厭うべきデウス・エクス・マキナ
五月の長期連休明け。ブルートループの事務所兼スタジオの一角にて、秋の新作公演に向けた話し合いが行われていた。
「ごめんねえ、亜理愛ちゃんにばっかり面倒な仕事させちゃって。大変だったでしょう、キミドリさんは大きいからなあ」
話し合いといっても、この場にいるのは三人だけだ。代表の志島亜理愛、小説家兼脚本家の
「代表として当然です。乾さんもご多忙でしょうから」
「呼んでくれたらいつでも行くんだけどねえ。寂しいなあ」
「今度の公演では頼りにさせてもらいますから、よろしくお願いしますね」
細い目が特徴的な乾は四十手前の中年の男で、まだ若い亜理愛からすると亡くなった父に近く感じる年齢である。飄々としていてのんびりとした話し口調は、せっかちで焦りやすい亜理愛の心を落着かせてくれる。
「ええと、じゃあ…… こないだ入ってきた宍上くんと生越さんをメインに据えるのが、向こうさんの出した条件なんだ?」
「そうですね。私としても異存はありません。二人とも、メディアやファンからの注目度はもちろん、俳優としても優れた技量を持ってますから」
「うちだって良い子はいると思うけどなあ。斎波くんなんか負けず劣らずに男前でしょう。あんまり外から来た子ばっかりをちやほやするのってどうかなあ」
「それなんですけど……」
亜理愛はテーブルに広げていた企画書のうちの一枚を取り、乾に差し出した。
「主役を二人にしてはどうか、と。つまり、宍上君と斎波君、二人とも主演とした内容で、新規の層にも斎波君達旧来の団員をアピールできないかと」
「ふうん……」
乾が企画書に目を通す。
「ん、もう演目まで決められちゃってるの? 『五十フランの泥』……聞いたことないけど、新しいタイトルなのかな」
「はい。初稿を用意してきたので、よろしければお目通しをお願いします」
と、それまで口を閉ざしていた男――藍条が小冊子を取り出した
「うわあ。もう書いたの。藍条くんは仕事が早いなあ」
「“原作つき”の話ですから、ほとんど台詞を打出しただけですよ。直さなければならないところもたくさんあります」
藍条は眼鏡の奥で笑う。ベストセラーホラー作家という肩書きに対し、二十代半ばという彼の年齢は若い。礼儀正しく爽やかな印象を受ける外見からは、彼がおどろおどろしい怪奇小説を書いているとは想像できない。
「ああ、なるほど。元々のお話があるんだ。『或る無情への墜落』ね。かっこいい題名だね。タイトルを変えろっていうのも“先方のご意向”かな? まあいいや」
乾は脚本を読み始める。斜め読みとしてもかなりの速読で、五分もしないうちに最終ページまで辿り着いていた。
「――うん、面白いね。レ・ミゼラブルで少年愛をやってる感じなんだ」
原題『或る無情への墜落』――フランスの劇作家ヴァランタン・モンパルナスにより十九世紀頃書かれた文学である。
そのタイトルが示唆するように、かの大河小説の金字塔『レ・ミゼラブル』のパロディ、あるいはオマージュがふんだんに盛り込まれた作品である。クライマックスの学生革命軍が玉砕していくシーンはまさにレ・ミゼラブルの六月暴動を彷彿とさせる。
亜理愛体制のブルートループでは、藍条の著作を使用した現代劇、怪奇劇が演じられていたが、キミドリプロダクションの要請により“海外を舞台にしたロマンミュージカル”を上演することになった――その結果、上記の作品をミュージカルとして制作することになったのである。
ただし、レ・ミゼラブルといえばミュージカル界でもその名を轟かせる作品だ。本場フランスはもちろん、ブロードウェイや国内でも毎年のように上演されている。当然、そういった作品は権利関係も厳しい。万が一にも「貴劇団の公演は当劇団の作品の剽窃ではないか」と思われたら大事だ。そのため、キミドリプロの意向もあり、タイトルを『五十フランの泥』と変更して制作することになったのだった。
「こういうの、女の子が好きなやつだよね。これを宍上くんがやるっていうなら、見たがる人は沢山いるだろうね」
にこにこと、細い目をさらに細めて笑う乾に、亜理愛もつられて笑った。
「じゃあ、このまま企画を進めますね?」
「うん、良いと思う。ぼくもどんどん口を出していくから」
そう言いながら、乾は再び脚本の冊子を開く。ポーカーフェイスを貫いている藍条だったが、乾がページをめくるたび緊張感を覚えていた。
小説家としての経歴は華々しいものであるが、脚本家としての彼のキャリアは極めて浅い――亜理愛が代表となってからのたった二年である。今でこそなんとか右左くらいはわかるようになったが、まだまだ慣れているとはいえない。
当然ながら、小説と脚本は全然違う。書式や形式の問題ではなく、最終的に出力される“かたち”が違うのだ――観客は読者ではなく、あくまで舞台上で演じられる光景を観るのだから。
たとえば『想像を絶するおぞましい姿の怪物』を物語に出すとして、小説であればその詳細な姿形は結局読者の想像に委ねることになる。しかし舞台となると、それを人間の役者が演じなければならないのだ。体格は、目鼻の大きさは、どんな風に蠢き息吹を吐き出すのか……それらをしっかり練り上げなければ観客に出せるものにはならない。
そして、これもまた当然のことながら、舞台上の物語の登場人物はすべて役者が演じている。
『このキャラクターはこの時何を考えていて、どうしてこの言動をするに至ったのか』……役作りにおいて必ず直面するこの問いにどう取り組むかは人それぞれだ。一人で徹底的に考える役者もいれば、他の役者との触れ合いの中で見つけていく者もいる。そして、キャラクターが性格や生まれ育ちでは説明できないような、明らかに矛盾し、破綻した言動をとってしまっていたら、その疑問は書き手――つまりは脚本家へ向けられる。
物語の登場人物にも人格があり、人生がある――脚本家として舞台劇に携わるようになってから藍条は痛感した。書き手にとっては都合の良い舞台装置であっても、それを演じるのは生身の人間だ。
そして役者はもちろん、照明や音響、そして演出家、途方も無い数の人間が自分の書いたシナリオに沿って動く。自分が適当な仕事をしてしまうと、あらゆるものが台無しになってしまうのだ。自覚すればするほど、重圧を感じる仕事だった。
「……大丈夫?」
無意識に顔をこわばらせていた藍条に、亜理愛が小声で話しかける。大丈夫さ、と小さな声で返した。この程度のプレッシャーは、少なくとも彼女が日頃背負っているものと比べたらまるで比べ物にならない。
「今回はキミドリさんが関わってくるからなあ。そうか、藍条くんの責任もいつもより大きめだ」
と、どこまで察しているのか、乾が気の抜ける口調で言った。
「大丈夫だよ。藍条くんのお話は面白いし、万が一何か大変なことになったとしても、責任を取るのはぼくか亜理愛ちゃんだから。きみはいつもと同じように、のびのびとやっててくれればいいから」
「ありがとうございます」
「もちろん、そんな“もしも”が起こらないよう最善は尽くしますが」
亜理愛がしっかり釘をさす。いかにも照れを隠したような声音に、藍条は少し可笑しくなった。
「じゃあ、さっそく聞いていいかな」
乾は真面目な口調になる。元々の顔つきなのか、顔は相変わらずのほほんとした表情だったが、
「このお話の主役……アデルくんとリュシアンくんを、それぞれ宍上くんと斎波くんに演ってもらうんだよね。先方さんは他になんか言ってた? 具体的に、どの役に誰々を当てろってさ」
「いいえ、キャスティングはこちらに一任させていただけると」
とはいえ、主演二人の配役についてはもう決まっているも同然だと藍条は考えていた。
物語の主役である二人の青年――アデルとリュシアン。アデルは裕福な家庭で育てられた、繊細な心身の中に激情を秘めた美青年だ。対するリュシアンは日々の暮らしに困窮する貧しい家で育ったが、どんな時も他者を思いやれる心優しい善良な青年である。
宍上はどちらかというと女性的な、線の細い外見の美形で、“老若男女を魅了する美青年”であるアデル役を演じるのにぴったりの容姿だ。脚本家として改めて原作を読んだとき、きっとアデル役は宍上が演ることになるだろうと直感した。
アデルは物語の中で数多くの受難に見舞われる役回りで、美形の宍上が舞台上でそんな受難劇を演じれば、“映える”ことは間違いないだろうという下心があることは否めないが……。
「みんな、宍上くんにアデルを期待してるんだろうねえ」
そんな藍条の下心を見抜いたかのように乾が言った。
「アデルくんって可愛い子なんでしょう。ううん」
「何が気になることが?」
「いやあ……可愛い子を可愛い子が演るのって、なんか、当たり前だなって」
亜理愛が怪訝な顔をする。乾は至極真面目に話しているのだろうが、彼独特の感性と柔らかすぎる表情がいまいち彼の真意をとらえる邪魔をする。
「面白いと可愛いなら、ぼくは面白いを取るべきだと思うんだよね。少なくとも、面白いのほうが長生きするでしょう」
「つまり、どういうことですか?」
亜理愛の急かした言い方に、自分が妙に遠回りな言い方をしていることに気づいた乾が「ごめんごめん」と笑う。本人的にはそこまでもったいぶっているというわけでもないらしく、実にあっさりと続きを話した。
「だから、ぼくが考えてるのはね――」
ブルートループの団員間のミーティングやレッスンは、土日祝日のほかは、平日の夕方から夜に行われている。
中小劇団の宿命からは逃れられず、ブルートループもまた、団員の大半が兼業社会人と学生によって構成されている。通学や会社勤めをしていない者でも、日中はアルバイトなどをして生活費を稼いでいる。大多数のスケジュールを確保しようとすると、どうしても午後五時以降になってしまうのだ。
そして、大多数に合わせようとするとどうしても一人一人の都合に合わせられなくなってしまうのが、組織の弱点である。
「枯木さぁん」
「今度はなんだ? く……伊櫃」
思わず『クソガキ』という本音が漏れそうになり、慌てて言い換える。育ちと口の悪さを自認する枯木にとって、指導役という仕事はなかなか高いハードルだった。今はとかくマナーやエチケットに厳しい時代だ。少し口を滑らせたらそれかあっという間に拡散され、根も葉もないデマゴギーとともに糾弾される、ということがままある。特に、相手がいかにもクレーマー気質な伊櫃であればなおさら気をつけなくてはなるまい。
「もういいかげん、次のステップに進ませてくれないですかあ? いつまでたってもアイソレーションばっかり、これじゃダンスじゃなくて健康体操じゃん」
困ったことに、伊櫃の指摘自体は至極真っ当なのだ。
枯木は現在、最近入団した団員達の指導役を担当していた。先日は宍上、生越の二大スターの入団で大いに沸いたブルートループだが、しかし大半の新人はど素人か精々部活やサークルでかじった程度の力量しかない。秋の公演に間に合うよう、今から新人達をレッスンしておくように、と代表からのお達しである。
しかしまあ、これがなかなか上手くいかない。予想以上に新人達のレベルが低かったのだ。
枯木は得意分野のダンス指導を試みた。劇団に入ってくるからには、一通りのステップを踏めるのだろうと思っていた。しかし大半の新人は右往左往するばかり。ステップどころか、まともな体の動かし方もわかっていないのだ。
たとえば、今枯木が教えている
今やっているのはアイソレーションというレッスンだ。肩と腕、頭と首など、体の関節を連動させず一部分だけ動かすという、ダンスにおいては基礎も基礎、いわば土台に相当する練習である。地味だが、これがやってみると案外難しい。とりあえずこれが全員一通りできるようになったら、アップやダウンといったステップの基礎を教えていくつもりだった。
しかし…… これに反発したのが伊櫃を中心とした“経験者”達だった。自分達はそんなこと、とっくの昔にマスターしている。早く本格的なことを教えてほしい――当然の意見なのだが、しかし枯木としてはそうもいかない。経験者は素人達よりも圧倒的に少ないとはいえ、教える枯木はたった一人しかいないのである。大勢の素人達にレッスンしながら、経験者にそれぞれの習熟度に合わせた指導をする、なんて土台不可能だ。
(助っ人の奴はいつ来るんだか……)
この調子ではどうにもならない。早々に気づいた枯木はすぐ亜理愛に相談した。返ってきた答えは、「手の空いている者を助っ人として入らせる」とのことだったが、前述の通り暇な団員はほとんどいない。結局枯木一人で対応する日々が続いていた。
「ねえ、俺の指導もしてくださいってばぁ」
「わぁった、わぁったっての。ちょっと待ってろって――」
「ちょっとちょっとって、いつまで待ってればいいんですかあ? もう五日目なんですけど?」
「だから、おめーなあ……」
「あ、あの」
と――伊櫃との言い争いに口を挟んだのは初空だった。
「わ、わたし、一人で練習しますから、伊櫃くんの指導に入ってあげてください」
「お……おいおい」
初空は黒髪を長く伸ばした、見るからに大人しい女子だ。良くも悪くも控えめで、めったに自分の意見を口にしないような……そういう奥ゆかしさは美徳なのかもしれないが、とにもかくにも目立たねばならない演劇の世界では悪癖だ。実際、今日までのレッスンにおいても、彼女の引っ込み思案さが進みを遅めていたことは否めない。
本人も、自分のせいで迷惑がかかっているのを察してそんな提案をしたのだろうが、しかしそれでは本末転倒だ。初空はまだまったく自主練をさせられるレベルに至っていない。せめて土台がきちんと根づいてからだ。わけもわからないうちに変な癖がついてしまったら、また一から教え直しになりかねない。
「はぁ? お前、何言っちゃってんの?」
と、言ったのは――しかし枯木ではなく、当の伊櫃だった。
「え……?」
「ぼくが可哀想だから、ぼくに自分の分を譲ってあげようって? まともにダンスも踊れないくせに? ふざけんな、笑わせんなよ」
怒っている。枯木が初空を叱ろうとしていた、その数倍は。額に青筋を浮かべ、細い目をひん剥いている。
「な、なんだよお前。急にどうした?」
「どうかしちゃってるのはこいつのほうでしょ、枯木さん。こいつ、ずぶずぶにシロートのくせに、人に意見ができると思ってるんだ。最悪だよ。ナニサマのつもり?」
一体何か気に障ったのか――逆鱗に触れたのか。本来ならまさに彼が望んだ通りこ提案だろうに、どうしてここまで怒り狂っているのか。まるで意味不明で、枯木にはどう対応すればいいのかわからなかった。
「わかった、とにかく落ち着けって」
「あ、あの、ごめんなさい、わたし……」
「謝ってんじゃないよっ! お前、ぼくを馬鹿にしてるんだろ!? そうやって親切ぶって、失敗したって泣いてゴメンナサイすれば、悪いのはお前じゃなくてぼくになるもんな!?」
枯木の制止などまったく聞かず、伊櫃はついには涙を浮かべ始めた初空を延々となじる。他の新人達も動きを止めて異様な光景に釘づけになっている。
「おい、お前いいかげんに――」
「なんとか言えよっ! ぼくばっかり悪者にする気かよ、知ってるんだぞ、お前の本性……!」
「なんの騒ぎですか、これは」
よく通る声が、喧騒を薙ぎ払った。
高い背に綺麗に引き締まった肉体。颯爽とした立ち姿が稽古場に現れる。その場に居合わせた誰もが彼に目を奪われた。
「斎波……」
「亜理愛……代表に言われて来ました。すみません、遅くなって」
斎波は精悍な顔を申し訳なさそうにする。枯木は呆然と彼の顔を見つめた。
「ってこたぁ……お前が助っ人か?そういや、こないだしばらく暇になるとか言ってたか……」
「はい。どうも、今はそれどころではないようですが」
先程までの騒ぎは外にも聞こえていたらしい。斎波から視線を向けられた伊櫃がたじろぐ。
「な、なんだよお」
「君はどうやら現状のレッスンでは不満のようだ。どうだろう。君さえ良ければ、私が君の指導をしよう」
大真面目な顔から放たれた言葉に、枯木は目を剥かずにはいられなかった。今、こいつはなんて言った、自分が教えると?
「マジに言ってんのか!? お前があ!?」
「何か問題でも?」
爽やかに問い返されて返す言葉もない。確かに、絶対的に手が足りていない今、厄介者の相手を引き受けてもらえるのだから願ったり叶ったりだ。……しかし、しかしだ。
「心配しないでください。おかしなことをするわけじゃない」
「心配ってわけじゃあねえが……」
いや、斎波はヘマなんてすまい。きっといつものように正当な、非の打ち所のない方法でレッスンを行うだろう。
しかし、“それを受ける側”はどうなるか。手加減も手抜かりもなく、真っ向から圧倒的な力を叩きつけられる側は。
(別にこのクソガキがどうなろうと知ったことじゃねえが――)
ただ、想像すると嫌になるだけだ。誰にも口に出来ないような、惨めな想いを抱える人間がまた一人増えることが。
枯木は再度斎波の顔を見た。堂々と自信に満ちあふれ、自分の正しさを常に確信している――そんな顔だ。別に、彼から直接何かをされたことはない。しかし、彼はきっと、枯木がいつも彼に感じているような嫉妬や嫌悪感、自分の卑小さに辟易するような気持ちなんて微塵もないのだろうと思い知るたび、自分の醜さを突きつけられる気分になる。
「いいよ、わかったよ。上等じゃん」
と、気づけば伊櫃が顔を赤くして提案に乗っていた。止めようかと思ったが、どうせ枯木の忠告なんて聞かないだろう。枯木はため息をつき、斎波に言った。
「ほどほどにしろよ。手に負えなくなったらすぐに俺か葉原を呼べ」
「わかりました」
斎波は微笑み、伊櫃を外へ連れ出した。それをなんとも言えない気分で見送ったあとにふり返ると、初空が戸惑った様子で立っていた。
「みっともねえだろ」
枯木は独り言のように言った。
「ガキの一人たしなめられねえで何してんだって感じだな。あいつみたいに立派な奴と一緒にいると尚更情けなくなっちまう。いくら歳だけ食ったって、人間、ダメな奴はいつまで経ってもこんなもんだぜ」
「はあ……」
「ま、お前さんはそんなに気にすんな。お前はまだ時間がある。その気なって頑張れば、あいつらにバカにされないくらいには、すぐになれるさ」
励ましにもなりきれない微妙な言葉に、初空は困ったように笑った。
斎波が伊櫃を連れてきたのは別の稽古場ではなく屋上だった。予想外のロケーションに伊櫃は面食らう。
「ここでやるの?」
「ああ。密室は息が詰まる。体力を使うことをするときは、新鮮な空気を吸える環境であるほうがいい」
つまり、『息切れするほど厳しくやる』という意思表示だろうか? 伊櫃は斎波をにらむ。初日は気がつかなかったが、この男、かなりの美丈夫だ。優れた役者とはみんなそういうものなのだろうか、背をまっすぐ伸ばしてはきはきと喋り、正体不明の自信に溢れている。伊櫃は彼を“嫌いなタイプ”だと決めつけた。
伊櫃は自分の容姿が嫌いだった。瞼が垂れ下がった細い目、鳥が巣を作ったような形になるくせ毛。生来の外見が、自分が他人から嫌われる主要因だと固く信じていた。だから、少しでも容姿が整っている人間に対してはどんなに親切にされても心から好きになることができないのだ。
聖人めいた振る舞いからも必死で粗を探し、いざその人の不備を見つけたら鬼の首を取ったように騒ぎ立てて責め続ける――そしてそんな自分の素行を誰かに叱られるのを恐れて虚勢をはる、伊櫃築也という少年は十九歳にしてそんな性格に出来上がっていた。
「それで、何をするのさ」
「ああ、それだが――」
斎波が答えるより先に階下へ続く扉が開いた。出てきたのはカッターシャツの上にパーカーを羽織った少年――何度か見かけたことがある、無愛想で口の悪い高校生だった。たとえ彼の態度がまともであっても、伊櫃は彼の顔つきを理由に彼を理不尽に嫌っていたことだろう。少年はCDラジオを抱え、じろりと斎波と伊櫃をにらんだ。
「ありがとう、
「ふん。人を顎で使う人間の考える対価などたかが知れている」
斎波の前にやや乱雑な仕草でCDラジオを置くと、少年――真鉄は扉から反対方向へ進み、柵にもたれかかった。伊櫃は彼が自分のことをいかにも値踏みするように見ていることに気づく。
「どうした? 戻らないのか?」
「“大黒柱”が身の程知らずの新入りに何をどう教えるのか気になってな。見物客はお断りか?」
「……好きにしなさい。君がその毒舌を閉まっていてくれることを約束するなら」
――ぼくの意思はハナから無視か。一体どっちが身の程知らずなのか、嫌味ばかりを口にする少年に伊櫃は舌打ちした。
「君はダンスが得意だそうじゃないか」
CDラジオを操作しながら斎波が切り出す。
「長所を伸ばすのは良いことだ。枯木さんからのレッスンで、そうしてもらえるのを期待していたんだろう?」
「あんたが代わりにぼく……俺を見てくれるんでしょ?」
「そうしたいところだが、あいにく私は教えるのが下手なんだ」
大真面目な顔で放ったにしてはふざけているとしか思えない発言に、伊櫃は寸の間ぽかんとした。
「はあ……?」
「多分、今日だけでは君がどれくらい“出来る”のか、どんな風に教えるのが効率的なのかは把握できないだろう。そういうレッスンを希望していたのだったら、今のうちに謝っておこう」
すまない。
斎波が頭を下げているのがもう半秒分長かったら、きっと伊櫃は先程のように激昂していただろう。しかし斎波はさっさと頭を上げると、伊櫃が反応する前に言葉を続けた。
「だから、今日のレッスンはあくまで私のペースで行わせてもらう。ついていけないと思ったら存分に音を上げてほしい。その時点が君の現状の実力だと判断する」
挑発的な言い方だった。伊櫃自身、何故斎波に食ってかかっていないのか不思議になるくらいに――あるいは知らず知らずのうち、斎波の眼光に射抜かれ、気圧されていたのかもしれない。
「……や、やってやるさ。舐めんじゃないぞ」
「よし、その意気だ。まずは見本を見せよう」
ついてこい。
いつのまにかすっかり斎波のペースに飲み込まれていることにも気づかず、伊櫃は固唾を呑んで斎波に付き従った。
「――怪物だな」
野次馬に徹していた真鉄が呟く。常に眉間にしわを刻んでいる彼も、斎波の行った“レッスン”にはすっかり圧倒されていた。
内容はごく普通、奇をてらうようなものは何もなかった。最初に斎波がダンスの手本を見せ、その振り付けを覚えたら斎波と一緒に踊る――振り付けを間違えたりテンポが遅れたら叱責される、どこのレッスンでも見られる光景だった。
それが九十分、休憩一切なしのノンストップで行われたということを除けば。
「どうした? もう限界か?」
「……………………」
汗もかき、息も荒げている――しかし斎波は、それがあたかも短時間のウォーミングアップだったかのように振る舞っている。付き従っていた伊櫃がついにへばり、屋上の床に這いつくばっているような有様だというのに。
「もういいだろう。とっくに日が沈んでいる」
と、真鉄が助け船を出さざるを得ないほどには異様な光景だった。青空の下、小休止どころか水も飲まずに踊り続けていたのだ。涼しい初夏だったから良いものを、季節によっては倒れてしまってもおかしくない。伊櫃の体力が続いていたならばこれ以上続けるつもりだったのか、と真鉄は背中に冷や汗をかいた。
「ん、もうこんな時間か。思ったより長引いてしまったか。すまない」
外していた腕時計をつけ直し、斎波がようやく事態の異様さを悟った――ようには見えない。ほんの少し遊ぶつもりが、時間を忘れて遊びふけってしまった子供のような顔で空と時計を見比べた。
「……あ、あんた」
「うん?」
やっとのことで息を整えた伊櫃が汗でぐちゃぐちゃになった顔のまま斎波を見上げる。
「なんで、あんたは疲れてないんだよ……おかしいだろ、こんなの。一時間半だぞ。誰だってぶっ倒れるに決まってる……!」
「“誰だって”、か。それは違うな」
依然涼しい顔のまま、斎波は続ける。
「これが君の言う、最前線で戦うということだ」
「…………!」
「ストレートプレイなら最低でも一時間、ミュージカルなら二時間から三時間……主役を演じる者はその間、わずかな休憩時間以外はずっと舞台に立っているんだ。灼熱のスポットライトに当たりながら、衆目の前で語り、歌い、踊らなければならない」
この程度でへばるくらいなら、まだ君には主役になる資格がない。
淡々と語る斎波に、伊櫃は心臓を鷲掴みにされたように硬直していた。……考えたことがないわけではなかった。伊櫃だって部活やアマチュアの活動で舞台に立ったことくらいある。スポットライトの熱さとか、歌い踊り続けることの大変さとか、観客の目に対するプレッシャーだって知っていた――知っているつもりだ。
これが“プロ”と素人の境界なのだろうか。体力や、根性の問題ではない……こんな異常な状態をごく当たり前のことのように受け入れられる心が。
伊櫃は奥歯を噛んだ。いつのまに入り込んだのか、口の中の砂がじゃり、と鳴った。
「……とはいえ、予想以上だった」
リピート状態で鳴っていたBGMを止め、斎波はその場に座る。
「てっきり、三十分もせずに音を上げると思っていた……まさか九十分もついて来られるとは。見くびっていたよ。大言壮語をするだけの基礎は既にあるようだ」
「…………」
「君がそのまま努力し続けるなら、最前線に立つこともいずれ絵空事ではなくなるだろう。今まで以上のレッスンが必要になるだろうが」
シャツの裾で乱暴に汗を拭う。伊櫃が再び顔を上げると、斎波は意外なほど爽やかな笑みを浮かべていた。
「君ならできるだろう。……できないか?」
「……やってやるよ」
絞り出した答えに満足したのか、斎波はCDラジオを抱えて立ち上がり、歩きだした。「じゃあ、また明日」という声と、斎波が屋上から去ったことに気がつくのに少し時間がかかった。
「――あれが、この劇団のフラグシップだ」
未だ立ち上がれずにいた伊櫃に、ふいに真鉄が言った。彼の存在自体忘れていた伊櫃は驚いて振り向く。
「阿呆どもはあれを“
「……あれを、倒せって?」
一緒に踊っていて痛感した。九十分踊り続けていたのに、彼は一度たりとも間違いや遅れを見せることはなかった。ループ加工した映像をその場に投影したような完璧無比の動き。伊櫃があの域まで至るには、一体何時間何日、何年の修行が必要だろう……?
「俺は、あれを超える」
しかし真鉄は毅然として言い放った。
「……!」
「最前線だの主役だのに興味はない。だが……頂点立つためにあれを超えなければならないなら、そうするだけだ」
すっかり暗くなった空に、月が煌々と輝き始める。真鉄は横顔を月に照らされながら伊櫃を見下ろした。
「貴様はどうする」
「……ぼく?」
「もう負けを認めるのか。だとすれば、そのまま虫のように這いずっているのがお似合いだ」
返事を待つ気は無いらしく、真鉄は柵から体を起こすと扉に向かって歩きだす。
「お、おい!」
自分の言葉が可愛らしく思えるくらい傲慢な物言いだった。……なのに、あの顔はなんだ。墜落することがわかっていながら、せっせと蝋で翼を組み立てているような。空の星を掴むために高木に登ろうとしているような。
必死で、切実で、純粋な。
……今の自分は、どうだ? 斎波どころか、真鉄に勝てる心が果たしてあるのか。
「…………くそっ!」
笑う膝を無理矢理に立たせる。震えているのが疲労のためか、それとも悔しさのためなのか、今の伊櫃には区別がつかない。
「超えてやるよ……ぼくだって、ぼくだって……!」
悔しい。
勝ちたい。
あいつらに負けたまま、終わりたくない。
力の入らない体を引きずり、歯軋りをしながら、伊櫃はロッカールームを目指した。
斎波による伊櫃の特別個人レッスンは、しかし長く続けることは出来なかった。
五月十五日、正式にブルートループ秋の新作公演が発表され、主役に任命された斎波は自分の練習や打ち合わせに専念せざるを得なかったからである。
ミュージカル『五十フランの泥』。
アデル役:斎波正己。
リュシアン役:宍上紅蓮。
公演期間は十一月一日から十一月二十一日まで。白妙町・六曜劇場にて、昼夜公演合わせ全三十回予定。
十一月一日の開演まで、あと百七十日。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます