感情移入しちゃって」
(……ん)
何か引っかかった。
具体的に何かと言えるようなものはない。だが――なんだか変に気になった。何かずれているような、ごまかされているような……。
(あれ、こいつ案外可愛いんじゃね?)
そしてふいにそんな思いが湧いてきたのに自分でも驚き、慌てて振り払う。何を考えているんだ、後輩相手に。こちとら彼女がいる身だってのに。無理やり笑顔を作り、初空に笑いかける。
「まあ、頑張れよ。自分がやるだけじゃなく、他の奴らの演技とか見たりして参考にしろよ」
「はい!」
初空は元気良く返事して、自動販売機に向かった。その歩き姿がやけに扇情的に見えたのを、枯木はどうにか意識しないように台本を握りしめて耐えた。
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