アドニスの忠告

「スクワットでもしていようか」

 五月下旬の休日。地下鉄白妙駅から三駅離れた千早駅のB出口を出た先、もみじ公園のベンチに斎波は座っていた。

 オフィス街とはいえ、休日は親子連れや観光客も多い。特にもみじ公園はビル群の合間にある癒しスポットとして有名で、森林浴や散歩をする人達で賑わっていた。

 しかし、斎波の目的は観光でも散歩でもなく、待ち合わせをしていたのだった。

 交友関係の少ない斎波にとって、待ち合わせはあまり経験がなかった。万が一相手を待たせてしまったら悪いと早めに行動したのはいいが、予定時刻の一時間前はさすがに早すぎた。とりあえず空いていたベンチに座り、時間が立つのを待っているのだが……。

「ママ、あの人ずっとあそこいるよ」

 あまりに暇を持て余し、趣味の筋トレでもしていようかと腰を浮かせかけたとき、そんな子供の声が聞こえてきた。言うまでもなく、斎波に向けられたものである。

「こら、人に指差ししないの。早く行くわよ」

 母親らしき女性が申し訳なさそうに会釈し、子供の手を引いて去っていく。なるほど、ずっと座り込んでいる斎波はそれなりに人目を引いてしまっているらしい。であれば、筋トレなんかをしてこれ以上注目を集めてしまうと、これから来るはずの待ち人に迷惑をかけてしまうか、と考え直して再び腰を下ろした。

 とはいえ。

「退屈だ……」

 普段の斎波ならめったに口にしない言葉を漏らす。と、小走りの足音が聞こえてきた。

「すみません、お待たせしてしまいましたか?」

 頭にハンチング帽、黒縁の大きな眼鏡をかけた、すらりとした体型の青年。劇団で見るものとはかなり違うファッションだが、彼こそ斎波の待ち人、宍上紅蓮だった。

「いや……まだ五分前じゃないか。君だって充分早いくらいだろう。私が早く着いてしまっただけだ、気にしないでくれ」

 と、斎波は腕時計を見ながら答えた。宍上はもう一度「すみません」と頭を下げると、斎波の隣に座った。

「もっと早く来たかったんですが、ちょっとトラブルがありまして」

「いいさ。それより、その眼鏡は?」

 度入りにしても伊達にしても、妙に不格好で美形の宍上には不釣り合いなデザインだ。見た目を気にする彼らしくはない。

「これはほら、変装ってわけじゃないですけど……顔見て『僕だ』ってバレたら、色々大変ですから」

 ああ、と斎波は得心する。芸能事務所から劇団に移籍したとはいえ、宍上は未だあらゆるメディアから引っ張りだこのスターなのだ。彼ほどにもなると、変装しないと外出もままならないのだろう。斎波は周囲の様子を窺う。通行人達はまだ彼の正体に気づいていないらしい。やはり筋トレをしないで正解だった。

「顔が売れすぎるのも大変だな」

「贅沢な悩みなんでしょうけどね」

 宍上が困ったように笑う。斎波もつられて笑った。

 オフの日に遊びに行こう、と誘ってきたのは宍上からだった。

 共演も決まったことだし、今から親睦を深め、息を合わせられるようにしよう――一理ある提案だと思い乗ったのはいいが、しかし斎波には一つ懸念があった。

「それで宍上君、今日はどうしようか」

 斎波が切り出す。

「実は……恥ずかしい限りなのだが、私には友人かほとんどいなくてな。誰かと遊ぶ、ということがいまいち想像できない。本当なら、私からもプランを出すべきなのだろうが……」

「気にしないでください。僕も全然、何するか考えずに来ちゃいましたから」

「ええっ」

 予想外の切り返しに動揺する。大げさなくらい驚く斎波に宍上がくすくす笑った。

「斎波さんが一人で遊ぶときはどうされてるんですか?」

「えっ……ううん、そうだな。定食屋とかラーメン屋に行ったりするかな。ジムに行ったりするし、あとは馴染みの劇団の公演を観に行くくらいか」

 我ながら無趣味である。以前も「暇があるとすぐに筋トレするか何か食べてる」などと知人にからかわれた。

「休日でもトレーニングに励まれてるんですね。凄いなあ」

「さすがに今日は行かないさ」

 普通、筋トレは遊びとは言えまい。宍上は再び可笑しそうに笑って言った。

「じゃあ、ちょっと早いですけど、何か食べられるところに入りませんか? 小腹を膨らませながら考えましょう」

 もみじ公園から少し歩くと、オフィス街の一角に若者向けのカフェがあった。ピークタイム前だからか席には充分空きがあり、すぐ座ることができた。周囲の客は女性客とカップルばかりで、男二人で入ったことで注目を集めてしまわないか気になってしまう。

「君は、こういうところによく来るのか?」

「ここは初めてですけど……そうですね、女の子の友達とか、その時お付き合いさせていただいてる人とかに教えてもらいますね」

 なるほど。女性ファンが多い宍上は、プレイボーイとして流している浮き名も多い。交際に奔放すぎるのもどうかと思うが、仕事に影響を与えない範囲なら個人のプライベートだ。ここ数年恋人のいない斎波としては、多数の女性からアプローチをもらえる立場は正直羨ましい。

「そうか、君はもてるんだったな。なら、こういう店も慣れっこか」

「さすがに一人で入る勇気はありませんけどね。それに、斎波さんだって女性受けするんじゃないですか? 合コンなんか行ったらモテモテでしょう」

「いや……あいにく私はまったく縁がないんだ。高校生の時の恋人が最初で最後だよ。仕事を恋人にするつもりはないんだが……」

 ギャルソン風の制服を着た店員が来て注文を聞いてくる。コーヒーを二人分と、宍上はサンドイッチ、斎波はパスタを頼んだ。

「へえ……なんだか意外です」

「そうか?」

「斎波さんって、良い意味で恋愛に興味が無いように見えるっていうか……仕事熱心で身持ちが固い人に見えましたから。そういうのがカッコいいって、女の人にも好かれそうですけど」

「そんなことはないさ。恋人が欲しくて堪らないくらいだよ。いったい何が問題なんだろうか……そうだ、もてる秘訣ってものがあるなら教えてもらえないか?」

 恋人がいないのを仕事を増やしてごまかしているだけである。機会があれば合コンやイベントに参加などもしているが、どうしてかなかなか実らない。二十三歳、そろそろ結婚のことも真剣に考え始める歳なのだが。

「秘訣、と言われても……特別何かしているつもりはないんですが」

 宍上は困った顔になる。

「僕だって、ちゃんとお付き合いができているとは言えませんし。性格が合わなかったりして、すぐ別れちゃいますから」

 宍上のように優しい男と合わないなんてことあるのだろうか。女心のわからない斎波にはいまいち想像できない。

「付き合ってからも大変、というのはわかるが。そもそも試合に参加できていない、どういうレギュレーションに違反してしまっているかもわからない身としては、まず参加資格が欲しいんだ」

「ううん……」

 二人して腕組みしていると、店員が料理を運んできた。入店してから一方的に自分の相談ばかりしていたことに気づき、斎波は慌てて謝る。

「すまない、私の話ばかりしてしまった。これでは遊びではなく人生相談だな……」

「いえ、これはこれで楽しいです。まさか斎波さんが、恋愛について悩まれてるなんて。僕が力になれればいいんですが」

 そう言って、宍上は一口大にカットされたサンドイッチを口に入れた。斎波もフォークにパスタを巻きつける。盛りつけられた二枚貝の香りが食欲を誘う。

「その、最初に付き合った人とはどんな感じだった人ですか? 高校生の時の」

「うん」

 ロの中のものを飲みこみ、次のパスタ塊を作りながら答える。

「あの時は――確か、向こうから誘われたんだったな」

「告白されたんですね」

「ああ。でも、幼なじみみたいな関係だったから、彼女から言われるまで意識もしていなかった。言われるまま付き合いだしたら、初めて彼女が魅力的な女性であることに気づいたくらいだ」

「ということは、関係解消も彼女から?」

「そうだな。原因はよくわからないが、多分、私に恋人としての魅力がなかったんだろう。彼女が求めていたものは、私にはなかった。そういうことなんだと思う」

 別れを告げられた時、彼女から必死で謝られたことは今でも鮮明に思い出せる。どうすべきだったのか、今でもちゃんとした答えは出せないが、どちらにせよもう過ぎた話だ。

「そっか……じゃあ、斎波さんって、ひょっとして」

 宍上は二個目のサンドイッチを飲み込んでから続けた。

「自分から女性にアプローチしたこと、あんまりなかったりするんじゃありませんか?」

「うん? ……ううん」

 言われてみれば、自分の口から誰かに「付き合ってください」と言ったことはない――もちろん、芝居の時は除いて。

 というよりも、そこに辿り着くまでの段降にも到達していないのだ。女性と親密になるための、適切な距離の詰め方、話しかけ方……付き合いたいという気持ちばかり走って、肝心な方法を全然考えていなかった。

「なるほど、オーディションに参加するにも最低限の技量が必要というわけだ。つまり私はこれから地道にトレーニングを積み重ねていかなければならないんだな」

「トレーニングも、もちろん大事だと思いますけど」

 宍上が急に腰を浮かす。なんだろう、とパスタを巻く手を止めると、宍上の指が斎波の口元まで伸びてきた。

「実戦でどんどん試していくのも、重要だと思いますよ」

「……宍上君?」

「ごめんなさい。口元に付いているのが気になって、取っちゃいました」

 自分の指先についた小さなネギ片をぺろりと舐めとる宍上。パスタに入っているネギと見比べ、斎波は無性に恥ずかしくなった。

「ありがとう。でも、言ってくれれば自分で取ったのに」

「ふふっ。斎波さんがあんまり美味しそうに食べるから、食べたくなっちゃいまして」

「ああ……じゃあ、君も食べるか?」

 フォークに巻きつけたパスタを宍上に向かって差し出す。すると、宍上はなぜかぽかんとした顔になり、少しして笑いだした。

「――あはははっ! 斎波さん、それ、本気でやってます? もしそうならあんまりですよ?」

「ん、何か変だったか?」

「あはは……ああ、もう……」

 宍上はひとしきり笑ったあと、悪戯っぽい顔で言った。

「確かに斎波さんには、ちゃんとしたレッスンと先生が必要みたいですね」

 そして斎波が差し出していたフォークに口を近づけ、ぱくりと食べた。

「僕がなってもいいですか? 貴方の先生に」

「えっ、良いのか?」

「もちろん、斎波さんですから。教えるときは一切容赦はしませんけどね」

 何が宍上の心を動かしたのかよくわからなかったが、彼のサポートを得られるのなら心強い。斎波は嬉しくなって宍上の手を取った。

「ありがとう宍上君! 君は本当に優しいな!」

「はい。じゃあ、さっそく今からやっていきましょうか」

 斎波の手に空いているほうの手をさらに添え、宍上はにっこり笑って言った。

「今からデートをしましょう――僕を女の子だと思って、エスコートしてください」

 有無を言わさぬ口調に、斎役は言われた言葉の意味をしばらく理解できなかった。




「うっそお、宍上君そんなこと言ったのぉ!?」

「もうそれしかないって思ったんですよ。やるしかないなって」

「いやいや、思いきりが良すぎっ!」

 二日後――ブルートループオフィス。台本の第一稿が完成したということで、斎波達メインキャストは読み合わせを行うべく集められていた。メインといっても、現在決定しているキャストは斎波と宍上、それにヒロイン二人しかいないので、今回は大まかな流れを確認するだけになるだろうが。

「おはようございます。……なんだか聞き覚えのある話をしているみたいだな?」

「おはよう、斎波さん。聞いたよ、こないだ宍上君とデートしたんだって?」

 にやにや笑いで斎波をからかってきたのは薄川うすかわ美深佳みみか。斎波と同世代の女優だ。今回は宍上演じるリュシアンの幼なじみで娼婦のヒロイン・ジジを演じることになっている。

「デートじゃあないさ。二人で遊んだだけだ」

「男女だったら、それをデートって言うんですよ」

 宍上もくすくす笑っている。やはり一昨日の彼の言葉は冗談だったのだと確信する。いきなりあんなこと言われて動揺してしまい、自分でも何かなんだかわからない状態だった。

「でも、食べたばっかりのあとに焼肉に連れていくのはいくらなんでも『ない』と思うよー? 斎波さんは余裕かもしれないけど、普通は男でもムリじゃない?」

「だから……それは気が動転していたんだ」

「教えがいがありそうですよ、斎波さんは。これからびしばし指導していかなくっちゃ」

「いいなー、私も宍上君とデートしたーい」

 薄川がふざけたように宍上の腕を取る。宍上はそれを拒む様子もなく、受け入れるように微笑んでいる。

「これはレッスンですから。薄川さんは指導しなくたって平気でしょう?」

「ええー、いいじゃん、私にもエスコートさせてよ」

「もう……」

 仲が良いな、と思う。

 薄川がフランクなのもあるだろうが、宍上もなかなか上手に距離を縮めている。紳士的に振る舞いながらも、異性を感じさせない。これが彼が女性にもてる所以なのだろうか。

「おはようございます。遅くなりました」

 と、そこにもう一人の“ヒロイン”が入ってきた。

「おはようございます、生越おごせさん。……うわ、今日のコーデもかっこいい」

「どうも。薄川さんもいけてるよ」

 生越たつみは男物のキャップを脱ぎなからくすっと笑った。

 男装の麗人のイメージで知られている生越が今回演じるのは、正統派の恋する乙女――主人公アデルと恋に落ちるお針子の少女パヴォットだ。女性として美人なのは疑いのない容姿を持つ彼女だが、普段も、今まで演じてきた役の中でも異性的な振る舞いが目立つ彼女はどんなヒロインを演じるのか。興味を引かれずにはいられない。斎波は無意識のうちに生越をまじまじと見つめていた。

「おはよう、斎波クン」

 と――斎波の視線に気づいたのか、生越は彼の前に来た。どことなく意味ありげな笑顔で、斎波にすがめるような眼差しを送っている。

「おはよう。どうかしたのか?」

「別に? 私の“王子様”がどんな顔なのか、見ておこうと思ってね」

 挑発的、というか、妙にかんに障る言い方だった。こちらがガンを飛ばしていたから、にしても当たりが強すぎる。共演したことのない生越と面と向かって話すのはこれが初めてなのだが、知らないうちに怒らせることをしてしまったのだろうか?

「王子様、か。君のような美女を上手くエスコートできるかわからないが……」

「よろしく頼むよ。私は間抜けな男に手を引かれるつもりはないから」

 生越は斎波の向かい側の席に座る。斎波も手近な席に座った。しかし……やはり生越からの視線が刺々しい気がする。 このまま関係が悪化するとまずい。斎波演じるアデルとパヴォットの恋は物語のキーポイントである。生越との不和が演技に悪影響を与えなければ良いのだが……。

 部屋の時計が午後一時を指した。扉が開き、勢揃いした役者達の前に制作陣が現れる。

「オハヨーゴザイマース! 皆さんお元気ですかあ!? ワタシは元気でえええす!」

 真っ先に入ってきたのは、耳をつんざくような奇声を上げる女性――バタバタと鳥を思わせる動きに役者達は釘づけにされた。

「えっ……えええ?」

 おそらく彼女を初めて見るだろう宍上と生越はすっかり呆気にとられている。――なんだこの人、という心の声がありありと聞こえてくる。

「さ、斎波さん? この人、いったい……?」

「ああ、彼女は……なんなんだろうな、本当に……」

 比較的彼女を見慣れている斎波も説明に窮して言葉を濁す。彼女を説明しようとすると、どうしても“奇人”とか“珍獣”とかおよそ人に向けるべきではない形容詞を用いなければならない。

「おはようございます。音無おとなしさん、お願いだから声のボリュームを落としてちょうだい。それから、初対面の人にみだりに近づかないで」

「ひゃああああ!! 宍上さんからローズヒップの香りがします! 初夏の陽だまりティータイムッ! オーッ、たつみさんの髪はとってもシルキー! この髪でドレスを織りたあい!」

「音無さん! 戻って!」

「あはははは、次美つぐみちゃん、そのへんにしないとおまわりさんを呼んじゃうよ?」

「アウチ! マッポはカンベンです!」

 形容しがたい奇行を取る女のあとから入ってくる代表の亜理愛、演出家の乾、そして脚本を担当する藍条。乾の言葉で大人しくなった女が戻ってきたのを見て、亜理愛は軽く咳払いをした。

「――改めまして、おはようございます。先日伝えた通り、今日は読み合わせを行うわけだけれど、まず今回の公演における制作陣を紹介するわね」

 亜理愛は並んだスタッフ達を指し、簡素に紹介する。

「彼は乾拾いぬいじゅうさん。彼にはいつもお世話になっているけれど、今回も演出をお願いしています」

「よろしくね。良い舞台に出来るように頑張ります」

「彼女は……演出補佐の音無次美おとなしつぐみさん。乾さんのアシストをしてもらいます。この通り変わった人だけど……距離を保っているぶんには悪い人じゃないわ」

 つまり、出来るだけ関わるべきではない人間という意味である。

「オトナシです!! ナイストゥーミーチューッ!」

「そして彼は藍条遼基あいじょうりょうき君。知っての通り、彼に脚本を書いてもらっています」

「藍条です。よろしくお願いします」

 一通りの紹介が終わり、亜理愛達も席に座る。丸テーブルを八人で囲む形だ。音無が持っていた人数分の台本が配られ、右から左、隣の人に渡していく。

「エビバデ、台本は行き渡りました!? オッケーでオーライでイナフですねッ!?」

「大丈夫です」

「届きましたー」

「うん、じゃあ始めようか。みんなは自分の役のところだけ読んでね。決まってないところは僕と代表さんが読むから」

 乾が亜理愛に目配せすると、亜理愛が頷き、冒頭のト書きから読み始めた。

 『五十フランの泥』の筋書きは、おおよそ以下のようになる。

 郵便配達夫の貧しい少年リュシアンは、仕事で手紙を届けた屋敷の主、少年アデルと親しくなる。アデルは裕福な家庭で育ったが、両親の事業の失敗によって彼も崖っぷちに立たされていた。

 少しずつ心を通わせていくアデルとリュシアン。不景気のために仕事をクビにされたリュシアンが助けを求めてアデルの屋敷に転がり込んできたことをきっかけに、二人でブティックを開き新しく商売を始める決意をする。

 二人の仲と店の経営は最初は順調だったが、アデルを執拗に狙う悪徳高利貸しの魔の手、そして次第に浮き彫りになる二人の考え方の違い……様々な要因で心身ともに追い詰められたアデルはリュシアンを裏切り、破滅の道へ転落していく――

 悲劇的な話はあまり好きではないが、久々のミュージカル、しかも自分が主役となれば気を引き締めざるをえない。台本を握る斎波の手に力がこもる。この舞台、なんとしても成功させなければ。

「『郵便でございます、ムッシュー』」

 宍上がリュシアンの台詞を読み上げる声に、斎波は思わずほう、と声をもらした。詳細な台本を渡されたのはこれが初めてだが、もう既に彼の中でリュシアン像が出来上がっているのではないか、と思わせる読み口調だった。

 聞き取りやすいのにおどおど、弱々しい声音。普段は気丈だろうに、すっかり参っているらしい。雨に降られてしょげかえり、さらに上品な屋敷の主人に気遅れしているリュシアンの人柄が目に見えるようだ。

 ――さすが宍上君だ。

 自分も負けてはいられない。唇を舐め、宍上に続けて、アデルの台詞を読んでいく。

「『面白い男だなあ、君は! なに、ちょうど一人きりで退屈していたのだ。駄賃に色をつける代わりに、すこしばかり僕に時間を割いてはくれまいか』」

 このとき、アデルはどんな気持ちだったのだろう。リュシアンに対しては優雅に振る舞っているが、既に両親を亡くし、使用人達も辞めさせて、若い身で天涯孤独の身となっていたのだ。迷い込んできたリュシアンがどれほど愛おしかっただろう。きっと言葉の端々に寂しさや心細さ、切なさが滲んでいたに違いない。

「『また、会えるだろうか……?』」

「『はい、もちろん! きっと来ます、旦那さま!』」

 宍上と目が合う。一生懸命で、そして心から楽しんでいる顔だ。斎波の顔にも自然と笑みが浮かんだ。

 ――ああ、彼が共演者で良かった。

 流れを確認するだけの読み合わせでもまったく手を抜かず、真剣な姿勢で臨んでいる。きっと彼は自分と同じくらい――あるいはそれ以上に芝居のことが大好きで、この舞台も全力で取り組もうとしているのだ。斎波にはそれが何より嬉しくてたまらなかった。芸能人としてのキャリアだとか、人気取りや話題性のためだとか、そんなくだらないことではなく、一心に芝居のことだけを考えている人がいるということが。

「ピピーッ! そこ! 二人きりワールドに入っちゃうのはダーメでーす!」

 と――没入していた斎波の意識を引き戻すように、けたたましいホイッスルの音が鳴った。

「お……音無さん」

「今日は個人練習じゃなくて読み合わせですヨ! ちゃんと周りを見てクダサイ!」

「そうだねえ。宍上くんに斎波くん、熱中するのは良いけど、今日はほどほどにね。まずはフラットな気持ちで読んで欲しいからさ」

「すみません……」

 乾にもたしなめられ、二人で苦笑いする。しかし――斎波は宍上と視線を合わせる。彼との掛け合いでは、確かに手応えを感じた。わずかな台詞の中で、彼の力量、そして信念が垣間見られた。

 彼とならきっと、最高の舞台が作れるに違いない。

「――お疲れ様でした」

 読み合わせはおよそ一時間弱かかった。ト書きを読んでいた亜理愛がふうっと息を吐き、皆に声をかける。

「何度も言いますが、この台本は決定稿ではありません。今後台詞等が変更になる可能性があるので、留意していてください」

「キミドリさんとのお話が終わってなくてね。曲も七月くらいにならないと上がってこないから、ごめんだけどもうちょっと待っててね」

 いつもより全体の進行が遅く感じるのは、やはり大手事務所が絡んでいるからか。斎波と一歳しか歳が違わないのに、組織のトップとして大企業と交渉するなんて並大抵のことではない。気を張った亜理愛の顔に、心なしか疲れが見えるような気がした。

「そんなわけだから、演技の指導はまたおいおいやっていくけど……どうかな、次美ちゃん。何か言っておきたいことはある?」

「ノンノンです! 皆さんとってもクールアンドチャーミングでしたッ! 特に生越さんはデラメッチャホンマプリチー! そのキュートでキューティクル満載な髪を一房いただいても?」

「うん、次美ちゃんは近々塀の中に入ってもらうことになりそうだ」

「ノーッ!?」

「困ったちゃんは置いといて、藍条くんはどうかな?」

 と、乾はそれまでずっと黙っていた藍条に話を振った。こちらに回ってくるとは思いもしていなかったらしい藍条は戸惑っている。

「私、ですか?」

「うん、何か気づいたことある?」

 礼儀正しそうな青年は困ったように顔をしかめ、それからおそるおそるという風に言った。

「あの……こんなことを言っては気分を害されるかもしれませんが、斎波さんの声は少々、アデルのイメージと反するような気がします」

「うんうん、そっかあ」

 それに対し、乾はにこにこと嬉しそうに笑っている。

「役のイメージについてはこれからすり合わせていくから、そんなに心配しなくていいよ。全然合わなさそうに見えた人がぴったりの演技に仕上げてくるのが見てて面白いんだから。ね、斎波くん」

「はい。努力していきます」

「あ、でも筋肉がムキっとしてるのはちょっとまずいかな? アデルくんって細くてか弱い子だから。斎波くん、公演が終わるまでジムも筋トレも禁止ね」

「……わかりました」

 日課を越えて趣味となっていたトレーニングができないのはつらいところだが、役づくりのためならば仕方ない。食べすぎで太らないよう、体重管理に気をつけなければ。

「差し出がましいことを言ってすみません。よろしくお願いします」

 藍条も納得したのか、斎波に向かって頭を下げた。斎波も頭を下げ返す。

「いえ、こちらこそご指摘ありがとうございました」

「それでは、各自今日の台本をしっかり読んで今後の打ち合わせに参加してください。本日は解散とします」

 亜理愛の挨拶でスタッフ陣が出ていく。緊張が解けた役者達は一斉にため息をついた。

「疲れたあ……。生越さん、この後どうします?」

「私は直帰かな。用があるから」

「そうですか……宍上君は?」

「僕は……」

 薄川に声をかけられた宍上は斎波のほうを見た。どうやら、考えていることは同じのようだ。

「宍上君、これから一緒に自主練をしないか? もう少し読み合わせをしておきたいんだ」

「はい、ぜひお願いします!」

「ええっ!? まだやるの!?」

 面食らった様子の薄川に二人で微笑む。横で話を聞いていた生越も苦笑いしていた。

「主役二人が早くもラブラブと来たか。これじゃ、ヒロインの出る幕はないね」




「すまないな、長い時間引き留めてしまって」

「いえ、とても楽しかったです。また時間ができたらやりましょう」

 “自主練”が終わったのは午後八時過ぎだった。さすがにこの時間になると残っている者は少ない。電気が半分消されて薄暗い廊下を歩き、斎波と宍上はロッカールームへと向かった。

「もうこんな時間か……夕飯はどうしようか。どこかに食べに行こうか?」

「そうですね。西口の繁華街のほうに美味しい中華屋さんがあるんですけど……」

 たわいない話も彼とならなんだか楽しい。斎波はついつい夢中で宍上と話し込み、前方の曲がり角からふらふらと影が躍り出たのになかなか気づかなかった。

「……あれ?」

 宍上が先に気づく。見ると、覚束ない足取りで誰かがこちらに歩いてくる。思わず足を止めると、向こうもこちらに気づいたのか顔を上げた。

「――――あ」

 見覚えのある顔だった。確か去年に入ってきた新人で、名前は――

「――初空はつぞらさん、か?」

「あ、あ、あ……」

 遠目にも酷い顔色だったのが、斎波達に気づいた途端ますます顔を青ざめさせている。……いや、おかしいのは顔色だけではない。

 普通に運動しただけではそうはならないくらい、乱れほつれた黒髪。しわだらけの服は、よく見るとあちこちが妙な具合に伸びたりめくれ上がっていて、まるで大慌てで着てきたようだ。先輩に出くわしただけなのに、どうしてがたがたと震え、今にも倒れそうになっている? 何かあった――いや、何かのは明白だった。

 全身の血が、瞬時に沸騰した。

「……君、何があったんだ」

 大股で初空に近づく。それにより彼女がますます怯えているのにも、今は注意を払うことができない。

「ちが、違うんです。あの、わたし……」

「教えろ。何があった。が、やったんだ」

 ここは劇団ブルートループの事務所だ。

 清掃業者など他人が出入りすることもあるが、こんな夜更けに残っているのは団員くらいのはず。ならば考えるまでもない――初空に何か乱暴をしたのは、残っていた団員の誰かなのだ。

 

「な、なんでもないんです、本当に……だ、だから、その」

「誤魔化さないでくれ……!」

「――斎波さん!」

 もう一歩、初空に近づこうとしたところで宍上に腕を掴まれる。振り向くと、宍上はきつく唇を噛んで首を振り、目で訴えかけていた――やめてくれ、と。斎波ははっと我に返る。

「宍上君……」

「初空さん。女性のロッカールームは向こうです。お化粧直しするならそちらですよ」

 斎波の腕を掴んだまま、宍上は反対の手で後方を指差した。初空は宍上と斎波の顔を交互に見、怯えた様子で逡巡したのち、うつむきながら二人の横を駆け抜けた。

「ご、ごめんなさい……!」

「……斎波さん。顔が怖かったですよ」

 初空が姿を消したのを確認して、宍上はようやく斎波の腕を離した。

「わかっている。だが……」

「ええ。彼女に何かあったのは僕にもわかります。ですが……少なくとも今はそれを詮索するべきじゃない」

 宍上はひどく悲しそうな顔で初空が消えていったほうを見た。

「どうして……!」

「僕達が男だからです」

 宍上の答えに、斎波は言葉を失った。

「気づいてましたか? 斎波さん、怖い顔してましたけど……彼女が怯えてたのはそれだけじゃない。暗い道で男に道を塞がれるって、どれだけ怖いことかわかりますか?」

「………………」

「彼女がいったい誰に何をされたのかはわかりません。ですが、あの状況で他人に出くわすことがまったく安心できることではないのは瞭然です。まして、自分が女で、相手が力では勝てない男であれば……」

 斎波は先程のことを思い返し、自分がまったく彼女の心境を考慮していなかったことに気づいた。

 怒りしかなかった。あってはならないことが起きたということで頭がいっぱいで、本来すべき初空への心配などまるで考えていなかった――そんなことが正しい行動であるわけがない。

「……すまない。私が間違っていた。何があったにせよ、彼女をあれ以上脅かすべきではなかった」

「わかっていただけて嬉しいです。僕も、斎波さんに悪意がなかったのはわかりますから」

 落ち着くと、逃げるように去って行った初空のことが余計に気にかかった。“犯人”のことは傍に追いやるとして、あんなに怯えていたのでは余程酷いことをされたのではないか。自分達が直接ケアすることはできずとも、何か手を打つべきではないのか。

「難しいところですよね」

 宍上が苦虫を噛み潰したような顔をする。

「もちろん、放っておくわけにはいきません。しかし、ことがことですから……下手に話が広まってしまったら、彼女に追い討ちをかけることになりかねません」

 確かに、そういう噂を詮索する下衆のせいで傷を深める女性の話は聞いたことがあるが……じゃあ、せめて信頼できる人に伝えておかなければ。代表の亜理愛はこのことを知っておくべきだし、同じ女性としてデリケートな話題を扱うことができるはずだ。

「代表さん、ですか……」

「何か問題があるか?」

「いえ、正しいと思います。ただ……代表さんも今は忙しい時期でしょうし、心労を増やすことになってしまいますよね。万が一、キミドリプロにこの件が知られたら、それを理由にプロジェクトを打ち切られてしまうかも……」

「……そうか、それもあるか」

 ぐう、と声にならない声が漏れる。ただでさえ忙しい亜理愛をこれ以上追い詰めたくはない。しかも、これがスキャンダルの種になってしまうとしたら、せっかく取ってきた大舞台の話がおじゃんになってしまう。

 公演の命運と女性団員の心身。本来、天秤に掛けるものではない。初空のことを考えれば、すぐにでも手を打たなければならないが……。

 ――いったい、どうすれば良い。何をするのが正解だ?

「このまま、見過ごさなければならないのか……? 穢らわしいことがこの劇団で起こったというのに?」

「……今すぐには結論は出せません。今日はもう遅いです、一度帰って頭を冷やしてから考えましょう。どちらにせよ、僕らだけで考えるには手に余る問題です」

 宍上がロッカールームに行こうとばかりに斎波の手を引いてくる。そういえば、自分達はまだ稽古着から着替えもしていなかったのだ。しかし斎波は、どうしても初空のことが頭から離れなかった。

 劇団の名と一人の女性の心身を傷つけるような忌まわしい事件が起こったというのに、自分は何もできないどころか、ひょっとしたらにしなければならないのか。そんなことは間違っている。間違っているというのに……それより良い方法を、正しい解決法を思いつくことができない。

 ……悔しい。許せない。

 言葉にできない思いを抱え、斎波は宍上に手を引かれながら歩いた。反対方向に消えた彼女がこれからどうなるのか、苦々しく噛み締めて。

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